「智? どこか行くの?」
スニーカーを履き、姿勢良く立ち上がり玄関のノブに手をかけたところで、掃除の途中だった母親がスイッチを一端切って話しかけてきた。
「リンと出かけるんだ。じゃ、行ってきます」
「そう、行ってらっしゃい」
やわらかな微笑を讃え、母親に挨拶を済ませると彼は家を出ていった。
沙耶はそのまま掃除機片手に二階へ上がり、スイッチを入れて掃除を続行した。息子達の部屋は、自分で掃除するというのが決まりなのであまり入らない。
いくら整った顔をしていると評判の息子達でも、むさ苦しくて男臭い部屋など掃除をしてもつまらない。ここ数日は鈴音も遊びに来ないので退屈極まりない。
今更ながら、女の子がいたら楽しかったろうにと思う沙耶だった。
▽ ▽ ▽ ▽
「え? 水族館?」
「そう、これから行かない?」
水族館という言葉に鈴音は嬉しくて思わず身を乗り出した。
「行く行くっ!! あ、じゃあ智くん、すぐ支度してくるから待ってて!!」
「早くね」
「は〜い♪」
嬉しそうに返事をして、慌ただしくパタパタと家の中へ入っていく。
彼女は言葉通り5分とかからず支度を整え、よっぽど急いだのか、息を切らせながら外に出てきた。
本日はキャミソールにミニスカートであまりかかとの高くないミュールを履いている。スカートからでている真っ直ぐ伸びた綺麗な足や、首筋や鎖骨のラインに一瞬目を奪われながら、彼女の手を取った。
「じゃあ、行こうか」
「わ〜い」
上機嫌で繋いだ手をぶんぶん振り回しながら二人は目的地に向かった。
道中鈴音ははしゃぎ続け、いつもより饒舌だった。
よっぽど水族館と言うのが嬉しいのだろう。とは言え、水族館までは割とすぐにいける距離で、バスで20分程度の所にある。
彼女は幼い頃から水族館というものが大好きで、一日中でも飽きないようだった。
「うわぁっ、おさかないっぱい〜」
鈴音は、着いた途端目をキラキラさせて全身で感動を表現している。
「そうだね」
水族館に魚が沢山いるのは当然の話だが、鈴音に合わせるように頷く。彼女は既に夢中のようで、ガラスにべったり張り付いて動かない。
その様子があまりに子供っぽい。
彼は苦笑した後、ジュースでも買ってこようと一端その場を離れた。
この状態があと30分は続くだろうな、と頭の片隅で考えながら。
だが、
少しして戻ってみると、異様な光景が目に入った。
鈴音の後ろにピッタリとくっつくように立っている男。
見知らぬ男性だが、明らかに彼女に何かをしようとしている。
当の本人は魚に夢中で全く気づいていないが、客が少ないのをいいことに何やら良からぬ考えを企てているようだ。
しかし、男の行動もそこまで。
手が鈴音のお尻のあたりを彷徨ったところで、男の腕が思い切り掴まれ、捻り上げられた。
「・・・なにしてんの?」
「えっ」
「人の女に何盛ってんだ? 貧相なもんをおっ勃てやがって」
「っ!?」
腹から絞り出されたような低い声に男は動揺して、目をキョロキョロと泳がせた。掴まれた手はあまりの力でミシミシと嫌な音をたてている。
顔色の悪い小太りな男は、脂汗を滲ませて呻くが、尋常じゃない力は男を決して逃がさない。
「智くん?」
そこで、初めて気がついたかのような鈴音の声がした。
「な、何してるの? その人痛そうだよ」
「リンは黙ってろ。コイツはぶちのめさなきゃ気がすまねぇッ!」
「ちょっと・・・っ」
驚いた鈴音が必死で彼の腕を掴み、やめさせようとする。
だが、その激しい気性と意志の強さを思わせる瞳を見て、ハッとしたように自分の間違いに気が付いた。
「・・・・・・愁・・・くん・・・」
その言葉を聞いて、彼の身体がビクッと震え、一瞬緩んだ手の力に小太りの男は渾身の力を込めて手を振り払い、転がるように逃げていった。
「あっ!」
男の後ろ姿に忌々しそうに顔を歪め、追いかけてボコボコにしてやろうとしたが、腕を掴んで離そうとしない鈴音の様子に少し冷静になった彼は、ヒビくらい入れられただろうと何とか気を落ち着け、踏みとどまることにした。
「アイツ、リンに触ろうとしてたんだよ」
「・・・えっ」
「魚に夢中になりすぎなんだよっ」
「そっ、そんな事よりどうして愁くんが智くんのフリしてるのっ!?」
「そんな事じゃないッ! 何かされてからじゃ遅いんだぞ」
「質問に答えてッ!!」
静かな水族館に彼らの声は大きすぎた。
彼は少し考えて鈴音の手を引き、その場を少し移動することにした。
「ね、ねぇ愁くん」
「うるさいよ、人の迷惑になる」
「何よっ、エラそうにっ」
顔を真っ赤にして抗議を続けるが、彼女の声はヒソヒソ声に変わっている。
少し歩くと、人通りの少ない、というか見渡しても1人も見あたらない場所にたどり着いた。
元々客が殆どいないこの水族館はなかなか大きい建物なのだが、今一目玉になるようなものがないようで、あまり集客率がよくないようだ。夏休みでこれなのだから、相当な赤字なのではないだろうか、もしかしたらそろそろ潰れるかもしれないなどと、ぼんやりと頭の中で考えた。
「愁くん」
「なんだよ」
「ホラ、やっぱりそうだ」
非難がましく愁を見つめ、口を尖らせる。
そんな顔も愛らしく、愁にとっては何のダメージにもならない。
「双子だからな。アイツとは腹の中からのつき合いだ、智の真似なら誰よりうまいよ。アイツになれるくらいだ。今朝出ていくときなんか母さんも間違えたくらい」
「どうして・・・っ」
「どうしてって? オレだって言ったらリンは一緒に出かけたりしないだろう?」
「愁くん・・・」
「だからわざわざ智の服を拝借して、智のフリをして・・・あ〜疲れた」
愁は鈴音の腕を引っ張り、自分の胸の中に彼女をしまい込んだ。
背の高い愁と背の低い鈴音ではまるで、大人が子供を包み込んでいるように見える。身長差が30cm近くあるのだから大体頭ひとつ分くらいだろうか。
「今日は一生嫌われる覚悟で来たんだ。だから、すぐに家に帰す気はないよ」
頭の上で囁かれた声は、吐息混じりの低い声で思わず鈴音の身体がビクッと奮えた。
「どうしてもイヤなら・・・悔しいけど今だったら受けつける。そのかわりオレの全てを否定して。死ねでも、二度と顔も見たくないでもなんでもいい。今の一瞬だけを否定するんじゃなくて、オレの全部がイヤだって否定して。そうじゃなければ、とまらない」
「・・・・・・愁くん・・・」
愁の全て?
嫌いなわけがなかった。
死ね?
そんなことも思うわけがない。
顔も見たくないとか、彼を否定するとかそんなことを考えたこともなかった。
だけど、この抱きしめる腕はコワイのだ。
彼に触れられると体も心もワケの分からない感情に支配されてしまうのだ。だから、ふるえてしまう。
どうしたらいいのか分からない・・・
鈴音が返事に詰まっていると、愁は背を屈めて彼女の唇に自分のを優しく重ねた。その瞬間、鈴音の心臓はドクンと波打ち、涙が出てきそうになる。
それを堪えるために、彼のTシャツをギュッと掴んだ。
愁は、頬に、瞼に、耳に次々とキスを降らせていく。
愛しい愛しいと、彼の全てが言っているようだった。
「オレが、嫌い?」
ハッとしてふるふると首を振る。
「スキ?」
・・・頷く。
「智とどっちがスキ?」
だが、それには困ったように瞳を曇らせて俯いてしまう。
愁は、小さく頷いて、
「・・・みんな智の方がスキなんだよ・・・・・・」
と、呟いた。
驚いた鈴音は顔をあげて思い切り首を横に振ったが、彼は寂しそうに笑うだけだった。
「オレは・・・智みたいに出来ないからな・・・」
「・・・・・・愁・・・くん・・・?」
確かに智は要領がいい。
人柄も誉められる程に。
優しく包むように人の話を聞き、穏和に話す。勉強などもキッチリこなして、常にトップをキープしている。
周囲からの期待にも臆することなく難なく応える度量や器は恐らく天性のものなのだろう。
一方愁は、愛想など自分の心と反するような行動が出来ない。
嫌なものはイヤだとはっきり言い、やりたくないことには手を出さない。普通じゃない女性関係の多さはあまりにも有名で、彼に関する噂はあまり良くはない。
同じ顔をしているのに、全く正反対の二人は誰から見ても異質だった。
だが、愁が智のことをそんな風に言うのは初めて聞いた。
「別にオレはアイツになりたいわけじゃない。今までアイツのもので欲しかったものなんて無かったから・・・・・・リン以外は」
智が周囲からどんなに羨望の眼差しで見られていようが、中身を見比べられて顔をしかめる姿を目にしようが、愁は自分の好きにしてきた。
鈴音だけが側にいてくれれば良かったのだ。
なのに、彼女は智とつき合った。
それも、あまりに簡単に。
「リン、今日だけでいい、オレの彼女になって」
またビクンと心臓が跳ねる。
彼に包まれた体全部がおかしくなりそうだ。
「ダメか?」
愁の瞳に吸い込まれそうになる。
分からなくなってくる。
鈴音は、
彼に引き込まれるように、小さく頷くことしか出来なかった───
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