『呪縛』

○第9話○ 差しのべられた手(その3)









 目が覚めたら一人だった。

 いつも美濃を抱き込むようにして眠っている多摩の腕がないという事は、彼女にとってはもうずっと無い事だった。
 ・・・だから、小さな頃から使っている自分の部屋が全然別のものみたいで・・・一瞬どこか知らない場所に紛れ込んでしまったのだと美濃は思ったのだ。


 そして何故だか唐突に不安が押し寄せてきて、何かを追いかけるように扉に走っていた。


 だけどいつもは簡単に開く筈の扉がどんなに力を込めても開かなくて・・・

 こんな風に閉じこめられる事なんて今まで無かったから、息苦しさと不安で押しつぶされてしまいそうになる。




 だから、何度も何度も扉を叩いて・・・一人にしないでと泣きじゃくった。






「・・・おまえは逃げる癖に一人にされるのは泣くほど厭なのか?」


 平然とした顔で扉の向こうから多摩が現れても、溢れる涙は止まらなかった。


「・・・ッ・・・、・・・っ、・・・、・・・多摩・・・・・・」


 床に座り込んだまま多摩を見上げていると、彼は目線を合わせるかようにしゃがみ込み、涙に濡れた頬を撫でて僅かに目を細める。
 何故か胸の不安がすっと消えて、ホッとして涙が一粒零れた。


 それから多摩は頬に唇を寄せてきて・・・。
 瞼にも、耳にも、額にも、口にも・・・落ち着くまで何度も繰り返した。



 こうやって時折・・・真綿でくるむように優しく触れられるのが怖くて堪らないのを、多摩は知っているだろうか。




「・・・・・・美濃・・・何を泣く」


 こんな風に・・・頬を撫でる手が温かい事に気づかせないで欲しいのに。


「・・・・・・泣いて、ない」


 強情な唇を多摩の口が塞ぐ。


 合わさる唇から漏れる吐息の甘さに、多摩の眼が欲情に濡れる。
 小さな顎を甘噛みし、首筋に舌を這わせ所有の印をいくつもつけた。


「・・・・・あ、ぅ・・・・・・多摩・・・っ・・・・」


 座り込む美濃の身体を軽々と抱き上げ、彼はもう一度唇を合わせた。
 柔らかな多摩の唇から覗く赤い舌が、果実のような美濃の唇をなぞる。

 そうして、耳元に唇を寄せて彼は小さく囁いた。


「俺を呼んだろう」


 熱い息が耳にかかり、ぶる・・・と身体を奮わせ、美濃は多摩にしがみつく。


「・・・・・・美濃」


 小さく首を振るばかりの美濃の耳たぶに柔らかく歯をたて、びくんと奮える睫毛に口づける。
 多摩はしがみつく彼女をベッドに運び、自分もその隣に横になった。

 宝石のような紅い瞳が美濃の表情を静かに見つめている。

 美濃はまたいつものように好きにされてしまうのだろうと思ったが、多摩の瞳に先程までの欲情に濡れたような色は消えていて、一体どうしたのだろうと不思議な思いで彼を見返した。



「・・・・・・・・・・・・もう泣かないのか?」


 美濃の髪を指で梳かしながら彼は静かに尋ねる。
 小さく頷くと、その口元が僅かに緩んだ。


「・・・・・・、・・・っ」



 もしかして・・・・・・笑ってるの・・・?


 彼を知らなければ見過ごしてしまうくらいの僅かな変化だった。
 だけど、ほんの少しだけ緩んだ口元は確かに柔らかくて・・・

 多摩は美濃の唇を親指の腹で撫で、僅かに開いた唇の間にその指を少しだけ押し込み、歯列を何度かなぞった。
 そうされているうちに、美濃は反射的に彼の指を舐めてしまい、それには多摩も少し驚いたように目を見開いて、美濃はハッとして真っ赤になりながら慌てて舌をひっこめた。



「・・・そんなに俺を挑発するな」


「・・・ッ、し、してない・・・ッ・・・」


 美濃は首を振り、相変わらず真っ赤になったまま、あまりに恥ずかしくてこれ以上多摩の顔を見る事が出来ずにぎゅっと目を瞑った。

 多摩は美濃の様子をそのまま見つめ続けているらしく、視線を感じて瞼がふるえてしまう。


 そのうちに彼は美濃の頭を自分の胸に抱き、彼女のつむじに唇を押し当てて小さく囁いた。




「今日はこのまま眠れ・・・・・・」





 だけど・・・そう言った先から聞こえてきたのは、多摩の寝息の方で・・・


 そういえば、ここ数日彼の寝顔を見ただろうか・・・と、美濃はふと思う。
 多摩の元から逃げて、直ぐに捕まって・・・それからは美濃が気を失うばかりで、目が覚めると必ず視線がぶつかって・・・

 もしかしたら彼はずっと寝ていなかったのかも知れない。




 ───だからって・・・何でそんなに無防備な顔で寝るの・・・?



 逃げるなら今みたいな時が一番だ。
 多摩が目が覚めたときには、また居なくなってるかも知れないのに。


 けれど実際は、すっかり馴染んでしまった彼の匂いに包まれ、美濃はただ、自分の中の力が抜けていくのを感じるだけだった。



 あぁ、どうして私はこうなんだろう。

 これだけ酷くされて、全てを壊されて、どうして嫌いになれないの。



 こんな穏やかな空気になると、幼い頃、さよならをする時に見せてくれた彼の優しさに甘えるように、無意識にその胸に飛び込んでしまいそうになる。

 酷いことばかりするのに、朝目覚めたときの腕の中は暖かくて、それが気持ちいいと思ってしまう。



 多摩の腕が無いだけで不安で泣いてしまう自分が恐ろしくて堪らない。


 いつか、何もかも過去も全て忘れて、この温もりだけを求めてしまったらどうしよう、そんな事を考えてしまう自分にも恐ろしさを感じて、彼から逃げ出す自分を止めることが出来ないでいる。




 ───おまえは逃げる癖に一人にされるのは泣くほど厭なのか?





「・・・・・・・・・」



 美濃は目を閉じた。


 深い眠りに落ちていく中で、彼の言葉が頭の中で何度も繰り返されていくのを感じながら。





 私が何を追いかけたのか。

 何を、誰を・・・無意識に追いかけたのか・・・・・・




 多摩には、この矛盾を理解することなんて絶対に出来ないよ。














▽  ▽  ▽  ▽


 中断という形で打ち切られた話し合いで、分かったことが一つあった。
 それは互いの性格の不一致が介在している事を差し引いても、友好的な関係を築く事がどうやら困難になってしまったということだ。

 第一に理由を述べるならば、クラウザーが単なるお使いではなく、自分の目でものを見極めようとする力を持っていたという点。巽が彼のことを『察しがいい』と言っていたのは、こういったことも薄々感じとっていたからだった。

 第二には、多摩が全く話に乗らなかったという点だ。
 彼がこういった話に興味が無いのは、権力欲の欠乏によるものだろう。


 こういった話とはつまり、書簡の内容の事である。


 内容を簡潔に言ってしまえば、神子の力をバアルにも与える代わりに、国の復興と食糧の供給に全面協力をするといった類の事が書かれており、それはバアルの民にとって許し難い内容と言えた。


 この話を取り付けたのは巽と乾の二人であるが、バアル王は存外簡単に理解を示し、当初は食糧の供給だけの交渉のつもりだったのが国の復興という多大なおまけまでついてきた。

 その際に二人は神子が一度バアルに訪れて神託を行った事を王から直接聞いた。
 何故異国の彼らが神子の存在を知ることになったのか、まして神託を行う事になったのか、理由までは聞けなかったがその時行われた神託によって今のバアルが更なる強大な国家として飛躍し続けていると王は語った。

 そして、その時の神子の様子を聞く限りだと、恐らくそれはこの交渉の引き合いに出している神子本人であると告げると、バアル王の方からおまけをつけてきたのだ。
 『流石に公には出来ない内容ではあるが・・・、あの者にはそれだけの価値がある』と。


 だがその時の会話に居合わせることもなく、神子を知らないクラウザーにとっては書簡の内容を聞いたところで内心では納得出来なかったに違いない。
 多摩の言葉に揺さぶられ、挙げ句の果てには余計な疑念まで持たれてしまった。



 恐らく・・・多摩はそれらを態とやったのだろう。



 巽も乾も最早下手に口出し出来るような雰囲気では無くなったことに、頭の痛い思いを味わっていた。


 更には疑念を持ったクラウザーが、今回の件の中心から少し外れた存在である伊予に目を付けた事が事態を混迷させるきっかけとなることを、この時点で二人は知る由もなかったのである。







「クラウザー様ッ! ・・・そのような事どうかおやめください」

「暇を持て余してしまって、身体を動かして気分転換したい所だったんです」


 宮殿内で働く者が居なくなった為、埃っぽくカビ臭い部屋が殆どで、自分一人では手が行き届かないだろうとは思いつつも、伊予は一人でせっせと掃除や洗濯に励んでいた。

 まずは自分たちが使う分だけでもと干していた布団を取り込んでいると、クラウザーがやってきて彼女を手伝い始めたのだ。
 客人というだけでなく、一国の王子にそんな事はさせられないと、伊予はおろおろしながら止めようと必死だった。


「っ、・・・では、その辺りを散策なされては・・・とはいっても・・・楽しめるようなものは無いかもしれませんが・・・」

「・・・・・・あぁ、では、案内してくれますか?」

「わ、私が・・・ですか」


 戸惑う伊予はニコリと笑いかけられ、こうして自分のやることを手伝われるより余程いいだろうと思い、迷った挙げ句に彼の散策に同行することにした。
 昨日の多摩とのやりとりの場に彼女も居合わせていたし、警戒が無かったわけではなかったが、その時の彼の様子は穏やかで優しい雰囲気しか纏っていなかったので、他愛ない会話だけして時間を潰す程度のものと思っていた。


 宮殿の正門を抜けて石段を2,3段降りたところで、クラウザーは自分の後を静かに付いてくる伊予を振り返り、何もない平原を指さした。


「この方角には何が?」


 伊予は指さす方角を眺め、暫しの間思案した。
 そちらは何があっただろうか。

 太陽が沈む方向・・・分かるのはそれだけで、伊予には到底思い出すことなど出来る訳もなかった。


「・・・・・・賑やかな町並みが拡がっていたのではないでしょうか」


 当たり障りのない表現をしてみるも、漠然としすぎたのかもしれない。
 クラウザーは不思議そうな顔で聞き返した。


「もしかして、貴女はこの土地をあまり知らないのですか?」

「・・・・・・・・・申し訳ありません。案内でしたら、私よりも巽様や乾様の方が・・・」

「いいんです。女性に案内してもらった方が楽しいですから。・・・では、彼らは都の出身で貴女は違うと?」

「・・・・・・はい」

「貴女の生まれた場所はどの辺りに?」

「太陽が昇る方です。ここからはいくつも山を越える過酷な旅になるので、男性の足でも休み無く歩いて十日はかかるはずです」


 太陽が昇る方・・・と言われ、クラウザーは東に目を向けてみた。
 彼女が言う山らしきものは見あたらず、見事なまでの平地が拡がっているだけだった。


「・・・それは・・・伊予殿もここに来るのは大変だったでしょう」

「はい、それはもう」


 頷く伊予に笑いかけながらクラウザーは内心疑念を強くした。

 彼女は宮殿のある都の風景を殆ど知らないと言う。
 見た限り残ったものは宮殿と広大な森林だけ・・・『何か』が起こった時、この2点だけが免れる事の出来た場所として考えるのが妥当だ。

 今、彼女が生きてこの場にいるということは、少なくとも天変地異にしろ原因不明の病理にしろ、それ以外の『何か』が起きたにしろ、宮殿か森林にいたということになる。

 つまりは彼女が都に来て殆ど間もない頃に『何か』が起こったということだ。


 ・・・・・・だが・・・これらの推理も免れる事が出来たであろう場所を特定するだけに過ぎず、これだけの惨事が起きた原因を知ることにはならない。



 ただ言えることは、現在残っている宮殿にしろ森林にしろ、本来はもっと数多くの生が存在しても良いような場所で、彼ら以外の生き物の気配が無いと言う不気味さだ。

 森を抜ける中で感じたのは、木々が生い茂るだけで他の生き物を全く見かけないという不自然な違和感。


 何故無害で済んだ場所があるのか・・・

 彼らだけがどうして生き残る事が出来たのか・・・・・・



 それを伊予は答えてはくれないかもしれない。
 下手に追求するような質問をしても警戒され、今後何も答えてくれなくなる可能性も高い。


 ならばせめて、自分が知らないことで彼らが答えられるような疑問をぶつけて一つずつ埋めていくしかないのだ。



「一つ教えていただきたいのですが、神子というのはどのような存在なのでしょう」


 その問いに、伊予は躊躇いなくはっきりと答えた。


「何よりも大切な宝です。多摩様は取り分け特別な存在で・・・まるで奇蹟そのものが生きているみたいです」


 一点の曇りもない眼で彼女は言う。
 しかも、そのシミ一つ無い滑らかな白い肌が上気しているように見えるのは恐らく気のせいではなく、神子を思う以上の気持ちが彼女の中にあるのかもしれないと思えた。


「それほどまでに慕われているというのに、本人は神子というものにそれ程思い入れが無いのは残念ですね。まるで今は神子ではないと言っているように私には聞こえてしまいました」

「・・・・・・それは・・・そうですが・・・・・・多摩様が自由に振る舞えるなら、その方がいいんです」


 こういうのを何というのだろうか・・・。
 巽や乾とは違う・・・彼女は多摩に対して妄信しているような・・・
 まるで彼のする事ならば、世間的に良いことでも悪いことでも、全て正しいと言ってしまえるような危うさを感じる。


 それとも、自分の目で彼が神子である姿を見れば、多少なりともそう言う気持ちが生まれるのだろうか。



「風が冷たくなってきたようです。もう中に入りましょう」


 伊予に促され、クラウザーは頷いた。
 冷たい風が銀髪を揺らし、エメラルドグリーンの瞳が夕暮れに照らされる宮殿を見上げた。


 何故この建物だけが残ったのだろう・・・そして、昨日のあれは・・・・・・




 ───・・・どん、・・・・・・どん・・・・・・ッ



 目を閉じればまだあの音が聞こえる気さえする。




「・・・・・・何故彼は・・・・・・私に最上階に立ち入ることを真っ先に禁じたんでしょう・・・何か見せたくないものでもあるんでしょうか・・・昨日のあの音と関係があるとか・・・」


 伊予からの返事は直ぐにはかえってこなかった。
 彼女の顔色を窺うような事は敢えてしなかったが、何となく想像するのは容易く、不審に思われてはいけないと必死になって言葉を選んでいるのだろうと思った。

 案の定、沈黙を断ち切るように、けれど所々途切れながら彼女は口を開く。


「・・・・・・・・・私には・・・何も聞こえませんでした・・・・・・・・・、・・・・・・・私たち以外に誰もいないのに・・・・・・見せたくない人なんて・・・いるわけがありません」


 きっと、顔を強ばらせてこれでも懸命に言葉を探したに違いない。


「・・・そうですね」


 クラウザーは見せたくないものがあるのではないかとは聞いたが、見せたくない人がいるのかなどと聞いた覚えはない。

 別に嘘が下手なのは罪ではない。
 嘘をつかせるような状況にあることが異常なのだ。


 最上階には誰かがいる。

 それも、ひた隠しにしなければならない程、重要な鍵を握る誰か。



 普通に会わせてもらえるとは到底思えない。



 だが多少の無理をしてでも会ってみる価値がある・・・・・・そんな気がした。













その4へつづく


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