『呪縛』
○第9話○ 差しのべられた手(その8)
クラウザーの部屋から消えた美濃が次に姿を現した場所は、宮殿の一階から続く大階段の前だった。 本当に自分が別の場所から移動したのだと知った美濃は、驚きのあまり思わず床にへたり込んでしまう。 ・・・あれは一体誰だったんだろう。 蝋燭の光だけでははっきりとは分からなかったけれど、異国の服を着て顔立ちもこの国の人々とは違うみたいだった。 自分の身体が歪んだと思った時は怖かったけど、あの優しくて綺麗な顔が大丈夫と言って微笑むと素直に頷けるような気がして・・・。 そういえば、多摩に見つからずにちゃんと出ていけただろうか。 事情があってここにいると言っていたけど、多分ここを廃墟だと思って使っていたんだ・・・・・・ 会いに来るって・・・、言ってたけど・・・。 ・・・どう考えたって、そんな事あるわけ無い。 「・・・・・・美濃、そんな所で何をしている」 突然後ろから声を掛けられ、美濃は驚いて身体をビクリと震わせた。 「あ、・・・・・・多摩」 振り向くと多摩が此方に向かって来るところだった。 階段の前でへたり込んでいる美濃の側まで歩み寄ると、彼は屈んで彼女の顔を覗き込む。 「・・・何故ひとりで出て行った」 「あ・・・多摩がよく寝てたから・・・・・・」 「・・・・・・」 多摩は僅かに沈黙したが、諦めたように小さく溜め息を吐き出して美濃を抱き上げた。 「・・・今度からは起こせ」 「う、うん」 どうやら怒っていない様子に安堵して大きく頷く。 ホッとして一気に表情が緩んだ美濃の顔を見て、多摩は僅かに苦笑しているようだった。 「・・・・・・・・・また逃げたのかと・・・思ったんだがな」 「えっ」 小さな呟きと、一瞬遠い目をした多摩の顔が切なく感じる。 彼の表情に少しだけ変化を見つけただけなのに、どうしてこんな気持ちにさせるんだろうと頭の隅で思ったが、それより何故自分は逃げようとしなかったのか・・・多摩に言われるまで全くそんな事を考えていなかった自分に驚いた。 本当だ・・・・ 湯殿からひとりで出て行った時点で、いつもなら逃げてる。 いくら人影を追いかけてたって、思いつきもしなかったなんて・・・・・・ 「・・・に、逃げても意味ないんでしょ」 一瞬だけ頭の端を過ぎった考えに蓋をするように、美濃は口を尖らせて気持ちを誤魔化した。 多摩は抱きしめる腕に少しだけ力を込めて、彼女の頬に唇を寄せる。 「あぁそうだ。俺はおまえに触れていないと息苦しくて堪らない。・・・だからどんなに逃げようとしても、俺は地の果てまでおまえを追いかける。・・・・・・もう俺の側から離れようと思うな」 「・・・・・・・・・ッ・・・・・・」 まるで・・・・・とても強く焦がれているような瞳で・・・・・・ そんな筈ないのに・・・そんな事があるわけないのに・・・ 美濃は自分の顔が熱くなるのを感じた。 今とても恥ずかしい顔をしているような気がする。 何を考えているんだろう。 恥ずかしい、信じられない・・・こんな風に思うなんて。 「まだ少し熱いな・・・」 あれからどれだけ時間が経ったと思っているのか・・・それはもう湯に逆上せた熱ではないのに、多摩は勘違いしているみたいだった。 そしてぶつかった彼の視線がとても柔らかい事を知って、少しだけ泣きそうになる。 それを知られたくなくて美濃は彼の肩に顔を埋めると、抱え直すように身体を引き寄せられ、多摩の息が首筋にかかって、また少し熱が上がったような気がした。 私・・・・・・どうしちゃったんだろう・・・・・・ 美濃は自分に起こる変化に戸惑い、これ以上その変化が大きくならないよう祈るばかりだった。 ▽ ▽ ▽ ▽ 翌朝、宮殿内の吹き抜けの中庭に佇みながら、巽は黒い雲に覆われた空を見上げ、今にも雨が降りそうな様子に幾分険しい表情を浮かべた。 彼もまた美濃が湯殿から飛び出した昨夜の出来事を目撃したひとりだった。 そして昨夜目にした光景をその胸の内で数え切れないほど反芻しながら、一睡もしないままこの場所で朝を迎えていたのだった。 湯殿から突然飛び出し、何かを探し回るようにして宮殿内を歩き回る美濃の姿が目に焼き付いて離れない。 好奇心の塊のような仕草で次々と扉を開ける様子は昔とそれほど変わらないように見えるのに、その姿は最後に会った時よりも随分大人びて・・・とても眩しかった・・・ 「・・・・・・・・・・・・」 巽は目を伏せて頬にかかる前髪を煩わしそうに後ろへ流し、小さくため息を吐き出した。 神子殿が望むままに彼女を手に入れたあの日から、一体どれだけの月日が流れたと思っている。 いっそのこと、この想いも泡となって消えてしまえば楽になれるものを、何故いつまでも胸の奥で燻り続ける─── 彼の命令通り邪魔者を排除するために非道な殺戮を強行したあの瞬間は、確かに何もかもが消え去っていたというのに・・・ 「おーい、巽ーーっ」 陽気な声が背中から降ってきて、巽は静かに振り返った。 確認するまでもなく相手は乾だったが、伊予も一緒だった事が多少見慣れない光景ではあった。 乾と伊予は男女の関係を結んでいるが、日中二人で行動を共にすることは殆ど無い。 互いの部屋に行き来していても同じ朝を迎えるような事はなく、あくまで一線は引いているように見えたのだが。 「あまりでかい声を出すな」 「わーってるよ」 乾は巽の横に立ち、大きな欠伸をひとつした。 「・・・どうした」 「んー、昨晩から一睡もしてなくて眠いんだよ。巽はどうしてた?」 「あぁ・・・俺も寝ていない」 「あ、やっぱり姫さまに気づいてたか」 「当然だ」 小さく息を吐き出す巽を横目に、乾は伊予に目配せをした。 彼女はそれを合図に巽の前に立ち、思い詰めた顔で口を開いた。 「あれは私の所為なんです。渡り廊下から湯殿を見ていて・・・・・・それを美濃様に気づかれてしまったんです」 「・・・・・分かっている」 「えっ」 「彼女が湯殿から飛び出してきたのは俺も見ていた。だが、満月とは言えあの距離では幻でも通用する程おぼろげなものだった筈だ」 「でも・・・美濃様は現に探し回って・・・」 「・・・・・・恐らく・・・国の者が生きていたのではないかという期待がそこまでさせたんだろう」 巽は別に伊予を庇うつもりでそんな事を言っている訳ではない。 湯殿から出てきた美濃を見た自分でさえ、最初は誰であるか判別すらつかず、よく見ていなければ見逃してしまうほどささやかな影にしか見えなかったのだ。 「ほら、だから俺の言った通りだろ? ・・・・・・まぁ、でも俺が心配なのはそこじゃなくてさ」 「・・・・・・鉢合わせしたのではないか・・・ということだろう」 「そういうこと」 「・・・・・・」 それは無論美濃とクラウザーが、ということだ。 巽は難しい顔をして昨夜の事をもう一度反芻した。 美濃が湯殿から飛び出してきて、宮殿内部を駆け回りあちこちの部屋の扉を開けて回っていたのはこの眼でしっかりと見ていた。 だがその動きは一部屋開けたらその隣を開けていく・・・という規則的なものではなく、思いつくままに色々な場所を開けて回っているような動きで、突然振り返ってはまた同じ部屋を開けてみたりというあまりに不規則な動きだった為、うっかり見つかってしまう可能性を恐れた巽は、それならばと多摩がまだいるであろう湯殿へ走ったのだ。 確かにその間の空白の時間に何かがあっても不思議ではない。 しかし別段大きな揉め事が起こった様子も無く、少しして多摩はいつも通り静かに最上階へ戻ったようだった。 彼が美濃を放って最上階へ消えるとは考えられず、それならば彼女も上に戻ったのだろうと理解するのは自然な流れだった。 「・・・・・・特に騒ぎになったようには見受けられなかったが・・・」 「ならいいけどさ・・・・・・だけど多摩はどうして姫さまをひとりで湯殿から出すような真似を許したんだ? それだけが腑に落ちないんだよなぁ」 「・・・・・・・・・眠っていたんだ」 「・・・えっ?」 そうだ、湯殿で彼はあまりに無防備に眠っていた。 だから気を許す程良好な関係を築いているのかと思えば・・・・・・ 『・・・また逃げられたか・・・・・・』 消え入りそうな声で彼は呟いたのだ。 また・・・と言う事は、もう何度も彼女は逃亡を謀っているということなのだろう。 それなのに何故・・・・・・ 「・・・まぁ、何にしても騒ぎになってないならいいじゃん。ここであれこれ言ってても仕方ないし、何かあったにしてもなるようにしかならないだろ?」 「あぁそうだな。乾の楽天的な思考には時々感心する」 「うるせー」 「では戻ろうか。神子殿がいつ上から降りてくるか分からないからな」 「・・・は〜、俺・・・待つのはつくづく苦手だ」 「伊予、君も・・・それ程気に病む事はない・・・・もう過ぎた事だ」 「は、はい。二度とこんな事は無いようにします・・・」 そう言って少し涙ぐんだ様子の彼女を巽は少し哀れに思った。 自分は緊急に備えて死角になる位置から監視していただけだが、多摩を思うあまりの伊予の行動は分からなくもなかったからだ。 彼女の行動は、まるで自分自身を見ているかのようだった・・・ 俺はもう・・・二度と美濃さまと会う事は出来ないというのに─── その9へつづく Copyright 2010 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |