『呪縛』
○第9話○ 差しのべられた手(その7)
───カタン・・・、 遠くの方で何か小さな音が聞こえたような気がして、美濃はぼんやりした意識のままにうっすらと目を開けた。 周囲を見るとすっかり日が沈んで、窓の外に浮かび上がる満月が煌々と夜の闇を照らしている。 どうやら身体を冷ますだけのつもりが完全に意識を手放して熟睡していたみたいだった。 「・・・・・・多摩・・・?」 上体を起き上がらせて多摩を探すと、脱衣室の隅に置かれた椅子に腰掛けたまま眠っているようだった。 美濃は直ぐ側に置かれている寝衣に気づき、彼が用意したであろうそれを身につけている間、何となく目が覚める直前の不思議な感覚を思い出し、身体を冷ますために多摩が開けた戸の隙間に視線を向けた。 何か・・・いたような気が・・・・・・ だが湯殿に続く渡り廊下は月明かりに照らされているだけで一分の乱れも無い。 ・・・そんな事、あるわけないのに。 馬鹿な事を考えたと自分の甘さに溜め息を吐いた。 ・・・が、 「・・・・・・・・・ッ!!」 ゆらり・・・と遠くで影が動いたような気がした。 美濃は驚きで目を見開き、静かに戸口に駆け寄ってもう一度眼を懲らした。 「・・・・・・・・・ぁ・・・・・・」 やっぱり・・・・・・何か・・・・・・いる。 渡り廊下の向こうで・・・、確かに人影らしきものが揺らめいたのだ。 「・・・多・・・ッ・・・・・・」 美濃は慌てて多摩を振り返った。 だが彼はまだ身動きひとつせずに眠ったままだ。 「・・・・・・・・・っ・・・」 ・・・どうしよう。 美濃は少しだけ迷うように眉をひそめたものの、決心したように唇を噛み締め、あの影の正体を掴むために出来るだけ音を立てずに湯殿から出て行った。 ▽ ▽ ▽ ▽ 「はーーーーっ!! 俺ダメ、こういうのっ、気配を殺すとか静かにするとかホントにつらすぎるッ!!!」 乾はベッドの上で今日何度目かの盛大な溜め息を吐き出した。 退屈な日々を誤魔化すように彼は一日の大半を眠る事でやり過ごしていたが、一体いつになったらまともな話し合いが持たれるのか分からない進展の無い日々に飽き飽きしていた。 元来賑やかなのが大好きなのだ。 それを極力抑えて気配を殺しながら過ごすという生活は苦痛すぎて堪らない。 それでも定期的に話し合いが持たれているというなら我慢の甲斐があるというものだが、多摩の気まぐれで全てが回っているうえに、まともに顔も見せないとあっては乾でなくとも苛々は募るばかりだったに違いない。 だが、ここは最早多摩の世界だ。 彼の思うままに作られた世界で、他の誰が口を挟む事も赦されない。 普段通りに騒がしくして美濃に気づかれでもしたらきっと大騒ぎになってしまうだろう。 しかも今はクラウザーもいる。 彼に美濃の存在を知られるのは何としても避けたい。 バアルからここまで約半年かけての長旅にクラウザーと同行した感想は、彼の実直さと慈悲深いまでの包容力だった。 あの美しい顔で誰の声にも真摯に耳を傾けるとなれば彼を悪く思う者などそういるはずもなく、あの国でのクラウザーの人望は大変なもので、乾自身もそれなりに好感を持っている。 だがその性格故に、この国の真実を知られるわけにはいかなかった。 下手に知られて美濃に対する同情心を芽生えさせ、彼女を助けようなどと思われては困る。 万が一にも多摩から美濃を取り上げるような真似をされてはならないのだ。 その後何が起こるかなんて・・・・・・考えただけで命が100個あっても足りない・・・・・・ ───コン、コン 部屋の扉をノックされ、乾は上体を起こした。 「・・・入っても宜しいでしょうか」 伊予の声だった。 「あぁ、入れよ」 乾は欠伸をしながら返事をして、伊予を中に招き入れた。 しかし、部屋に入ってきた伊予の表情は堅く強ばり、幾分顔色も青ざめているように見えて乾は彼女の様子を不審に感じた。 「・・・・・・何かあったか?」 「・・・・・・・・・」 伊予は走ってきたのか若干息が上がっているようで、乾の視線から目を逸らすように俯いた。 「・・・・・・伊予」 乾の声音に『びく』、と肩を震わせ、伊予は硬く目を瞑った。 「・・・・・・美濃・・・様が・・・・・・」 「えっ!?」 「・・・・・追いかけて・・・来られて・・・・・・」 「はぁ!? どういう事だよ、何で姫さまに見つかってんだよっ!?」 「すみませんッ、私・・・まさか・・・見つかるなんて・・・ッ」 伊予の肩を揺すって問いただすと彼女は涙を浮かべて何度も謝罪した。 がくがくと身体中を震わせ、そんなつもりじゃなかったと。 「・・・・・・ちょっと待て・・・謝るのはいいからちゃんと話せ」 「・・・・・・っ・・・、・・・は、・・・・・・はい・・・」 伊予は混乱しているようで話す内容は中々要領を得ない。 それでも一つ一つ問いただしていくうちにおおよその事は理解する事が出来、その内容に乾は何とも悩ましい思いを感じるのだった。 今日湯殿は多摩と美濃が使うから近づいてはいけないと巽から聞いて知ってはいたものの、自分達がここに戻って来てから殆ど多摩の姿を目にすることが出来ない切なさが募りに募って、つい湯殿に続く渡り廊下まで近づいてしまった事。 決して湯殿には足を踏み入れるような事はしていないが、静けさが災いして気配に気づかれてしまったのかも知れないと。 そして湯殿からは何故か美濃だけが飛び出してきて、伊予は慌ててその場を離れたが、美濃が自分を探して宮殿内を今も歩き回っているというのだ。 「・・・・・・じゃあ、しっかり見られたってわけじゃないんだな」 「・・・・・・・・・はい・・・申し訳ありません・・・・・・」 乾は『う〜ん』と唸りながら考えを巡らせた。 例え今日が満月で普段より大きな明かりが宮殿を照らしていたとしても、今が夜であることには変わりない。 湯殿に続く渡り廊下からでは、せいぜいぼんやりと影が揺らめいたように見える程度じゃないだろうか。 「・・・巽はこの事は・・・?」 「まだ知りません・・・」 「・・・・・・そうか。・・・でもヤツなら気配には敏感だし身を隠すくらいはやれるだろう。俺達も少しの間どこかに身を隠せばいい。・・・・・・だが問題は・・・・・・」 問題はクラウザーだ。 二人が鉢合わせるのが先か、それとも多摩が美濃を見つけるのが先か・・・それにしても多摩は一体何をしてるんだ。 ───ぱた、ぱた・・・・・・がちゃ・・・ 遠くで足音が聞こえる。 何かを探しているような・・・まさか部屋を開けて回っているのか? ・・・姫さま・・・お転婆なのは変わらずかよ・・・ 「・・・このままここにいてうっかり部屋に入ってこられた日には目も当てられないな。・・・・・・伊予、窓から出るぞ」 「・・・・・・は、・・・はい・・・っ」 この状況下でジタバタしても仕方がない。 乾は部屋の明かりを消して、音を立てないように窓を開けて自らが先に外へ飛び出し、続いて出てくる伊予を下で抱き留めてから窓を閉めた。 このまま何も起こらなければいいが・・・・・・ しかしどれだけ危惧したところでこれ以上ここに留まる事は危険だ。 今の二人には、このまま身を隠して姿を消す以外の方法はどこにも見あたらなかった。 ▽ ▽ ▽ ▽ 乾と伊予が部屋から姿を消して間もなく・・・ クラウザーと美濃が鉢合わせるのが先か、それとも多摩が美濃を見つけるのが先なのか。 後者を切望していた乾の思いは、虚しくも既に就寝していたクラウザーの部屋を美濃が開けてしまった事によって、何より危惧していた不安の方が現実のものとなっていた─── 「・・・・・・あなた誰? どうして逃げたりしたの? ここにいるのはどうして?」 美濃はベッドの上に何者かが横たわっているのを確認するなり、躊躇することなく声を掛けていた。 だが相手は身動きひとつしない。 彼女は少しだけ反応を待ったが一向に何も返ってこないのを不満に思い、物怖じすることなく近寄って、顔を覗き込むようにしながらもう一度話しかけた。 「ねぇ、聞いてる?」 「・・・・・・ん・・・・・・・・・・・・な・・・に・・・」 クラウザーは突然眠りを邪魔され、ぼやける頭の中を整理しきれないまま直ぐ側にある気配に驚いて飛び起きた。 「・・・きゃっ」 女の声・・・伊予殿とは違う・・・・・・ 「・・・・・・、・・・?」 困惑しながらもクラウザーは、部屋に忍び込んだ女の様子を探る。 どうやら自分が飛び起きた事で驚いて固まっているらしい事は雰囲気で見て取れたが、どんなに眼を懲らしてみても、その姿は月の光で輪郭がうっすらと浮かび上がる程度・・・ クラウザーは少し考え、側に置いてあった蝋燭に火を灯した。 同時にお互いの姿がぼんやりと浮き上がる。 彼女はすかさずクラウザーの間近まで顔を近づけ、食い入るように覗き込む。 流石にそれには驚かされて目を見開いたが、明かりの下で見るその表情は無防備以外の何ものでもなくて、しかも何とも愛らしく可憐な容姿をどうにも微笑ましく感じてしまう。 「・・・・・・あなた見た事ある」 「・・・え?」 「絵本に出てきた天使でしょ?」 小さい頃に絵本で見たのだと彼女は真剣に語る。 何だか急激に肩の力が抜けてクラウザーは小さく笑った。 「・・・・・・貴女の名前は?」 「・・・私、美濃。あなたは?」 「私はクラウザー。事情があってこの地に一時身を置かせていただいています」 「ふぅん。・・・・・・そっか・・・・ここしか建物ないものね・・・・」 もしかしたら彼女は自分を通りすがりの旅人くらいに思っているのかも知れないと思った。 偶然見つけた建物で身体を休めていた・・・・・そんな風に認識したのかもしれないと。 だが一見しただけで肩を落とした様子にクラウザーは不思議に思う。 彼女は何かを期待していたのだろうか、と。 「・・・あ、・・・あのね。じゃぁ、ここはなるべく早くに出た方が良いよ」 「・・・え?」 「多摩に見つからないように静かにね」 「・・・・・・っ」 「多分見ればすぐにわかるよ。背が高くてね、私の目よりうんと紅くてね、髪の毛が長くてね・・・・・・男のくせに凄く綺麗なの」 「・・・・・・そうですか。でもそんなに口を尖らせなくても貴女は大変かわいらしいですよ」 「・・・ほ、ほんとう? ・・・・・・あ、でも私がここにいると見つかっちゃうかも・・・・・・多摩ってね、私がどこにいてもわかるみたいなの」 急にソワソワしだした様子を見て、クラウザーはどういう事だろうと疑問を膨らませた。 どう見ても彼女・・・美濃は多摩を良く知っているようだ。 しかも今まで会ったこの国の者は一様に何かを裏に隠し持っている雰囲気が漂っていたが、彼女からはそういう空気を全く感じない。 クラウザーはころころ変わる表情に感心しながら、頭の中に浮かんだ素朴な疑問を彼女にぶつけてみる事にした。 「・・・美濃・・・貴女はいつもはどこにいるのですか?」 「・・・・・・多摩と二人でね、自分の部屋にいるの。・・・・・・一番上だよ」 「───・・・・・・・・・ッ!」 ・・・・・それでは、 皆が一様にひた隠し、自分自身が何よりも知りたがっていた上の住人というのは・・・・・・・・・ 最上階には立ち入るなという多摩の言葉と、一度だけ聞こえてきた上からの音。 それが全て目の前の彼女に繋がっていた事だと・・・? それに・・・・・・『美濃』という名・・・ どことなく聞き憶えがあるような気がするのは何故なのか。 ・・・異国の名などそう耳にする事は無いというのに、一体どこで・・・・・・ 「・・・・・・あ・・・・・・」 書庫で見つけた神託を記した本・・・・・・ 最期の神託を受けた次代の王位継承者・・・・・・ この国の・・・・・・姫君の名・・・・・・ 「どうしたの?」 不思議そうに首を傾げ、美濃はクラウザーの顔を覗き込む。 そうだ、彼女自身の口で言ったばかりではないか。 『自分の部屋にいる』と─── なんと言う事だ・・・ 彼女が滅んだ筈の王族の生き残りだというのか・・・? 「大丈夫? 身体の具合が悪いの?」 ───だがそれならば・・・・・・・・・ 「・・・いえ・・・・・・、どうしてこの国はこのような事態に陥ったのかと・・・急にそんな思いに囚われてしまって。・・・・・・貴女の言う通り、此処に来るまで建物ひとつ無かったので・・・・・・」 彼女なら答えを持っているだろうか。 他の連中のように事実を隠したりせず、ありのままに答えてくれるだろうか。 そんな思いを込めたクラウザーの言葉に美濃は少しの間沈黙したが、悲しそうに瞳を揺らして小さく首を振った。 「・・・・・・・・・わからないの」 それは本心からの彼女の言葉だったのだろう。 どうしてこんな事になったのか、何故今自分がこうしているのか・・・どんなに考えても美濃には分からなかった。 「・・・・・多摩が・・・・・・おまえのものは全部壊したって・・・・・・・・でも、どうしてなのか・・・全然わからなくて」 「・・・・・・ッ」 ぽつりと呟いた美濃の言葉に絶句して、クラウザーは身の底から涌き出でる怖気を隠すかのように手のひらで口を押さえた。 「・・・・・・もう行くね。見つからないようにね」 部屋を出て行こうとする美濃を引き留めるかのようにクラウザーは彼女の腕を掴み、油断すると震えそうになる声を何とか絞り出す。 「待って・・・。また会えませんか?」 「・・・無理だよ。ひとりになれないもの」 「ひとりの時なら?」 「・・・・・・うん・・・でも・・・そんな時ないよ・・・」 「・・・今みたいに、時々はあるでしょう?」 「・・・・・・わからない」 「では、もしひとりになったら・・・空を見てください。空が歪んできたら私が会いに来る合図です」 「・・・そんな事が出来るの?」 「えぇ。・・・それよりも先程、多摩という人は貴女がどこにいてもわかると言っていましたね?」 「うん」 「ならばここから出て行ったらお互い危険かもしれません」 「えっ・・・どうしよう」 「・・・今から安全なところに貴女を運びましょう。その代わり、二人の事は誰にも秘密にしてくださいね」 にっこりと優しく笑うクラウザーに美濃の警戒心は無かった。 彼女は大きく頷き、無防備な笑顔まで見せている。 そして、いつ多摩が現れるか分からない危険な現状を切り抜けるため、クラウザーは美濃を包み込むようにやんわりと抱きしめて瞳を閉じた。 ───突如、 「・・・・・・あっ、・・・・・・なに・・・?」 美濃の身体が歪み出す。 彼女は自分に起こった異変に驚き、クラウザーにしがみついた。 どんどん歪みを生じる自分の身体が無くなってしまいそうで怖くて泣きそうになると、彼は何度も頭を撫でてもう一度抱きしめてくれた。 「大丈夫・・・・・・またね・・・」 微笑む顔がとても綺麗で・・・見とれていたら怖がっていた事を忘れてしまった。 やっぱり絵本に出てきた天使かもしれない・・・美濃はそう思いながら自分の身体が歪みに呑み込まれていくのを感じ、そのうちにクラウザーの姿も見えなくなったのだった。 ───そして将にその直後・・・ 何の前触れもなく今の今まで美濃がいたこの部屋の扉が開き・・・・・・、 多摩が姿を現したのである。 「・・・・・・・・・・・・、・・・・・・どうしました・・・?」 「・・・・・・・・・」 クラウザーは平静を装いながら、無言で部屋を見回す多摩に話しかける。 彼は無表情なままクラウザーを監視するような鋭い眼光を向けたが、重い沈黙の後、静かに口を開いた。 「・・・・・・・・・・・・明日、もう一度だけ話を聞いてやる。それで最後だ」 低い抑揚のない声でそれだけ言い放つ。 そして、クラウザーの返事を待つことなく、彼はそのまま部屋を出て行ってしまった。 多摩がいなくなっても尚、彼の作り出した空気は暫くその場を支配し続けた。 一体どれだけの緊張に支配されながら、クラウザーはその場を動くことが出来ずにいたのか・・・・・・ 「・・・・・・・・・ッ、・・・・・・」 彼は背中を伝う冷たい汗とともに、漸く深いため息を吐き出した。 同時に彼は勝手に震え出す身体をどうにか落ち着かせようと自らを強く抱きしめる事で可能な限りの冷静さを求めた。 先程彼女はなんと言った? あの男が壊したと・・・・・・? 考えるほどに身体の底から冷たくなっていく錯覚を憶える。 「・・・・・・・・ッ、・・・・・・・ばかな・・・っ・・・」 それが真実であるなら、父上はとんでもない思い違いをしているということになる。 我々が相手にしようとしているのは神子とはかけ離れたものではないのか? ───明日で最後・・・・・・ 何かを感づかれたのかもしれない。 もう気まぐれに滞在させる事も許さないらしい。 だがあまりにも時間がない。 彼女と接触出来る機会があるとすれば、もう明日を於いて他にはない。 もっと詳しく話を聞いてみたいが、それが赦される状況を作りだせるだろうか。 場合によっては手段など選んでいられないだろうが・・・ 彼はもう一度深いため息を吐き出し、考える程に自分の置かれた状況に吐き気がして、今夜はもう眠れそうになかった。 その8へつづく Copyright 2010 桜井さくや. 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