『約束』


○第1話○ すべては突然起こるもの(前編)







 ───オレが持っているのは、鮮やかなあの日々の思い出だけ。


 一人歩き続ける長く暗い日々の中、ただ彼女との約束にしがみついて生きてきた。


 気が遠くなるほどの命も、強靱な身体も、特別なチカラもいらない。


 だから、あの頃のように、もう一度。


 どうか彼女に会わせてください・・・───














▽  ▽  ▽  ▽


***** 高校二年・初夏 *****


「美久(みく)、どこ行くの〜? お昼は?」

「今日は場所変えるから、私の事は気にしなくて良いよ」

「彼氏できた!?」

「できてなーい」


 教室を出ようとしたところで女生徒に呼び止められ、苦笑いを浮かべながら小さく手を振って廊下に出ていく。
 ざわついた廊下に足を踏み出した途端、美久はほっと息を吐き出した。

 女の子同士の会話は男の子の話ばかりで、時々すごく疲れる。
 好きな人の話をしている彼女たちはとても可愛いと思う。
 けれど、延々と続けられるその話をどんな顔をして聞けばいいのか分からず、会話に加わるのも苦痛になってしまう時があった。

 私の頭の中も好きな男の子でいっぱいだったら、きっと毎日が楽しいだろうな・・・

 ふぅ、と、ため息を吐く。
 出ない答えをあれこれ考えたって仕方ない。
 今日は快晴で風も穏やかだ。
 こんな日は、気分転換に屋上に行って、ひとりでゆっくり昼食を摂ると決めているのだ。


「・・・あ、気持ちいい」

 屋上のドアを開けた瞬間、爽やかな風が吹き抜け、気分を一新させる。
 空を見上げると電線も建物も障害物はなにもなくて、ただ広い青が広がっている。
 見えるもの全てを独り占めしているようなこの開放感は格別だった。


「・・・・・・・・あ」

 と、よく見れば制服を着崩した男子生徒が一人、屋上の真ん中で寝ころんでいる。
 誰かは分からないけれど、ドアが閉まる音が聞こえても微動だにもしないので、もしかしたら眠っているのかもしれないと思った。

 どうしようか・・・

 屋上には誰でも来られるから先客がいることはあるけれど、実際はほとんど人の往来はないので、こういうのは何となく気まずい。
 かと言って、別の場所を探すのも面倒だし、今更教室に戻る気にもなれなかった。
 どうせ寝ているのだから、食べたらすぐ戻ればいいだけだと思い直し、眠りを邪魔しないよう静かに歩いて、彼と少し離れたところでお昼にすることにした。
 弁当箱を広げ、おにぎりを一口頬張る。
 続けて出汁巻き卵を口に入れると、じんわりとダシが広がって思わず顔が緩んだ。

 けれど、・・・ごくん、と、おかずを飲み込んだところで、


「───・・・、・・・・・・美久・・・?」


 不意に名前を呼ばれたのだ。


「・・・・・・はい?」

 反射的に返事をしたが、よくよく考えて首をひねる。
 何故なら、ここにいるのは自分と、そこで寝ている男子生徒だけのはずで・・・

 バチリとかち合う視線。
 さっきまで寝ていた彼が、寝ぼけ眼でぼんやりと美久を見ていた。

 あれ・・・、この人って確か・・・・・・

 美久はそこで男子生徒が誰なのかが分かった。
 噂話には疎い美久だったが、クラスの女子が頬を染めながら彼のことで騒いでいるのを何度も目にしたことがあるのだ。
 しかも、彼を知らないと言ったらそのクラスまで連行され、扉の向こうから初めて彼を見て、皆が騒ぐのもわかるなぁと納得したこともあった。
 おまけに皆があまりに騒ぐから、ついにはフルネームをしっかり憶えてしまったほど。
 確か、名前は牧口レイ(まきぐち れい)・・・そういえば、ハーフとか・・・そんな話も聞いたような気もする。

 噂で聞く牧口レイという人物は、とても無口で親しい友人を作ろうとせずに、基本が単独行動らしいということ。
 間違っても、ほぼ初対面の人間に自ら話しかけるような人物ではないらしい。
 全てが噂話で構成された自分の牧口レイ情報がなかなか詳しいのも何だか虚しい気もするが、その話からすると、今、目の前にいる彼が何だか別人に思えて来るのは変だろうか。
 美久は彼と話した事がなければ同じクラスになったこともなく、選択科目で授業が同じになったこともない。
 行き帰りの電車の時間が同じ・・・ということも多分・・・ないはずだ。
 つまり、彼とは何一つ接点が無く今日まで過ごしてきたのだが、・・・ならば今、名前で呼ばれたのは、もしかして空耳だったんだろうか?
 それに、実際に見るレイは、聞いたイメージとは少し違う気がした。
 最初はちょっと驚いた様子で目を見開いていたのだが、次第に興味津々といった感じで美久を見ているのだ。


「・・・牧口くんはごはん食べないの?」

 その視線に何となく居たたまれなくなって話しかけてみた。
 彼は少し驚いたように目を見開く。


「オレのこと、知ってるの?」

「・・・それは・・・、うん」

 有名人だから・・・と言うのも変なので、とりあえず小さく頷くと、目をパチパチ瞬かせて『ふ〜ん』と呟いている。
 それから何を思ったのか、怠そうに起きあがって此方へ近づいてきた。
 ただ歩いているだけのその姿に、ドキッとする。
 彼はとても背が高く、長い手足がゆったりと動き、独特の雰囲気を感じさせるその姿が一枚の絵のようで思わず魅入ってしまった。
 美久はそんな自分にハッとして、誤魔化すようにおにぎりを一口頬張る。

 ・・・なんか・・・・・・緊張する人だな・・・
 騒がれる人っていうのは、オーラがあるものなんだね・・・

 いつの間にか目の前に座り込んだレイは、美久が食べている様子を熱心に観察している。
 特に会話があるわけでもなく、別段親しいわけでもない相手を前にしての食事は、はっきり言ってかなり気まずい。
 困惑しながら彼をチラリと見ると、見た事もない瞳の色をしていてドキッとした。
 今まで遠くから見ただけだったから気づかなかったけれど、ややブルーがかったようにも見えるその瞳は角度によって色を変え、驚くほど綺麗に瞬いて、とびきりの宝石でも入っているようだった。
 一瞬でその瞳に釘付けになってしまい、再び我に返った美久は、こんなに熱心に食べるところを見ると言うことは、実はもの凄くお腹が空いているのではないか・・・と、慌てて発想を切り換え、サッとおにぎりを差し出してみた。


「・・・・・・た、食べる?」

「いや、見てるだけで充分」

「・・・・・・」

 意味が分からない。
 お腹が空いてないならじっくり観察するのを止めて欲しい・・・美久は小さく息を漏らした。


「・・・もしかして、からかってるの?」

「どうして?」

 レイは僅かに首を傾げる。
 からかってるわけじゃないとしたら何だというのだろう。
 美久が俯くとその拍子に長い髪が流れ落ち、レイはそれを一束掴むと陽に透かして目を細めた。


「美久は、あんまりこっち見てくれないね」

 今、普通に名前で呼ばれた。
 先ほど呼ばれたのは気のせいじゃなかったようだと、改めて驚く。


「・・・牧口君、私のこと、知ってるの?」

「綺麗な髪だね・・・」

 質問には答えず、彼は持っていたままの髪の束にキスをする。
 恋人同士でもやらないかもしれない行為に、吃驚して固まってしまう。


「・・・ねぇ、美久は小田切の事が好きなんでしょ?」

「えっ!?」

 言いながらチラリと視線を向け、彼はもう一度美久の髪に唇を寄せる。
 頭の中が真っ白になった。

 『小田切』───それは密かに想いを寄せている相手だ。
 しかし、誰にも、友人にも言っていない話を、何故レイが知っているのかと、美久は怪訝に眉を寄せた。


「・・・あの・・・っ、どうしてそれを知ってるの?」

 思いの外狼狽えた声に、彼は一瞬悲しげな表情を浮かべる。


「美久は小田切を手に入れたいって思わない?」

「・・・てっ、手に入れるっ!?」

「ちがうの? 好きだったら欲しいって思うよね?」


 欲しい・・・って・・・
 あまりにダイレクトな表現で顔が熱くなるのが分かった。


「欲しいとかは・・・別に」

「どうして?」

「どうしてって・・・」

 そう言われても欲しいとか、そういう言葉はピンとこない。
 そもそも、彼には恋人がいるのだ。
 その恋人が出来るより前から彼には憧れていたけれど、行動を起こさなかったことを悔やんではいない。
 欲しいとか欲しくないとか、実際はそんなふうに想うほど彼に傾倒していたのかすらよくわからない小さな感情だった。
 何となく自分のこういう所は変だと美久も思っている。
 けれど、美久は小さな頃からそうで、執着するほどの強い感情を誰かに抱いたことは一度もなかった。


「オレが二人を別れさせてやろうか?」

「えぇっ!?」

 美久は心底驚いて目を丸くした。

 ・・・彼はいったい何を言ってるんだろう。
 二人を別れさせる? どういうこと?


「何で牧口くんがそんなことをする必要があるの? 私たち今日初めて喋ったばかりじゃない」

「・・・・・・、・・・・・・うん」

 彼は「そうだね」と言って、その澄んだ瞳を悲しそうに揺らして黙り込んでしまった。
 何か・・・・・・酷いことを言ってしまったのか、分からなくて言葉に詰まる。


「えと・・・どうして・・・そんな顔するの? ・・・だって、これは私の問題でしょう? それに、二人を別れさせたいとか、そういう気持ちはないんだ。だから欲しいとか・・・そういうのもよく分からないし、どっちにしても行動しなかったのは私で、当たり前の結果だと思ってるんだけど」

「・・・ふぅん・・・」

 思うのは、悲しいとか悔しいとか先を越されたとか、そういう感情じゃなくて、どうしてこんなに平然としてるんだろうと、実はそっちの方が気になっていた。
 クラスの子がする男の子の話にも共感を持てなかったし、聞いているのも苦痛になる時さえある。
 小田切のことを彼女たちの話に重ね合わせてみたこともあったが、自分のは彼女たちとは違うのかもしれないと思うほど、心が躍るような感情とは違うようにも思えた。


「・・・・・・私、一年の時に電車の中で痴漢に遭って、小田切くんに助けて貰ったの。駅のホームで呆然としていたら『もう大丈夫だよ』って笑った顔にすごく安心して・・・、でも私は見ているだけで充分だったから・・・・」

 その一件がきっかけで小田切に憧れるようになり、その後も時折見かける彼に何となく好意を寄せていたのは事実だった。
 最初は助けてくれた人だと目で追って何となく見ていただけだったが、時折、目がなくなってしまう彼の人懐こい笑顔を見ると、胸の中がほんの少しあったかくなる気がして何だか楽しかった。
 だからそれが好きということだと思っていたのだが・・・


「案外簡単なんだ」

 風に流されるくらいあっさりと言われて、目を見開く。
 一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。


「たったそれだけで、好きになれちゃうの?」

「・・・そ・・・・それはそうかもしれないけど・・・・・」

「それが"好き"? ただ眺めてるだけ? 当たり前の結果ってなに? ・・・馬鹿馬鹿しい、美久は本気で誰かを好きになったことがないだけだろ」

「・・・っ! そんなことないっ!」

 痛いところを突かれ、ムキになって言い返す。
 だけど、本気かそうじゃないかなんて、今日喋ったばかりの彼に言われたくなかった。


「だったら相手の全てを欲しいと思うくらい揺さぶられた事はあるのか?」

「変なこと言うのはやめて。そんなの思うわけない、牧口くんの基準と一緒にしないで・・・っ!」

 全てを欲しいなんて、そんなことを平気で口に出せる神経が信じられない。


「じゃあ言うけど、痴漢から救ってくれたのが別のヤツだったら? 相手がオレだったら? オレを好きになった?」

「・・・・・・それは・・・」

「もう大丈夫だよって笑えばいいの? それだけで誰でも簡単に好きになれるわけだ。美久が言ったのはそういうことだよ」

「・・・ッ、・・・・・ちがう・・・」

「そうだよ。美久は違う。・・・知ってるよ、そんなことで誰かを好きになったりしない筈だ」

「・・・・・・え?」

「・・・・・・約束・・・・・したくせに・・・」


 ───約束?


 何のことを言っているのか分からなくて、思考が止まる。
 けれど、その瞳はあまりに真剣で、とても人をからかっているようには見えなかった。











中編へ続く


<<BACK  HOME  NEXT>>



Copyright 2005 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.