『呪縛』
○最終話○ 静かなる世界(その5)
多摩は伊予の側から離れた後、真っ先に食物庫へと足を踏み入れていた。 一定の温度が保たれた冷たい空気の中、彼は残り少なくなった糧を静かに眺める。 過去には王族を初めとして此処で生活する多くの者達の糧として命を繋ぐため、ずらりと並ぶ真っ赤な瓶が不足する事など有り得ないことであった。 それが今では増えることなく消費する一方で、残った瓶は半減している。 乾の考える通り、半永久的な供給というものは確かに魅力的だ。 その見返りに神子の力を要求されたとしても、面倒な狩りをする必要はなくなる。 自分達が糧とする者達は、大なり小なり力を持つ。 クラウザーほどの力を持った者は稀だが、彼らを狩る事で争いが起こるのは避けられないのだ。 多摩は無表情なまま手近にあった赤い瓶を手に取り、己の歯で栓を開けてごくごくと一気に飲み干した。 一本飲み干すとまたもう一本、それが無くなればまた一本・・・一体どこにそれだけの量が入るのかと思える程大量の空瓶が床に転がっていく。 十数本を一気に飲み干した多摩は、手に持ったままの空の瓶を床に投げつけた。 ガシャンと瓶が割れる音が反響し、唇から零れた紅い雫を真っ赤な舌でペロリと舐め上げ、そのまま踵を返して食物庫を後にする。 そして、未だ吹き荒れる嵐に躊躇することなく宮殿の外に飛び出した多摩は静かに空を見上げた。 紅い瞳を獰猛に光らせ、彼は天に向かって大きく両手を伸ばす。 途端に雷鳴が鼓膜を突き破る程の激しさで轟き、真っ黒な雲が大きくうねりながら不気味で巨大な渦を作り上げた。 「決めるのは俺だ、・・・だが、それは何もかもが終わった後の話・・・」 彼は天にかざした手をゆっくりと振り下ろす・・・ ───ド、ゴオォオオオォォォォオオオオオオオオ 多摩の見据える先は、美濃に還すと言って蘇らせた深い森があるはずだった。 だがそれら全てを包み込む程の大きさを以て、猛烈な勢いで吹き荒れる巨大な風の壁が立ちはだかり、中の様子は窺い知ることは出来ない。 これが単なる嵐である筈がなかった。 彼の世界を侵そうとする者を閉じこめるための檻であり、美濃を捕まえるための檻に他ならないのだ。 「・・・・・・・あの男には罰を、・・・・・・美濃には永遠に続く戒めを・・・・・・」 彼は強く吹き荒れる風に黒髪を揺らしながら、迷わず歩を進めた。 風で舞う血に塗れた装束から一瞬だけ覗いた彼の傷口はほんの僅かだが塞がりかけていて、それが赤い瓶の中身を大量に飲み干した理由を自然と導き出しているかのようだった。 そして舞うような軽やかさで地を蹴り、彼は巨大な風の壁の中へと飛び込んだのだった。 ▽ ▽ ▽ ▽ ───空が晴れた・・・ 乾は恐怖を抱かせるどす黒い渦状の雷雲が一気に散って、視界いっぱいに晴れ渡る空を仰いだ。 あのような嵐の後の晴天であれば普通は爽やかに感じるものだが、不気味にも思える静けさが更なる嵐の前触れを予感させるのは気のせいではないように思えた。 「何で二人が・・・どういうこと?」 美濃は巽と乾を目の前にして混乱しているようだった。 誰ひとり生き残った者はいないと、どこまでいっても多摩と二人だけの世界なのだと、生き残った自分を嘆いたことは一度や二度ではない。 彼らはもう夢の中でしか会えない遠い存在で・・・ 今では夢で思い出すことすら難しい程・・・大好きだった世界の・・・・・・ 「・・・・・俺達は本物だよ、姫さま」 「・・・ッ」 乾が現実だと口を開く。 「美濃さま・・・我々と一緒に帰りましょう」 そして巽までも・・・ 大好きだった低い声で言う。 何もかも・・・目の前に立つのは、あの頃と何一つ変わらない二人の姿だ。 だけど、こんなのはおかしい。 とても現実とは思えない。 「・・・・・・嘘、・・・本物のわけがないもの。本物なら・・・生き延びてるわけないじゃない!!」 もしかしたらこの二人が目の前に現れたのも、多摩の見せる幻なのではないかと思った。 やっぱり偽物だったと落胆するのを見て、愉しそうに多摩は嗤うに違いない。 いちいち惑わされて心をかき乱されて、そんなのはもうたくさんだ。 「美濃さま、どうか落ち着いて聞いてください」 「じゃあ、帰るってどこに? 父さまと母さまの所? 今になってみんなの所に行くっていうの!? そんなのずっとずっと願ってたのに、心が張り裂ける程願ってたのに・・・誰も助けに来てくれなかったじゃないッ!!! 本物だっていうなら直ぐに来てくれたはずだもの!!!」 本物の訳がない。 今更帰るって言われても、何も無かった頃のようになんて笑えない。 「・・・違います」 「何が違うって言うの」 巽は首を振り、静かに言い放った。 「帰るのは、神子殿の元へという意味です。美濃さまはあの方の側に居なければなりません」 「・・・・・・ッ!?」 ───どうして? どうして巽がそんなことを言うの・・・ 父さまも母さまも、国までも裏切るような言葉を、よりによって巽が言うの・・・ 言葉を失い愕然とした美濃の様子を察して、静かに傍観していたクラウザーが彼女の手を取る。 「美濃、私と一緒に行きましょう。貴女はここでは幸せにはなれない。どうやら彼らは貴女にとって裏切り者に成り下がった輩のようです」 裏切り者? ・・・・・・どうして巽まで? 父さまに忠誠を誓う姿が嘘だったと言うの? 父さまだって誰よりも信頼を置いてた・・・絶対に裏切る筈はないってよく言ってたもの・・・ 誰が裏切っても巽だけは違うって・・・・・・ ぐるぐると考えている間にも自分の身体が歪みに呑み込まれていく。 ・・・もうよく分からない。 このまま何も知らない土地へ連れて行かれるのもいいのかもしれない。 何もかも昔のことだと忘れて・・・その方がずっと。 「姫さま駄目だ!! 行っちゃ駄目だ! 巽はそういうんじゃない!!」 突如、乾が叫びながら飛び込んでくる。 美濃の手をクラウザーから奪い取り、彼はそのまま巽の元へと彼女を放り投げた。 乾の勢いは止まらず、そのまま歪んだ空間にクラウザーと共に呑み込まれ・・・ 「・・・ッ乾!?」 しっかりと美濃を受け止めた巽の姿を確認し、乾は小さく頷いた。 「巽・・・ッ、こっちは俺に任せておけ! 俺の剣で遊んでくれたお礼が済んでないからな! んで、おまえは姫さまに自分の気持ちを伝えろよ!! 一度くらい主君に楯突いたっていーじゃないか!!!」 それだけ言うと、彼はクラウザーの腕をがっしりと掴み、ニッと愛嬌たっぷりの笑みを浮かべて歪みの中へと消えてしまった。 残された二人はあっという間に消え去った乾の一瞬の行動に立ちつくし、唖然とするばかりだ。 だが腕の中に感じる美濃の感触にいち早く我に返った巽は彼女から身体を離し、その姿を間近で目にした事で、言葉にし難い感情が心の底から溢れ出てきて今にも押しつぶされそうになる。 「・・・・・・お召し物が随分汚れてしまいましたね。宮殿へ戻って綺麗なものに取り替えましょう」 必死で平静を取り繕いながら発した巽の声はほんの少しだけ震えていた。 美濃はボロボロと涙を零し、首を横に振りながらそんな言葉を今は聞きたいんじゃないと声を絞り出した。 「・・・本物だって言うなら、今までどこにいたの? 全然分からないよ、ちゃんと分かるように教えてよ・・・っ、頭の中、ぐちゃぐちゃだよ・・・ッ」 巽は言葉に詰まり、僅かに目を伏せた。 確かに美濃から見れば理解出来ないことが現実に起きているのだろう。 失ったはずのものが目の前に現れたとすれば、これは当然の反応なのだ。 「暫くの間、訳あって宮殿から離れていましたが・・・最近になって戻って来ました」 「・・・最近て・・・?」 「ひと月と少し前には此方に・・・」 「そんなに前から? 戻ったのならどうして直ぐに会いに来てくれなかったの?」 「神子殿のお赦し無く勝手な真似など出来るはずもありません」 「・・・・・・何を言ってるの?」 やっぱりこの巽はどこか変だと思った。 さっきの乾の言葉と言い、巽の態度と言い・・・主君とは誰を指しているものなのか。 どう見ても、彼らの言う主君とは美濃の父ではなく・・・ 背筋がゾワゾワして寒気がする。 とても嫌な予感がして・・・ 今までどこに行ってたの? その前は? 多摩が全てを壊したあの時、巽はどこにいたの? これを聞いたら終わりのような気がした。 だけど、多摩の元へ戻れと言う巽を見れば、それが全ての答えなのだと言われているようなものだった。 美濃は唇を震わせ、身体中もぶるぶると震わせながら巽に激しく詰め寄った。 「父さまも母さまも、皆も・・・ッ、全部全部見殺しにしたというの!?」 「・・・・・・見殺しではありません」 「言い訳なんか・・・ッ」 「私も皆を殺しました」 「・・・・・・ッ」 美濃はがくん、と身体の力が抜けてその場に尻餅をついた。 あの出来事の一端を巽が担っていた・・・? そんなばかなことが・・・ だったら・・・・・・それが真実だというなら・・・ 多摩に身体を奪われている間も・・・・・・巽に助けを求めている間も・・・・・・? 「・・・・・・美濃さま・・・」 巽は地面にへたり込んで放心している美濃を抱き上げ、宮殿に向かって歩き出した。 物心つく前から恋い慕っていた巽が・・・ 間違ったことなどする筈のない巽が・・・・・・ 「・・・・・・酷い、酷い酷い酷い酷い・・・ッ、大好きだったのに、大好きだったのにッ!!!」 美濃は巽の腕の中で暴れ、泣き叫んだ。 「美濃さま、・・・美濃さま」 「嫌い、巽なんて大嫌いっ、嫌い嫌い嫌い、大嫌いっ」 巽は胸を剔られるような想いを味わいながら、美濃をきつく抱きしめた。 尚も暴れる美濃の感情は爆発し、おさまる気配を見せない。 苦しい・・・ 彼女に嫌われる事で絶望する自分が・・・胸の中でのたうち回っている。 暴れようと泣き叫ぼうと、嫌いだと何度繰り返されようと、自分の中にはその逆の感情が常に溢れている。 これは消えようもない・・・絶対に失くせない想いなのだ。 「・・・・・・・・・私は・・・・・・あなたが大好きです・・・・・・」 「・・・・・・・・・っ」 年の離れた妹のように想い、最愛の女性として慈しみ・・・ この胸の中にはいつもそんな想いが絶え間なく溢れ続けていた。 「・・・うっ、・・・ひぃ・・・っく・・・、うわああんっ、わああああん」 昔から何一つ変わらない幼い泣き声を耳元で懐かしみながら、巽は彼女の身体を一層きつく抱きしめた。 「・・・・・・好きです・・・・・、今でも・・・・・・美濃さまが・・・・・・」 自分は何という裏切りの言葉を吐いているのか・・・ 多摩に対する後ろめたい思いを強く抱えながらも、それ以上に彼女に対する愛しい想いが止まらず、誰にも渡したくないという強烈な感情が己の中を支配するのを感じていた。 その6へつづく Copyright 2010 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |