『呪縛』

○第9話○ 差しのべられた手(その9)









 それぞれが内に抱える想いに考えを巡らせていたこの日・・・
 誰もが二日に渡って多摩が降りて来る事はないだろうと思っていたところへ、昼に差し掛かる時分になって平然とした様子で彼が現れたのである。

 流石に皆が一様に驚きの表情を浮かべ、意表を突かれたような気分の中、多摩は表情無く静かに口を開いた。


「あの男を呼べ」

「・・・は、・・・畏まりました。乾、神子殿を大広間に」

「あ、あぁ」


 多摩のひと言で緩んだ場の空気が一気に緊張に包まれ、乾と伊予は多摩を連れて大広間に、巽はクラウザーを呼びに走った。





 ───だが、巽が呼びに行った先で思わぬ事が起こったのである。



 部屋の扉をいくらノックしてもクラウザーの返事は返って来ず、失礼とは思ったが扉を開けて部屋の中を確認したが誰もいない・・・・・・巽は少し考えた後、最近彼がよく足を運んでいる書庫へ足を向ける事にした。



 しかし今この瞬間、クラウザーは宮殿内のどこかで暇を潰していたわけでも、外に散策に出て不在にしていたわけでもなかった。



 多摩が階下に降りてくる今だけが美濃に会う事が出来る唯一の機会と考えた彼は、危険を承知で行動を起こしていたのである。














▽  ▽  ▽  ▽


 その日もいつも通り多摩の腕の中で朝を迎えた美濃は、彼の腕の中でそのまま一日が終わっていくものだと思っていた。


 だけど今日の多摩はどこか違っていた。


 目が覚めても貪るように身体を開かされることはなくて・・・
 数え切れない程唇を重ねるだけの、今までになくとても甘やかな時間が流れるだけだったのだ。

 頭の芯がトロトロに融けていくまで唇と舌を絡めあい、多摩の胸の中に閉じこめられるように抱きしめられ、また唇を重ねる。
 その繰り返しがあまりに心地よくて、唇を重ねながら再びウトウトと眠りの中に落ちかけて・・・


 殆ど意識が途切れかけていた、そんな時・・・彼は静かに身体を離して、ひとりベッドから起き上がったのだ。


『そのまま少し眠っていると良い・・・少し出てくる』


 美濃の耳元で眠りを邪魔しないよう小さく囁いてそれだけ言い残し、多摩は部屋を出て行った。

 今までひとりになる事自体が思い出せないほどなのに、そうやって多摩が一言残して部屋を出て行くなんて初めてのことですっかり目が覚めてしまったが、彼の背中を眼にしながらも、美濃はどう反応を返して良いのか分からなかった。
 そして彼が出て行った後、まるで追いかけるように部屋の扉に駆け寄って・・・・・・けれど以前のようにその扉に鍵が掛かっていない事を知った途端、言い表しがたい思いが込み上げてくる。



 ・・・何で・・・鍵が掛かってないの・・・・・・?

 こんなの変・・・だって私はもう逃げないって・・・思っているみたい・・・



 美濃は戸惑いつつも、この絶好の機会に逃げようと思わない自分自身が何よりも理解出来なかった。

 自身の身体を抱きしめ、一体どうしてしまったのかと自問自答を繰り返す。
 けれど考える程に胸の奥がチリチリと焼け付くように苦しくなって・・・・彼と何度も唇を重ねた所為か、まだそうしているみたいに熱くて・・・・・・


「・・・・・・私がいちばん・・・・・・変・・・・・・・・・、・・・・・・どうしてこんなに・・・ッ・・・」


 彼の感触が、匂いが、側にいない今もずっと身体を包んでいる気がして、ひとりになっても多摩の事ばかり考えている自分が信じられない。
 何か別のことを考えないと歯止めがきかなくなりそうで、美濃は必死で別の何かを探した。




 そしてふと・・・


 ───ひとり・・・? ・・・・・・私・・・・・・今、ひとりなんだ・・・



 自分がひとりだと言うことにハッとした美濃は、昨晩出会ったクラウザーの言葉を思い出した。



『ひとりになったら空を見てください』



 空が歪んできたら会いに来る合図だとも言っていた。
 今の今までひとりになることなんて無いと思っていたから忘れかけていたけれど・・・

 昨日自分の身体が別の場所に一瞬で移動したのは本当のこと・・・・・・

 だからと言って、彼が会いにくる理由なんてどう考えても見つからないけれど。

 どうしても半信半疑の思いは捨てられず、扉の前に立った状態のまま窓の外に視線を向けてみる。
 だがやはりどこにも変化など見あたらず、雲行きの怪しい空が今にも雨を降らせそうだという感想を美濃に抱かせるだけだ。



 ・・・やっぱり、そんなのあるわけない。

 あれは夢だった・・・そう言うことにしてしまえばいい。
 もう二度と彼に会うことはないのだ。






 ───そう思い込もうとした時・・・


 昨晩の自分の身に起こったものと同じ現象が、本当に窓の外で起き始めたのだ。





「・・・・・・ッ・・・あ・・・」



 歪みは直ぐに人型の輪郭を作り出し・・・

 美濃が目を丸くして呆けていると、見る間に輪郭は鮮明になり、それがクラウザー本人であると認識出来る程はっきりとしたものになってもまだ、客観的に見るその現象はあまりに衝撃的で、昨日同様思わずその場にへたり込んでしまった。

 そして開けてもいない窓をすり抜けるように彼は部屋の中へと入り込み、気がつけばへたり込む美濃の前に立っていたのだ。



「・・・ゆ、・・・夢じゃ・・・なかったんだ・・・」


 美濃はやっとの事でそれだけの言葉を絞り出し、目の前に立つ彼の姿を呆然と見上げた。

 暗い雲に覆われた空模様ではどこからも陽の光が差し込んだ様子はないのに、クラウザーの姿は優しい乳白色の肌にエメラルドの瞳が美しく映えて、何よりも銀髪の輝きは例えようもなく、日中に見る彼は蝋燭の光などで表現できないほど綺麗だった。

 美濃は思わず感嘆の溜め息を漏らし、『でも、やっぱり夢かも・・・』と小さく呟く。

 クラウザーはその反応に目を細めて微笑み、昨晩と同じ優しげな声音で『夢ではないと思いますよ?』と言いながら、彼女と目線が近くなるよう床に膝をついた。


「ね、ね、それってどうやるの? 私も練習すれば好きなところに飛んでいける?」


 美濃は呆然としていたのも束の間、好奇心いっぱいに目を輝かせていた。
 クラウザーは困ったように笑って、なるべく彼女を失望させないように気遣いながらやんわりと首を振る。


「・・・・・・胸の中心で強く念じているだけなので、自分でもよく分かっていないんです。・・・それにあまり遠い距離は移動できないうえ、一度訪れた場所や人にしか使えませんし、結構体力を消耗させるのでそんなに連続しては使えず・・・だからそれ程大したものでは・・・」

「充分凄いよ! いいなぁ・・・クラウザーは特別なんだね、それに全部全部キレイで羨ましいな・・・」


 ほぅ・・・と尊敬の眼差しで見つめる美濃はとても微笑ましい。
 表情ひとつひとつが非常に愛くるしい彼女の雰囲気に和んでしまいそうになるが、そうゆっくりもしていられない。
 彼は階下で自分を捜し回っている事が想像するまでもないことだと分かっていた。


「実はあまり時間が無く・・・・・・お別れを言いに来たのです」

「・・・そっか・・・・わざわざ会いに来てくれたんだ。ありがとう」

「いえ・・・あの、でも本当はそれだけではなくて・・・・・・」

「うん?」

「・・・・・・あの、帰る前にどうしても貴女から教えていただきたい事があって・・・・・それでもう一度だけ会いたいと・・・・・・、非常に図々しい話なのですが・・・」

「私で答えられることなら」

「・・・・・・・・・この地に起こった事を・・・もっと詳しく知りたいのです」

「・・・・・・」


 急激に表情を曇らせた美濃の様子にクラウザーは瞳を揺らし、唐突過ぎるとは承知の上だったが彼女の素直な表情を見ている内に、もしかしたら簡単に話を聞けるのではないかと思っていた自分がやはり甘かったのだと知った。


「・・・・・・美濃・・・・・・私は難しいことを聞いていますか・・・?」


 そして強ばった顔で唇を噛み締める美濃の顔を見て、これ以上彼女は話してはくれないかもしれない・・・と、クラウザーは頭の隅で感じ取った。

 それに、今までこの地を見てきただけでも非常に複雑な状況が重なり合っているように思えるものを、順序立てて話せるとは限らないし、まして何かを話してくれたところで、自分がそれを正確に理解出来るとは限らない。

 それでも・・・・・・彼女の口から昨夜聞いた以上の真実が少しでも語られれば・・・それ以上の詮索は止めようと思っていた。
 例え国に帰還して自分がどうなろうと、踏み込んではいけない領域に手を出そうとしたのだと自らが納得出来ればそれで・・・



「・・・・・・クラウザー・・・あの・・・私・・・あんまり言いたくない」


 美濃は俯いて消え入りそうな声で呟き、首を横に振った。
 それだけで彼女の口を噤ませるような出来事があった事は容易に想像できる。


 だがもしも・・・

 彼女の口から何も聞き出すことが出来ないのであれば・・・・・・
 その時は“それ以上の手段”を講じるのはやむを得ない事だと彼は考えていた。


 何より、彼女の言葉を期待出来ないと分かってしまった今、彼にはその手段を迷う時間すら赦されてはいない。

 クラウザーは決心したように小さく息を吸い込み、気を抜いたら強ばりそうになる表情を押し込めるように笑みを作ってみせる。


「・・・・・・では最後に貴女の顔をよく見せていただけませんか・・・・・・?」

「・・・・・・顔・・・?」

「貴女の顔をよく覚えておきたいのです」

「・・・・・・う、・・・うん」

「ありがとう、・・・絶対に忘れません」


 不思議な要求に戸惑う美濃だったが、にっこりと微笑んだ顔があまりに綺麗だったので、その裏にある思惑など考えることなく彼女は頷いた。
 そして、うっとりするほど綺麗に輝くエメラルドの瞳に見つめられ、美濃は異国にはこんな人がたくさんいるのだろうか・・・とドキドキしてしまう。


 けれど、その一方で・・・・・・

 見つめられる程に彼の眼は何かが変だと感じる自分がどこかにいた。


 宝石のような瞳は確かに綺麗だ。
 なのに、覗き込まれるように見つめられると、まるで心の裏側まで全部覗き見られてしまうような気がして・・・・・・



「・・・・・・この国の人々の瞳は皆紅いと聞きますが・・・美濃の瞳は深い青も入り交じって・・・よく見ると紫に近い色なんですね」

 唐突に話しかけられて美濃はハッとした。
 変な事を考えてしまったと、自分の考えを打ち消すように彼の言葉に小さく頷く。

「・・・あ、うん。純粋に紅い瞳なんて滅多にいないんだよ。私だってひとりしか知らないもん」

「・・・そう」


 と、突然クラウザーの冷たい手が頬に触れたのを感じて、美濃はビクリと震えて目を見開いた。
 だけど彼はただ瞳を揺らしながら真っ直ぐに美濃を見つめているだけで、それ以上の何かをしようとしているわけではないみたいだ・・・


 だがそんな彼に対して、美濃は強くなっていく違和感をどうしても拭いきれない。


 頬に触れる手が震えているのは気のせいだろうか・・・
 この部屋に来た時の彼とは比べようもない程、その表情が青ざめているように見えるのは何故なのか・・・


 それでも美濃の瞳から視線を外そうとしないのは・・・・・・



 美濃は彼の様子を次第に不審に思い始め・・・やはり心の奥底まで覗き見られているような妙な感覚にも戸惑いを隠せない。


 しかし次の瞬間、

 クラウザーの瞳から止めどなく溢れてきたものを見て、美濃はギョッとして慌てふためき、一瞬で頭の中が真っ白になってしまった。


「・・・・・・えっ、えっ!? クラウザー・・・・・・どうして泣いてるの?」


 一体どういう事なのか・・・クラウザーの瞳からは溢れる涙が頬を伝い、彼は感情を抑えるかのように唇を小刻みに震わせているのだ。


「どうしたの? 私・・・何か・・・した?」

「・・・いいえ・・・・・・私こそ・・・・・・騙すような真似を・・・・・・・・・」


 クラウザーは驚いて心配する美濃をきつく抱きしめた。
 更に驚く彼女を腕の中に感じながら、彼は理由も言わないまま何度も彼女に謝罪の言葉を繰り返している。


「・・・騙すって? 何を・・・」

「いいえ・・・っ、・・・いいえ・・・」


 彼は首を振り、おろおろする美濃の様子に胸が痛み、“恥ずべき行為”を強行した自分の愚行に激しい後悔が責め立て、彼女の顔をまともに見ることが出来なかった。



 それは心底“恥ずべき行為”と言うに相応しい、愚劣な行為と言えた。



 実際、美濃の感じた強い違和感というのは非常に正確な捉え方で、事実クラウザーは彼女の瞳を単に見つめていたわけではない。

 ・・・・・・その奥にあるものを、本当に覗き見ていたのだ。



 誰しも振り返りたくない過去のひとつくらいはあるに違いない。
 しかし、どんな理由を並べたてたところで、それを盗み見るなど本来赦される行為ではない。

 頭ではそれがいけない行為だと分かっていたつもりのクラウザーだったが、彼女の中にあった震える程の大きな闇を覗き見た瞬間、初めてこの行為が絶対に赦されるものではないのだと、心の底から断罪されたような衝撃を味わっていた。



 ・・・このような惨劇・・・・・・詳細など求めたところで彼女が語れる筈がないではないか・・・・・・ッ



 自分の身に降りかかった事ではないというのに、恐怖と絶望に支配されゆく当時の彼女の感情に引きずられていくのが止められない。
 ほんの数秒覗き見る程度で見えた、堪え難い苦痛。


 宮殿へと繋がる道を作る稲妻・・・
 衣装箪笥の中で聞いた信じがたい会話・・・姿の消えた母・・・窓から見た悪夢の光景・・・

 そして常軌を逸する程の執拗な・・・・・・



 ・・・・・・あぁ・・・・・彼はどうしてこんな事が出来たのか・・・・・・





「・・・クラウザー?」



 どうして彼女はこれ程の深い闇を抱えながら自分を無くさずにいられたのだろう。
 折れてしまいそうな瞬間は、計り知れない程訪れただろうに・・・・・・


 私は・・・この恥ずべき行為で、いつか罪に殺される日が来るのかもしれない。

 だが、このような事実を知りながら、揉め事に巻き込まれたくないと何もせず国に帰る事の方が大罪に値するのではないのか?



 彼は罪に苛まれる一方、そんな風に考えていた。



 そして今、この瞬間以外に、彼女がこの檻から出る機会が無いのであればと。





「・・・・・・誰に縛られることなく、自由に飛んでいけたらと・・・・・・思った事はありませんか・・・?」


「・・・・え?」


「・・・それとも、一度もそんな風に思ったことはありませんか?」


「・・・・・・・・・」



 美濃は不思議そうな顔をしてクラウザーを見返した。
 だが、彼の問いに少し考えるように俯いて、そして一拍置いてから悲しそうに微笑んだ。




「・・・・・・・・何度も・・・思ったよ・・・・・・」




 クラウザーは静かに頷き、もう一度美濃を抱きしめた。



 あぁ、とても彼女を放ってはおけない。
 こう思うのは感情に引きずられただけだろうか、いじらしく笑う顔を見てしまったからだろうか。


 だが、それの何が悪いのだ・・・



 彼は美濃の手をとり、このまま彼女を自分の祖国へ連れ帰ることを心に決めたのだった───











最終話へつづく


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