『約束』

○第10話○ 深紅の瞳と歪んだ命数(その5)







 鬱蒼とした森を抜けると、そこには巨大な建物が存在を主張するように建っていた。

 ───・・・・・・何だここは・・・。

 レイは立ち止まり、その建物を見上げる。
 バアルの巨大な要塞とも言うべき宮殿と比べれば規模はかなり小さいが、立ちこめる空気があまりに異質なのだ。
 周囲を見回し、此処以外に建物が見当たらないことに眉をしかめる。
 黒髪の男の気配を辿っている間も、この土地には目につくような建造物が何一つ無かった。
 天変地異、原因不明の病、それが此処が滅亡した原因と聞いていたが、それだけではないだろうというのが今のレイの漠然とした感想だった。


「こんな大きな建物だったんだ」

 美久を抱きかかえたまま正門と思われる場所に足を踏み入れると、彼女は目の前の建物を見上げてそう呟いた。
 彼女はこの場所が何であるかを知らないのか・・・そう思いながら無言で見つめると、美久は何か言いたげな表情を見せる。
 それを問いかけるつもりで口を開こうとしたが、『あ』と前方を見据えて小さく発した美久の声に反応して、レイの意識も視線の先へ向かった。
 入り口の前にゆらりと佇む長身の影がひとつ。
 殆ど日が沈んでしまい、辺りは薄暗くなっているにも拘らず、そこだけ別の空気が流れているのがよく分かる。
 白い装束が風に揺れ、長い黒髪がゆらゆらと靡き、紅い双眸が真っすぐ此方を見据えていた。
 レイは多摩の傍まで足を進めると、無言で立ち止まり敢えて対峙する。
 その神経を尖らせている様子に、多摩はどういうわけか可笑しそうに口元を綻ばせ、身を翻してすぐ傍の大きな扉に手をかけた。


「・・・中へ入れ」

 ギ・・・という鈍い音と共に扉が開き、多摩が先導しながら中へ足を踏み入れる。
 後に続くレイは数歩足を踏み入れた所で、抱きかかえていた美久を降ろすかわりに彼女の手を取り、薄暗い建物の内部に目を懲らした。
 広い建物の中、背の高い多摩がひとり佇んでいるだけで、先ほどまで一緒だった美濃の姿はなく、周囲を見回しても人の気配は他にはないようだった。
 多摩は二人が中に入って来た事を確認すると、着いてこいと謂わんばかりの目をして先に行ってしまう。
 その背中に敵意は感じられず、レイは美久の手をひきながら後を着いていくことにした。
 そして、そのまま後を追うと大きな広間にたどり着き、部屋の中央まで足を踏み入れた所で多摩がゆっくりと振り返る。


「・・・・・此処を使え。奥に寝室もある、不自由はないだろう」

 そう言うと、彼は部屋の扉の前に立つレイと美久を交互に見やりながら僅かに眼を細める。
 何を考えているのか、その表情からは読み取ることは出来ない。
 恐ろしく整った顔立ちは精巧な人形のようでもあり、ルビーのような紅い瞳に宿る底知れぬ輝きに射抜かれると思考停止してしまいそうになる。


「オレたちに話があるんじゃないのか?」

 息を潜めている美久とは反対に、レイは全く動じていない様子で話しかける。


「話は明日以降で構わぬ。・・・無論、それまでに此処を去るも留まるもおまえ達の自由だがな」

「・・・へぇ。・・・・で、その話を聞く事で、オレ達に何かメリットでもあるのか?」

 多摩は口元を僅かに緩ませ、足音ひとつ立てずに一歩二歩と此方に近づいてくる。
 緊張の糸が部屋中にピンと張り巡らされて、美久は自分の鼓動が聞こえてきそうな異様なまでの静けさの中、喉を鳴らした。
 ゆっくりとすぐ傍まで近づいた多摩は、レイの顔を不躾なまでに見つめている。

 そして・・・


「おまえ達は知るだけだ」

「・・・?」

「その娘に起こっている現実と、そうなった必然というものをな」

 レイはピクリと眉を震わせた。
 その娘・・・美久に起こっている現実、それだけで無視できない内容だった。
 そんなレイの心情を知ってか知らずか、多摩はそれ以上は口を閉ざして横をすり抜けていく。
 白装束の衣擦れの音だけがやけに響き渡り、真っすぐに伸びた背が部屋を後にしようとしていた。
 美久は咄嗟に一歩だけ足を踏みだす。


「あ、あの・・・っ、美濃ちゃんは」

 声に反応して、一瞬だけ多摩が立ち止まった。


「・・・・・・もう眠っている。昨日からやけに張り切っていたから疲れたのだろう」

 そう一言だけ残し、彼は暗い廊下の奥へと姿を消してしまった。
 広間に残ったレイと美久は少しの間無言だった。
 だが、その重い空気を断ち切るようにレイは部屋の中を歩き回り、更に奥に続く扉を開けて中を探っている。
 それから窓の外を眺め、完全に日が落ちた事で部屋の中がかなり暗いと気づいたらしく、広間の入り口に掛かっていたランプを手に取り、ランプの周りを指で小さく撫でるような仕草をすると、音もなくアルコールに火が灯り、やんわりとした明かりが部屋の中を照らした。
 美久はそれがとても幻想的な光景に思え、ランプの灯りの中心にいるレイの姿を追いかけるようにじっと見つめていた。
 手が届く場所に彼がいる。
 なんだか夢を見ているみたいだ。
 思う程日数は経っていないはずなのに、もう何年も離れていたみたいだった。


「美久?」

 名を呼ばれて我に返る。
 無意識にレイを追いかけて彼の腕を掴んでいたようで、そんな自分の行動に驚いた。
 レイは静かに笑みを浮かべた。
 そんな表情ひとつで胸が締め付けられて苦しくなる。


「・・・・・・どうした?」

「・・・ううん」

 大丈夫、大丈夫、これは夢じゃないと、何度も自分に言いきかせる。
 もう突然いなくなったり、連れ去られたり、そういうのは二度と起こらないでほしいと心の底から願った。


「美久、・・・こっちにおいで」

 そう言ってレイは美久の背中に腕を回して、広間の奥に続いている部屋に誘導する。
 言われるまま入った部屋には、大きなベッドが中央にひとつと、その横に小物を置く程度の小さなテーブルがあるだけだ。
 どうやら此処が寝室らしい。


「今夜はもう休もうか」

「・・・・・・え」

 レイを見上げるとランプの灯りで彼の横顔がセピア色に染まっている。
 何となくその顔に見とれていると、そのままベッドまで誘導された。
 彼は木彫りのテーブルの上にランプを置いて美久を振り返り、静かに微笑んでいる。

 休む・・・って・・・・・・
 それって、つまり・・・一緒に眠るってこと、だよね・・・?

 突然目の前に突きつけられた現実に、心拍が異常な速度で脈打ち始めていた。


「美久」

 呼ばれただけで、一際大きく心臓が跳ねる。
 肩にレイの手が触れ、どんどん美久の緊張は激しさを増していく。
 だが、そんな動揺を他所にレイの表情に変化はなく、少しの沈黙を置いて肩に触れた手はあっさりと離れた。


「・・・・・・あまり厚着で寝ると寝苦しいだろうから、程々に脱いだ方が良いよ」

「・・・えっ」

「オレは向こうにいるから、何かあったら呼んで」

「・・・っ!?」

 そう言うと、レイは美久の傍から離れていく。
 姿勢の良い大きな背中が遠ざかり、途轍もない喪失感と焦燥に駆られた。
 どうして彼が離れていくのか理解出来なくて、美久はその背中に追い縋るように声を掛ける。


「ま、まって・・・っ」

 声に反応して、レイが少しだけ振り返る。


「どうして行っちゃうの・・・?」

「・・・・・・?」

 美久の言葉に対し、とても意外そうにレイは少しだけ首を傾げている。

 なんで? ・・・レイがよく分からない・・・。
 私ひとり残して、まさかレイは向こうで眠るつもりなんだろうか。


「だって・・・やっと会えたのに、・・・どうして・・・?」

 彼はじっと美久を見つめている。
 無言のまま時が流れ、それを少し苦痛に感じていると、レイは再び此方に足を向ける。
 同時に先ほどのような緊張も戻ってきて心臓が騒いだ。
 目の前でレイの瞳が静かに瞬き、視線が重なった。
 大きな手が頬に触れるか触れないかの所で一旦とまり、少しだけ躊躇するように空を彷徨ってからやんわりと触れられる。


「・・・・・・っ」

 ぴくん、と肩が震える。
 先ほどより心臓がうるさく騒いで、ドクン、ドクンと音が聞こえてくる。
 レイの指は頬を滑り、ゆっくりと唇を撫でたが、そこまで触れたところで美久は微かに溜め息のような音を耳にした。


「・・・・・・やっぱり、・・・向こうに行く」

 そう言うと、触れていた指がまた離れていく。
 やはりレイがおかしい。
 一体、彼は今、頭の中で何を考えているんだろう。
 これまでそんなふうに離れていくようなことはなかったというのに。


「美久?」

 気づけばレイを離すまいとして、彼の腕を両手で強く掴んでいた。
 絶対に離してはいけない気がしたのだ。


「・・・、・・・・・・、・・・・・・だったら、・・・私も向こうに行く」

 懸命に言葉を探して、声を絞り出す。
 なのにレイはどこか困惑した顔をしていて、それが伝わってくるから手が震えてしまう。
 迷惑だと思っていたら・・・そう考えるとすごく怖かった。


「あまり近づきすぎるのは、・・・暫くはやめよう」

 拒絶の言葉にびくんと肩が震え、手の震えが大きくなる。
 本当にレイが何を考えているのか分からない。
 やっと近づいたと思ったのに、今度は突き放される。


「ど、どうして・・・近づいちゃだめなの?」

「だって・・・オレに触れられるの、怖いだろう?」

「・・・・・・え?」

 思わぬ言葉に思考が止まる。

 ・・・レイに触れられるのが・・・、怖い?


「どうして?」

「・・・どうしてって・・・・」

「・・・・・どうして私がレイに触れられて怖いと思うの?」

「だって、どう見てもさっきから怖がってるだろ。あんな事があってまだ日が浅いんだから、それくらいオレにだって分かるよ」

 美久はレイの言葉に愕然とした。
 彼はあの学校での忌まわしい出来事を気にかけて、わざと距離を取ろうとしていたのだ。
 まさかレイに触れるたびに身体が強ばってしまうのを、そんな風に受け取られていたなんて考えもしなかった。

 だったら余計にだめだ。
 此処でひいたら、もっと距離が出来てしまう。
 レイの手は彼らとは全然違う、そう思っていることを彼に理解してもらわないと駄目なんだ。
 たぶん・・・私たちに絶対的に足りないものは、思っていることをちゃんと言葉にして伝えていないことだ───


「此処に来るまでの間、私はずっとレイに抱きついてたよ? 私の意志でレイに抱きついてたの、分かってるよね?」

「それとこれとは・・・」

「違わないよ。・・・だって、今、私がレイに触れられて震えるのは、あの時の事を思い出したからじゃないもの」

「・・・・・・?」

「・・・だから、・・・その、・・・っ、前に触れられた時のことを思い出して、ひとりで勝手に緊張してるだけで・・・」

「・・・え?」

「クラスの男の子にあんな事されて・・・、レイがそうやって気遣ってくれるのは嬉しいよ。・・・・・・だけど、あの時の私の頭の中は怖いって感情以上に、レイじゃなきゃ嫌だって思ってた。・・・レイはちゃんと来てくれたじゃない、助け出してくれたでしょう? なのに、どうして自分を責めるの? 私にはどうやっても悪いのがレイだなんて、そんな風には考えられない。・・・もし今の私がレイを怖いって思うなら、好きだからだよ。好きな人が一番怖い、レイが傍にいないと怖くて堪らない、避けられるのはもっと怖いよ・・・やっと会えたのに、距離を取ろうなんて・・・そんなのいやだ・・・っ」

「・・・美久」

 レイは美久の言葉の一つ一つにとても驚いているみたいだった。
 彼はこんな風に美久が考えているなんて想像もしていなかったのだろうか。


「・・・私はレイに会いたくて此処にいる。なりふり構わず追いかけたのは私だよ?」

 レイの手を取り、美久は彼の手のひらに額を押しあてる。
 とても暖かい。
 目の前から彼が消えたとき、死んでしまうんじゃないかというくらい弱々しくて怖かった。
 二度と会えなくなったらと思うと足が竦んだ。
 だから今、生きて目の前にいて触れられるのが嬉しくて、もう離れたくないと思ってるのに、レイが違う考えだったらすごく悲しい。
 たぶん、自分たちにはこの気持ち以外に繋がっていられるものがない。
 どちらかの心が離れた時点で壊れてしまう脆いものなのだ。
 本来はそれくらい交わりのない関係なんだろう。
 だとしても・・・


「・・・レイが好きだよ、こんな事ですれ違いたくない。もう、なくしたくない」

 レイの手のひらに頬を寄せる。
 この想いが触れた場所からレイの身体の奥まで染み込んだらいいのに。
 そうやって、彼の心の中まで抱きしめられたらいいのに・・・。


「どうしたら、レイに伝わる・・・?」

「・・・・・・」

「・・・足りないなら・・・もっと好きになるよ。そう思ってるのが伝わるくらい、レイのこと考えるよ」

「・・・・・・」

「だから、もう離れていかないで。私を残して自分だけどこかへ行こうとしないで」

 レイは小さく喉を鳴らして、僅かに唇を震わせていた。
 それから、自分の手のひらに頬を寄せたままの美久の額にキスを落として、一体何枚着込んでいるか分からない着ぶくれた彼女の身体を抱きしめる。


「美久は、ばかだ。そんな事言われたら際限なく欲が出るんだ。・・・意味分かってる? 今だってどうしようもない事ばかり考えてるのに、分かってないだろ」

「・・・ばかでいいよ。レイ限定なら」

「・・・っ、・・・じゃあ、・・・・オレが何を望んでも、どんな無茶な要求をしても、一緒に溺れて同じ場所に堕ちてくれるっていうのかよ・・・っ」

「・・・・・・レイ」

「ほら、またこうやっておかしな事ばかり口走る。オレの頭の中なんてこんなことばかりだ・・・」

 そう言って自身の言葉に溜息を吐きながらも、抱きしめる腕の強さに美久は目眩がした。
 どうしよう・・・レイが感情的になればなるほど、くらくらしてくる。
 もっと心の奥底にあるものをぶつけてほしいと思ってしまう。
 美久は彼を見つめながら小さく頷いた。


「・・・溺れそうなら手を引っ張っていいよ」

 そう言うと、レイはごく・・・と、もう一度喉を鳴らす。
 これまでかなり一方的な感情をぶつけてきた自覚が彼にはあるのだ。
 だから流石にこれは甘やかし過ぎだろうと思ったが、美久の声がとても甘くて、眼差しが温かい。
 嘘ではない、そうして構わないと言われていることに、ぶるっと全身に震えが走る。
 これは遠い昔、傍にいてくれたあの少女といたときのような感覚に似ていた。
 やはり彼女の中には確実に同じ心が流れている・・・、たとえ全てを忘れてしまったとしても。
 レイは唇を震わせ、美久の耳元に唇を寄せて小さく囁いた。


「・・・触ってもいい?」

 その言葉に美久は身体を少しだけ強ばらせたが、一拍置いてぎこちなく抱きつく。
 彼女の腕はかすかに震えていたけれど、恐怖から来るものではないという言葉の通り、美久の瞳は僅かに潤んでいた。


「・・・・・・レイの好きにしていいよ」

 消え入りそうな声で、耳まで真っ赤にして美久は頷いた。
 同時に彼女の心臓の音がレイの身体に響いてくる。
 音だけではない、振動が伝わるくらい彼女の胸を激しく叩いていて、そんなにも自分の存在が彼女の心を動かしているのかと思うと堪らなくなった。


「・・・あっ」

 レイは美久の身体を少しだけ抱き上げるとベッドに座らせ、すぐさま何枚も着込んだ美久の着衣を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
 着物にも似たそれを脱がせることはそれほど難しい事ではなく、肌に触れている最後の一枚に手をかけるまで、そう時間はかからなかった。










その6へつづく


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