○第11話○ 誘惑する香気(その4)
沸かした湯に布を浸し、それを固く絞ると鮮血で真っ赤に染まったルディの身体をそっと拭う。
美久はもう幾度となく同じ事を繰り返し続けていたが、ルディの出血は全身に及び、拭っても拭っても溢れてくる。
僅かに胸を上下に揺らしていることで何とか命は繋いでいると分かるが、ぴくりとも動かない。
心配そうに瞳を曇らせる美久の隣には、同じように布を手にした乾がルディの身体を拭う姿があった。
彼もまた難しい顔で、美久とは少し違った視点でひとり考え込んでいる様子だった。
・・・・・・思ったより、傷が深いな。
全身に及ぶ傷を見ながらどうしたものかと考える。
それでもレイとやりあって出来た傷に関しては、打撲が殆どで見た目ほど気にする必要は無さそうなのが幸いだった。
恐らくそれは、レイがルディに対して手を抜いていたということを意味するのだろう。
美久が懇願するまでもなく、多少痛めつけても殺すことまでは考えていなかったのではないだろうか。
レイ本人がそれを自覚しているかどうかは分からないが、冷酷になりきれない甘ささえレイからは感じられる。
あの場に駆けつけ、現場を見た乾の目には少なくともそう映っていた。
ところが、ルディがレイの過去について話し始めてから目つきが明らかに変わった。
美久が目の前にいたから首を絞めるに留まっていたが、そうでなければ首をへし折っていたのではないだろうか。
巽も懸念していたが、やはりレイには地雷があるのだろう。
『過去』がそうである可能性は高い。
今回の話がその一部である可能性も・・・。
だとすると、ルディはまだ何か他にも知っている可能性がある。
現在は行方不明扱いになっているレイの昔を知っている存在なんて殆ど居ないだろう。
昔バアルに潜入した時に出会った連中でさえ、誰一人としてレイ本人を実在している人物として認識しながら話している者がいなかったことからもその貴重さが窺える。
そうでなくともバアルの話は情報の遮断されたこの場所ではとても貴重だ。王族の話となれば言うまでもなく。
場合によってはそれを利用する事も出来るかもしれない。
圧倒的に数が少ない乾たちには、得られた情報が大きくなる程その意味は計り知れないほどの利となって、絶滅への道を引き延ばす事ができる可能性をもたらすのだ。
だが・・・話を聞き出すにしてもこの現状ではどうすることもできない。
「美久、この手足の傷だけど・・・」
拭う手はそのままに話しかけようとしたところで乾は言葉に詰まる。
美久の顔は酷く青ざめ、このまま泣いてしまいそうなほど不安気なものだったからだ。
そんなにもルディを心配しているのか・・・? 一瞬そう思ったが、その割に視線の先はルディを見ていない。
勿論血まみれだった身体も綺麗に拭い、細かい傷には植物から抽出したこの地に伝わる特別な軟膏を塗り、血が止まらない四肢に関しては布を当てて押さえて止血を試みたりと、やることはしっかりやっている。
しかしこの傷にショックを受けて放心している・・・というのも違い、どちらかといえば心ここに在らずといった様子だ。
思い当たる事と言えば・・・やっぱりあれか・・・
「レイの過去がそんなに気になるか?」
乾の問いかけに美久の肩がびくっと震えた。
どうやら正解らしい。
乾はふむ・・・と腕を組んで考えを巡らせた。
───ルディの語ったレイの過去。
確かに美久からすれば気分のいい話ではないだろう。
とはいえ、乾にとってそれは特に問題にするような話には感じなかった。
今でこそ女日照りで大変寂しい日々を過ごしている乾だったが、嘗て都が存在していた頃の彼は女遊びが過ぎる程で、要注意ブラックリストの常連だった。
恐らくは世の女性からは非難囂々罵倒の嵐となるのは避けられない思考だろうが、ひとりに決めてしまうという事自体が難しく、二股どころか何股なのか憶えていない程奔放な日々を過ごし、そんな彼にとってレイの過去とやらは批難すべき汚点にはならなかった。
そもそも今現在、恋人を美久ひとりに絞っている点やリーザという婚約者には手を出していないらしいという話を考慮しても、奔放が過ぎた自分とレイは少し色合いが違う気がするのだ。
「所詮はルディの言い分だからなあ・・・。状況証拠ではあるかもしれないけど、物事の一部を切り取ればいくらでも話は膨らませる事が出来る。・・・と言っても、反論があるならあの場でするか」
「・・・・・・」
「そんなに気になるなら本人に聞いたらいい。一人で考え込むより建設的だと思うけどね。それで関係が終るなら元々縁が無かったってだけで・・・、と、これは失言か。・・・・・・まぁ、俺が言うのもなんだけど、レイはそんなにいい加減な奴には見えない。はぐらかしたりはしないんじゃないか?」
きつい言葉かもしれないが、此処までが乾の精一杯の助言だった。
そもそも周囲がどうこう言える問題でもないだろう。
それが功を奏したのかどうかは定かではないが、沈黙を続けていた美久がやがて小さく頷いた。
「そう、・・・ですね・・・。私たち、どうして大切なところでいつも言葉が足りないんだろう・・・」
そう言って、ルディの傷を押さえる手の位置を少し変えながら小さくため息を吐く。
「美久達って、もしかして結構遠慮し合ってる?」
「・・・えっ」
「程度にもよるだろうけど、アイツ、美久の我が儘ならかなり受け止めそうだけどなぁ」
「・・・そう・・・、かもしれません。・・・・・・我が儘か、それだったら、私よりレイに必要なのかも・・・」
「アイツに?」
「強引に手を伸ばした後に、一歩引いてしまうというか。・・・まるで意見の違う2人のレイが、彼の中でせめぎあってるみたいな時があるんです」
「へえ」
「私が・・・レイの求める私じゃないから、小さな我が儘ひとつ満足に通せないのかな・・・」
「どゆこと?」
「・・・・・・、いえ・・・・・・、なんでも」
小さく首を振り、美久は寂しそうに笑う。
乾は詳細を聞いてみたかったが、いきなり彼らのことに首を突っ込み過ぎるのも警戒されてしまうかもしれないと思い、それ以上深入りするのはやめておいた。
今はとりあえず話を変えようと考え、乾は先ほど自分が言いかけたことを思い出す。
「あのさ、ルディの手足の傷、これは治らない可能性がある」
「えっ!?」
「これは多摩がつけたものなんだ。その時傍で見てたから間違いない。・・・で、基本的に多摩の攻撃ってのは癒えないんだ」
「・・・そんな」
「首の・・・これは咬み傷ね。時間はかかるけど治ると思う、攻撃とは違うから。でも手足は駄目だな、動かなくなるか最悪失血死・・・」
「・・・どうして」
「多摩はちょっと特別でね。性格も難ありだけど、力の種類っていうかな・・・そういうのが他の誰とも重ならない。・・・・・・でもまあ・・・この件は正攻法が駄目なら姫さま通じてなんとか治す方法がないか打診してみるか」
「美濃ちゃんを通じて?」
「姫さまのいうことなら結構多摩は耳を傾けるんだよ」
「・・・っ、なら私から美濃ちゃんに説明を」
「いや・・・、美久には俺の説明が通じなかった場合にお願いするよ」
「でも乾さんにそこまでしてもらうわけには」
「本音を言えばあまり乗り気じゃないんだけど、俺たちも当事者なんだ。たぶんルディはバアルでも結構上の階級の軍人だ。さっきの話しぶりじゃ宮殿への出入りも許されてるみたいだし、着てる軍服もレイと同じで特別仕様、恐らく間違いないと思う。俺たちにとってそういう相手を傷つけたってのはちょっとまずいんだ。・・・バアルは巨大だ、対立する火種は最小限に留めたい。わかるだろ? これが俺たちの問題もあるってことが」
「・・・」
「だから美久、今日はもうレイの所に戻っていいよ。此処に美久を連れて来たのは、一端あの場から離れないとレイが何するか分からないと思えて、時間を置いて少し冷静になった方が良いと俺が勝手に判断したからだ。・・・コイツは俺が看ておくし、死なせないよう最大限努力はする」
「でも」
「美久はルディが追って来たことに責任を感じてるのかもしれないけど、あまり彼らには感情移入すべきじゃないと思う。あくまでレイが例外なだけであって、他の連中は美久を基本的に捕食対象と見ている筈だ。それがレイの女だってことで多少違う視点で見る連中もいるのかもしれないけど、かなりの少数派だろうな。・・・それに、ルディの傷については今のところ出来る事は限られてるから、美久がやれることはほとんどない。・・・・・・それよりも、美久が今すべきことはレイと話すことだろ? あいつからしたら、美久が自分を置いてルディの所へ行ったように感じただろうし・・・・・・何より、ちょっと様子が変だったのが気に掛かる」
乾にそう言われ、美久は何も言えずただ小さく頷く。
確かに治らないかもしれない傷だと言われては、自分では出来る事は殆ど無い。
レイと話すべきだというのも全くその通りで、彼の様子がどこかおかしかったのも気づいていた。
けれど、ルディが話すレイの秘密というのが、自分の知るレイとは別人の話をされているみたいで凄く怖かったのだ。
婚約者の影、レイの周囲に居たかもしれない多くの女性の影も、想像するだけで胸の中にどす黒い感情が渦巻き始める。
これは嫉妬なんだろうか、そんな可愛い感情でもない気がする。
知りたいけど知りたくない、正反対の思いが自分を惑わす。
だって、さっきのレイは聞く事すら拒絶しているみたいに見えた・・・
・・・ううん、そうじゃない。
本当はただ確認するのが怖いだけかもしれない。
私に意気地がないだけ・・・
「・・・また、明日様子を見に来ます」
「ああ」
なけなしの勇気を振り絞りながら、美久はレイの元へ戻ろうと部屋を後にする。
乾はそんな彼女の背中を見て笑みを漏らすと、再びルディの傷に意識を移してふぅと息を吐いた。
「あーあー、せめてコイツが女の子だったらもっと楽しいのになあ。・・・まあ、言ったからにはやるけどさ・・・」
そんな風に呟きながら眠そうにあくびをして、桶の中の血にまみれた水を綺麗なものに変えるため、彼もまた部屋から出て行った。
▽ ▽ ▽ ▽
広い廊下を歩きながら美久はまだどこか思い悩んだ様子で考えを巡らせていた。
しかし、ふと立ち止まり、突然きょろきょろと周囲を見渡す。
どこかからフワフワと漂う香りが鼻をかすめたのが、やけに気になったのだ。
───何だろう・・・、甘いにおい・・・
周囲を見回しても特に匂いの正体となりそうなものは無かった。
そのうちに香りは薄くなって、結局それが何だったのかは分からないまま長い廊下に沈黙だけが続く。
美久は首を傾げながら再び歩き出し、小さな溜息を吐き出した。
そう言えば・・・この通路で合ってるのかな。
何も考えずに来ちゃったけど、戻る道順くらい乾さんに聞いておけば良かった。
自分が今どこを歩いているのか、実はあまりよく分かっていなかった。
昨夜はレイと此処にやってきたが、分かるのは入り口から案内された部屋までの道順くらいだ。
今日だって自分で湯殿まで行ったわけでは無く、眠ったまま連れ出されたので方向感覚すら殆ど掴めていない。
迷子になったらどうしようか・・・少し不安になってきた。
しかし、大きなフロアに出たところで大扉が目に入り、そこが何となく見覚えがある光景に思えた。
そうだ・・・、昨日はこの大扉から入って来たんだ。
今もちょうど昨日くらいの暗さになりかけていて、より鮮明に記憶が重なる。
見知った場所に出た事でほっと安心し、周囲を見回してから昨夜多摩が自分たちを誘導した方向へと進んでいく。
よく見たら通路は右にも左にもあったが、意外にもしっかりと憶えているものだなどと自分に少しだけ感心してしまった。
この広い通路をひたすら真っすぐ進むと、他とは少し大きさの違う扉があったはず・・・そう思い描きながら目を凝らして扉をひとつひとつ確認していくと、思った通り一つだけ他よりも大きくて立派な扉の部屋の前まで辿り着き、正しい道順を進んで来たことに安堵する。
そして扉を開けようと手を伸ばしたところで、何故かまた甘いにおいがどこかから香ってきて、それが鼻腔をくすぐる。
もしかして、匂いは部屋の中から・・・?
よく分からないまま、誘われるようにふらりと部屋に足を踏み入れた。
けれど、部屋の中はシンと静まり返り、灯りが全くついていない。
既に日が落ちてしまい、人影すら見えなかった。
レイはいるの? ・・・まさか戻っていないなんて事は・・・
足下に気をつけながら、注意深く中の様子を探る。
部屋の中ほどまで進んだところで、続きになっている奥の寝室から物音が聞こえたような気がした。
どうやらレイは戻っているようだ。
その事にほっとしながら、美久は寝室の扉をノックしてからゆっくりと開けてみた。
だが、その瞬間、
「・・・えっ?」
バサ・・・ッと大きな音と共に風が吹き、美久の髪が大きく揺れた。
面食らって動きが止まるも、部屋の奥を見て窓が開いていないことに気づいて疑問が膨らむ。
ならば、この風は何なのか・・・答えはすぐに出た。
ベッドの上に、背を向けたレイが座っている。
しかも彼の背には未だ巨大な黒羽が生え揃っていて、時折それが羽ばたき、今みたいに大きな風を生んでいるようだった。
「・・・・・・レイ・・・?」
美久の声に、レイの肩がぴくんと反応する。
ゆっくり彼女を振り返ると、金色の瞳が闇の中でも光り、真っすぐに美久を捉えた。
その異様な様子に驚き、美久は息をのむ。
「・・・おかえり」
レイは静かに微笑み、こちらへおいでと美久に手を伸ばす。
美久はレイのこの姿がまだ少し怖かったが、おずおずと彼に近づき差し出された手をとった。
触れ合ったレイの手がとても冷たくて、思わず彼を見ると金の瞳と目が合う。
瞬き一つせず、表情もない・・・。
これは本当にレイなんだろうか、自分の知るレイとはどこか違う気がして不安になる。
バサ・・・ッ、・・・また黒羽がゆっくりと羽ばたく音がした。
「・・・・・・レイ?」
レイの手をぎゅっと握り、顔を覗き込む。
金の瞳はちゃんと自分を見ている。
だけど、どこかがおかしい。
確かに彼は自分を見ているのに、何も見ていないように感じるのだ。
「ああ・・・そうか。・・・・・・質問に答えないと・・・・・・、オレは、美久に聞かれたこと、なら、・・・答えるって・・・言った」
「質問・・・?」
レイが何の話をしているのかよく分からず首を傾げる。
「さっきは・・・遮って、ごめん。・・・美久だけには、・・・知られたくなかった。・・・なのに・・・ルディが、・・・・・・から・・・」
「・・・・・・っ」
最後の方は聞き取れなかったが、途切れ途切れのその言葉を聞いているうちに、レイが何の質問に答えようとしているのか何となく分かったような気がした。
彼は『ルディの今の話は本当なのか』と、そういう趣旨の問いかけを美久がしかけたことを言っているのだ。
あの時、それを聞かれるのを拒絶するように唇を塞がれたのは、どうやら気のせいではなかったらしい・・・。
「あれからずっと考えてたんだ・・・・・・、だけど、ルディが見たものだって・・・紛れも無い事実だと思ったら、・・・もう言葉が・・・見つからないんだ」
「・・・っ!?」
一番否定してほしかった本人に肯定されてしまい、美久は言葉を失う。
せめて過去の事だと流してくれればいいのに、どうしてそんなに思い詰めた顔をするのか。
胸の奥が重い・・・どす黒く焼け付くような、とても嫌な感情がジワジワと広がっていくのを感じる。
「・・・・・・リ、・・・リーザ・・・という人は・・・・・・」
「ああ・・・・・・、言われてみれば、リーザも・・・段々、変になった。・・・・・・だけど・・・・・」
レイは話している間、不自然な間が何度もあいて、やけに苦しそうな顔をする。
つい先ほどまで食い入るように美久の瞳を覗き込んでいたにも拘らず、今の彼は視線を宙に漂わせているばかりで明らかにどこも見ていない。
「・・・・・・・・、オレは・・・いつも、・・・心の中で、・・・夜なんて来なければいい・・・必死に懇願、するのに・・・・・どうしてリーザまでそれを望むのか、わからない・・・・・リーザがそれを望むのは辻褄が・・・合わない・・・・・・」
暗い部屋の中、金の瞳が仄かに光を放つ。
美久が知りたいのはリーザがレイにとってどんな女性だったのかということなのだが、彼の言葉だけではその関係性は分からない。
伝わるのは、彼女の話をするレイの瞳が、ただただ哀しみに暮れているということだけだった。
だけど、辻褄ってなに?
好きならそう言う事もいずれは望むようになるだろう。
なのに、リーザという人が自分を望むのは間違っていると、そうレイは考えているのだろうか。
それに・・・"夜なんて来なければいい"って・・・、レイにとってそれは望んだ事ではなかったということ・・・?
「・・・あ、」
レイは突然小さく声を上げ、自分の耳を塞いだ。
苦しげな表情が気になって彼の顔を覗き込むと、彼は呆然とした顔で美久を見上げる。
「・・・レイ?」
「・・・・・・・・誰かが、・・・嗤ってる・・・・・・」
そう言った彼の瞳は酷く不安定に揺れていた。