○第11話○ 誘惑する香気(その1)
くっきりとした三日月が夕暮れの西の空に姿を見せていた。
レイは未だぐったりと意識を手放したままの美久を腕に抱えたまま、格子の向こうに見えるその月を巨大な浴槽に浸かりながらぼんやりと眺めていた。
時折美久が身じろぎをするので、都度彼女の身体が湯の中に沈まないよう抱え直す。
とてもゆったりとした時を過ごしながら、レイは額に張り付いた彼女の長い髪を指で梳き、ほんのりと上気した頬にそっと唇を寄せる。
こんなに長く美久に触れたのはいつ以来だろう・・・
唐突にそんな事を考えてしまう程、ここは静かだった。
そうして暫し過去に思いを馳せたが、遠い記憶からは何も導きだされない。
もしかしてこれが初めての事なのかと思い至ると少しだけ複雑な心境になった。
そして、柔らかい手に自分の手を重ね、大きさの違いに驚きながらそのまま腕を伸ばし、長さの違いにまた驚き、自分はこんな事も知らなかったのかと眉を寄せる。
美久の肩・・・思ったより細いな・・・こんなに身体が柔らかかったか・・・?
少し力を入れて抱きしめてみると、自分の身体に彼女の肌が密着して気持ちがいい。
あまりに心地よくて、気を抜くと抱きしめ潰してしまいそうだ。
「・・・・・・ん」
苦しかったのか美久が小さくうめき、ハッとして力を弱める。
顔を覗き込み、再び穏やかな寝息へと変わったのを見て小さく笑った。
まだ起きそうにない。
ふっくらした唇を指の腹でなぞりながら、レイはもう一度夕暮れに浮かぶ三日月を眺めた。
確かに乾の言う通り、此処は立派な湯殿だ。
見渡す限り平地ばかりが広がって山並みらしきものさえ無い土地だが、恐らくこれは温泉なのだろう。
一度に何十人と入っても問題なさそうな巨大な浴槽の中央には噴水が有り、そこから新しい湯が出ていて、増えすぎた湯は四方の角の隙間から排出される仕組みで、一定以上溢れる事はないようだ。
全体的に白い壁は上から三分の一程度が木製の格子になっていて、空を眺められるようになっている。
まるで温泉地に旅行にでも来たような錯覚を憶えるこの雰囲気は、美久の生まれたあの世界に何となく共通するものを感じて色々な事を思い出させた。
───貴人はどうしてるだろう
つい数日前までいたあの場所を思い、最初に浮かんだのは貴人だった。
結果的に何も告げずに出て行ったまま、誰も帰ってこない家にひとり貴人は何を思って過ごしているのだろう。
美久を連れて行かせない為に記憶まで奪ったくらいだ・・・そう簡単に諦めるとは思えない。
だが、何かがあったと察したところで彼に何が出来るのか。
此処は既に貴人の手が届く場所ではないのだ。
レイはそこまで考え、自分が思っていたのとは違う状況で美久を彼から奪ってしまった現状に胸の奥がチクリと痛んだ。
そんな生易しい感情があったという自分自身に少し驚きながらも、『認めさせろ』と言った貴人の言葉を思い出す。
葛藤はあったにしても、最終的に彼は受け入れようと心を砕いて見せた。
自分でもこんな事を考えるのは変だと思うが、そんな彼の元に美久を戻してやりたいと思っている自分が少なからずいる。
レイ自身も貴人と過ごすことを不思議と受け入れていた。
・・・いや、違うな。そうじゃない。
"オレが"貴人の作り上げたあの空間を心地よく感じ始めていたんだ。
しかし、そう思う一方で、それが到底不可能なことだとレイにも分かっていた。
想像力を少し働かせればわかることだ。
クラークたちはレイが戻った瞬間に捕まえられるよう網を張っているだろう。
下手な動きを見せればまた彼らの手に落ちるだけだ。
そのうえ、今は優先して考えなければならないことが他にある。
多摩の言葉を全て真に受けたわけでは無いが、美久の身体が本当に何らかの変化をしているなら早急に見定めなければならない。
本当に此処の人々と同じ物を口にしたのか、もし口にしたとしてそれがどう影響を及ぼすのか。
多摩は美久をはじまりの形とは言ったが、彼らと美久が同じであるとは言っていない。
ならば彼女は今、どういう状況なのか・・・。
オレが美久を抱いたのはまだ数える程度。
性行為によって何らかの影響を与えたというなら、無理に抱いてしまった最初の時からということになる。
今まで見ていた限りでは、食事はおろか日常の生活で変化があったようには思えなかった。
それとも変化は徐々にやってくるものなんだろうか?
例えば性交を重ねる度に影響も目に見えるように大きくなっていくとか・・・。
考えたところで結論が出る話ではない。
兎に角今は美久を注視していくことしか・・・・・・
レイは美久の身体をもう一度強く抱きしめ、彼女の肩に顔を埋め目をとじた。
「・・・・・・ん、・・・・・・レイ・・・?」
脱衣室に戻ったところで美久の意識は戻った。
微睡みから抜け出したばかりの眼でとろんとレイを見上げ首をかしげている。
レイは小さく笑い、彼女を近場に置かれた椅子に座らせると、乾が用意してくれた布で濡れた身体を丁寧に拭っていく。
最初は黙ってそれを見ていた美久だったが、次第に意識がはっきりし始めたらしく、互いに裸であるということに気づくと顔を真っ赤にして小さな悲鳴をあげた。
「なっ、・・・なんで・・・?」
さっと自分の身体を両腕で抱きしめ、これがどういう状況なのかとぐるぐる考える。
そして、全身ぽかぽかで湯気が立っている事から、もしかして二人で風呂に入っていたのだろうかと思い至ったようだ。
「レイが・・・入れてくれたの?」
恐る恐るといった様子で美久はレイに問いかける。
「そうだよ、どうして?」
「う・・・、その、あの・・・・私、汗たくさんかいて汚かったから・・・・・」
「そう?」
「そ、それだけじゃなくて・・・その、色々と・・・・・・」
美久は何やらごにょごにょ言っていて、レイが風呂に入れてくれたという事にかなり動揺しているようだ。
けれど、一体なにを動揺することがあるのかよく分からないレイは最初、『洗い残しは無いはず』等と考えていた。
しかし、ふと、美久が何に対して拘っているのか、ひとつだけ思い当たることがあったようで、にっこりと笑いながらこう言った。
「大丈夫、精液なら全部掻き出して綺麗にしたから」
「・・・っっっ!!!!」
「何度もしたから、溢れて気持ち悪かったろ?」
「っっっ、〜〜〜っ」
「ああ、こういうの美久は恥ずかしいのか。・・・もう今さらかと思ってた」
そう大した事ではないのにといった様子でレイは苦笑している。
確かにあれもこれも見られた後なので今さらといえばそうかもしれないが、意識の無い間に見られるというのは普通に見せるより恥ずかしい。
そんな美久の女心は彼には分からないようで、掻き出したなどと言われて、美久は更にダメージを負った気分だった。
「じゃあ、次は美久がオレを洗っていいよ」
「!?」
あっけらかんと言われ、グッと言葉に詰まる。
一体レイの羞恥心というのはどこにあるんだろう・・・自分との感覚の違いに美久は戸惑うばかりだった。
「ところで、美久。・・・・・・最近、いつもと違うと思うようなことってある?」
「え?」
「体調がおかしいとか、それ以外でも何でも」
突然真剣な眼差しでそんなことを聞かれ、美久は僅かに首を傾げる。
しかし意図がよくわからない質問だったため、とりあえず聞かれた事だけを漠然と考えて答えた。
「特に・・・ないと思う」
「そう」
「うん」
美久が頷くとレイは大きな布を頭にふわりと被せ、ちょこんと触れ合うだけのキスをしてきた。
「いつまでもこのままだと風邪引くから。はやく着替えよう」
「あ、うん」
レイはそのまま立ち上がって今度は自分の身体を別の布で拭き始めた。
その姿に思わず息をのみ、美久は食い入るように見てしまう。
彫刻みたいに綺麗な身体、横顔も髪も指先までも何もかもが繊細で・・・。
美久は頭に被せられた布をわしゃわしゃと掻き回しながらレイの姿を見つめ、不意に自分の中の不安が少しだけ大きくなっていくような感覚にとらわれそうになった。
目の前にレイはいるのに、遠くに放り出されてしまいそうな凄く変な感じだった。
そんな訳の分からない感覚を追い出すように、美久は慌てて立ち上がり用意された寝衣を手に取った。
そして、唐突にはたと気がつく。
「そう言えば・・・、今日何か話があるって言われてたよね・・・」
美久の言葉にレイの動きが一瞬だけ止まる。
だが、すぐにシャツに腕を通し、彼は黙々と着替えを続ける。
彼は美久とは違って元々着ていた軍服に袖を通している・・・何となくそれが不思議に思った。
「・・・レイ?」
「ああ、・・・話なら聞いておいた」
そう答えるレイの言葉に少し驚いたものの、考えてみれば今日一日自分は殆ど寝ていたのだから参加出来る筈も無かったのだ。
自分にも関係あるような多摩の言い方が気になっていたのだが、レイが聞いていたのならその理由も明らかになっただろう。
恐らく噛み砕いて説明してくれないと多摩の言葉は理解出来ないかもしれないと思っていたので、少しだけホッとしている自分がいた。
ただ、そんな美久の思考とは裏腹にレイの表情は強ばり、どこか思い悩んだ様子にも見受けられるのが気になった。
「話す前に、ひとつ聞いていい?」
「うん」
「美久・・・、此処に来てから何か口にした?」
「え?」
レイは美久の唇に視線を留めて、とても静かな声で尋ねた。
美久はごく、と喉を鳴らす。
もしかして・・・レイはあの事を聞いたのだろうか?
頭の端でモヤモヤしてずっと気になっていた・・・あの意味をレイはもう知っている?
「・・・・・少し甘い・・・水みたいな飲み物を・・・・それ以外は・・・何も・・・」
「飲んだものについて何か説明はあった?」
「う・・・ん、・・・美濃ちゃんは自分たちが口にするものと同じって。・・・あと・・・他にも何か言ってたかな、・・・まだ頭の中でこの世界の事がよく理解出来てないから朧げで」
美久は目を閉じてあの時の美濃の言葉を懸命に思い出そうとしていた。
彼女はなんと言っていた?
「・・・あ、」
何かを思い出したのか、美久はパッと目を開いてレイを見上げる。
「バアル、・・・っていうのは、どこかの国とか場所とかの名前、だよね?」
「・・・そうだよ」
「美濃ちゃんたちはバアルや他の国の人たちを糧にしてるって言ったの・・・。つまり・・・私が飲んだものは・・・・・・」
「・・・・・・美久はそれを飲んでどうだった? 何か体調に変化はあった?」
「・・・特には何もないと思う」
その台詞にレイは少しだけほっとしたような表情を見せた。
彼は途中だった着替えを素早く済ませ、再びかっちりと軍服を着込むと、またどこか硬い表情になって今度は美久の寝衣に手を掛ける。
美久の方は話に集中してしまって手元が全然動いておらず、ほぼ裸の状態だった。
といっても少し着物に似た作りのそれは前を合わせて横に付いている数本の紐で留めるだけ、という簡単な作りの寝衣なので脱着もかなり容易に出来そうだ。
それでもレイは彼女に手を伸ばして手伝い、最後の紐を綺麗に蝶々結びで締めたところでぽつりぽつりと話し始める。
「バアルはオレが生まれた国の名だよ。此処とは国境を介した隣国になる」
「・・・え」
「ついでに言えば、オレたちはこの国をベリアルと呼び、連中を"同族食い"と呼んで敵視していた。意味は・・・・何となく分かるだろうけど、ベリアルの連中に長年食い荒らされてきたバアルの民の犠牲と、その抵抗から頻発する争いの歴史によって自然とそう呼ぶようになったと聞いてる」
「・・・っ」
「とは言っても、オレ自身はベリアルの連中を見た事は一度も無かったし、これは一般的にバアルの連中が持ってる基礎知識に過ぎない。実際、ベリアルなんて遠い昔に存在した国の話として誰もが忘れかけていると思う。子供の時に滅亡したって聞いてそれきりだったんだ」
そう言うレイの遠い昔とは一体どれほど遡った出来事なんだろうか。
少なくとも彼は美久が生まれるよりも、もっとずっと前からこうして生きているのだ。
それはレイにとっては遥か遠い昔になるのか、それとも昨日のように思えるような近い過去なのか美久には分からない果てしない話だ。
けれど、レイが具体的に語る数少ないこの世界の話だった。
血生臭い話だが、そういう理由なら争いが起きてしまうのもやむを得ないとも思える。
しかし、そうなると多摩や美濃たちはレイと敵対する存在になってしまう。
そして、その彼らと同じ物を口にしてしまった美久は・・・───
「・・・・・・あ、・・・そういえば・・・私・・・」
美久はぐるぐると考えを巡らせながら、ふと、ある事を思い出した。
「・・・美久?」
そんな美久の様子に気づいたレイが顔を覗き込んでくる。
美久の手は僅かに震えていた。
「私・・・・、それ以外はずっと何も口にしてないのに、おなかが全然すかない・・・・・・。雪に囲まれたあの家にいる時はいつも通り食べてたのに」
「ずっとって? 此処に来てどのくらい経つかわかる?」
「・・・え、と・・・美濃ちゃんの話では・・・、たぶんあの場所から連れてこられて3日くらいは経ってるんだと思う」
「3日」
「昨日目が覚めたの。その時に喉が渇いたか聞かれて・・・それであれを飲んで・・・・・・」
「・・・・・・」
「私、どこかおかしくなっちゃったのかな・・・、何も知らないで言われるままに口にしてしまったから・・・・・・」
今になって気づいた事実に動揺する美久。
そんな彼女の手を取り、レイは静かに首を横に振る。
「それが原因かはまだ分からないよ」
「でも・・・」
レイの言葉にも美久は強ばった表情のままだ。
しかし、先ほど多摩と話したレイにとって、真の原因が違うところにある可能性を示唆しての言葉だったのだが、美久にそれが分かる由も無い。
その話がたとえ未確定な情報だとしても、レイは彼女に伝えるべきなのだ。
なのにレイの中にはそれを躊躇する気持ちが生まれていた。
多摩から話を聞いた直後、彼は心の底で喜んでしまったからだ。
自分自身が美久を変えてしまう影響を持っていると考えただけで鳥肌が立つ程の歓喜に震え、笑ってしまいそうになるその表情を己の手で隠した。
原因が何にしろ、自分の変化に戸惑い動揺して不安におびえる姿、・・・この当たり前の反応をレイは考えもしなかった。
オレに足りないのは・・・、こういう想像力だ・・・・・・
無意識に同じものを美久に求めて強要しようとする。
自分とは違う反応を見て、初めてその傲慢さに気づく・・・・・・
レイは美久の手を離し、一拍置いてゆっくりと美久の隣に置かれた椅子に腰掛けた。
自分の都合で隠してどうなるものではない。
そう自身に言い聞かせ、レイは立ち尽くしたままの美久を見上げた。
「美久が飲んだ物は事態が表面化するきっかけになったのかもしれないし、事態をより深刻にした可能性があるとも考えられる。だけど・・・本当のところはオレにもまだ分からない。もし美久に変化が起きたっていうなら、それは何かを口にしたとかそういうことじゃなくて・・・・・もっと前から始まってたんだと思う」
「もっと前からって?」
「・・・・・あの男の話では・・・"オレ"が原因らしいから」
「それって・・・どういうこと?」
「想像出来るのは、オレの体液に問題がありそうな事くらいだな」
そう言われ、最初、意味が分からず首を傾げた美久だったが、次第にそれが何を指すのか何となく分かってきた。
レイの体液が自分に影響を与える機会などそうあるものではない。
キスをする時か・・・もしくは彼に抱かれた時か。
美久はそんなものがどうしてと思いながら、真っ赤になって俯いた。
「どうやらオレたちは本来、人と交わったところで特に影響を与える生き物ではないらしい。だけどオレに限っては影響を与えてしまうと言う事みたいだ・・・。それが事実なら美久に何らかの変化が生じるのは時間の問題だったってことになる」
「・・・」
「実際、どんな影響があるのかは分からない。・・・ただ、過去に同一の事象があったとあの男は言っていた」
「同一って・・・、レイと私みたいな・・・?」
「そう」
「その人たちは・・・」
「今いないってことは、既にこの世にはいないってことなんだろう。・・・だけど、その子孫が此処の連中だと・・・」
「ええっ!?」
驚く美久を見つめながら、レイはひとり考えを巡らせる。
これらが一体どこまで信憑性のある話かは定かではない。
しかし、多摩が何を目的として動いていたのかが、これで少しは見えてくる気がするのだ。
嘗てレイはこの地に何度も足を運んでいた。
美久と過ごす為に作り上げたあの建物が建つ場所だ。
あの建物を作る為に年単位で訪れていた時もあったが、その間、誰かが近づいてきた事は一度も無かった。
にも拘らず、美久がこの世界に足を踏み入れた途端、多摩は動いた。
彼女はルディと一緒だったが、この時連れ去ったのが美久だけだったことを思えば目的が彼女だったということは明白だ。
美久の存在を嗅ぎ付け、態々あの距離を駆け抜けて来たのには意味があるのだろう。
はじまりの形という表現をしていたことからも、美久を同種・・・もしくはそれに近しい者と見なし、何かをさせるつもりだったのかもしれない。
昨夜会った時に乾や巽に与えるつもりだったと言っていた事から、彼らと交配させようとしていたと見るべきだろうか。
彼らは生き残りとはいえ、ほぼ絶滅したも同然の人数しかいないのだ。
だとすれば、目的は種の存続だろうか?
そうだとしても、レイが現れた事によりその考えを今は収めている。
はじまりの形を作った原因がレイだと、そう考えているからこそルディのように排除する動きを全く見せないのかもしれない。
そして・・・・・・、それ以外にもレイには朧げに引っかかる事があった。
自身の身体の"特殊性"についてだ。
「・・・レイ?」
黙り込んでしまったのを不安に感じ、美久がその場に両膝をついてレイの顔を覗き込んでくる。
それに気付き、レイは自嘲気味に笑みを漏らし、浅くため息を漏らした。
「此処にやってくる少し前・・・オレの血液を調べた男から話を聞いたんだ。・・・普通じゃない、化け物と言われる所以がよく分かると言っていた。・・・あの後何を言おうとしていたのか、最後まで聞けば良かったかな・・・」
薬品の臭気漂う薄暗い部屋・・・レイを苦しめる為だけに作られた劇薬の数々。
思い出すだけで吐き気がする。
挙げ句にあの男、勝手に人の血液を調べてこれ以上何をしようとしていたのか。
もう聞ける筈も無い、既にあの男は消し炭となってこの世にいない。
「・・・ごめん」
「レイ・・・どうして謝るの・・・」
美久は眉を寄せて彼の手に触れる。
自分を責めているレイの様子が腑に落ちない。
今の話を聞いて、彼が意図したことでないと分かったし、ましてそれが答えとは決まってもいないのだ。
なのに、謝罪したきり沈黙するレイの顔が堅く強ばっているのが凄く嫌だった。
だが、次の瞬間だった。
ドォン、と、地を這うような腹の底に響く音が少し離れた所から聞こえ、遅れてやってきた大きな振動で足下がぐらつきよろめく。
すぐにレイの腕が美久を捉えて覆い被さるように抱きしめられたが、突然の事に頭の中が真っ白になった。
───今の音、なに?
思わず息をひそめながらレイを見上げた。
レイは音の方向に意識を傾けているのか、表情がとても険しい。
そして、今まで自分が腰掛けていた椅子に美久を座らせると、彼はすぐに身体を離して背を向ける。
美久は驚いてレイに手を伸ばそうとするが、「大丈夫」と一言だけ残して横開きの木の扉を少しだけ開け、身を滑らせるようにするりと外に出て行ってしまった。
追いかけようとするも、椅子に座ったままの身体は動かない。
まるで金縛りにあってしまったかのよう・・・そのくせ心臓はドクンドクンと異常なまでに脈打っている。
そんな美久の心境を知って知らずか、レイはすぐに戻って来た。
安堵して泣きそうになる。
またレイがひとりで無茶をするんじゃないかと思ってしまった。
ふと、彼の後ろに誰かが着いて来ているのが目に入る。
一体どういう事だろうとレイの言葉を待っていると、彼は後ろの男に顔を向けてから口を開いた。
「美久、この男は乾だ。騒ぎが落ち着くまで此処で身を隠していて」
「レイ・・・?」
「乾」
「お、おう」
「いいな、戻るまで美久と此処にいるんだ」
「え、・・・って・・・レイは行っちゃうのかよ。二人っきりにしていいのか? こちとら女日照りが長いんだ、何するか分かったもんじゃないぞ?」
「何かするのか?」
「・・さぁ? だったらどうするよ」
にやにや笑う乾。
この状況にも拘らず明らかに挑発している。
同時に此方の出方を見ようとしているというのも透けて見えていた。
「だったら、今すぐにでも此処を出ていくだけだ」
レイはため息を漏らしながら美久の腕を取り、湯殿からでて行こうとする。
そうなると慌てたのは乾の方だった。
彼はレイの腕を掴んで素早く2人の前に回り込む。
「お、おいっ、冗談だろ。なにが起こってるのか分かってないくせに、彼女まで一緒に連れて行くのか!?」
「おまえの方が危険だからな」
「・・・っっ、〜〜〜ッッ、あ〜〜〜ッわかったよ、何もしないっての。ってか手出し出来るかっての、俺だって自分の命は大事なんだよ」
「・・・・・・」
レイは無言で乾を見ていたが、不意に美久の頬にキスをした。
人前でそんな事をされて真っ赤になった美久は狼狽えながらレイを見上げている。
「少しだけ此処で待ってて。絶対に戻ってくるから」
「絶対・・・?」
「うん、約束。嘘は言わないよ」
「・・・、・・・わかった。・・・でも、危ない事だけは」
「大丈夫、心配はいらないよ」
柔らかく微笑み、レイは美久の背中を押して乾に預ける。
預けられた乾は微妙な表情で美久を受け止めた。
「最初からこの展開を予想してたな・・・」
ぶつぶつ文句を言う乾に不敵な笑みを漏らすと、レイは改めて美久に視線を向け、彼女の長い黒髪に手を伸ばして一束掴んで口づける。
「・・・・・ごめん」
名残惜しそうにそれを手放すと背を向けて、今度こそ彼は湯殿から出て行ってしまった。