○第3話○ 動き出した日(その1)
───翌朝。
いつも通り目が覚めた美久は、小さな欠伸をするとベッドから起き上がった。
しかし、腰を上げたところで下腹部に鈍い痛みを感じ、顔を顰めて小さく声を上げた。
「・・・・・・・・・・・・、・・・ぃたたたっ」
昨日の出来事が急激に頭の中を駆け巡る。
たくさんの事が一度に起こってうまく頭の中を整理しきれないけれど、凄い事をしてしまったという事だけは、はっきり自覚出来る。
今日はレイの顔をまともに見れる気がしないと思いながら、美久は真っ赤になった顔を両手で覆った。
「・・・・・・う、大変。こんな時間。・・・・・・学校遅れちゃう」
しかし、時計を目にして一瞬で現実に引き戻されると、美久は素早く着替えを取り出した。
それらを慌てて身につけると勢いよく一階に駆け下り、息つく間もなく洗顔までを一気に済ませる。
そしてタオルで濡れた顔を拭いていた時、そこで初めて父親しかいない筈のリビングから別の声が聞こえた気がして、彼女は思わず息を潜めた。
何だろう・・・
独り言・・・じゃないよね。
こんな平日の朝に、お父さんと・・・もう一人、誰かいるの・・・?
首を傾げながらリビングに近づくと、次第に会話の内容も鮮明になってくる。
「さっきから欠伸ばっかりして・・・もしかして眠れなかったのか?」
「・・・布団がやたらと重くて」
「悪かったね安い布団で! アレしか客用布団無いんだよ」
「・・・オレ、今日自分の荷物持ってこようかな」
「かわいくないなぁ」
それは、いつもと微妙に違うテンションの父の声と、かなり眠そうに受け答えするレイの声だった。
頭の中に浮かんだ疑問符を抱えたまま、美久はリビングへと足を踏み入れる。
そこでは予想外にも二人のまったりした空間が出来上がっていて、ただただ唖然とするばかりだった。
・・・・レイが、お父さんのパジャマ着てソファでごろごろしてる・・・
お父さん、それ見て行儀悪いって・・・説教して・・・
私が寝ている間に、何が・・・・
「あ、美久」
レイは入口で呆然と立っている美久に気づくと、ソファで横になっていた身体を起こした。
「おはよう、身体の調子はどう?」
「あ、おは・・・よう・・・? うん・・・へいき・・・だけど」
「よかった」
あまりに普通に笑いかけられて、思わずつられて笑い返した。
『そうじゃなくて』と内心ツッコミを入れている彼女の気持ちを余所に、レイは少し考え込み、貴人を振り返る。
「なぁ貴人、オレの部屋、美久と一緒じゃダメなのか?」
───な、なに・・・、なんの話・・・?
レイが何を言っているのか美久には全く分からない。
そもそも彼がどうしてここで寛いでいるのか、そっちの方がよほど気になるのだが。
「あのねぇ、君と一緒の部屋なんてあり得ないでしょ」
そして、こんな風に貴人が彼に対して普通以上の親密さを感じさせるトーンで返答しているのも美久には全く理解出来なかった。
「ばかだな、同じ家に住んだら我慢出来るもんも出来なくなるんだよ。だったら一緒の部屋だって同じことなんだよ」
「そんなもん、努力と根性で何とかなるもんだ」
「出来るか」
「ここぞと言う場面で我慢できてこそ男じゃないか」
「ここぞと言う場面で手に入れなきゃ男じゃないだろ」
「・・・それは・・・・・・まぁ・・・そうだなぁ・・・」
何故か美久の意見を無視した話が、レイの意見で纏まりかけようとしている。
しかし、この会話を聞き流すのは非常に危険に思えて、美久は彼らの間に割って入ることにした。
「ちょっと待って!!」
その声に二人同時に振り返り、視線が美久に集中する。
美久は大きく息を吸い込んで自分を落ち着けると、とりあえず一つ一つ疑問を解決していく事にした。
「・・・レイ、昨日・・・家に帰らなかったの?」
「うん。ホラ、貴人のパジャマ」
にっこり笑って、上下ともに七分丈と化した貴人のパジャマを引っ張ってみせる。
それを見た貴人はむっとした顔で話に割り込んできた。
「そんな見せ方したら誤解するだろう? これは普通サイズなんだ。だから、君の手足がはみ出てしまうのは僕の手足の長さに問題があるんじゃなくて、君のサイズに問題があるだけなんだよ」
「なんだよそれ」
「君が規格外なんだってこと。あぁ、布の無駄だなぁ、勿体ない」
「・・・ひがんでるようにしか聞こえない」
「べつに・・・っ、そういうわけじゃ・・・」
───ドンッッ!
そこで大きく壁を叩く音が響き、レイも貴人もハッと美久を振り返る。
「もぅっ、お父さんは黙ってて! 話がずれちゃうでしょっ!!」
見事にずれていく会話を軌道修正すべく、美久は声を張り上げた。
言われた当の本人は両手を挙げ"降参"のポーズをとっているが、それがどことなく苛つかせる。
・・・・・・この人は・・・何で今日に限って子供みたいな事してるの・・・
美久はもう一度レイに向き直り、改めて疑問をぶつけた。
「どうしてウチに? お父さんと・・・知り合い?」
そう問いかけながら、知り合いというには親しすぎる雰囲気に美久は疑問を感じていた。
会話を聞けば聞くほど、まるで昔から互いを知っているようなやりとりは一体なんなのだろう。
「・・・知り合いって言うか・・・・・・オレと貴人は・・・随分昔に少し関わりがあったっていうか。・・・昨日は久々に会ったんだ。それで、・・・一緒に住めって言われたんだけど」
「えっ」
・・・・・・意味が分からないよお父さん。
貴人を見ると、彼はそうなんだよと言って頷いている。
どうしたらそんな話の流れになるのか全く見当がつかなかった。
「聞けば一人暮らしだって言うじゃないか。レイみたいに性格がひねくれてると、僕みたいなまともな大人が見ててやらないと益々ややこしくなるだろうしね。大体、知らないところで美久に魔の手が及ぶのもなぁ。・・・だから、野放しにするよりはマシだと思ったんだよ」
「へ、へぇ・・・」
親子ほど年が離れた二人が一体どこで出会ったというのだろう。
親同士が知り合いだった・・・いや、レイの両親とこの父親との接点が全く頭に描けない。
どう考えても重なり合いそうにない二人だが、こんな風に遠慮無く言いあうと言うことは、それなりに親しい関係には思える。
それにしても、知らないところで手を出されるって・・・・・・
どこまで知っての言葉なんだろうか。
考えただけでかなり憂鬱だ。
それを言うなら一緒に住む方が何かと危険な気がするのだが。
「・・・・・オレが一緒に住むの・・・美久は迷惑?」
心持ち不安そうな瞳で覗き込まれた。
そう言う顔は反則だ・・・美久はぐっと詰まってしまう。
「迷惑じゃないけど・・・。でも、こういうのって変だと思う」
「好きなら一緒にいるのは自然なことだろう?」
「それはそうかもしれないけど・・・。一緒に住むっていうのは結婚してからじゃないのかな。・・・じゃなくてっ・・・そもそも私たちまだ高校生だし・・・」
「結婚してればいいってこと?」
「そうじゃなくて・・・っ」
「高校生だとダメなら学校辞めてオレと結婚すればいい」
「ええっ!?」
「それなら部屋も一緒だって・・・」
「終了〜〜〜〜〜〜〜!! はいはいそこまでですよ〜ッ!!!」
今まさに美久に迫ろうとしていたレイを止めるべく、近くで見ていた貴人が冷や汗を垂らしながら強引に間に入る。
「学校! 早く支度してとっとと行けっ! いいか美久、レイが迫ってきたら出来るだけ遠くへ逃げるんだ! 分かったねっ!?」
貴人の剣幕に圧され、美久は思わず頷く。
それを見て『よし!』と言うと、彼は子供達を学校へ送り出すまでひたすら急かし続けた。
彼は父親として、出来る限りの阻止をするつもりなのだ。
しかし、出来る限りと言ってもこうして家に居るときに邪魔しながら釘を刺す程度で、四六時中一緒にいてやれるわけでも、怒濤のように押し寄せる不安を止められるわけでもない。
それでもレイを一緒に住まわせようと思ったのは、自分の知らない場所で美久に危険が及ぶ恐怖に日々悩まされるくらいなら、手の届く範囲に居させた方が余程マシに思えたからだ。
レイと美久が学校へ行った後の家の中は妙に静かで、貴人はリビングのソファに座って長い溜息を吐きだした。
───『選んだのは美久だ。確かに言ったよ。"傍にいてもいいのか"ってね。それは連れて行っても良いって事だと思わないか?』
昨日のレイの言葉を思い出すと堪らない気持ちになり、どんどん追いつめられていく気分だった。
「あぁもう、・・・待ってくれよ」
貴人はレイが"何者"かを知っていた。
だからこそ、簡単に赦せるわけがなく、出来る事なら一生レイには逢わせたくないと思っていたほどだった。
「・・・なんで美久なんだ・・・・」
貴人は大きな溜息を漏らして、頭を抱える。
本当のことを言えば、彼はこの状況を全く予想しなかったわけではなかった。
あの結界はそれを予期していたからこその予防策だったのだから。
そして彼は、一秒でも長く美久が手の届く所にいられるよう"あらゆる手だて"を尽くしてもいた。
静かな眼差しで貴人は一点をじっと見つめる。
その瞳は先ほどの彼とは別人のように鋭く、そのまま暫く動かなかったので、部屋の中は静かすぎる沈黙だけが続いた───