「愁、どこ行くのっ!?」
「あ〜、ちょっとヤボ用。今日から暫く帰り遅いから夕飯いらね〜」
「ちゃんと帰ってきなさいよ!!」
「ん〜、・・・んじゃ行ってきます」
いつもの調子で愁は家を出て行ったが、沙耶が驚いたのは彼が出て行った時間である。
まだ、午前7時。
夏休みなのにこんな時間に起きて、しかもどこかへ出かけるなど考えられないことだった。
智ならともかくあの寝坊の常習犯、愁が、だ。
「愁、どこか行ったの?」
今起きてきたらしい智が、二階から降りながら呆然としている沙耶に話しかける。
「そうなの。でも、帰りも遅いんですって。・・・何か心配ねぇ、あの子昨日変なこと聞いてきたし・・・」
「・・・変なこと?」
「大したことじゃないと思うけど、『オレ産んで良かったって思う?』って」
「・・・・・・へぇ」
「まぁ、ウチの子だから大丈夫でしょうけど」
妙に自信ありげに語る沙耶に智は苦笑した。
それにしても。
オレ産んで良かったって思う・・・・・・ね。
何を思って言ったんだか。
たまにはアイツの考えることでも分からない事ってあるもんだな、と智は思った。
しかし。
その日から愁は本当に毎日のように朝早く出かけていき、夜は11時過ぎに帰ってくるという生活になっていった。
鈴音も毎日海藤家を訪れるが、いつ来ても愁の姿はなく、あの日以来一度も話すどころか会うことすらないのだ。
彼が本当に自分には近づかないと言ったことを実行しているのだと思うと、悲しくて苦しくてどうしようもなかった。
そして、その度に自覚していく自分の気持ち。
それは、もう疑いようのないもので、日に日に彼に対する想いは強くなる一方だった。
「ねぇ、沙耶さん、愁くん元気?」
「ん〜そうねぇ・・・・・・元気といえば元気、ね。いつも通りに見えるけど・・・何だかあの子の考えてることは最近わからないわねぇ。何してるのかも言わないし、・・・・・・そういえばちょっと痩せたかもしれないわ」
眉根を寄せて寂しそうに話す沙耶の姿は、本当に心配している母親そのものだ。
快活な彼女はそういう部分を殆ど見せたことがないが、今回の愁の行動には彼女も流石に心配らしい。
「・・・女の子のところを歩き回ってるとか・・・」
俯きながら鈴音が呟くと沙耶は噴き出した。
「そうねぇ、でも・・・そういうのとはちょっと違う気がするわ。勘だけれど・・・」
「・・・ふぅん」
「リン」
階段から智に呼ばれ、鈴音は彼の方へと駆け寄った。
智は鈴音の気持ちに気付いてからも、今まで通り穏やかなまま、彼女に接していた。
何も変わらず鈴音の側にいた。
「なぁに、智くん」
「上においで。ちょっと話をしよう」
「? うん」
促されるまま二階へ行き、彼の部屋に入って適当な場所に座る。
智はちょこんと座った鈴音の様子があまりに可愛らしくて目を細めた。
「・・・自覚した?」
「え?」
「自分の気持ち」
真っ直ぐ見つめられ、しかし、智には気持ちを隠しても意味がないと思い、罪悪感を抱きつつ小さく頷いた。
「・・・そう・・・・・・・・・アイツばかだね」
「わたしが悪いの。何にもわかってなかった・・・」
智は首を横に振り、鈴音の頭を優しく撫でると寂しそうに微笑んだ。
「・・・・・・こんな事、出来れば言いたくなかったんだけど」
「・・・・・・?」
「終わりにしよう。もう、つき合ってる意味がないから」
「・・・・・・・・・」
「でも、暫くはリンのこと、好きでいると思う」
「・・・智くん・・・・・・」
「それくらいは勘弁してくれるよな」
「・・・・・・・・・っ・・・・・・」
皮肉にも、
別れを告げられた今、
鈴音は、初めて彼から『好き』という言葉を聞いた。
けれど、彼の行動が、瞳が全てを語っていたのに。
ただ、鈴音にはその気持ちがどういうものか、理解できていなかっただけで───
とても好きなのに。
本当に心から好きだと言えるのに・・・
だけど、恋をしていなかった。
智とつき合っていながら愁への想いがとめられなかった。
「ごめんね。ごめんね、智くん・・・ごめんなさい、ごめっ・・・なさい」
「謝らなくていいんだよ。リンの素直な気持ちが聞けて良かった」
そう言いながら、智は何度も何度も鈴音の頭を優しく撫でる。
そして、目の前の少女が自分ではなく、愁の事を本当に好きなのだと言うことを静かに受け止めていた。
恋をしていないと知っていても手に入れようと思った。
どんな手段だろうと、愁より先に手に入れてしまわなければならないと思っていた。
だけど、それでも手に入らない気持ちに何の意味があるだろう。
繋ぎ止める意味などあるだろうか。
そんなのは相手を苦しめるだけだ。
だから。
とても好きだから、本当に大切だから。
そんな風に泣かないでほしい。
暫くは、やっぱり好きだけど、いつ諦められるかなんて見当もつかないけど、それでもリンには笑っていて欲しい。
───けど、
『終わりにしよう』なんてバカなこと言ったな。
もっと、別の言い方があっただろうに。
もっと、リンを傷つけない言い方があっただろうに。
どうしてオレはこんなに表現力に乏しいんだろう。
・・・・・・・・・でも、まぁ。
こんな時、愁だったら絶対にリンとは別れないって言って困らせるんだろうし。
オレと同じ行動は絶対にしないんだ、アイツは。
智はそう思うと少しだけ可笑しくなった。
本当にちっとも似ていない。
それでいて、誰よりも一番近い存在。
───なのに・・・
智は、窓の外を眺め、ふっと表情を曇らせた。
「最近、アイツの考えがわからない」
「?」
「今までこんな事なかった。アイツのことだったら何だってわかったんだ・・・」
「・・・智くん」
窓の外を向いているので、彼がどんな表情でそんな事を言っているのか鈴音には分からない。
けれど、智の声はいつもよりもトーンが低く、その分気持ちも沈んでいるように感じる。
「・・・ただ、どんどん遠くへ行こうとしていることはわかる。・・・・・・だから、多分だけど」
と、
そこでいったん言葉を切って、智は空を見上げた。
「愁は、この家を出ていくつもりかもしれない」
「えっ!?」
思いもしない言葉に、一瞬何を言われたのかよくわからなかった。
愁くんが、家を出ていく?
まさか。
「どうしてっ、そんな・・・」
智に問いただそうと立ち上がり、窓辺で空を眺めている彼に近づく。
だが・・・・・・
鈴音は、彼の表情を見て我が目を疑った。
「愁は・・・・・・アイツは、昔から大事なことは何でも一人で決めてしまうんだよ」
掠れるほど小さな声。
そして、それ以上に泣き出しそうな智の顔。
「・・・・・・智く・・・」
「オレは、いつもアイツに置いていかれる」
───愁は
こんな智を知っているのだろうか?
いや。
琴絵の言ったとおり、ハッキリと口に出して言う人間は、智のように気持ちを内に閉じ込めるような人間の心を理解できないのかもしれない。
鈴音は、息苦しさで堪らなくなりその場に座り込んだ。
・・・・・・愁くんが、いなくなっちゃう?
やっと自分の気持ちに気づいたのに・・・
そんな、そんなっ
心にズシン、と鉛が打ち込まれたように重くなり、頭もガンガンする。
目の前が真っ暗になる、というのはきっとこう言うことをいうのだろう。
自分がひとつ間違えただけで、こんな事になってしまった。
彼はもう決めてしまったのだろうか?
どこかへ行ってしまうのだろうか・・・・・・・・・
そんなのは、絶対にいやだ。
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