『約束』
○第4話○ 偽り無き真実(前編) 翌朝、美久が起床すると、既にレイは家にいなかった。 どうやら、貴人に『先に行く』と言い残して学校へ行ってしまったらしいのだ。 昨夜の彼を思うと、どうしても不安が募る。 何日も食事を摂らずにいれば、あんな風に普通にしていられるはずがないのに、平然とした顔で何も要らないと彼は言う。 『人と同じ形をした生き物が、人間が思い描く食物とは別の何かを欲したとしても・・・』 あれはどういう意味なんだろう? レイの言い方では、まるで“彼自身が"人と同じ形をした別の生き物だと言っているように聞こえてしまう。 そこまで考え、美久は馬鹿なことを考えたと頭を横に振る。 ただレイが急に遠く感じて、それが何なのかが分からないでいるのが苦しかった。 それに、貴人の様子も昨日から少しおかしいのも気になっている。 「・・・・・・はぁ」 美久は漠然とした不安を抱えながら、学校へと向かった。 ▽ ▽ ▽ ▽ 一方、美久が家を出たその頃、先に出ていたレイは学校に着いたところだった。 いつもに比べてかなり早い登校だが、教室には部活の朝練があった生徒が既に何人か来ていて、楽しそうな笑い声に包まれている。 「牧口君」 自分の席に荷物を置いた所で、聞き覚えのある女生徒の声が彼を呼んだ。 無言で振り向くと、昨日昼食を共にした佐藤夕子が笑顔で此方へ駆け寄ってくる。 こうやって彼に平然と声を掛けてくる人間はあまりいないので、周囲の視線は自然とレイと夕子に集中し、二人の会話に聞き耳を立てるかのように僅かに教室のざわめきが静かになった。 「おはようっ、今日は随分早いんだね」 とびきりの笑顔を向けて挨拶をするもレイは何も答えない。 それを気にする様子もなく、夕子は話しを続けた。 「ねぇ、美久ちゃんは? 今日は一緒じゃないの?」 「・・・・・・」 「あ、今日もお昼一緒に食べようよ! いいよね?」 「・・・何故オレに言うんだ? あんたの誘いを受ける理由はオレにはないんだけど」 元々昨日の昼食ですら面倒でしかなかったレイには、夕子の誘いを受ける理由が全くない。 それには傷ついた顔を見せた彼女だが、気を取り直しもう一度笑顔を向けた。 「そうだったね、美久ちゃんに言ってくる」 「今日は駄目だ」 「え?」 「・・・・・・」 同じ事を二度言うつもりはないらしく、レイはそれきり黙り込んでしまう。 夕子は『うん、わかった』と寂しそうに言うと、名残惜しそうに彼の側から離れていった。 急激に教室の中がにぎやかになる。 レイがつまらなそうに窓の外を眺める姿をクラスの女子達がチラチラと見ながら、密やかな声で下世話な憶測を繰り広げていく。 だがその中には憶測とは少し違ったものも入り交じっていて、レイは内心、女の情報網というものに感心していた。 「・・・そういえば、佐藤さんてさ・・・、ちょっと前に・・・・・」 「だよね、私もそれ思い出してた」 「何か凄くない? 図々しいというか、身の程知らずというか・・・大体彼氏いるんでしょ?」 「・・・・てゆーか、あの噂ってホントだったの?」 「ホントみたいだよ。だって私の友達が偶然あの現場に通りかかったって言ってたもん。・・・佐藤さん、駅のロータリーで牧口君に大声で泣きながら告白して、しかもあっさりフラれたのに、牧口君追いかけて大騒ぎだったってさ」 「・・・ソレ・・・やばくない?」 彼女達の話していた事は、ほんの一時期噂になったものだった。 そして、佐藤夕子の告白現場に居合わせた者は場所が場所だけにとても多く、この話も全て正解とは言えないが大筋では事実と言えた。 ただこの件は美久の知るところではなく、友達になりたいと言った夕子の言葉をそのまま受け止めていて、レイ自身も昨日の様子を見た限り、今すぐ気にかけてまでどうこうする必要は無いだろうと高をくくっていたのだ。 しかし、突然自分達に関わろうとしてきた夕子の行動が、レイの兄であるあの男と関係しているのなら、彼はもう少し注意を払うべきだっただろう。 頭の中で別の事に囚われるあまり、それがこの後の彼らに多少なりとも影響を与える事など、この時は考えもしなかったのだ。 ▽ ▽ ▽ ▽ その日、レイが美久に会いに来る事は昼になるまで一度も無かった。 自分から彼に会いに行くことも考えたが、まるで顔を合わせるのを避けているかのようなレイの行動を思うと戸惑いが生まれ、結局時間だけが過ぎてしまった。 「美久、行こう」 「あ、うん」 昼休みになって漸くレイが現れて顔をのぞかせる。 ホッとした様子で教室を出ていく美久の後ろ姿に、何故か周囲までもが胸を撫でおろしていた。 彼らは何となく美久が落ち込んでいる事に気づきながら、やっぱり彼のような人とつき合うとそれなりに大変なんだろう・・・と、彼らなりに二人を心配していたようだった。 「・・・・・・あの、レイ。・・・今日はどうしたの?」 レイの隣に並び、美久はおそるおそる聞いてみる。 「あぁ、朝は先行ってごめん。緊張して傍にいられなかったから」 「・・・緊張って・・・どうして?」 「うん・・・」 返事にならない返事をしてレイは美久から目を逸らしたが、代わりに強く握られた手を引っ張られ、彼に引き寄せられた。 レイが何に緊張してるのかは分からなかったが昨夜の様子が変だった事もあって、美久はそっと彼の様子を窺う。 いつの間にか隣にいることを当然のように思っていた。 考えるよりずっと強く彼に依存している自分に気づかされたと、美久はそんなことを頭の片隅で考えていた。 彼が向かった先はいつもの屋上ではなく裏庭だった。 時折体育館に向かう生徒が渡り廊下を利用しているのが見えるが、人通りも少なく校舎の影になっているため、とても静かな場所だ。 「こんな場所あったんだね、知らなかった」 「なかなかいいだろ?」 「うん、レイって静かなところが好きだよね。初めて会ったときも屋上だったし」 「・・・あぁ・・・それもあるけど、・・・ここはよく美久を見てた場所だから」 「え!?」 ここから・・・? 驚いて見回すが、ここからではどう見ても自分の教室を見ることは出来ない。 美久が不思議そうな顔できょろきょろしていると、レイは笑いながら彼女の頭をポンと撫でた。 「そこの渡り廊下だよ。授業があればあの廊下使うだろう? 午後イチの授業が体育とかだとね、美久が通る事があるんだよ」 そう言われ、あぁ・・・と少し納得する。 確かに体育館を使用する時はあの渡り廊下を通らなければならない。 だけど、いつも通り過ぎるだけで、そこからの風景なんてちゃんと見たことはなかった。 「・・・いつから見てたの?」 「ずっと」 「ずっとって?」 「美久が想像出来ないくらい昔から」 「なにそれ〜? わかるように言って」 「はいはい」 レイは笑って、まるで子供をあやすように頭を撫でてくる。 けれどそれが心地よくて妙にくすぐったくて不思議な気分にさせた。 「美久は・・・いつオレと会ったのか、ずっと知りたがってたね」 「教えてくれるの?」 「・・・いいよ」 初めてこの件に関してレイが頷いてくれた。 まさか彼の方から歩み寄ってくるとは思わなかったようで、美久は嬉しそうに笑っている。 その一方で、レイの心境は複雑だった。 無邪気に喜んでいるその気持ちを、オレは壊してしまうんだろうか。 そう思うと決心は簡単に揺らいでしまう。 だとしても、遅かれ早かれ通らなければいけない道なのだ。 今がその時だというなら、せめて偽りで飾り立てる真似だけはしたくなかった。 「昨日話した食物連鎖の話憶えてる?」 「・・・あ、うん」 「オレ達と美久達の間にもその関係が成り立つって言ったら?」 「え?」 「この場合、食うのはオレ達で、食われるのは美久達・・・まぁ、食うって言ってもバリバリと肉を引き裂いて御馳走になるって事じゃなくて、その身体に流れる血液をいただくって言えば少しは分かりやすいかもしれない」 「・・・?」 眉を寄せて首を傾げる美久を見て、レイは悲しそうに瞳を揺らめかせる。 「美久にとって、こんなの説明した事にならないんだな・・・」 小さく呟いたその言葉に美久は済まなそうに俯く。 だが、そんなふうに言いながらも、こんな言葉で彼女が理解出来る筈がない事くらいレイにも分かっていた。 「・・・・・・オレは・・・、・・・・・」 しかし、言いかけたレイの言葉は途中で飲み込まれ、その視線が不意に美久から外される。 つられて視線の先を追いかけるた美久は、お弁当を抱えながら息を弾ませて走ってくる女生徒を目にした。 「佐藤さん・・・?」 どうして彼女が・・・と思っていると、夕子は二人の傍まで駆け寄ってニッコリと笑った。 「やっぱりここにいた。牧口君って、この場所好きなんだよね。屋上にいないから、もしかしたらここかなって思って。・・・あ、保ってば部活のミーティングを兼ねてみんなとお昼食べるみたいで、今日は私一人なんだ。牧口君には断られたんだけど、一緒にいいかなぁ、美久ちゃん」 「・・・え、・・・あの」 こんな所まで追いかけて来られて駄目だなんて言えず、美久は困ったように口ごもる。 そのうえ今の夕子の言葉は人を混乱させる要素を含んでいて、お昼を一緒にするとかいうことより何故彼女が追いかけてくるようにしてこの場にやって来たのか、その事の方が気になってしまう。 『牧口君って、この場所好きなんだよね』 まるで二人が以前から知り合いで、この場所もよく知っていると言われているみたいだった。 それに・・・レイには断られた? まさか彼女は今日、レイに昼を誘いに行ったのだろうか。 真意が分からず、もやもやとした思いが膨らんでしまう。 彼にだって親しい人がいたっておかしくないのに、今までレイが誰と親しいかなんて考えたこともなかった。 レイのような人に近づきたいと思うのは、不思議な事じゃないと思う。 けれど、レイだって彼女と知り合いだとは、一言も言わなかった。 そもそも二人の間に何かがあるような雰囲気なんて、昨日は少しも感じなかったというのに。 「食事なら他のやつを誘えば?」 「でも牧口君言ったよね、オレに言うなって。だから私言うとおりにしてるんだよ、ねぇ美久ちゃん」 夕子の目が断ることを赦さないとでも言っているかのように美久に向けられる。 何だか恐くてレイの袖を握り締めた。 「オレが嫌だと言ってるんだ!」 レイは突然彼女に強い口調を向けた。 驚いて彼の顔を見上げると、見た事ないくらい怒りを孕んだ目を向けていて・・・もの凄く苛ついているのが分かる。 夕子は小さく震えながら、ぽろぽろと泣き出してしまった。 「・・・何でかなぁ・・・・、私と彼女の何が違うのかなぁ?」 「・・・・・・・・・」 「また答えないんだ・・・っ、・・・牧口君、酷いよ! 楽しそうに・・・、私の目の前で笑ったりして・・・人の気も知らないで・・・ッ、私がどれだけ・・・・・・っ」 「あんたの感傷につき合う気はない」 氷のように冷たい視線でレイは彼女をばっさりと切り捨てる。 その様子に美久は何一つ口を挟めない。 レイ・・・本気で怒ってる・・・ 彼がここまで相手を強く傷つける言葉を投げかけるなんて・・・ そうそも、彼女はどうしてここにやってきたんだろう。 一目で分かるほど縋るような眼で、何でそんな風にレイを見つめるのかよく分からない。 だって彼女は・・・彼女が告白したのはレイではなかったのに。 美久には二人の会話の意味がよく分からなかったが、夕子がレイに向ける気持ちは怖いほど伝わってきて、それがとても怖かった。 中編へつづく Copyright 2006 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |