『呪縛』
○第8話○ 破滅の恋(その5)
美濃はひたすらに走った。 何も無い、果てしなく続く大地を、ただ闇雲に走った。 あの日見た光景が、走っても走っても、どこまでも続いていく。 「はぁ・・・っ、はぁっ、はぁっ」 こんな事ってあるだろうか。 こんな世界、一体誰が想像出来ただろう。 ここがどこかと問われて、誰が答えられるだろうか。 「はっ、はぁっ、はぁっ、・・・っっは」 本当に何も無くなってしまった。 誰もいなくなってしまった。 「はぁ、・・・っふ・・・うぇ・・・っ、はぁ、っっは、・・・ぅ、っく・・・っ」 涙が溢れて止まらない。 拭っても拭っても次々に涙の粒が溢れ出してきて、美濃は苦しくなって走る足を止めた。 足がガクガクと震える。 それは疲労からくるものだけではなくて・・・押し寄せる感情によって、行き場のない思いが身も心も震わせた。 「・・・どうして・・・っ、・・・どうしてこんな事が出来るの・・・っ!? 関係のない人々も動物も、木々達までも・・・っ、どうして全部を壊す必要があったのぉ・・・っ!!!」 何もない大地で一人、美濃は叫んだ。 大好きだったのに・・・っ 町も森も、全部全部大切な世界だったのに。 皆が笑顔に溢れて、活気溢れる姿が目に焼き付いている。 なのにたった今走っているこの場所が、かつてはどんな姿をしていたのか、思い出す事が出来ない。 眩しい程の過去の風景を思い出す癖に、今立っている場所がどこかも分からないなんて、情けなくて涙が出る。 もう長い間地に足をつけていなかった気がする。 それ程の時が流れたわけでもないのに、何もかも分からなくなるくらい、いつも多摩の体温が側にあるから、あの腕が強く拘束するから、あの温度が離れることを許してくれないから、夢しか見なくなっていた。 あの日、現実をまざまざと見せつけられた筈なのに・・・っ 「やだよ、こんなの・・・っ、ッふ・・・っく・・・ッ、うぅ、私も連れて行ってよ、みんなと一緒がいいよ。一人にしないで、置いていかないで、たすけて、たすけて、たすけて、・・・っ、これ以上はもう・・・私が私でなくなっちゃう・・・っ!!」 こんなの酷い。 どこまで走っても、何もない。 こんな世界を愛する事なんて出来ない。 皆が笑ってるあの世界が何より愛しかったのだ。 「・・・・・・うぇ・・・っ、ぇっ・・・・っ」 美濃はその場に泣き崩れる。 涙で世界が滲んだ。 未来はもっと幸せなものだと思ってた。 隣にいるのは巽で、あの穏やかな微笑を独り占めしているものだとばかり思っていた。 大好きなみんなが側にいて、そんな日々は当たり前のもので、永遠に続くものだとばかり・・・・・・ なのに現実は─── 多摩の腕で強引に身体を開かされ、朝も晩も無く身体を重ね、快楽を植え付けられ・・・ 今では少し触れられるだけで、簡単に陥落する。 どうしてこんな事になったのだろう。 何を間違ったのだろう。 何故多摩はこんな事をするのだろう。 「・・・もぅ・・・走れない・・・・、・・・っ・・・裸足で走ったこと、ないよ・・・っ・・・・・・」 見れば足にマメが出来て潰れていた。 自分はなんて脆弱なのだと、溢れ出す感情がもう何なのか分からなくてまた泣いた。 こんなに辛い事があるなんて知らなかった。 泣きたいくらい苦しい事があるなんて思いつきもしなかった。 「・・・・・・ぅぇ・・・・・・っ・・・、・・・・・・・・・っ、・・・・・・・・・・・・・・・」 ───いつの間にか日が暮れている。 美濃は暫くの間嗚咽を漏らして肩を震わせていたが、完全に暗くなった頃には身動き一つしなくなり、静かになっていた。 月明かりが美濃をぼんやりと照らしだし、嗚咽から規則正しい寝息に変わった彼女の息づかいだけが周囲に響く唯一の音だった。 だが一時もせず、かさかさの土を踏む音とともに、美濃に影が落ちる。 暫く美濃の様子を眺め、完全に寝入った事を知った影は彼女の側にゆっくりと腰を落とした。 「・・・・・・相変わらず・・・・・・幼い泣き声だ・・・・・・」 ぽつりと呟いた声は紛れもなく多摩のもので、若干呆れを含んでいるようにも聞こえた。 そして、倒れるようにうつぶせで寝てしまった美濃を抱き上げ、冷えた夜風にあたらないよう自分の胸の中に抱え込み、マメが潰れて痛々しい彼女の足の裏をやわらかく撫でてやった。 「・・・・・・ん・・・・・・・・・っ、・・・・・・」 やはり痛いのだろう。 小さく眉根を寄せて反応を示してみせた。 それでも起きる気配が無いことを知ると、多摩は僅かに笑って美濃を抱きしめ、ぽつりと呟いた。 「・・・・・・・おまえが理解出来ない」 多摩は遠くを見つめて、少し考え込んでいるようだった。 かつての世界を全て愛しているという。 木々たちにまで涙を流してみせる。 多摩には愛しいという気持ちがどういうものなのか、よく分からなかった。 美濃のように両親や周囲の者に対して好意的な感情を持つような経験は彼には皆無だ。 皆、必要以上に彼に接することは無かったし、日々を白い牢獄で過ごすだけで、心に何かが生まれることなどあるはずもなかった。 だが、もしも・・・胸の中で寝息を立てているのをくすぐったく感じる事がそういうことなら、美濃を愛していると形容するのだろうか? この感情は同時に、ドロドロに溶け合うまで美濃と繋がりたいと渇望したりもする。 逃げれば追う、捕まえれば何度だって抱きつづける。 彼女が追いつめられていく姿にまた欲情する。 あまりに形が違いすぎて、理解を超えている。 満たす為には、彼女が必要だという事が唯一分かることだ。 一度抱きしめて眠ったら、その温もり無しには眠れないと思う程度に執着しているということだ。 「・・・・・・何故・・・消えたものの為に泣く・・・?」 多摩は空を眺め、風に消えそうな程小さく疑問を口にした。 いつだって美濃の想いはかつての世界に向けられる。 泣き疲れて眠ってしまうくらい、あの世界に思いを馳せる。 一体どんな世界だっただろうか? 思い出せない。 多摩にとっては感情が動くほどの事は無かった。 美濃と出会ったあの宮殿で、彼女と生きる事が願いの全てだった。 それだけあれば十分で、他の存在は疎ましくもあったのだ。 全て壊して二人だけの世界を築くことだけが、求める全てだった。 多摩は美濃の頬を撫でる。 もう一度抱きしめ、風で揺れる髪を指で流してやり、つむじに唇を寄せた。 「・・・・・・ぅ・・・・・・ん・・・・・・」 「・・・俺の名を呼べ・・・・・・、もっと・・・俺を思い出して、何度も呼べ」 耳元で囁くと、美濃の睫毛が小さく震える。 「・・・俺は誰だ? 声も、吐息も、熱も、誰よりおまえが一番よく知っている・・・俺を呼べ・・・、・・・・・・分かるだろう?」 その声に反応して、彼女の唇が何かを言おうと形を作りだす。 「・・・・・ぅ、・・・・・・・・多・・・・・・摩・・・・・・」 僅かな吐息とともに紡がれた名前は確かに「多摩」と・・・ 彼の口元が僅かに緩んだ。 誰にも見せたことのない、はにかんでみせる年相応の少年の顔のようでもあった。 だがそれも束の間、美濃の両眼からは止め処もない涙が溢れては流れだしたのだ。 起きる気配は無い癖に悲しそうに眉根を寄せて、次から次へと零れ出す・・・拭ってもきりがないそれは月明かりに照らされると一層儚げで、胸の奥がやけに騒いだ。 多摩は沈黙する以外の術が見あたらず、無表情にそれを見つめるだけだった。 そして、彼はこの夜、かつての世界を愛おしんで泣く美濃と、自分の名を呼び悲しげに泣く美濃を交互に思い浮かべ、一睡もしなかったかわりに一つの疑問に辿り着いた。 それはあまりに今更なうえ、もはや取り返しのつかないこの状況下では、疑問として導き出すにしては致命的に遅すぎたと言えるものだった。 本当は、美濃にとって焦がれる存在になりたかったのではないだろうか・・・などと─── 笑うしかなかった。 この想いを形容する方法を知らず、欲しいものを得るためにそれ以外を壊して奪うことだけを続けた己の姿を・・・ 茶番も良いところだ。 馬鹿げている。 もしそれが答えだとしても、・・・だから何だというのだ。 今更気づいたところで美濃に届くものなど、もう何も無いではないか。 その6へつづく Copyright 2009 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |