『呪縛』
○最終話○ 静かなる世界(その8)
───巽といるといつもドキドキした。 目が合っただけでひとりで勝手に舞い上がってしまうような、一方的な片思いだった。 物心つく前から巽に夢中だったって、いつか母さまが笑って話してくれた事がある。 この恋が叶うとか叶わないとか、そういうのを考えた事はなかった。 抱きつくのはいつも私で、それを受け止めてくれるのが巽。 一方的に寄せる想いを柔らかく微笑んで受け止めてくれるのを、あの頃は当たり前に思っていた。 だけど巽が自分と同じような想いを返してくれる姿はいつまで経っても想像できなくて、彼と婚約した時は夢みたいだった。 実際に婚約しても巽の態度は今までと変わらなかったし、やっぱり抱きつくのは私で、それを穏やかに受け止めてくれるのが巽・・・その関係に変化は特になかった。 だから、きつく抱きしめられることも、唇を重ねることも、告白めいた言葉も私たちには無かった。 それでも私の頭の中はフワフワと幸福の中を漂っていたし、だからこの婚約は今までの延長線上で、これからもずっと彼の一番近くで生涯想い続ける事が出来るという、何より幸せな約束を手に入れたのだと思っていた。 本当に穏やかで優しい想いがいつも流れていて、いつまでも浸っていたいと思うような幸せがそこにはあった。 巽から好きだという言葉を聞いたのは初めてなのに・・・ この告白を素直に喜ぶことが出来ないのが悲しい。 どうしてこうなったんだろう。 あれから何て遠くへ来てしまったんだろう。 「・・・うっ、ひぃ・・・っく・・・、おろしてよぉ・・・っ」 「美濃さま・・・」 泣き続ける美濃の涙を巽が拭う。 拭っても拭っても溢れてくるというのに、彼はそうやって何度も優しい手で拭い続けた。 巽は美濃を抱き上げたまま離そうとはしない。 あの頃よりもずっと色が白く女性らしく成長した彼女を眩しそうに見つめ、果実のようなその唇に胸が締め付けられて・・・。 「とても・・・綺麗になりましたね」 美濃の頬にこぼれ落ちた雫を自分の指で優しく拭いながら、ゆっくりと紅い唇にも指を伸ばす。 やわらかい唇は胸をくすぐり、あまりの愛おしさに自分でも驚く。 だがそんな言葉を彼の口から聞くのは初めてだった美濃が驚いて目を見開いたのを見て、巽はハッとして唇に触れていた手をひっこめた。 美濃が瞬きをすると、大きな瞳に縁取られた長い睫毛が涙に濡れて、そんな彼女を構成するひとつひとつが巽を堪らない気持ちにさせる。 しかし同時に、美濃の後ろに“多摩”という存在を強く感じてしまう自分がいるのも確かで、どうしてもそれを無視することが出来ない彼は、やり場の無い想いから目を逸らすように口を開いた。 「今の美濃さまを見るだけで、神子殿がどれだけの想いを寄せているのか思い知らされます」 「・・・・・・多摩・・・が・・・・・・?」 美濃は目を見開いて驚きの表情を浮かべている。 それはまるで、信じられないとでも言っているかのような・・・ 「・・・そんなわけない」 視線を落としてか細い声で否定する美濃を見て、巽は目を細めた。 「何故そう思うのですか?」 「だって酷いことばかり・・・ッ、大体そんな風に言われたことなんて一度もないもんっ」 「そんな風とは・・・」 「だから・・・っ、・・・好きとか、そういう言葉に決まってるでしょ・・・っ、一度だって聞いたことないよっ!!」 大粒の涙を零しながら叫ぶ美濃の姿に、巽はほんの少しだけ彼女を抱きあげる腕に力がこもってしまうのを感じた。 うまく言葉が出てこない・・・冷水を浴びたように思考が固まる。 何故自分は多摩の名を出してしまったのだろうか。 ・・・・・・いや、そうではない。 彼女の大切なものを奪った時点で、俺はもう・・・・・・ 「・・・言って・・・欲しかったのですか?」 「やっ、ちが・・・っ、違うっ、・・・そんなの違うっ」 慌てて首を横にふる彼女は、まるで自分に言い聞かせているみたいだ。 多摩の名前を出しただけでその目は不安に揺れて、その頭の中が誰のことで溢れかえっているのか手に取るように分かってしまう。 きっと否定することで自分自身を保ち続けていたのだろう。 赦せないと思う一方で彼に惹かれていく自分を必死で誤魔化し続けていたのだろう。 だが巽には、嘘のつけない素直な瞳が、その心の在処をさらけ出しているようにしか思えない。 そしてそんな彼女を目の当たりにして、時の流れがどれ程残酷かと言うことを、彼は身を以て思い知らなければならなかった。 「・・・・・・美濃さま・・・」 「やっ、違うの、・・・っ、そんなわけないんだからっ」 頑なに首を振って泣きじゃくる美濃を見て、巽は苦しい胸の内を吐き出すように息をついた。 同時に素直になれない美濃を哀れに思うのも本心だった。 彼女の反応を見れば、二人が甘やかな関係など程遠いところにいる事など容易く想像出来てしまったからだ。 神子殿が美濃さまの望むような優しさで触れることは、どうあっても出来ないのか・・・ 見守るようにしか美濃を慈しんでこなかった自分とは正反対の多摩のやり方は、決して巽には真似できるものではなかった。 こうして美濃に触れ、心の底では全てを我がものにしたいと思っても、巽には絶対に行動に移せない。 彼の潜在意識が、一方的な想いをもって欲望のままに触れて良い存在ではないと引き留めるのだ。 だからこそ・・・巽は多摩のようには出来ない。 多摩は違う。 何に囚われることなく、彼女を王女という枠を取り外した一己の存在として手を伸ばした。 黙っていれば手に入らないと言って諦める訳ではなく、それどころか己の力で奪い取りに来る程の激しい感情に身を任せ・・・・・想いのままに手折ってしまったのだ。 その方法は決して褒められたものではない。 むしろ憎まれて当然と言える最悪の方法だった。 しかし奪うように貪るように求め続け、ぶれることのない一貫した想いの強さで心の全てを彼女で埋め尽くしながらぶつけたものが、いつしか何かしらの想いを美濃の中に芽生えさせる事になったとしても何ら不思議ではないように思う。 たった二人という濃密で異常な世界で、それだけの時間が彼らにはあったのだ。 「・・・本当は気づき始めているのではないですか?」 「知らないっ、そんなわけないもの」 「そうして耳を塞いで、蓋をして・・・何も知らないと言い続けるのですか?」 「やめてよっ、どうして巽がそんな事言うの? さっき私の事好きだって言った癖にッ、だったら連れて逃げればいいじゃないっ! どうして多摩に遠慮するのよッ!!!」 わぁ・・・と泣き出し、美濃は震えながら巽にしがみついた。 もう色んな事が一気に起きすぎて、心がついていかないのだ。 巽が生きていただけでも信じられない思いでいっぱいだというのに、彼が父を裏切って多摩に付き従っているという事実まで突きつけられて、大切にしていた思い出まで崩れ落ちようとしている。 なのに巽を心から拒絶することも出来ないで、どこかでまだ彼は違うと思っている自分がいる。 これ以上追いつめないで欲しい。 もうずっと多摩の事を考え出すと止まらなくなって怖いのだ。 考えたくないのに、多摩の事ばかり考えている自分が怖くて堪らないのに、巽の口からそれを言われてしまうと現実になってしまう。 「・・・・・美濃さまが誰を想って苦しんでいるのかを知って、連れて逃げるなど意味の無いことです」 「なっ」 「・・・そんな事をしても、より強い想いに胸を焦がして苦しむだけでしょう」 「・・・・・・何を言うの・・・?」 そんな筈はないと首を振る美濃に、巽は真っ直ぐな視線を送り、彼女の頬に手を触れた。 「では、私があなたを欲しがったとして、美濃さまはそれに応えることは出来ますか?」 「・・・・・・え?」 「私を受け入れることが出来ますか?」 「・・・・・・・・・」 考えもしないことを巽に言われ、美濃は頭が真っ白になった。 「・・・・・・そ・・・れは・・・」 だが本来ならば巽を受け入れる事こそが尤も自然なのだ。 彼と添い遂げ、いずれは彼の子を宿すのだろうと・・・そんな事を夢見ていた日々があったはずだ。 だけど今の美濃には全くそれが想像出来ない。 考えようとしても直ぐにそれは巽ではなくなってしまう。 身体に触れられ、抱きしめられ、唇を重ねあって、耳元で名を呼ばれる声すらも・・・ 想像するのは・・・・・・全部・・・・・・ 「・・・・・・いや、・・・いやぁっ、・・・・・・意地悪しないでよぉ・・・っ」 どんどん追いつめられていく美濃の様子を見て、巽は苦しそうに小さく息を吐き出した。 今の彼女の表情ひとつとっても、どれ程心を痛めているのか見て取れる。 自分ではない他の男を思い出して苦しいと泣いているのだ。 ・・・だから、巽は感情に任せて動くことが出来ない。 彼女の本心では無いと分かって強行に移すなど、彼には出来ないのだ。 記憶の向こうにいる彼女はいつも自分の事を想って頬を染めていた。 確かにそれは真実だったのに・・・。 ───何と遠い存在になってしまったのか・・・・・・ 想いの全てを塗り替えられてしまった。 今更自分が彼女の目の前に現れたところで、一体何が出来る。 「・・・・・・きっと・・・・・・神子殿はあなたを追ってきます」 「・・・・・・っ」 「それを・・・本当は待っているのではないですか?」 「・・・・・・」 ぎゅ、と巽に抱きつく腕に美濃が力を込める。 あぁ・・・何という幼い関係だろう。 彼らはまだ何も始まっていないのだ。 そしてそんな二人の関係に・・・自分は・・・・・・ 「・・・・・・・・・美濃さま・・・あなたは何一つ悪くない・・・。誰も責めたりはしません・・・」 「・・・っ、・・・・・・巽・・・・・・」 強く美濃を抱きしめ、巽は静かに目を閉じた。 この温かい存在をあと少しだけ感じていたい。 心の奥深くに刻みつけるまで。 そう想うのはいけないことだろうか。 それすら赦されないだろうか。 ただ一度・・・・今この時だけ・・・・・・ そして─── 彼女を抱きしめる腕を緩めることなく、巽はピクリと眉を奮わせる。 カサ・・・近くで葉が揺れる音がしたからだった。 それは小鳥が枝にとまる程度の軽やかさで、気配に敏感な巽でも生き物が近づいてきた感覚は何一つ無かった。 そんな芸当が出来る者など彼の知る限り、ただひとりだけだ。 ・・・あれ程の凄惨な傷さえも、彼には障害にならないというのか・・・・・・ 彼の無事に胸をなで下ろしながらも、その異常なまでの生命力はどこからやってくるものなのかと恐ろしくもある。 巽は小さく息を漏らすとゆっくりと目を開け、そのまま真っ直ぐ葉音が響いた大木を見上げた。 ゆらゆらと血に染まった装束が風に舞い、枝の上で此方を見据える紅い双眸と目があう。 多摩の目は怒りも悲しみも何ひとつ宿さず、静かにただ此方を見ているだけだ。 抱き合う二人を見て、彼は何を感じたのか。 相変わらずその表情だけでは何も窺い知ることは出来ない。 だがもし、見たままのものしか捉えていないとすれば・・・? 葉音が聞こえたタイミングを考えれば、最初から見ていたわけではないのだろう。 このまま彼が何もせずにいるはずがない。 自分は今更どうなっても構わないが、彼女にまで危害が及ぶのは避けなければいけないと思った。 これ以上神子殿が非道な行いをすれば、美濃さまは二度と心を開かなくなってしまう。 やっと少しだけ・・・怖がりながらも気づき始めているというのに。 今を逃したら、何もかもが終わってしまう。 もう二度と傷ついて欲しくないのだ。 巽は自分が何をすべきか、多摩の瞳から目を逸らさずに考えを巡らし、美濃の耳元で彼女だけに聞こえるような声で囁いた。 意味があるかどうかは定かではないが、少しでも背中を押すことが出来ればと。 「・・・美濃さま・・・・・・神子殿が何故あなたを追いかけるのか、考えたことはありますか?」 「・・・・・・・・え・・・・?」 美濃は巽の問いに首を傾げる。 考えたことが無いと言えば嘘になる。 だけど考えたところで自分を納得させる答えなんて出るわけがなかった。 巽は美濃の気持ちを察したかのように一度だけ頷いて、少しだけ寂しそうに笑みを浮かべる。 そして美濃には想像にも及ばない事を口にしたのだ。 「・・・あの方は神子として生を受けながら、あらゆる自由を奪われ続け、愛情の欠片すら誰からも与えられず、閉じこめられた空間で孤独に育ってしまった哀しい存在です」 「・・・・・・え?」 初めて聞く多摩の生い立ちに美濃は耳を疑う。 神子という存在からかけ離れた境遇に対し、理解出来ないといった彼女の強ばった表情に、巽は瞳を揺らした。 ───この反応は当然と言って然るべきなのだ。 あの頃、自分達は神子の里と多摩の真実を彼女に一切告げなかった。 だからあの里が何故消滅したのか、多摩が何故意識を失ったまま目覚めなかったのか・・・彼女は何も知らない。 精神的に幼い彼女が傷ついてしまうのを誰もが恐れ、何も言わなかった自分達の選択は果たして正しかったのか今ではよく分からない。 だが、このような状況に陥った一端だけでも彼女には知る権利がある筈だ。 「きっと・・・そんな中で美濃さまと過ごした数日間は、あの方にとって何ものにも代え難いものとなったのでしょう」 「・・・・・・・・・っ」 「だが奪われ続けた代償として失ったものは計り知れず・・・・・・愛しい存在すら縛り付ける事でしか表現する術を持たない。相手を慈しむ気持ちも、愛情を注ぐ想いも、誰もが知っている感情すら彼は満足に理解出来ないまま・・・・・・」 そこまで言って、巽は抱き上げていた美濃をゆっくりと降ろした。 信じられない面持ちの彼女の心の内は今どれほどの衝撃を受けているのかと思うと、何とも言い難い気持ちになる。 これを美濃に理解しろと言っても余りに酷な話だ。 愛されるのが当たり前の環境で何不自由なく幸せに生きていた彼女に、その大切な世界を奪った多摩を理解しろなど・・・ 「しかし、どれだけいびつな表現だろうと、彼の世界にはあなたしかいない。それだけは本当だと思います」 巽は美濃に少しだけ微笑んで、多摩のいる大木へと歩を進めた。 美濃は巽の背中を見つめ、その先に何があるのか・・・枝の上で長い黒髪が風に靡いたのを目にして漸く理解したのだった。 「・・・・・・多摩」 巽の背中越しに多摩と目が合い、彼は僅かに目を細めたみたいだった。 だが驚く美濃の視線は直ぐに受け流され、彼は枝からフワリと音もなく舞い降りる。 そして向かってくる巽の側へ降り立った多摩は、自分を真っ直ぐ見る端正な顔を見下ろし、暫くの沈黙の末、静かに口を開いた。 「その目を見る限り、未だ忠実な犬で居続けているらしいな」 「・・・・・・忠実とは・・・言えない行動をとりました」 目を伏せる巽に対し、多摩は低く嗤う。 「・・・愚か者め。どうせ欲しがるなら俺を破滅に追い込むくらいの気概を見せればいいものを・・・」 「・・・・・・え?」 一体何を言い出すのかと困惑の表情を浮かべると、多摩は笑みを浮かべた。 あまりに静かすぎる微笑みは、まるで心の中を見透かされているようで巽は何ひとつ言葉を返せない。 そして多摩は前方で立ちつくしている美濃に視線を移し、彼女の元へと歩き出す。 美濃は小さく震えながら、彼が近づく程に顔を強ばらせた。 自分が逃げたと思われているのではないか・・・という恐怖よりも、近づく多摩の異様な姿の方が怖かったのだ。 装束の上半身の殆どが塗り替えられるほど朱に染まり、胸の周囲の布は焼け焦げて・・・ 「・・・・・・怪我・・・・・・してるの?」 目の前に立った彼を見上げ、か細い声で美濃は疑問を口にした。 「・・・確かめればいい」 多摩は美濃の手を取り、自分の胸元へと導く。 小さな手が確かめるように彼の身体に触れ、特に負傷の痕も無い事を知って僅かに息を吐いた。 その隙に腕を引き寄せられ、多摩の身体に触れたばかりの指先に口づけられる。 「・・・あっ」 ぴちゃ・・・と指の先から付け根までを舌が辿り、美濃はびくりと身体をふるわせた。 彼女の様子を愉しむように指から腕へ、腕から首筋へと服の上から唇がのぼっていく。 びくびくと身体をふるわせながら抵抗らしい抵抗を見せない美濃を追いつめるように、今度は耳に舌をねじ込み、態とゆっくりとした動きで窪みの全てを辿っていった。 「それほどまでに巽が忘れられないか。数え切れない程おまえの中に俺を刻んでも、おまえはそれを無かったことにするのか・・・っ」 「・・・・・・ッ、・・・いっ・・・」 強く責めたてるように、多摩は血が滲む程彼女の耳を強く噛んだ。 その9へつづく Copyright 2010 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |