『呪縛』
○第8話○ 破滅の恋(その7)
皮肉にも、翌朝先に目覚めたのは美濃の方だった。 昨夜の出来事を全て夢で片付けてしまえるほど現実は甘くはなく、身体を起こそうと少し動いただけで全身が軋むような疲労感に襲われ、同時に全身に散りばめられた鬱血の後があまりに鮮やかで、身体の奥底から冷たくなっていくような感覚を覚えた。 快楽を得ることに囚われた昨晩の痴態が矢のように責め立ててくる。 気が触れるどころか冷静な自分を一眠りしただけで取り戻し、美濃は己の堕落に放心した。 ・・・・・・私・・・何て事を・・・・・・ 身体を起こせば、乱れた寝具が昨夜の激しさを物語っていて、目をそらして身を捩ると、体内に放たれたままの精が逆流して太股を伝い、それが美濃を更に責め立てた。 ・・・・・・昨日・・・私は・・・・・・ 多摩を求めて、・・・墜ちるところまで墜ちてしまった・・・ 未だ眠ったままの多摩の寝顔を呆然と見て、震える唇を噛み締めた。 こうして眠っていればあのような行為など知らないような高潔な容姿をしている癖して、理性を壊すほど溺れさせてがんじがらめにするのだ。 美濃は軋む身体を無理矢理起こし、ベッドから降りてふらふらと立ち上がった。 何をしようと言うわけでもない。 逃げる事も今は無意味にしか思えない。 ただ、このまま彼の側にいる事が居たたまれなくて。 冷静になればまだそんな事を思う自分が愚かだと思っても、やりきれなさが全身を襲うのだ。 「・・・・・・ぁ・・・ッ」 立ち上がったところで足の痛みでふらついて、咄嗟に近くの小窓に手を掛けた。 美濃は肩を震わせて涙を堪え、虚無感を味わいながら何も無くなってしまったかつての世界を想い、窓の外をぼんやりと見つめる。 だが、・・・ 何気なく目を向けた先の光景の変化は予想だにしないもので、あまりの衝撃に美濃は息を呑み、足に力が入らず床に膝をついた。 「・・・・・・・・・ッ・・・・どうして・・・・・!?」 今となっては、夢の中でしか見ることが出来ないはずの・・・ ───・・・これは・・・夢? 例え夢だと言われても納得させるだけの非現実的な景色がそこにあった。 しかしこれを、夢などで片付けられるだろうか。 膝立ちになりながら小窓に掛ける手を震わせ、美濃はただただ目を見張った。 ・・・違う・・・・・・これ・・・夢じゃ・・・・・ 愕然とその光景を眼にしていた美濃だが、目の前に拡がる信じがたい景色が風に揺れたのをきっかけに現実世界に存在するものだと驚愕し、同時にひとつの疑問が頭の奥を掠め、昨日の多摩の言葉が脳裏を過ぎって意味もなく息を潜めた。 『・・・・・・だが、ひとつだけ、・・・理解不能なおまえの愛する世界というものを・・・・・・おまえに還そうか・・・』 風に揺れる長い黒髪が陽の光を浴びて深い緑のようにも輝き、遠い眼をした多摩の白い肌が、あの時はやけに温もりを帯びていた。 見事なまでの艶やかな髪を自らの手で断ち切るという不可解な行動全てが、目の前の光景に繋がっているような気がしてならなかった。 還すと言ったのは・・・この事・・・・・・? だとしたら美濃が逃げたとき、直ぐ側で聞いていたのだ。 かつての世界に想いを馳せて嘆き叫んでいたとき、彼は見ていたのだ。 そうでなければ、一体誰がこんな事をするのだ。 だがこれは・・・・・・ 髪の束を形代にするだけで・・・? 見たこともない・・・こんな力は聞いたことも無い・・・ どんなに身を堕としても神子は神子とでも言うのだろうか? 神子はやめたというのは彼の勝手だ。 力が消えたわけでもない。 多くのものを全て消し去る恐ろしい力を行使して、結果として今が存在している。 ならば、元に戻すことも可能だと? 眼前に拡がる広大な森林が、かつてのものと寸分違わないのが何よりの・・・ 「それ以上の考えに至っても、無意味と思うといい」 静かな声が部屋に響く。 いつの間にか多摩が起きて、ベッドの端に腰掛けていた。 長かった髪が顎まで短くなり、装束を着ていればたおやかな女性のようにも見えてしまうかもしれない・・・そう思えるくらい彼は綺麗だった。 だが、その印象的な紅い瞳が美濃とは違う性を持つのだと強く主張しているかのようで、何より裸で座っている彼の胸には膨らみなどある筈もなく、その身体で美濃を何度も組み敷いているのだ。 多摩は薄く笑い、その髪をかき上げると、癖のない真っ直ぐなそれがサラリと頬に落ちて、たったそれだけの事でゾクリとするような色気を漂わせた。 「・・・それ以上って・・・どういうこと・・・?」 震える唇をそのままに、美濃は疑問を吐き出した。 「さぁな・・・」 片眉をつり上げて意味ありげに笑みを作る。 その眼は少しも笑ってはいない癖に、本当は答えを持っている癖に、どうして知らないふりをするのだと激しく詰め寄りたかった。 「・・・本当はみんなも・・・元に戻るの?」 「・・・・・・」 多摩は何も言わず口端をつり上げた。 それこそが何よりの肯定と受け取った美濃の中の何かがぱちんと弾けた。 「どうして意地悪ばかり・・・ッ、こんな事をやって見せて、出来ないなんて言わせないッ!! どれだけの命を奪ったと思っているの? 何で笑っていられるの?」 多摩の白い肩を押し倒し、美濃は押し寄せる感情を殺すことなく彼の上にのし掛かって叫んだ。 「こんな残酷な心のまま神子の力を持ち続けてるなんて赦される事じゃない!!! その身体全部を差し出してでも皆を元に戻してよッ!!!!!」 激しくぶつけた言葉は感情の赴くまま吐き出されたものだ。 多摩はその激情を黙って受け流し、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。 それは人を嘲笑う類のものではなく、ただ静かに浮かべただけのもので、こんな多摩は見たことが無くて美濃は思わず言葉を失った。 同時に激しい感情をぶつけた先程の自分を思いだして、そんな自分に驚きを隠せない。 多摩は美濃の小さな頭をその大きな手で包むと、髪をかきわけるように長い指でやわらかく動かした。 ぞくぞくと背筋が粟立ち、それを隠そうと彼を睨むと、多摩は手に力を込めて美濃の頭を自分に引き寄せてそのまま唇を合わせた。 「・・・・・神子はやめたと言っただろう。・・・・・俺は・・・もう白い箱には戻らない・・・」 聞いたこともない静かな声で、幻聴かと錯覚を起こしそうになる。 ぶつかった視線の先にある眼差しが見たことが無いほどの不安定さを持っていて、彼の言う意味を何一つ理解出来ないものの、何故だか胸の奥がきゅう・・・と痛くなった。 だが、そこでお互いが裸のままであることを思いだし、美濃は慌てて身体を離した。 何故今更そんな顔をするの・・・ いつもと違う多摩の行動に戸惑いを隠し切れず、どうしてか胸がざわざわして落ち着かない。 私が多摩を詰ったように、酷い言葉で私を詰ることだって出来るはずなのに、何故言わないのだろう。 昨夜求めたのは私だ。 言い逃れなんて出来ない程に、はしたなく何度も望んだ。 それが煽動されたものであったとしても同じ事だ。 命を奪うことが罪だと言うなら、その多摩を求めた私も同罪に成り得るに違いない。 絶対に墜ちてはいけない場所に私は墜ちたのだから。 「・・・・・・・・・・・・、・・・・・・ッ・・・・・・」 自らを追いつめる考えに支配され、それでも肩を震わせ虚勢を張る美濃の頬を多摩の手がやんわりと撫でる。 その手が温かい事に驚き、堪えきれない想いが募り、美濃の瞳から遂に涙が零れた。 多摩の指が涙の筋をなぞると、それに続くかのように次々と涙が溢れて止まらない。 彼はそれを不思議そうに見つめ、今度は唇でなぞってみたが、余計に溢れ出してくるので自分の胸に彼女を閉じこめてしまうことにした。 だが、彼女を抱きしめた腕が自分でも分かるほど柔らかく、何故このように壊れ物を扱うように慎重なのかと自分で自分が分からず理解に苦しむばかりだった。 この半端な行為は何だ。 多摩は、己の中に生まれては惑わすこの感情に辟易していた。 美濃の望むものをたった一つ還した所で、何の意味も成さないことなど分からない筈もなかった。 それ以上のものを美濃が望む事も予想出来る範囲だった。 幼く泣く背中を見て、欲しいと思っていた関係とは違う気がしたからか? 愚かしい。 こんなもので何を誤魔化そうというのだ? それとも、焦がれる存在になれるとでも思ったか? 多摩は漠然とした、言葉にし難い感情を持て余しながら目を閉じた。 静かになった部屋の空気に曝されていると、先程美濃に詰め寄られた際に言われた言葉が鮮明に思い出される。 この身体全てを差し出せと言ったな・・・ おまえを手に入れるために壊した世界の為に命を差し出せと言うのか。 おまえのいない世界へ行けと言うのか。 この小さな手がどんなに突き放そうと拒絶を示しても、煽られて一層激しく縛り付けようとするばかりだというのに、それだけの言葉が何故胸を強く抉る。 ・・・これは何だ。 何故肌を重ねても一向に縮まらない。 この得体の知れない感情が噴き出すと、身動きがとれなくなる。 だがどんなに苛立ちを感じたところで彼に何が出来るだろう。 彼にとっては形容しがたいこの想いが、真実は生涯一度の恋情だったとしても、本来は守るべき大切な人を傷つけてばかりだ。 何故逃げようとするのか、拒絶するのか・・・美濃の心の声が何を叫んでいるのか理解出来ずに、未発達で歪んだ形の想いばかりをぶつける彼に、どうしてその答えを見つけることが出来るだろう。 多摩の望んだ世界─── 互いだけしか存在しないという、彼の為に用意されたこの場所が、彼にとって全て都合良く出来ている訳ではないと知ったのは、もう少し時が過ぎてからのことだった。 第9話へつづく Copyright 2009 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |