『約束』

○第11話○ 誘惑する香気(その5)







 ───誰かが嗤ってる───

 それはレイの頭の中で起きたことで、美久には到底分かる筈も無い言葉だった。
 けれど脳内に襲いかかる嘲笑う声は方々から響き、彼にとっては現実の音なのだ。
 声の主は身体を重ねた女達のようでもあり、リーザやクラークのようでもあり、また自分自身の嗤い声のようでもあった。
 深い闇に喰われそうなその感覚に、レイはぶる・・・と小さく震える。
 毎夜繰り返される狂宴。
 強制的な交わり、自由にならない身体、果てる度に堕ちていく・・・あの頃の己の姿が脳内で強烈に蘇る。
 全ては幾重にも蓋をして閉じ込めておいた過去だ。
 しかし、喩え思い出したところで、それなりに流す事も出来るようになった遠い昔の話だった。
 にも拘らず、再びその過去に振り回されてしまうのは、ルディの暴露だけが原因ではない。
 強引にバアルに連行されてからの出来事が否応にもあの頃の自分を思い出させ、逃れようと思うほど追いつめられていく。


「何で・・・今まで、普通にしてられたんだろう・・・、・・・思い出せない・・・」

「どうしたの、レイ?」

 ルディが見たものに対して理解を示したのは、そういう視点もあるのだろうと酷く客観的に思った自分がいたからだった。
 自分とは真逆の印象を持つ視点に対し、その時の状況を見せられるわけでもないのに反論しても虚しいだけだろうと思った。
 あの頃のレイが己の感情を殺して夜を過ごしていたと、誰が想像するだろう。
 偶々目撃したルディのような者がいるなら、それはレイの性欲を満たす為に用意された女たちだと誤解しても不思議ではない。
 全てはそう見えるようクラークが仕向けた結果だからだ。
 けれど、触れてくる身体はどれも気持ちが悪かった。
 聞こえてくる嬌声に耳を塞ぎたかった。
 目の前の淫蕩な世界から消えてしまいたかった。
 急激に力が抜けてしまい、レイは大きく項垂れてそのまま目の前の美久の肩に顔を埋めた。
 そして、彼に何が起こっているのか分からず戸惑うばかりだった美久は、自分の肩の上で眉を寄せて目を閉じるレイが、まるで小さな子供のように見えてしまい、反射的に彼の身体を抱きしめる。
 そんなつもりは無いのに、これではまるでレイを追いつめているみたいだと思った。


「・・・だけど・・・・・・この匂いは・・・、・・・・・・好きなんだ」

「・・・レイ?」

「・・・・・・君だけは平気、・・・触りたい。・・・・・・・・・はじめて、・・・大事な、・・・・オレの・・・・・・」

 吐息を漏らすように囁いたレイの言葉を聞き、美久は唇を震わせ、彼を抱きしめる腕に更に力を込めた。

 ───ああ、そうか。
 レイにとっては全て繋がったものなんだ・・・

 そう思ったら堪らなくなった。
 美久が忘れてしまった過去も、レイにとっては過去ではない。
 全てが繋がっている。
 それは、今この瞬間でさえも。
 分かっていたようで全く分かっていなかったのだ。
 今の言葉で、過去の自分に向けられた想いの強さを美久は漸く理解した気がした。
 そして、ふと、レイのこういった過去についても自分は知っていたのだろうかと考える。
 今の彼を見ていると、ルディの見たものとはまた少し違う事情があるように思えてならないのだ。
 だからもし知っていたなら、こんなふうにレイを苦しめずにすんだかもしれないのにと・・・。

 だって夜が来なければなんて・・・そんな怯えた言葉が出てくるなんておかしい。
 自分の過去に怯えるなんてあまりにも異常だ。
 過去の断片に酷く怯えて・・・リーザという人にそういう行為を望まれるのも酷く怯えて・・・・・・
 一体どうしたらいいんだろう。
 レイがぎりぎりのところで躊躇して手を引いて、最後の一歩をどうしても踏み込めないでいるのは、私がレイの望む私じゃないからだ・・・

 バサ・・・、黒い翼がまた大きく羽ばたき、その風が美久の長い髪を揺らした。
 不意にレイの目がゆっくりと開かれ、懸命に彼を抱きしめている美久の横顔に視線を向ける。
 それに気付き、美久も彼を見つめ返す。
 レイが今何を考えているかは全く分からないけれど、やはりどこか危うい不安定さがその瞳の中に宿っているような気がした。


「・・・・・・もっと・・・触りたい・・・」

 そう言って、そのまま彼は美久の喉元に唇を這わせ、体重をのせて彼女を組み敷く。
 横で留めているだけの簡単な寝衣だ・・・裸に剥くのは容易い。
 前を合わせただけの胸元は大きく開かれ、彼の舌先が柔らかなふくらみの頂きに向かってゆっくりと辿っていく。
 レイが正気ではないかもしれないと思うと少し恐怖はあった。
 黒羽を背に携えたまま金の瞳が闇に光り、この状態でどんな風にされるのか想像すらできない。
 レイが少し力を入れただけで美久の身体など簡単に引きちぎられてしまうだろう。
 だが、過去の断片に怯えるレイが触れたいと切望する意味はあまりに大きく、拒絶など出来る筈も無かった。
 バサ・・・バサ・・・、再び黒羽が大きく羽ばたく。
 尖らせた舌が胸の頂きを捉えて執拗に刺激を与え、唾液に濡れた水音が激しく響き渡る。


「ん・・・っ」

 昨夜から今朝にかけて散々抱かれた身体はそれだけの刺激でも簡単に反応してしまう。
 敏感に感じてしまう自分の気を逸らそうと小さく身じろぎをしたが、呆気なく両腕が掴まれてベッドに重く沈んだ。
 ピチャピチャと耳を刺激する音が延々と部屋に響く。
 ぷっくりと立ち上がった頂きが固く尖り、時折わざと立てた歯に甘噛みされ、その度にくぐもった喘ぎが喉の奥から漏れた。
 そのうち首筋や耳たぶにも舌先は動き、レイの熱い息が耳にかかってビクンと身体を震わせると、かぶりつくように口を塞がれて今度は口腔内を熱い舌に蹂躙される。
 縦横無尽に動く舌は美久の舌を捉えて巻き付き、息苦しくてもがくとほんの少し力を加減する様子を見せたものの、解放する気はなさそうだった。


「・・・・・・ふ、・・・う、・・・っ」

 伸し掛かるレイの身体は服越しにも拘らず、やけに熱い。
 直接触れている舌や唇、腕をつかむ手のひらなどは言うまでもなく、彼がとても興奮している事が否応にも伝わってくる。
 美久もまた朝方まで与えられた刺激が蘇り、触れられた場所から全身に熱が伝わっていく。
 くちゅ・・・、レイの舌が美久の舌を弾き、名残惜しそうに唇が離されると彼と視線が重なった。
 レイの瞳は相変わらず金色に瞬いて、その唇は微かに弧を描いている。
 けれど、笑っているようには見えない。
 とても哀しそうな瞳だった。
 そしてレイは、その瞳を揺らめかせながら、苦しげに己の想いを吐露しはじめたのだ。


「───・・・・・・あの男から、美久がオレの所為で変わってしまうと聞いて、堪らなく嬉しかったんだ。・・・・・・ゾクゾクして、叫びだしそうになった。・・・・・・だから罰が下った・・・」

「・・・罰?」

「オレは汚れてる、腐り落ちそうだ・・・・・・。・・・本当は・・・こんなに綺麗なものに触れたらいけなかった。・・・だってそうだろう? 引きずり込むばかりだ」

「・・・・・・」

「・・・そうやってオレはこの先、どうやって・・・、腕の・・・中に・・・」

 留めたらいいか、そればかりを考える・・・
 考えつくのは、浅はかな事ばかり・・・だけど、それすら止められない。


「・・・? ・・・なに、・・・今、何て・・・」

「だから、さっき・・・試してみたんだ・・・・・・オレ、どうなのかなって・・・」

 そう言ってレイは美久の両腕を掴んでいた自分の手を離し、上半身を僅かに起き上がらせた。
 瞬間、シュッと鋭い音が空を切り、右の手のひらを美久の目の前にかざす。
 その直後、美久の頬に暖かいものが雨のように降り注いだのだ。


「・・・・・・え?」

 美久は頬にかかるそれを指先でなぞり、その間もぼたぼたと降り続けるのを感じながら、頭の芯が溶かされそうな甘い香気に強烈な目眩を憶える。
 同時に、自分はこの香りを知っていると感じた。
 外に居たときも、此処に戻る間も、この部屋に入るときも、この甘い香りをずっと感じていたのだ。

 あれは、・・・全てレイの・・・───?

 今まで彼が血を流していた時は幾度となく有った。
 けれどこんな風に甘く香ったことも、それに目眩を憶える事も一度だってなかったのだ。


「・・・・・・あっ・・・」

 頬を濡らしたものが徐々に流れを作って口の中に零れ落ちてくる。
 ごくん、喉が鳴った。
 次々と零れ落ちてくるそれが口の中に広がって、喉の奥が待ち遠しさに上下する。

 甘い・・・、とても甘い・・・・・・

 美濃に飲まされたものとは比べようが無かった。
 全身に広がる甘さは喩えようが無く、ぶる・・・と鳥肌が立つ。
 それしか考えられなくなりそうな恐怖さえ感じられた。


「・・・・・・オレは、・・・美味い?」

「・・・・・・っ」

「アイツ・・・多摩は、肉を食んで傷を広げてやりたいって言ってた」

「・・・は、・・・」

 次々に口の中に流れ込んでくる温かいそれが喉を通るたび、経験した事の無い強烈な感覚が頭の芯を襲う。
 それは快感にも似た狂おしい程の嵐だ。
 ドク、ドク、ドク、ドク、早鐘のように心臓が打ち鳴らされる。
 気づけば目の前にかざしたレイの右手をつかみ取り、その傷口に舌を這わせていた。
 派手に傷つけたのか、裂かれた傷口は結構深い。
 裂けた部分から溢れた血液を直接舌で舐めとり、それが喉を通ると恍惚に全身がわなないた。


「・・・あ、・・・ふ・・・・・・」

 けれど、次第に裂け目が小さくなってしまう。
 あんなに溢れていた甘くて美味しいものが舌の上で香りを楽しむ程度の量しか出てこない。
 もどかしくてもどかしくて、手のひらに少しだけ歯を立てた。


「・・・もっと欲しい・・・・?」

 そう問いかけられ、レイと目が合う。
 彼は美久が自分の手のひらを舐めて、もどかしく強請る表情を間近で眺めていたらしく、酷く興奮した目をしていた。
 そして、美久の顔中を濡らす己の血液に唇を這わせ、舌で舐めとり、口に含んだまま彼女と唇を重ねる。


「・・・ふう、・・・っふ、・・・ん、ん」

 絡む舌に混じって甘い味がする。
 美久は自分からレイの舌に絡み付き、甘いそれを追いかけるように吸い付く。
 口いっぱいに甘い味が広がっていく・・・、それが彼の唾液とともに喉の奥を通り過ぎ、また強烈な感覚が全身を襲って鳥肌がたった。
 絡んだ舌先からはあの甘い味はどんどん消えてしまったけれど、喉の奥を通る彼の唾液さえ、違う中毒性を美久に与えるようで、もっともっととせがむように舌先で強請って、美久は自分から彼の首に抱きつく。
 かつて無い程の陶酔した彼女の様子にレイの背筋がぶる・・・と震えた。
 己の雄が強烈に刺激され、今繋がったら簡単に爆ぜてしまいそうだと思った。
 唇を合わせながら、逸る気持ちを隠す事無く指先を彼女の下肢に這わせ、まるで何度も射精された後のようにそこが濡れている事に更に興奮する。
 バサ・・・、バサ、バサ、・・・レイは黒羽を数度羽ばたかせ、彼女の両足を大きく開いてそこに舌を伸ばす。


「あっ、・・・あ、あ・・・」

 美久は喉をのけぞらせ、皺になるほどシーツを握りしめている。
 これ以上の刺激は必要ないと誘い込むその場所は、いくら舐めても終わりが無いくらい溢れてくる。
 そのうちもがくように首を振り、美久は両足を抱えているレイの腕を掴んだ。
 腕を掴まれたレイは、次第に美久の手に力が入っていくのを感じ、多少の違和感を憶えて視線だけ彼女に向ける。


「・・・・・・はっ、・・・・・・はぁっ、・・・・・・っ、はっ・・・・・・」

 美久は上半身を少し起こして肩で息を吐きながら、自分の下肢に舌を這わせている彼の姿を凝視していた。
 いつものように真っ赤になって嫌がるような素振りもなく、目が合うと、また手を掴む力が強くなった。


「美久・・・?」

「も・・・だめ・・・。・・・、・・・・し、・・・して・・・。は、やく・・・・もう、堪えられない・・・、おねがい・・・・・・おねがい・・・・・・」

 それは懇願に近かった。
 ぼろぼろと涙をこぼし、掴んだ手は震えている。
 明らかにいつもとは違う。
 レイを欲しがっている、それはそうなのだろう。
 だが、何かが違う。
 その答えが見つからぬまま、レイは請われるままに身体を起こして彼女に口づけた。
 舌は美久の方から絡めてきた。
 必死に舌を伸ばし、首に抱きつき、押し倒されるのは自分の方なのではと思える程の激しさだ。


「ん、ん、・・・、ふ、う・・・ん、・・・は、・・・はやく・・・、レイ・・・はやく・・」

「・・・っ」

「おねが、はやく・・・・はや・・・、ッ、あーーーーッ」

 なり振り構わず強請る様子に我慢がきかなくなり、伸し掛かるのと同時に身体をつなげた。
 あまりに容易く飲み込まれ、その快感に息を止める。
 そうしないとすぐにでも果ててしまいそうなのだ。
 かわりに美久の喉がひくひくと鳴り、下肢ががくがくと震えていて、彼女の方は呆気なく達してしまったようだった。


「・・・っは、・・・あぅ・・・、も、もっと・・・、して、・・・もっと」

 びくびくと震えながら濡れた瞳が次を強請る。
 苦しげに喘ぐ唇を塞ぎ、注挿を開始するとぐじゅぐじゅと激しい水音が響き、彼女の中も音に合わせるように蠢く。
 いつもならこんな音が聞こえただけで恥ずかしそうにして泣きそうになるのに、今はレイの動きに会わせてゆらゆらと腰が動いていた。
 見た事も無い淫らな彼女の姿に目が釘付けになる。


「・・・強くがいい? それとも浅く?」

「・・・つ、つよくて・・・・・・ふ、深く・・・、して、ほし・・・っ、あ、・・・あーーっ、あーー」

 高揚した瞳に淫らに強請られ、言われるままに深く強く突き入れると、美久はぼろぼろと涙をこぼしながら小さな悲鳴を上げた。


「ひぁ・・・、っ、・・・あああーー、あー、ああーーー」

 喉を逸らせながら美久の指先がレイの肩を引っ掻く。
 その僅かな刺激に背筋に電流が走ったように鳥肌が立ち、抑えきれない強烈な射精感が襲い来る。


「あ、あ、っ、あああっ、あああー」

 耳に届く嬌声も、熱い吐息も、蕩ける眼差しも何もかもが堪らない。
 彼女の中も信じられないくらい淫らに締め付けてレイを追いつめ、何もかもが飲み込まれてしまいそうだった。
 レイは美久を抱きしめ、止まらない腰を更に拙速に動かし彼女の肩に顔を埋める。
 不意に美久の歯が肩にあたる。
 最初は掠める程度だった。


「・・・は、あ、・・・あう、・・・あーー、あああー」

 今度は喘ぎながら強く噛まれる。
 それでももどかしいのか、彼女は顎に力を入れてレイの肩に歯を立てる。
 レイは激しい注挿はそのままに何となく彼女の意図を理解した。


「・・・っは、・・・欲しいの?」

「あっ、あむ・・・ん、・・・ふうぅ、あああーー」

 もうすぐ爆ぜてしまいそうなのに、そんな刺激をされたら酷くしてしまいそうだ。
 けれど、美久はもう自分を止められないのだろう。
 きっと何をしているのかも分からないほど夢中になってしまっている。
 しかし人の力ではレイを傷つける事は出来ない。
 そんな刺激は興奮する材料にしかならない。

 ああ、もう持たない。

 レイは僅かに身を起こし、己の肩口に深く爪を突き立てる。
 ぐっと胸に向かって肉ごと一気に皮膚を裂き、肩を中心に指が辿った場所全てから血が噴き出した。
 すぐに美久の唇がそこを辿り、溢れる程のそれを飲み下して喉が何度も上下する。


「ああ、・・・ふあぁ、ん、ん、ん、、んッ、は、あああ、ああああああああ」

「・・・ッ、・・・んっ・・・」

 美久は必死に傷口が消えないよう歯を立てながら、激しい絶頂にうち震えた。
 レイもまたこれ以上ないほどの限界を感じ、彼女の中へその全てを注ぎ込みながら背の黒羽もまたビクビクと痙攣をする。
 彼女が噛んだ先からも喩えようの無い感覚がレイを襲っていた。
 全身が性感帯になってしまったかのように、何をしても、何をされても快感にすり替わっていく。

 これは何だ。
 何が起こっている・・・

 激しい疑問を抱きつつも、今度は猛烈な虚脱感がレイを襲う。
 意識が霞む。
 美久を見ると既に気絶していた。
 唇の周りを血で染めて、目尻には涙が浮かんでいた。
 その唇を舌先で辿りながらレイもまた目を閉じる。
 とても起きていられない。

 ああ、だけど・・・・・・ひとつだけ、分かった気がする。

 罪悪感と共に、それより大きな高揚が胸の中で荒れ狂う。
 あまりに狂った思考が胸の中で踊り狂う。

 ・・・・・・美久は・・・もう、・・・元には戻らない。
 オレがこうした、オレだけが彼女をこんな風に狂わせる。
 こんな場所まで堕ちて、君が可哀想だと思うのに、腹の底で途轍も無く肥大して膨れ上がった欲が満たされている。
 こんな風にしか縛り付ける事が出来ない気さえした。
 もう二度と、他の誰かのものなんて口にはさせない。
 美久はオレだけを食んでいく。
 そうして、オレ無しでは生きていけないようになればいい。
 だから、オレだけを・・・
 最後にはオレの全部をばりばりと食べちゃってもいいから───









その6へつづく



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