『約束』

○第5話○ 銀髪の男(その1)







 降りしきる雨は止む気配を見せないまま、時間が経つにつれ雨足が強くなっていくばかりだった。
 あれから闇雲に街を彷徨い歩いたレイは、冷たい雨を浴びて心身共に冷え切った身体を更に痛めつけ、結局何処にも行く当てなどなくて、自分の住んでいたマンションへと戻っていた。
 雨で濡れて重さを増した制服の背中部分はあの黒羽の所為でざっくりと裂け、身体に布が張り付いて気持ちが悪い筈なのに何も感じる事はない。
 真っ暗で誰もいない部屋はあまりに冷たく、きっと灯りを点けても温かくはならないだろうと思えた。
 レイは逃げ場のない虚脱感に襲われ、ずるずると部屋の隅に座り込んだ。

 どうして傷つく事に慣れることはないんだろう・・・
 何も感じなければ、誰も好きにならなければこんな事にはならないのに、どうしてオレは手に入らないものをいつも欲しがるんだろう。

 ───カタン、
 不意に部屋の奥で物音と共に気配が動き、レイは一瞬だけ睫毛をふるわせたが、もう何もかもどうでもいいと静かに瞼を閉じる。
 だが、部屋の奥には確実に何者かが侵入していた。
 そして、それがゆっくりと此方に近づいて来るのもレイには分かっていた。
 分かっていても何かに一々反応するのは、もう疲れてしまった。
 気配は目の前で立ち止まり、『クッ』と喉の奥で笑いを噛み殺すと、レイの濡れた髪に手を伸ばして根元から指に絡ませ後ろへ梳いていく。
 髪の先からボタボタと雫がこぼれ落ちる音が異様なまでに響き渡った。


「・・・また独りになってしまったのか?」

 口端を引き上げ、ニイ、と邪悪に笑い、声色だけは優しい男の声が耳元で囁かれる。
 レイはぴくんと眉を寄せ、僅かに目を開けた。


「・・・・・・クラウザー」

 サラサラと流れて輝く銀色の髪が肩から零れ、エメラルドの瞳が闇の中でも無慈悲に瞬く。


「・・・帰れ」

「つれないことを言うな。可愛い弟のこんな姿は辛いものだ」

 くすり、と、クラウザーはまた小さく笑いを漏らす。
 この男は口から嘘ばかりを吐き出すとレイは浅く嗤った。

 いつもいつも・・・オレが苦しむ姿を見ては楽しそうに笑うくせに。

 レイは疲れたように目を閉じた。
 こんな時だというのに、昔の忌まわしい記憶が鮮明に蘇ってくるのはどうしてだろう。
 目の前の男を慕っていた時期があったなんて、思い出したくもない過去なのに。

 ───男ばかりの5人兄弟だった。
 その中にあってレイだけが違う母から生まれたというのは、ある意味その後の人生を暗示しているようなものだった。
 そのうえ、レイを産んで間もなく母が亡くなった事で、元々快くは思っていなかった義母と兄達が向けた憎しみの矛先は幼い彼だけに向けられた。
 万が一にも父に泣きつこうものなら、更なる仕打ちで追いつめられる事は日々の中で思い知り、幼い彼には小さな身体を更に小さく丸めて部屋の隅でひっそりと泣くくらいのことしか出来なかった。
 だがあの頃、常に庇ってくれたのは・・・・・・目の前の男だったのだ。
 あの頃のクラウザーは、兄達の中で一番尊敬され、一番美しくて一番優しく賢い兄として絶大な信頼と期待を寄せられていた。
 そんな彼が誰よりも慈悲深い眼でレイを心配し温かく抱きしめ、心を傾けて守ってくれた唯一の存在だった。
 そのクラウザーが突然消息を絶ったのは、いつの頃だったか・・・まだレイが幼かった事だけは記憶するところであるが、ある日突然、朝起きたら彼の姿は消えていたのだ。
 父に聞いても周りの者に聞いても明確な答えを貰えず、曖昧に誤魔化されるだけという、とても不自然なものだったことだけは記憶している。
 それでもレイは兄を慕う一心でひたすら待ち続け、別れを言わずに消えたのなら絶対に帰ってくる筈だと信じて疑わなかった。
 そして数年後、クラウザーは何事もなかったかのように舞い戻ったのである。
 レイは心の底から喜び、迷わずクラウザーの胸に飛び込んだ。
 しかし・・・どういうわけか目の前にあったのは、昔のような柔らかな眼差しではなかった。
 蔑むような冷えた眼差しはレイの全てを拒絶し、クラウザーは驚き戸惑うレイを一瞥すると、まるで追い打ちをかけるかのように『おまえに触れられると寒気がするよ』と心底拒絶する眼差しで冷たく言い放ち、小さなレイの心を粉々に打ち砕いて背を向けた。

 そんなものは、今となっては遠い昔の忘れかけた過去でしかない。
 だが、今の自分はその時と少し似ていた。
 いつ会えるだろうと待ち続けて期待して、打ち砕かれる。
 掴んだと思ったものは泡のように消え、欲しいものも満足に手にすることが出来ない。
 クラウザーに裏切られた時、思慕は憎しみへと変わった。
 そして、幼き心を粉々に打ち砕かれたあの日のことはレイの心に深い傷を作り、信じることの恐ろしさを知った事で、誰かに心を寄せることを酷く警戒するようになってしまった。
 そんな彼を一変させたのが、人の里で出会ったあの少女だった。
 レイにとってあの少女はどこまでも不思議な存在だった。
 冷え切った眼をする彼に臆することなく笑顔を向け、彼の心に根付いた負の感情を柔らかな微笑みで受け止め、次第に溶けていく警戒心に戸惑い、試すような素振りをしてみせるレイに対して、何もかもを受け入れる事でその全てを包み込んでしまった。
 それは、自分が愛されているという実感を与えるだけでなく、想いを受け止める場所として有り余る愛情を示された事で、心の芯までこの先の自分の全てを彼女に捧げる為に生きようと思ってしまうほどの決定的な出会いと言えた。
 だからこそ・・・、レイは一時の幸せなど欲しくなかったのだ。
 永遠に続かなければ欲しくなかった。

 それがオレにとって唯一の望み、他は必要じゃなかった。


「なぁ・・・・」

「何だ」

「・・・・・・殺してくれよ・・・・・・」

 別にこの男でなくても、この心臓を止めてくれるなら誰でも良かった。
 けれど確実に自分を殺せるのは、おそらく今目の前にいるこの男だけなのだ。
 クラウザーはレイの瞳の中に躊躇する心が見えない事を知り、僅かに眉を寄せた。
 しかし少しの沈黙の後、静かに口を開いた彼からは、やはり残酷さを滲ませる言葉しか吐き出されることは無かった。


「ならば苦しみ抜いて死ぬといい」

「・・・好きにしろよ」

「そうか」

 暗い笑みを讃えながら、 クラウザーの持つ鋭いナイフのような爪がレイの胸に真っすぐに突き刺さる。
 確実に心臓だけを狙った指先は鈍い音で肉を裂き、わざとらしくゆっくりと、しかし躊躇など微塵も感じさせることなく残酷に食い込む。


「生きながら肉が裂かれる気分とはどんなものだ?」

「・・・・・・っ、・・・うる・・・さい」

 威勢の良い言葉を吐き出したところで、貫かれた部分からも口端からも流れ出す血液が増すほどに意識が遠のいていく。
 これが死ぬと言う事だろうかと、初めて自分の最期を間近に感じた。


「レイ・・・」

 虚ろな眼でクラウザーを見れば、相変わらず寒気のするような微笑を浮かべている。
 オレが死ぬのがそんなに嬉しいのか、そう思いながらも、こういう終わり方も自分には相応しいのかも知れないと、彼はぼやけてくる思考の中で納得にも似た思いに目を伏せた。


「このまま死ぬという事は、その後の全てを放棄すると言うことだな?」

「・・・ぁ・・・・は・・・・っ、・・・・・・っ?」

 何を言っているのか分からない。
 その後の全てを放棄? 聞かれるまでもなく、死とはそう言うものだ。
 それ以上の何が存在するというのか。


「確認をとる必要もなかったな。放棄する事だけが死に逝く者の唯一の権利だ」

 当たり前だ、今さら何の確認だ。
 言おうとしたが、もう声は出なかった。


「では、あの娘は私の妻として迎えよう」

「・・・───っ!? ・・・ゴホッ、・・・ぅっ・・・っ、はぁはぁっ」

「おまえの大切なものが私のものになると考えただけで、身体中の血液が沸騰しそうだ」

 クラウザーはレイの唇に顔を近づけ囁くと、彼の身体に突き刺している己の指をぐちゃぐちゃと掻き回した後、思い切り引き抜いた。
 同時に栓の役目を果たしていた指が消えた事で、赤黒い液体が勢いよく飛び散る。
 血の気が失せた真っ白な顔で、それでも睨みつける瞳にクラウザーは『勇ましいことだ』と唇を綻ばせ、滑らかなレイの頬に指を這わせると冷たい唇を引っ掻いた。


「そうだ、私以外の者の目に触れさせないように閉じこめて自由を奪ってしまおうか。きっと泣き顔を穢すだけで欲望を掻き立てられるに違いない」

「・・・っ、・・・やめ・・・ろ・・・っ」

「おまえは死ぬのだろう? 私がその後をどう生きようが、あの娘がどのような人生を歩もうが、放棄した者には一切関係の無い話だ」

 クラウザーは新たな楽しみを見つけたことで余程気分が高揚しているのか、口端をつり上げて笑みを作り、立ち上がって身を翻すと颯爽と部屋の奥へと消えていく。
 レイはそれを追いかけようとするが、身体は動かすどころか冷たくなっていくばかりで、既に意識を保つ事すら危うい状態に陥っていた。
 だが、どれほど強靱だとしても心臓を突き破られた時点で死は免れないものを、彼はこの状況に於いてもまだ息がある・・・本来はそれ自体が脅威なのだが、今に限っては自分が化け物じみたしぶとさを持っていたことに少なからず感謝したい気分をレイは味わっていた。


「ぁ・・・・・・っ、ごぼっ・・・・・・はっ、はっはあっ」

 それでも動こうとすれば、たちまち破れた心臓から尋常じゃない量の血液が噴き出してくる。
 既に痛いとか苦しいとかいう感覚は超越してしまい、ただ意識が途切れないでくれとそればかりを祈った。

 ・・・・・・美久を・・・これ以上巻き込むわけにはいかない。


「あっ、・・・・・・くっ、・・・はっ、はっ、はっ・・・んぅ・・・く」

 震える指先を胸にあて、目を閉じる。
 指先に意識を集中させ、僅かに温もりと光が宿ったこの指先だけが・・・今出来る全てだった。

 ・・・まだ・・・・・オレは死ねない。
 今死ぬことは、オレが赦さない。


「・・・はあっ、はあっ、はぁ・・・っ、・・・クラウ・・・ザー・・・・・・」

 ゆらゆらと、今にも倒れ込んでしまいそうな程弱々しく、レイは立ち上がった。
 冷たい汗が額から流れ、荒い息を吐き出すと同時に吐血する。


「げほっ、・・・かふっ・・・ごほっごほっ」

 だが眼は死んでいなかった。
 むしろギラギラと瞬き、その双眸は金色へと色を変え・・・、部屋の奥からはクラウザーの気配は途絶えていたが、それでも彼を追いかけるべく、よろよろと歩き出す。
 彼の中から吹き出した血液は足下を濡らし、一歩毎にビチャ、ビチャ、と不快な音を立てていた。
 レイが外に飛び出した時、既に雨は上がり、不気味な程静かな闇夜が周囲を支配していた。










その2へつづく


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