『約束』

○第11話○ 誘惑する香気(その8)







 部屋から出た多摩は無言のまま廊下を進んでいた。
 その後ろに付き従う巽もまた、真っ直ぐに伸びた大きな背を見つめながら沈黙を続けている。
 彼の表情はやや険しく、考え込んでいるようでもあった。


「・・・なんだ」

 もの言いたげな視線に気づいてか、多摩が顔を向ける。


「・・・・・・いえ・・・」

「・・・言いたいことがあるなら言え」

「・・・・・・」

 巽は僅かに逡巡しながら目を伏せる。
 しかし、すぐに唇を引き締め、意を決したように口を開いた。


「神託は、もうしないものと思っていました」

 その率直な言葉に、多摩が小さく笑う。


「それをおまえが言うか。おまえは俺に神託をしてほしかったのだろう? バアルとの密約を履行しない俺を時折不服そうに見ていたではないか」

「しかし、これは密約とは別の話です。レイ殿に神託を授けても、バアルに神子の力を与えることにはなりません」

「そうだな」

 小さく頷いて多摩は沈黙する。
 巽は眉を顰め、その意図を探るように彼を見つめた。
 今のレイは美久を連れて逃げまわり、王の意志から逆行した道を進もうとしているように思える。
 その彼に神託を授ければ、バアルが追っている者に手を貸したと受け取られても反論の余地がないだろう。
 大体、多摩はこれまで密約を交わしておきながら、神子として生きることを散々拒絶して来た。
 巽もこのままではバアルとの争いが再び始まる可能性を考えてはいた。
 にも拘らず、多摩のこの変化は何なのか。
 本来神託をすべき相手を無視してまでレイにそれを授けることに、何の意味があるのだろう。


「巽よ・・・、おまえ、美久の記憶を本当に戻せると思うか?」

 不意に問いかけられ、巽は思考を遮断した。
 そして、若干硬い表情で目を伏せる。


「・・・・・・正直に申し上げますが、うまくいくとは思えません」

「そうか」

「私のこの力は、"殺戮目的"で使用するものです。やはり、このような歪曲した使い方は無理があるのではと」

「・・・くっ、本当に自信がないのだな。・・・なに、おまえが失敗しても、レイと美久は"戻ってこられず"に再起不能になるだけだ。その時は一滴残らずレイの血を飲み干してバアルに送り返してやろう」

「・・・っ、そんな事をすれば」

 冗談とも本気ともとれる言葉に動揺する巽を見て多摩は皮肉気に嗤う。
 しかし、直ぐに真顔になった多摩は、窓の外を見上げながら憂鬱そうに呟いた。


「まったく嫌な連鎖だ。・・・・・・おまえたちには見えていないのか?」

「・・・は」

「・・・レイの身体に巻き付いている鎖だ。どうして誰も何も言わないのかと不思議だったが、まさかあれが見えるのは俺だけなのか・・・?」

「・・・・・・鎖?」

 巽は眉をひそめ、首を傾げた。
 そんなものが見えたならとうに声を上げている。
 多摩には一体何が見えているというのか、鎖が何を意味するものなのか、巽にはよく分からなかった。


「俺にはバアルから伸びた鎖と、別方向から伸びた鎖がレイに巻き付いているのがよく見える。強固で因縁に満ちたどす黒い鎖だ。・・・・・・そして、その鎖がこの土地に根を下ろそうとしている様子もな」

「・・・っ!? ならば彼らをここから出て行くよう促すべきでは」

「全くの無関係ならそうすべきだろう」

「・・・?」

 その鎖と自分たちは無関係ではないと言いたいのだろうか?
 巽は喉を鳴らし、多摩の言葉を待った。
 窓の外を見つめていた多摩は、僅かに目を伏せると再び長い廊下を進み始める。


「・・・・・・・神子の真似事など、二度とする気はなかったというのに」

 多摩はそれきり押し黙り、後は白装束の衣擦れの音だけが廊下に響いた。
 巽はその意図を探るように艶やかな黒髪が揺らめいている様子を黙って見ていたが、遠ざかる背中にハッとして、多摩の後を追いかける。

 どういうことだ?
 一体何が起ころうとしている・・・この土地にも影響が及ぶ?

 どす黒い鎖。
 その言葉からは得体の知れない不安しか感じられず、巽は強ばった顔のまま多摩の背中を見ている事しか出来なかった。








▽  ▽  ▽  ▽


 レイと美久がそれぞれ目を覚ましてから更に三日が経過しようとしていた。
 その間、二人は一度も会っていない。
 美久の方は、彼からまた甘い香りがして同じ事を繰り返してしまったらと思うと二の足が踏めず、レイはレイで黒羽や金色に瞬く瞳も未だにそのままで、多摩に指摘された通り本能が剥き出しのその状態で、いつまた美久を予期しない方向へ巻き込んでしまうかと思うと行動を起こせずにいた。
 二人とも、美久の記憶を取り戻すために巽の力を借りるという多摩の提案は聞いている。
 しかし、今はそれ以前に二人の心の問題で会えないという、本末転倒としか言いようが無い状態が続いていた。


「よう、こんな所にいたのか」

 レイが正門に腰掛けて空を眺めていると、陽気な声が背中から降ってくる。
 振り向くと、人懐こい笑みを浮かべた乾が近づいてくるところだった。
 乾はレイの背に生える黒羽を見つめ、『まだ駄目か・・・』と呟いて正門に寄りかかる。


「・・・・・・美久は元気か」

「ん、ああ・・・、姫さまがついてる。あの二人、すっかり仲良くなったな」

「そう」

 レイは僅かに安堵して息を漏らし、また空を見上げる。
 二人が仲良くなるのが良い事なのかどうかはよく分からないが、今は誰かが彼女の傍にいてくれるというのはとてもありがたい。
 とは言っても、いつまでもこの状態を続けていいはずが無かった。


「なぁ、・・・神託ってそんなに凄いのか?」

「え? ああ、そう言えば多摩がレイの神託をやるって言い出してるんだっけ」

 思い出したように乾は大きく頷き、正門に座って空を眺めるその姿を振り返る。
 突然多摩が言い始めたその話は、彼も巽から聞いている。
 それは驚くべき話だったが、同時にバアルの密約を履行する為に神託をすると言われるよりもよほど興味の持てる話だった。
 多摩が自発的にそんなことを言い出すことなど、彼の人生に於いて初めての事だからだ。


「俺が多摩の神託を見たのは一度だけ、まだ国が存在していた頃の話だ。姫さまの神託をやったんだよ。キラキラした光が多摩と姫さまの周囲を包み込んで、未来の光景ってのが映像として俺らにも見えるんだ。幻想的な光景だったなぁ」

 乾は遠い昔を懐かしむように目を閉じていた。
 それをレイは静かに聞いていたが、時折そよぐ風が気持ちいいのか黒羽がその場でゆっくりと羽を広げている。


「・・・・・・ただ、その内容ってのがなぁ・・・、どういうわけか忘れちまう。それにまつわる光景を目にすると思い出したり、既視感を憶えたりはするから完璧に忘れるってわけでは無いようだが、その理由は俺には分からない。ああ、一応の自衛策として、神託の内容ってのは記録して残されてはいるらしい。そう言えば、宮殿の書庫には全記録が書かれたものがあると巽が言っていたな」

「・・・・・・記録・・・」

 そこまで話を聞き、レイは何だか面倒な力だなという印象を持った。
 記録を取っておくとはいえ、特筆すべき問題がなければ時の流れと共に通り過ぎていくだけだ。
 それに、そういった大きな出来事の起こらない時代が何世代も続けば、残す事が単なる形式になってしまい、実は大変なことが神託で言い渡されていたものを検証すらされず、その時を迎えるというお粗末な結果にもなりそうだが、彼らはどのように折り合いを付けていたのか不思議に思えた。


「あんたたちは、神託を受けてそれをどう活用してたんだ?」

「国の行く末を占うのが目的だったから、安泰ならそれで良しとしていたんだろう。違う未来を望むのは、不吉な未来が占われた場合に限られていたのかもな。そもそも俺らにとっても神子は珍しかったから、実を言うとあまり詳しくないんだ。彼らは山奥に住んでたし、滅多に都には来ないからその力に触れる機会がなくてさ。だから、都の連中にとっちゃありがたいお告げくらいの認識だったんだろうな、俺も含めて。・・・・・・その時の王が俺らと同じ認識だったかは分からない。少なくとも、まだ幼い姫さまには神託の何たるかも分からず、判断は王にゆだねられた。そして、あの時の王の判断が結果的に国家の崩壊を招いたんだ。もしもなんて考えることに意味は無いが、あの時に違う未来を望んでいれば国が崩壊することはなかったかもしれない。・・・・・・そうなれば、多摩と姫さまが結ばれる事も無かったかもしれないが・・・」

「・・・・・・? 国の崩壊とあの二人が結ばれる事になんの関係があるんだ」

「・・・それは・・・、姫さまの婚約者が巽だったからだよ。・・・あのまま国が続いていれば、そういう未来も有ったってこと」

「巽って、・・・あの男が・・・?」

「あー、・・・ちょっと喋り過ぎたな。まぁ、なんつーか、この国の崩壊の影には複雑な話が折り重なっているってことだ。・・・なんだか話が逸れたけど、神託に関して俺が知ってるのはこんなところか」

「・・・・・・」

 レイは眉をひそめて沈黙する。
 生き残りとされている数人が元はどのような立ち位置にいた者だったのか、それによって見えてくるものが変わりそうな話だ。
 神子・・・即ち多摩は普段は山奥にいて、美濃、巽、乾は都にいた。
 乾の言葉から察するに、彼らは多摩が神託をすることで関わりを持ったのだろう。
 しかし、王の判断に間違いがあったという考えが働くということは、神託の中で既に国の崩壊は暗示されていたという事ではないのか。
 それを見抜けずこの国は崩壊の道を辿り、何故か彼らとこの宮殿だけが残ったと。
 この土地の事情というものに首を突っ込む気は更々ないが、少なくとも国が崩壊するという裏にはそれ相応の暗い影が有りそうではあった。
 レイは髪をかきあげながら嘆息し、神託というものの本質を考え、ふと感じた疑問を口にした。


「未来を見て、望まないものだったら変えられるって・・・、一見何でも有りだなって思えるけど、それってとばっちりを受ける奴が出るってことだよな。もしかしたら身近な誰かに及ぶ可能性だってあるし、それが広範囲に及ぶことだってあるはずだ。それでも強行するって、随分勝手な話だ」

「・・・え?」

 乾は驚いたように目をしばたかせ、『どういうことだ?』と反対に質問を返す。


「今の話にしたってそうだろ。国の行く末を占うのが神託の目的だったにしろ、違う未来を求めなかったのなら美濃は元から多摩の女になる運命だったということだ。なら、神託を受けたのが巽だったらどうなんだ? 巽が自分と結ばれるように願えば美濃はアイツのものになってしまうんだろう? そうなると、本来歩むべき未来から外れた方はどう逆立ちしたって手が届かない存在になってしまう。知らないうちに運命変えられた方にしたら堪ったもんじゃない」

「・・・あぁ・・・言われてみれば。・・・そういう考え方もあるんだな」

「未来が不幸だからって、そんな形で歪めてしまうって究極の自己愛だろ」

 そう言って憮然とした様子で空を見上げているレイを、乾は感心しながら見つめた。
 レイのような発想は無かった。
 国が存在した当時でさえ、そんなことを言う者は誰一人見たことがなかった。
 だからあの頃にこの疑問を投げかけた者がいたとしても、国の為なら犠牲はやむなしという答えしか返ってこなかっただろう。
 しかしそれは、同時に危険な思考にも繋がる。
 いくらでも神子を悪用しようと思えば出来てしまう。
 そうして他人の人生を狂わせてしまえる。

 と、そこで乾は"ある事"を思い出し、何気なくそれを口にした。


「バアルの王も、その昔、多摩の神託受けたんだよな・・・」

「・・・えっ?」

 すっかり忘れていたが、その前提があったからこそバアルとの密約が為されたのだ。
 バアルの王が執拗に神子の力を欲しがるのも、多摩の力を知っているからだ。
 神子の力を得たいという欲があるからこそ、此処まで密約を反故にされ続けても黙っているのだろう。
 そこまで考えたところで、レイが酷く驚いた顔で自分を凝視していることにハッとして、乾は誤摩化すように笑みを浮かべた。

 ・・・・・・コレ、喋ったのはまずかったか?
 もし、視えた未来と違うものをバアルの王が望んでいた場合、レイにも影響が及んでいる可能性がある・・・。


「・・・いや、記憶違いだったかも。・・・うん、まぁ、それはさておき、神託を授かるくらいなら支障はないと俺は思うけどね。レイが危惧するのもわかるけどさ、違う未来を望まなきゃいいだけなんだし」

「乾、今の話は・・・」

「・・・あー、そろそろ冷えて来たな。レイも程々にして中に入れよ」

「あ、おい」

 乾はわざとらしく身震いをして、そのまま背を向けて去って行く。
 その背中を見てレイは舌打ちし、忌々しそうに自分の指を噛んで考えを巡らせる。

 ・・・・・・なんだそれ。
 クラークが神託って、どういうことだよ・・・
 一体いつからバアルとベリアルは繋がってたっていうんだ?

 レイはぞわりと背筋が粟立つのを感じた。
 嫌な予感だ、途轍も無く・・・余計な問題で時間を割いている場合ではない。
 この土地にまつわる事は自分には関わりのないものと思っていたが、クラークが絡んでいるとなると一気にきな臭くなる。
 多摩に聞いたところで、その内容を簡単に答えるだろうか。
 そういえば、全ての記録が記された書があると乾は言っていた。
 ならばそれに書かれている可能性があるのではないか。
 ふと・・・、レイは妙な視線を感じて振り返った。


「・・・っ!」

 宮殿の最上階の窓から見下ろす多摩と目が合う。
 彼はいつから見ていたのか。
 レイは立ち上がり、この気味の悪い予感を直接多摩にぶつけようと羽を広げようとした。

 ───が、その時だった。

 突如として"黒い影"が現れ、飛び立とうとするレイをふわりと包み込んでしまったのだ。




 ───落ち着け・・・



「・・・・・・え?」

 微かな声だった。
 直接頭の中に語りかけられているような・・・。
 レイは自分を包む黒い影に触れようと手を伸ばす。
 けれど、伸ばした手は空を彷徨うだけで、自分から触れる事はできない。


 ───お前は何も悪くない・・・、何の瑕疵も無い・・・


「・・・・・・」

 レイは反応出来ず、棒立ちになる。
 大丈夫だ、落ち着け、お前は悪くない、ただひたすら似たような言葉が繰り返される。
 一体これは何なのだろう。


「・・・・・・レイドック・・・?」

 何故か彼を思い出して、そう呟いていた。
 そういえば、バアルの宮殿で彼に一度抱きしめられた事があった。
 何となくその感覚に近い気がするのだ。


 ───・・・・・・


 声は返ってこない。
 代わりに、小さく笑っているような気がした。
 やはり彼なのだろうか?
 ふと、自分の身体が軽くなる。
 そう感じたと同時に、黒い影もレイの前から姿を消してしまった。


「・・・何だったんだ?」


 だが、その直後、レイは唐突にある事を思い出す。
 この数日はその問題に散々悩まされてきたが、それが驚くほど簡単な答えだったと気づいたのだ。

 何でオレは今までこれが思い出せなかったんだ・・・・・・?

 そう思った途端、彼の巨大な黒羽が大きく広げられ、そのまま折り畳みながら流れるように背の中へと姿を消していく。
 拍子抜けするほど呆気なく、息をするくらい自然に出来てしまい、レイはわけが分からずただ首を傾げる。

 もしかして、あの声が思い出させてくれたんだろうか。

 ふと、そんな考えに至り、あり得ないと否定しようとしたが、胸の奥に重く伸し掛かっていたつかえが、ほんの少し取り除かれているように思えた。
 大丈夫だと、何も悪くないと、他愛無いそれだけの言葉にそれ程の力があるとは思えないが・・・。
 レイは空を見上げ、小さく息を漏らす。
 姿を現さないのなら、それなりの理由があるのだろう。
 今は山積している問題に一つ一つ向かっていくしか無い。
 そう思い直し、もう一度宮殿の最上階へと視線を戻した。
 多摩と目が合う。
 彼はずっと見ていたのか。

 考えろ・・・、先に動こうとするな。
 今、アイツの所に駆け寄って、オレは一体何をするつもりだった?
 クラークの神託をしたのかと激高し、アイツの手の内にいる美久を人質に取られたら身もふたもない。
 オレがやるべきは、まず美久と会話をして、この手に取り戻すことだろう。
 他の疑問はそれからだ。

 最上階から見下ろし続ける多摩の視線を感じ、このまま彼の元へ飛び込もうとする衝動を抑えながら、レイは血がにじむほど拳を握りしめた。








その9へつづく



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