○第11話○ 誘惑する香気(その2)
残された美久は棒立ちになったまま、もう見えない彼の背中を追いかけるように湯殿の扉をじっと見続けていた。
最後の謝罪の言葉をどう受け取っていいのか分からず、うまく消化出来そうにない。
レイ・・・また謝った。
それは何に対して・・・?
さっきの話の続き? それとも、今ひとりで出て行く事に対して?
そんな風に謝罪されると、一線を引かれたような気がして堪らない。
彼は大事なところほど言葉を飲み込む、それが哀しい。
と、そこで、ため息とともに椅子に腰掛ける乾の気配を背後に感じ、美久はハッとして振り返る。
この人・・・確か・・・・・・
よく見たら覚えのある顔だった。
そうだ。瀕死のルディを抱えて多摩と共にあの家に侵入して来た・・・あの時の事を思い出して、何となく緊張が走る。
「あの手の突き抜けちゃってる奴には大概免疫あるつもりだったけど、今日初めて言葉を交わした相手に大事な女を預けるってのも凄い神経だよなあ・・・こっちの腹を完全に読まれたからこその行動ってのは分かるけども」
苦笑しながらぼやく表情からは、少なくともレイに敵意を抱いているわけでは無いように見える。
それに乾の最後の台詞が気になってしまい、警戒心を持たなければと思いつつも無意識に近づいてしまう。
「・・・レイがあなた達の腹を読んだって・・・どういう意味ですか?」
「え? うーん・・・俺ってば今、任務遂行中なんだよね。君たちに出てかれると都合が悪いんだ。それを見透かされてあんな行動に出たって感じかな。まあ、俺もそれ隠そうともしなかったわけだけどさ」
「ということは、・・・乾・・・さん、は、私たちを見張って・・・」
「それ微妙だなー、確かに今だってそういう名目で湯殿の傍にいたってのは否定しないけど、見張るってほどピリピリしてるつもりはないし、多摩の命令っても俺には真意までは分からないからなぁ。俺としては仲良く出来るもんはそうすべきって考え。こう見えて博愛主義なんだ、特に女性全般♪」
そう言ってパチンとウインクして笑顔を見せる乾。
若干たれ目の所為か、驚くほど人懐こい笑顔だった。
そう言えば、初めて会ったときはあんなシチュエーションだったから悪戯に恐怖心だけが膨れ上がっていたけれど、落ち着いて思い出すと乾はあの時も今みたいな笑顔を向けていたような気がする。
こうしてちゃんと話してみると彼はなんと言うか・・・くるくる変わる表情が美濃に負けず劣らず豊かで、砕けた話し方でも相手を不快にさせない。
柔らかそうな癖のある蜂蜜色の髪や明るい橙色の瞳も硬質な印象を与えないせいか、必要以上の緊張感が削がれていく。
美久が少し警戒心を解いたのを感じたのか、乾は更ににっこりと笑顔を向ける。
怖い人じゃないんだろうか・・・
突然2人きりにされて吃驚したけど、レイだって大丈夫だと思ったから彼を此処に入れたんだろうし・・・
そして、ふと、乾に会ったら聞きたいと思っていた事を思い出して、改めて気を引き締めた。
「あの、・・・乾さん、・・・私があなた達に連れて行かれたあの場所に、もう一人いたのを憶えてますか?」
「うん? ああ、憶えてるよ」
「彼はあの後どうなりましたか? かなり酷い怪我をしていたように思えて・・・」
「ああ・・・うん、意識はあったかな」
「本当ですか!?」
「俺が話しかけるの目を開けて聞いてたしね。死んではいなかった」
「よか・・・っ」
「今から死んじゃうかもしれないけど」
「・・・え?」
言葉の意味が分からず、美久は眉を寄せて聞き返す。
今から・・・?
「さっきの大きな音、アイツだもん」
「ええっ、ルディ!?」
「ルディ・・・どっかで聞いたような・・・ああ、美久があの小屋で呼んでたからか。・・・まあ、少なくともアイツなのは断言できる。暇だったしさ、なんとなーく空を見上げてたら変な動きで何かが近づいてくるのが遠くに見えて・・・落下・・・そう、落下だな、あれは。フラフラしながら飛んでたのが、力つきて落下したって印象。・・・レイは気配だけでそれが誰か分かったから、わざわざ出てったんだと思ってたけど」
「あの音・・・ルディが・・・?」
美久は考えを巡らせた。
まさか、連れ去られた私を追って・・・あの傷のまま?
だけど、ちょっと待って・・・よりによって落下って・・・、もし意識を失った状態なら、これはルディにとって最悪の状況なんじゃないだろうか。
ルディはレイを知ってるみたいだった。
ならば、レイもルディを知っている可能性がある。
けれど問題はそこではなくて、恐らくはルディがクラウザー側の立場にいるってことだ。
「ちょーっと待って。どこにいくつもり?」
突然湯殿から飛び出そうとする美久の腕を掴み、乾が静止する。
「すぐに行かないと」
「レイに此処で待てって言われたのもう忘れた?」
「それは・・・憶えてます。・・・それでも、私、ルディの事をレイにちゃんと説明しないと・・・ルディは違うって」
「・・・どういうこと?」
「レイはもしかしたらルディを敵と認識したかもしれないんです。追っ手だと思ったかもしれない・・・だから、このまま何もしなければ、2人は確実に衝突する・・・」
「なるほど、・・・美久は、そのルディを敵じゃないと思っていると。それに反してレイは彼を敵認識しているかもしれないと」
「そう、だから・・・」
「じゃあ、美久の言う敵じゃない根拠ってなに?」
「え?」
「レイが言ってたんだよな。バアルでは周りは自分を敵認識しかしなかったって。レイにとってはバアルから来たってだけで味方とは言えないんじゃない? ルディが着ていたのはレイと同じバアルの軍服だったけど」
「・・・・それは・・・・・・、・・・でも、・・・本当に敵だっていうなら、彼らにとって餌でしかない筈の私を身を挺して庇ったことに、すごく矛盾を感じるんです。少なくとも、私を助ける為に囮になって傷を負ったのは本当で・・・」
レイは待っていろと言ったけれど、相手がルディと知ってこのまま黙って待つのがいい事なんだろうか?
たとえレイがルディを手にかけようとも、黙って言う事を聞くのが最善なんだろうか?
凄く甘い考えなのかもしれない。
だけど・・・
「やっぱり私、助けてくれた人を見殺しになんて出来ません。可能性があるなら動かないと何も変えられない。私が今ここに居てレイと会えたのは、彼に会いたい一心で動いた結果だから・・・ルディはそのヒントをくれようとしていた。レイだってそれを全く理解しないとは思えません」
「・・・・・・美久」
強い眼差しでそう言い放った美久に、乾は目を見開いていた。
それから少しの沈黙が生まれたが、やがて『まいったな・・・』と苦笑する乾の声が聞こえた。
そして、美久の腕を掴んだままだった自分の手を離し、代わりに大きな手のひらが美久の手をしっかりと握ってくる。
「・・・乾、さん?」
「そこまで言うなら連れてっても良い、・・・そのかわり、この手は離さない事。それが最低条件だ」
乾とてレイと約束してしまったのだ。
ここから彼女を出してしまった時点でそれを反故にする事になるというのに、おまけに何が起こるか分からない中で自由にさせて危険に晒してしまったら目も当てられない。
「はい、離しません」
嬉しそうに笑った美久を見て、何となく胸の中がくすぐったくなり乾は赤面してしまった。
乾はそれを誤摩化すように何度か咳をして自分を落ち着けると、彼女の手を引っ張り湯殿の扉を静かに開け放つ。
「それじゃ、行きますか」
「はい」
夕闇に沈む宮殿の西側から上がっている煙を見上げ、乾は自分の甘さに苦笑する。
しかし美久は思っていた印象と少しちがっていた。
守られてるだけで、こういう強さは想像しなかったのだ。
まいったな・・・
何となく、レイが執着する気持ちも分からなくはないか・・・
そんな事を考えながらも、乾は色々な事が起き始めているこの現状は一体何なのだろうと不気味に感じ始めていた。
▽ ▽ ▽ ▽
宮殿西門からほど近い庭先の一角に連なる建家、煙はそこからあがっていた。
此処は現在は全く使われて居らず、嘗ては宮仕えをしていた者たちが居住していた離れだった。
大きな音がして少し経つが、崩れた木材の中心に埋まっているであろうその人物が次なる行動を起こす様子はまだない。
その人物とは、乾の目撃した通りルディのことだ。
そして、これが襲来でも襲撃でもなく、実際は『落下』であったということも───
「・・・・・・はぁ、・・・は、・・・・・・はっ」
崩れた木材の奥から苦しげな息が聞こえる。
それは紛れも無いルディのものだった。
敵からの襲来と捉える向きが濃厚であると予想されるのが必至な状況だったが、ルディからは衰弱しきった様子しか見受けられない。
小刻みに痙攣するだけで全く意思を反映しなくなった四肢、再び空に舞い上がる事など到底不可能だった。
彼はレイを追いかけるために空を飛び立ってから、ただがむしゃらに前を見て飛び続けてきた。
傷ついた四肢と噛み付かれ抉られた首の傷は癒えるどころか悪化し続けており、レイが無理矢理飲ませた携帯用の血液では一時的な力にしかなり得なかったのは想像に難くない。
「・・・はっ、はっ、はっ、はぁっ、・・・ん、っ、はあっ」
息が乱れ、眼前も霞む。
漸く見つけた大きな建物、ルディは此処にレイも美久もいるのだと確信した。
しかしそこで気の緩みが出たのだろう。
突然身体が重くなったと思った途端、四肢が全く動かなくなり落下してしまったのだ。
何だこれ・・・、どう考えてもまずいでしょ・・・せめてどこかに身を隠さないと。
そう思うのにもう指一本動かない。
痛みは麻痺してしまったのか、既によく分からなくなっていた。
けれど、幸か不幸か頭の中は異様なまでに冷静で、状況に関しての危機意識は健在だ。
だからこそ自分の身体含め、置かれた状況が非常に厄介な事になっていると自覚も出来る。
自分は今、同族食いの巣に飛び込んだ抵抗無き餌だ。
ルディは荒い息を小刻みに吐きながら指先に意識を集中させる。
美久が連れ去られた直後は、この指先が動いた事がきっかけになって一気に四肢に神経が伝達され、飛び立つ事が出来たのだ。
だから指先が動けばそこを出発点として全身が動き出すのではないかと。
動け・・・指先・・・・・・指先、はやく、・・・奴らが来る前に・・・
このままじゃ何も果たせない。
せめて・・・、せめて、・・・・ミクの無事をこの目で確かめるまでは・・・・・・
どうしてこんな事を強く思うのかはよく分からない。
目的はレイだったはずが、いつの間にかまた美久にすり替わっている。
もう星を一緒に見る必要は無いはずだ。
だけど、彼女の無事を願うと不思議と身体に命令が伝わり、今もどういうわけか指先が自分の意志を受け取り始めていた。
「・・・はっ、はあ、はあ、・・・っく、・・・ふぅ、ふぅ、っっは」
指先に留まらず、自分の命令を聞いた筋組織が肩から肘にかけてミシミシと音を立てて動き出す。
大丈夫だ、いける・・・そんな希望が頭をもたげ、全身に行き渡り始める自分の命令で上体が徐々に起き上がる。
そのまま荒い息と共に立ち上がり、ルディに伸し掛かる木材がガラガラと音を立てて四方に崩れた。
「はあーっ、はあーーっ、・・・っっは、はあーっ」
周囲を見渡し、穴があいた天井を見上げる。
しかし、こうして見てみると崩れたのは自分が落下した一角に留まっていて、一部は損壊して崩れ落ちているものの掻い潜っていけばこの建家から這い出す事は出来るかもしれなかった。
ルディは用心深くなぎ倒された瓦礫の隙間に身を滑らせ、崩れそうな場所に力をかけないよう神経を注ぎながら少しずつ前に進んでいく。
すると、前方から微かな空気の流れを感じる。
もうすぐ此処から脱出出来そうだ。
「はあーっ、はあっ、はあーっ・・・っ」
無我夢中で空気の流れを追いながら、ルディは次にすべき事を頭に描く。
外に這い出したら真っ先に身を隠す場所を見つけよう、彼らに見つかってしまうより前に。
そして、このどこかにいる美久を早く探し出すのだ。
「はあーーっ、・・・・・・、・・・・・・はあーーーっ、はあっ、・・・はあっ・・・・・・」
遂に外の冷たい空気が顔を撫でるのを感じる。
沈みかけた夕日を背に、ルディは瓦礫の隙間から漸く上半身だけ這い出した。
だが、それも束の間・・・彼はそこで希望が断絶した事を知ったのだ。
「───あの距離を追いかけて来たか」
低い声、白装束を身に纏う艶やかな黒髪。
真紅の瞳が這い出したルディを見下ろし、冷酷に嗤っていた。
「・・・・・・はっ、・・・はあ・・・・・・、・・・・・・はあ・・・」
急速に力が抜けていく。
この男がルディの四肢を打ち抜き、首を抉り飛び散る血潮を嗤いながら食んだあの瞬間が脳裏を過った。
数瞬前まで動いていた手足が酷く重く感じる。
恐ろしい勢いで気力が削ぎ落とされていくのが分かった。
だが、完全に崩れ落ちそうになる手前・・・それをぎりぎりのところで踏みとどまらせたのは、真紅の瞳の男の後方から現れた長身の影が視界に入ったからだった。
「・・・っ、・・・・・・・・・、・・・・・・・・・レイ・・・ッ!!!!!」
遠目でも分かる。
銀世界の中、沈みかける夕日にぼんやりと浮かぶ影が。
間違いない、あれはレイだ。
一気に膨らむ憎悪、それだけでルディの身体は強い風を纏い始めていた。
「・・・・・・ほう、面白い力だ」
男が愉しそうに目を細めてルディの変化を見ている。
しかし、今は男の言葉に反応はしない、意識の全てはレイに注がれていた。
ルディの身体を巡るのは刃のような鋭い風だ。
「レイーーーーーッッッ!!!!!!!!!!!」
上半身だけ這い出したその身体を駆け巡る風が、伸し掛かる瓦礫を切り裂いて弾き飛ばした瞬間、彼は標的の名を絶叫しながら大きく跳躍したのだった。