『呪縛』

○第1話○ 悪魔のような男









 鬱蒼と生い茂る薄暗い森の中。
 息を切らせ、足が縺れそうになりながら懸命に走る娘がいた。





「・・・はあっ、はあっ!」




 ───逃げなくちゃ

 とおくへ、もっともっと。



「はあっ、はあっ」


 どれだけ駆けたかわからない。
 足はちゃんと前に進んでいるのだろうか。

 まだ足りない。
 もっともっと逃げなくちゃ。

 あの男の手の届かないところまで・・・っ
 それが、この世の果てだとしても。


 あの男の手の中から逃れられるなら、私は───




 ふと、


 周囲の空気が変わった。
 生暖かい風が、底冷えするような風へと・・・



「・・・・・・ぁ」


 前方に見えた、
 背の高い影。

 涼やかな目元と対照的に邪悪に口角を上げて笑う様子は悪魔のよう。

 駆けていた足が失速する。
 これ以上足を動かすことに意味がないと知った。


 逃げていたはずなのに。
 遠くへと願っていたはずなのに。
 こんなに息を切らせている私とは逆に、息一つ乱さずにいる。


「鬼ごっこのつもりだったのか? おまえは逃げるのが下手だな」

 抑揚のない声。
 きっと怒らせたに違いない。

 逃げようとした私を・・・


 ゆっくりと近づくこの男から尚も逃げようと、じりじりと後方へ下がる。
 その行動に片眉を持ち上げて不快感を表した男は、更に口角を上に引き上げ、寒気がするような笑みを浮かべた。

「ぃやっ、やだ・・・っ、助けて」
「何故そんな事を言う? 傷つくな」

 男の腕が私の腕をいとも容易く掴まえる。
 とうの昔に枯れたと思っていた涙が溢れてきた。

「やあっ、離してっ、もうやめてぇっ」
「美濃(みの)、無駄なことだ、俺からは逃げられない」

 無理矢理男の胸の中に閉じこめられ、次の瞬間肩に担がれ、呆気なく来た道を戻っていく。
 私は呆然としながら自分が行こうとした道に無言で手を伸ばした。



 とどかない、
 何もかも、思い通りにはならない。

 大切なものは全て失った。


 家族も、
 国も、

 恋も、なにもかも───



「ぅえっ、・・・父さま・・・母さま・・・・・みんな・・・・・・・巽(たつみ)・・・・・・っ」


 小さく呟いた言葉は男の耳にも届いた。
 彼女を肩に担ぐ腕に力を込めて自分に引き寄せる。


「・・・・・・まだ、そのような事を言っているのか。お仕置きが必要だな」
「・・・ーーーっっ」

 男の眼が冷酷に光る。
 彼女は漸く自分が何を口に出してしまったのかを気づき、凍り付いたが、この後自分の身に待ち受けているだろう事を思うと、怯えて身を縮めることしかできなかった。

「何をそんなに怖がる? 俺だけを考えていればいい、おまえも悦んでいるではないか、素直に快楽に身を任せればこれ程優しいお仕置きはないというのに」


 絶望が押し寄せる。
 誰よりも憎くて仕方のないこの男の腕の中にいるという現実に。

 何もかもをこの男に奪われたというのに、生きていなければならない現実に。


 一体何の罰なの?
 私が何をしたというの?

 どうして、どうして・・・っ


「美濃、おまえは俺から永遠に逃げられない」



 誰も助けてはくれない。
 そんなの、私が一番良く知ってる。


 ───だって、この国には・・・もう私たちしか存在しない・・・












▽  ▽  ▽  ▽


 男が向かった先は、町の中心に存在する壮厳な建物だった。
 それは誰から見ても、この場に於いて最も権威ある人物が住まうであろう建築物。
 美濃は男の肩に担がれたまま、その建物に何の躊躇もなく連れて行かれた。

 そして、数ある部屋の中の一室に彼らが足を踏み入れたのが数時間前・・・
 そこはどう見ても少女が使用していたであろう内装だったが、部屋から聞こえてくる卑猥な音はあまりにもそれに似つかわしくないものだった。


 肉がぶつかり合う音と、耳を塞ぎたくなるような水音、
 激しい息づかい、
 時折漏れる抑えた甘い声。

 どれもが美濃と男の間から発せられていることは明白だった。



「やっ、・・・もぉ・・・やぁっ・・・多摩(たま)・・・ごめん、なさぃ」

 止むことのない戒めに美濃の眼から涙が零れる。
 多摩と呼ばれた男は、酷薄に笑っただけで更に彼女の膣を突き上げた。

「・・・んあぁっ」

「ほら、身体はこんなに悦んでいるぞ。素直になれ」

「あっ、ああっ」


 どこまで堕ちる?

 快楽を感じてしまうこの身体がおぞましい。
 誘っているかのような声を出す自分が許せない。


「おまえは既に俺の身体無しでは生きられないようになっているんだよ」

「ふぁっ、あっ多摩ぁ・・・っやあっ」


 ぐちゃぐちゃとわざと大きな音が立つように腰を動かされ、美濃は正常な判断も何もかも出来なくなり、多摩の身体に溺れていく。
 認めたくはないが、今ではその行為が日常となってしまったのは事実だった。

 そして、今日のように脱走したことも何度かあった。
 その度に連れ戻され、お仕置きだと言われては長い時間をかけて身も心も蹂躙される。
 もしかしたら、それをも楽しむ為、わざと逃げる隙を作っているのかもしれない。


「・・・あっ、ああああぁっ、やあああああーーーっ」


 身体全体を波打たせて何度目かも分からない絶頂を迎え、またしても快楽に勝てなかった自分に打ちのめされながら、美濃はとうとう意識を手放した。





「・・・・・気を失ったか・・・・・・」


 多摩は身体を繋げたまま美濃を見下ろし動きを止めて呟いた。
 その顔は、今の今まで激しく彼女を犯し続けてきたとは思えないほど涼やかで汗一つ掻いていない。

 彼は美濃の乱れた髪を手で梳き、指で彼女の唇を軽くなぞった。




「あの男の名を口にしたおまえが悪い」


 そう呟き、再び動き出した彼の心の在処など、例え意識があったとしても美濃にはわからなかったに違いない。
 何故なら彼自身、自分の感情が何であるかなどわからずにやっている事だったから。

 愛なのか、恋なのか、それとも別の何かなのか。



 ただ闇雲に『美濃が欲しい』と。



 それだけが多摩を突き動かす唯一で、彼にとってそれ以上の理由など必要なかった───








第2話へつづく


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