○第11話○ 誘惑する香気(その3)
まさに風のように疾走するルディがレイに接近するにつれ、彼が身に纏う強風の渦が大きく膨らんだ。
それらが巨大に膨張したところでルディは己の身体だけ外に弾き飛ばし、残された球状の渦は勢いを保ったままレイに襲いかかっていく。
「・・・・・・チッ・・・」
レイは面倒くさそうに舌打ちし、迫り来る風玉に向かって腕を振り上げ、渾身の力を以て地面にたたき落とした。
ズン・・・と地が沈む音が響き、振動で大地が揺れる。
崩れかけた建家はその衝撃を受けると大きくぐらつき、遂には崩れ落ちてしまい、天高く粉塵を巻き上げた。
その間もレイは上下左右に視線を彷徨わせ、ルディの動きを追い続ける。
素早い動きではあったが手負いということもあり、レイがルディを見失う事は無かった。
今、レイの視線は朦々とあがる煙の向こうに定められている。
ルディは次なる攻撃に備えているのか煙の向こうに身を隠し、ふと風の動きが変わったのをレイは肌で感じた。
不自然にくゆる煙、そして、その隙間から鋭い刃の切っ先のような風が突如駆け抜けレイに直撃する。
いや・・・直撃というほどの衝撃は起こらない。
レイがそれを己の腕で受け止めたからだ。
しかし刺さった刃の風は服を裂いて彼の皮膚を抉り、血液がぼたぼたと流れ落ちていく。
続けざまに飛び込んでくる刃の風、それは無数としか言い様が無いほど連射され、その全てがレイに襲いかかった。
だが、レイはそれを避ける素振りも、その場から動く様子も見せない。
彼は何故かそれを全て腕で受け止めているのだ。
ルディを見れば既に満身創痍の状態で、これ以上出せる力など微々たるものだろう。
避ける事は出来たはずだ。
にも拘らず、それを受け続けるのには訳があった。
変則的な動きは無いが、この風はあまりに数が多すぎるのだ。
崩れた建家から向かった東側・・・つまりレイが今背にしている方角には美久がいる湯殿がある。
今この瞬間、彼が少し動いただけで攻撃は一時的にでも東側に向かうだろう。
たとえこれらの攻撃を全て弾いて避けたとしても、万が一手元が狂って湯殿方面に弾いてしまったら・・・、弾ききれず、すり抜けてしまった攻撃が美久のいる湯殿に直撃したら・・・、そう考えたからこそ、レイはこの場から動こうとはせず、無尽蔵に繰り出される刃の攻撃を受け続けていたのだ。
とはいえ、反撃の機会すら窺わずにレイがただ受け続けるはずがない。
ルディが同じ場所に留まったまま攻撃しているわけでは無いということを、レイは受け続けた攻撃の軌道から読み取っていた。
彼は一点に留まる事無く少しずつ移動し続けている。
恐らくルディは法則無く動いているつもりなのだろうが、クセというものは本人には中々分からないものだ。
ルディが移動する直前の攻撃は、ほんの僅かだが、動こうとするのと逆の方角にぶれるのだ。
もう頃合いだろうと口端をつり上げたレイは、攻撃を受け続けながら前に出た。
そして、先ほどから沈黙を守ったまま2人の攻防を愉しそうに観覧している多摩にも一瞬だけ視線を向ける。
目が合うと愉しそうに目を細めるだけで、彼が参戦してくる様子は見受けられなかった。
───・・・あの男、何考えているのかさっぱり分からないな・・・
小さく息を吐いていると、所々雪に塗れた瓦礫からあがる粉塵も次第に落ち着いてきた。
僅かにルディの放つ風の刃がぶれたのを感じ、レイはそれとは真逆の方角へと大きく跳躍する。
ルディの残像が見えた。
近い、やはり攻撃がぶれた方角と真逆にルディは跳んでいるようだ。
レイは自分が跳んだ位置に間もなくルディが到達する事を確信し、その直後、レイの視線はルディを捕らえた。
そのまま片手で刃を受けつつ、残った片手を振りあげ、不安定な足下の瓦礫を踏みしめ大きく腰を落とす。
「・・・・!! ・・・なッ!?」
自分が着地しようとした先に突然レイが現れ、ルディは驚きの表情を浮かべていた。
レイは思い切り拳を握りしめてルディの頭部を地面へと殴り付ける。
もの凄い勢いでルディの肢体が瓦礫に沈び、再び粉塵が大きく巻き上がる。
その中でびくびくと痙攣する肢体、無表情に見下ろすレイ・・・力の優劣は圧倒的と言うほか無かった。
そして意識の有無を確認する為にゆっくりとルディに手を伸ばしかける。
「レイッ!!」
しかし、悲鳴にも似た美久の声が聞こえ、レイはハッとして声の方角に目を向ける。
何故か此処にいるはずのない乾と美久が庭先の向こうに立っていた。
レイは驚愕し、背筋を冷たいものが走るのを感じた。
「どうして美久を連れて来た!!!!」
怒りに吠えたレイの剣幕に乾が曖昧に笑う。
レイは忌々しそうに顔を歪めた。
此処が今、どんなに危険な場所か分からないわけでは無いだろう。
意識が戻ればコイツがまたどんな手を使うか分からない・・・。
手負いの獣が見境無くなるのは自明の理だ。
レイは今以上の攻撃をルディに向ける必要性を感じ、再び手を伸ばそうとした。
「違うのっ、私が此処に連れてってほしいってお願いしたの! レイが誤解していると思ったから!!」
「・・・っ? ・・・・・・誤解?」
ピタリとレイの動きが止まる。
美久が何を言っているのか分からなかった。
「ルディは違うってどうしても言いたくて。・・・だって、彼は私を命がけで守ってくれたんだよ、大きな傷を負ったのは私の所為なの!」
「・・・・・・?」
それは、知っている。
昨日ルディに会って、矛盾に気づきながらも美久を守る為に傷を負ったと聞いたばかりだ。
だが、既にルディの目的は美久からレイへとシフトしたのだ。
今後は直接殺す目的でレイを追いかけると、それが昨日の最後の会話だった。
それで追いかけて来たのなら、明確な敵そのものだ。
それを見逃せと・・・?
美久はそれを訴える為に来たのか?
俺がコイツを殺すと思って・・・ルディの為に・・・?
「・・・・・・美・・・、久・・・の・・・声が・・・?」
瓦礫に埋まったルディの肢体が僅かに動き、顔を上げた。
先ほどまで痙攣して意識を飛ばしていたものを、もう目覚めたのかとレイは眉をひそめる。
ルディは雪に埋もれた木材の隙間から目を凝らし、前方を真っすぐに見据える。
彼はすぐに美久の姿を捉えたようだった。
しかし、多摩たちとの関係を知らないルディの目には、美久を攫った連中が美久を連れて自分の前に姿を現したように映った。
そんなルディの思考が分かるわけもなく、レイは僅かに動き出しそうな気配を感じ、彼の上体を踏みつけようとした。
しかし、
「レイッ!!」
美久の声にまたも身体が止まる。
その一瞬だった。
ルディの身体から刃の風が巻き上がり、レイの身体を四方から切り裂いたのだ。
血飛沫が飛び散る。
それは傷が開いたルディのものも多少は含まれていたが、大半がレイのものであった。
レイの視界を真っ赤な血が邪魔をし、忌々しく顔を顰める。
その隙を縫ってルディは瓦礫から飛び出し、美久の立つ庭先目がけて一気に跳躍したのだ。
遅れて反応したレイがルディを追いかける。
だが、今までの動きよりも遥かに速い。
どこにこんな力を隠しておいたのかと思うほどの俊敏さだった。
既にルディの背は美久を捉えようとしている。
やはり彼女を傷つけるつもりかと奥歯を噛み締め、背から黒羽が轟音を奏でながら飛び出した。
しかし、美久を前にしてルディは唐突に失速し、後少しで手が届くという所で立ち止まってしまったのである。
よく見ると彼の視線は美久と乾の繋がれた手を何度か彷徨い、それから美久の表情を探るように見ていた。
その間に一瞬遅れて追いかけて来たレイがルディの背を捕らえ、彼を後ろから羽交い締めにする。
「・・・ぐぅ・・・ッ」
「レイっ、や、やめて・・・っ」
苦しそうに呻く声が周囲に響き、美久は声をあげたが、レイは無言でルディの身体を締め上げている。
彼女がルディに手を伸ばす事は乾が許さなかった。
感情が高ぶる度に繋いだ手を強く握られ、彼女は自制を強いられ続けている。
もう一歩たりとも前に進んではいけない、これが乾の最大限の譲歩だった。
乾はルディが襲いかかる事も考慮し、危害が及ぶギリギリのところで回避出来るよう構えている・・・この瞬間さえも。
そのうえ、レイの後ろで大きな音を立てている黒い羽・・・こんなものにも肝を冷やさねばならないことは、乾にとって予想外だった。
こう間近で直視すると、自分が今どんなにまずい状況に身を置いているのかよく分かる。
瞬く金の瞳、羽音すら怒りに満ちているようだった。
「・・・は、・・・ははっ」
突然、締め上げられたルディが小さく笑いを漏らした。
レイの眉がピクリと不愉快そうに歪められる。
「泣いて、なかった・・・・・・」
どこかほっとした様子でそんな事を言う。
血まみれの顔。白い髪も真っ赤に染まっていた。
まさかルディはそれを確認するためだけに動いたというのか?
頭の隅でレイがそう考えていると、ボロボロになったルディを目の当たりにした美久の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
それを見たルディの青と緑の瞳からも涙が零れた。
彼の身体はすぐにでも頽れてしまいそうだったが、その思考は最初から冷静だ。
だからこそ美久は酷い目にあっているわけではないと理解した。
レイとも再会し、拘束される事なく同族食いの連中ともそれなりの関係を構築していると分かり、彼は酷く安堵していた。
同時にルディの冷静な頭の中では大きな疑問も膨らんでいく。
昨日レイが突然現れて去ってから、まだたったの一日だ・・・
何でレイはコイツらに攻撃されず、無傷のままでいる?
さすがにこれはおかしいだろう。
自分とのあまりの違いに嗤ってしまいそうだった。
自分が何でも無い雑魚だからこうなったのだろうか?
それが真相なら益々嗤うしか無いではないか。
だが、これで一層レイを正当化出来なくなった。
もしベリアルの連中と行動を共にしているというなら、レイは間違いなく自分たちの敵だ。
美久だって一緒にいれば絶対に巻き込まれるだろう。
───大体・・・、ミクはレイの事を考えては隠れて泣いてばかりいたじゃないか・・・
それなのにどうして一緒にいたいと望むんだ。
・・・・・・だけど、いつもそうだ。
昔からいつもレイは誰かを泣かせる。
冷静だったはずのルディの頭の中がいつの間にか感情に支配され、どす黒い何かが胸の中に広がり膨れ上がっていく。
ルディは唇を歪め、自分を拘束するレイの腕をじっと見ながら小さく嗤った。
とても嫌な感情だ・・・けれど止められそうにも無かった。
「ねえ・・・ミクって・・・記憶、奪われちゃったんだって? ・・・クラウザー様が言ってたよ。・・・だったら、いいことおしえてあげようか。・・・・・・レイが昔、どんな奴だったか・・・、たぶん、昔のミクだって知らないすごい秘密・・・」
その言葉にレイの目が細められ、また締め上げる腕の力が強くなった。
一体おまえがオレの何を知っていると、苛立つような戒めに、ルディは益々嗤いがこみ上げる。
「・・・・・・まだ、レイがバアルにいた頃・・・ごく一部で噂になってたんだ。・・・夜ごとレイと交わされる複数の女との乱れた関係。・・・僕だって、最初は聞き流してた。・・・けど、・・・噂じゃなかった。・・・だって僕、見たんだ、・・・用意された女達が集められた部屋・・・もの凄い美女ばかり。・・・・・・レイの部屋に彼女達が入っていくのも、朝になってフラフラになった彼女達が出て行くのも・・・見ちゃった。・・・・・・クラーク様も毎夜あれだけ用意するの、・・・大変だったろうな・・・」
レイはすう・・・と冷えた目をして次々と己の醜聞を紡ぎだすルディの唇を黙って背後から見ている。
反論する様子が無いのが不気味なくらいだった。
「・・・だけど・・・、その所為で・・・・・・壊れちゃった・・・・・。自分には、触れようともしない、・・・て、・・・・・・リーザ様・・・泣いて、泣いて・・・・・・、最後には壊れちゃ・・・た・・・・・・」
「・・・・・・リーザ・・・様・・・?」
初めて聞く名前に美久が唇を震わせながら聞き返す。
そうじゃなくても動揺せずにこんな話を聞いている事など出来ないのに。
「・・・ふふ・・・、レイの・・・フィアンセだよ・・・」
そう言うと、ルディの首が更に締められ、今度こそ意識が遠のき手足の力が完全に抜け落ちてしまう。
これ以上何も喋るなと言われているみたいで、ルディはおかしくておかしくて堪らなかった。
途切れそうな意識の向こうで嗤っている自分がいる。
「・・・・・、僕、やっぱりレイが・・・大嫌いだ・・・、・・・・・・・・・リーザ様・・・・・・僕なんかにも優しくて、・・・・・・、女神様みたいだった、・・・のに・・・───」
青と緑の瞳から大きな涙の粒が零れ落ち、光を失うと同時に瞼が完全に落ちる。
彼の意識が途絶えたということは明らかだった。
やがて、レイはルディを締め上げた腕を外し、支えを失った身体はゆっくりと雪の上に崩れ落ちる。
長い沈黙が続いた。
「・・・・・・乾、・・・もう、その手・・・離せ・・・」
「・・・、あ・・・ああ」
突然言われ、乾はハッとして繋いだままだった美久の手を離す。
未だ金色に瞬いたままの瞳、黒羽もそのままだった。
レイは美久の手を掴み取り、自分に引き寄せ彼女の瞳を覗き込んだ。
それはまるで彼女を試しているかのようにも見え、端から見ていた乾はこの奇妙な光景に息をのむ。
「何か・・・言いたそうな顔だ・・・」
うっすらとレイが嗤う。
美久は震える唇をそのままに、喉の奥で重く張り付いた声を苦しげに絞り出した。
「・・・い、今の・・・・・話、・・・んんぅ・・・っ!」
最後まで言うのを拒絶するかのようにレイの唇が美久の唇を塞ぐ。
けれど、その金色の瞳が閉じられる事は無い。
彼女の表情すべてを観察するように、唇を合わせている間もじっと見続けている。
そして、長い舌先で彼女の歯列をなぞり、舌を絡めとってひたすら貪ってから唇を離すと、そのままの表情で美久の瞳を尚も覗き込んだ。
ルディの話を聞いた美久がどう反応するのか、やはりレイは試しているのだろうか?
「・・・いいよ。美久の言う事、聞いてあげるよ」
「レ・・・」
「ルディを殺さずにいてあげる。動けるようになるまで美久が看病したらいい、確かにコイツは美久には害を与えないみたいだ・・・。・・・・・・その代わりオレは手を貸さない。・・・傍にいるだけで殺してしまいそうだから」
「・・・っ!?」
金色の瞳が冷酷にルディを見下ろす。
本当に殺すことなど何とも思っていないといった様子だった。
そんな空気を察してか、乾は横たわるルディの身体に手を伸ばし担ぎ上げる。
「美久、おいで。兎に角運ぼう。・・・このまま放置したらレイが殺さなくてもコイツは死ぬ」
「えっ!?」
驚き美久は目を見開く。
しかし、担ぎ上げられるルディを見ていたレイは、美久の腕を掴んだ手に力を込めた。
言う事を聞くと言ったくせに、彼女を行かせたくないという気持ちが無意識のうちにそうしてしまうようだった。
「レ・・・レイ・・・」
美久が困ったように見上げると、レイは掴んでいた彼女の腕を無言で見つめている。
やがて力は弱められ、そして離された。
そんなレイの姿を美久は改めて見る・・・彼も血だらけだった。
黒羽の迫力に圧されて意識がそっちにばかり行ってしまったが、あちこちにある裂傷はかなり深そうだった。
「レイも・・手当・・・」
「いらない、・・・知ってるくせに」
そう言われてしまうと何も言えない。
けれど痛みは有るだろうと、それを顔に全く出さないでいられる慣れた様子が哀しい。
「・・・・・・行っていいよ」
「・・・ほんとうに・・・・・・そう思ってる・・・?」
「・・・・・・思ってない・・・・・・だめ」
「・・・」
「ウソ・・・・・・いってらっしゃい」
金の瞳が不安定に揺れて静かに微笑む。
凄く気になった、どこかレイの様子がおかしいと。
「美久・・・、行こう。コイツを救う気があるなら」
だが、乾にそう言われて、一体自分に何が出来るのか分からないが、とにかく今はルディを助けなければと思い直し、宮殿の中に入っていく乾の後を追いかける。
その途中、美久は一度だけ足を止めた。
レイが気になったからという理由だけではなかった。
風に乗って自分の鼻腔をくすぐる、とても甘い香りがしたような気がしたのだ。
それがどこからやってくるものなのかが分からず考えを巡らせたが、再度自分を呼ぶ乾の声にハッとして、後ろ髪を引かれながらも今度こそ宮殿の中へと戻っていった。
残されたレイは、美久たちの姿が見えなくなってもそこから一歩も動かなかった。
サク・・・、雪を踏む足音が背中から聞こえる。
ここまで全てを傍観していた多摩の足音だった。
「とても面白いものを見た。・・・だが、おまえにはアレでは役不足だったようだな」
「・・・・・・」
「・・・紅い血だ・・・そしてとても馨しい・・・」
多摩の視線がレイの身体から流れ出る血液をうっとりと見つめ、紅い瞳が一層強く輝きを放った。
その視線を受け止め、レイは自分の身体を眺めると小さく笑いながら言う。
「飲ませてやろうか?」
そう言って、ルディの攻撃を受け続けてズタズタに裂けた左腕を多摩の眼前に突き出した。
何でそんな行動をレイがとったのかは多摩にはわからない。
だが多摩は目の前に腕を突き出されるなり、両腕でつかみ取って肉が見えて血が噴き出すその傷に迷う事なく舌を伸ばした。
「・・・・・・っ」
口にした途端、多摩は驚いたような顔をした。
そして、流れ出る血液にむしゃぶりつくように唇を押し付ける。
今まで飲んで来たものは何だったのかと思える程の極上の味だった。
しかし、すぐに流れ出る血液を嘗め尽くしてしまい、もっと味わいたいと思う欲求から他の傷にも舌を伸ばそうとした。
・・・が、
「・・・・・・?」
直前まで彼の体中にあった傷がもう殆ど無いのだ。
差し出された腕をもう一度見ると、数秒前よりも傷が浅い・・・?
「ああ・・・もう塞がったのか・・・・」
多摩の不思議そうな顔に気づいてレイがそんな事を言う。
そうしている間にも裂けていたはずの左腕の傷がどんどん小さくなっていく。
驚愕すべき治癒力だった。
「・・・美味かったか?」
「・・・・・・ああ。・・・・・・肉を食んで傷を広げてやりたいと思うくらいだ」
「へえ」
全て本心からの言葉だ。
他のものがまずく感じてしまうのではないかと危惧するくらいの極上を口にした。
多摩は物足りなさそうにレイを見つめ、ごくりと喉を鳴らす。
呆気なく塞がってしまい、今は滑らかなだけのレイの腕を名残惜しそうに凝視する。
このまま噛み千切りたい・・・
何も言わずに肉を噛み千切ったら殺し合いになるのだろうか?
しかし、その価値は充分にあった。
命がけの戦闘になっても味わってみたいと思わせるような強い誘惑が・・・───
それを寸前で留めたのは美濃の顔が思い浮かんだからだった。
彼女の存在が誘惑に押し切られそうな多摩の理性を引き戻す。
それでも甘く芳醇でとろけてしまいそうな極上を一度でも口にして、明らかに高揚した多摩の表情は、決して諦めたと思えるものではなかった。
もう一度・・・どうにか口に出来ぬものか・・・
「・・・おまえ、望みはあるか・・・?」
たとえばその望みと引き換えに・・・・
多摩が心の中であらゆる葛藤をしていると知ってか知らずか、レイは黙ってその紅い瞳を見ていた。
望みはあるかなど・・・それは本気で言っているのかと。
まるで万能神が放つ甘言だ。
この男は『神子』だと言った、それは未来を見通す力だとも。
それで美久が手に入れられるというならともかく、未来を見るだけで叶う望みなどではない。
だいたい、オレが望むのはそういうものじゃない。
今、オレが望むのは・・・
「・・・・・・オレを憶えてる美久・・・・・・───」
ぽつり、と口を出てしまった。
言葉にする気はなかった。
それを望むのは終わりにしたはずだ・・・何でいつまでもオレは・・・・・・。
「いや・・・何でも無い・・・」
馬鹿な事を言ったとレイは多摩に掴まれた己の腕を振り払い、この場を離れようと宮殿へと足を向けた。
数歩進んだところで、不意に背中から多摩の声が静かに降って来る。
「レイ・・・、その背の黒羽はもう仕舞わぬのか?」
言われて気がつく。
いつもなら必要がなくなった時点で仕舞っている。
レイは少しの間空を見上げ、考えているようだった。
やがてゆっくりと首を傾げて小さく呟く。
「・・・・・・仕舞い方が・・・・・・、思い出せない・・・・・・」
それだけ言うと、一度だけ大きく羽ばたき・・・彼はそのまま宮殿へと姿を消してしまった。
レイの様子はどこかおかしかった。
金の瞳は未だ変わる事無く、行動の端々でさえその異常は見て取れただろう。
だが、多摩にはどこからどこまでが異常なのか判別がつかず、黙ってその姿を見ているだけであった。
そして、フワフワと舞う黒羽が風に流れているのが目に止まり、何となく手に取る。
艶やかに黒く輝く大きな羽が目の前で揺れている。
それが僅かに頬をくすぐり、とても心地のいい感触だった。
しかし、それはすぐにキラキラとした光の粒になって多摩の目の前で弾けて消えてしまう。
妙な喪失感を味わうが、先ほどの彼の血液を味わった直後に感じた感覚にどこか似ていた。
「・・・・・・・・・"オレを憶えている美久"・・・・・・」
先ほどのレイの言葉を反芻する。
そう言えばルディもそんな事を言っていた。
───ねえ・・・ミクって・・・記憶、奪われちゃったんでしょ。
ああ・・・、・・・あの娘、記憶が無いのか・・・
多摩は漸くそこに思い至ると口角を最大限にまで持ち上げ、長い舌でゆっくりと自分の唇を舐め回し・・・あの極上の味を思い出して愉しそうに目を細めた。