『約束』

○第5話○ 銀髪の男(その4)







「そろそろ風をあてようか」

 クラウザーは話を切るようにドライヤーのスイッチを入れ、髪から少し離して温風をあてていく。


「美久の髪は真っすぐでシルクのような触り心地だ」

 最初から何事もなかったかのような顔で、クラウザーは静かに笑みを浮かべている。
 一体どんな性格の人なんだろうと、理解できない思いのまま美久は口を開いた。


「あの・・・それ以上はもう、自分で出来るから・・・」

 そう言って彼の手からドライヤーを受け取ろうと手を伸ばすが、逆にその手を掴まれてしまう。
 大きくて長い指が美久の指の間に一本ずつ挟み込まれ、驚いてクラウザーを見上げると、彼は色香を漂わせる妖艶な笑みを浮かべていた。


「・・・・・・っ・・・」

 何となく嫌な予感がして後ろに下がろうとするも、握られた手が離れることはなく、彼はドライヤーのスイッチを消して美久の腰に手を回した。


「・・・いやっ・・・・やだっ・・」

「抵抗は賢い選択ではない」

 耳元で掠れた声が囁く。


「従順であれば、優しく可愛がろう・・・」

 ゾクリ、とした。
 抵抗は赦さないと言われているのだ。


「・・・・・・っ、・・・レイッ!!」

 無意識に叫んだ彼の名を聞いたクラウザーは、片眉を吊り上げ酷薄な笑みを浮かべる。
 美久はその表情に怯え、逃れようと身を捩って藻掻くが、クラウザーは容易くねじ伏せ、彼女の上にのし掛かった。


「いやっ、・・・っ、レイ・・・レイッ!!」

「拒絶したくせに、危機を感じれば都合良く助けを乞うのか?」

 両腕を彼の片手で押さえつけられ、心の奥底まで探るような瞳で見つめられる。
 美久は唇を震わせてあふれ出そうな涙を堪えた。


「・・・・・・っ、・・・・・・ごめん、なさい・・・っ」

 目の前にいるのはレイではないのに、一体何に対しての謝罪なんだろう。
 そしてこの状況は、酷い仕打ちで彼を傷つけた罰なのだろうか?

 レイは・・・あの後・・・
 あの後・・・・・・・

 首筋を舐められ悲鳴をあげて身を捩りながらも考えを巡らせていた美久は、急激に全身の血の気が引いていくのを感じた。

 "望み通り、死んだかもしれない"


「さっき・・・あなたは、・・・レイが・・・・っ、・・・・・死んだ・・・っ、て・・・っ、・・・」

 喉を引きつらせながらクラウザーを見上げる。
 クラウザーは彼女の青ざめた顔を覗き込みながら口角を引き上げた。


「それがあれの最後の願いだった」

「・・・・・・っ、・・・嘘よ・・・っ!」

「嘘をつく意味などどこにある?」

「・・・・・───っ」

 美久はそんなのは違う、嘘に決まっていると首を横に振り続ける。


「どうしてそんな意地悪ばかり言うの?」

「信じたくなければそう思っていればいい」

 そう言われても信じることなど出来るわけがなかった。
 レイはほんの少し前まで、目の前にいたというのに。


「・・・じゃあ、あなたは何なの? レイを殺したその足で何をしにこんなことをしに来たっていうの・・・?」

 何もかも理解出来ない。
 クラウザーはポロポロと涙を零す美久の前髪を掻き分けながら目を細め、静かに口を開いた。


「レイの愛した女の身体がどんな味か試してみたくなった。・・・・そういう理由はどうだ?」

「・・・っっ」

 たったそれだけの理由で・・・?
 大体、彼はレイの兄ではないのか?
 ますますレイの抱えていた孤独がどれほどのものだったのかと苦しくなり、美久は涙で顔を歪めた。


「・・・・・・・・・ひどい・・・ッ」

 だが、それも全部自分が蒔いた種なのだろうか・・・?
 誰かを好きになるということを分かっていなかった自分が、胸の中をいっぱいにして毎日彼の事ばかり考えるようになった。
 彼と出会わなければ知らなかった気持ちに一喜一憂して・・・レイの存在が日々大きくなっていった。

 なのに・・・大切にしようと愛おしんでくれた彼の想いごと、私は滅茶苦茶に踏みにじったんだ・・・・・・

 もう遅いのだろうか。
 取り返しがつかないのだろうか。

 レイは本当に生きることを放棄してしまったの?
 ・・・だけど・・・・・・それがもし本当だと言うなら・・・
 そうさせてしまったのは・・・・・・、私なんだ。


「・・・・・・・・それでも私は・・・、・・・この先ずっと、レイ以外を好きにはならない・・・・・・」

 美久は唇を震わせて掠れた声でそう言った。
 例え身勝手だと言われても、レイと一緒にいた時間はかけがえのない宝物のように大切なものだったのだ。
 とても彼が好きだ。今だってそれは変わらない。
 怖がるばかりで、どうしてそれを伝えられなかったのだろう。
 後悔なんて何の意味もないのに。

 ───傷つけて、あんなに悲しそうな顔をさせて・・・、私はどこにあなたのことを忘れて来てしまったんだろう・・・・・・


 クラウザーは暫く無言のまま、静かに涙を流す美久を見つめていた。
 その深いエメラルドの瞳は欲望に濡れているわけでもなく、侮蔑の眼差しを向けているわけでもない。
 ただ彼女の言葉を静かな眼差しで受け止めている、それだけのように思えた。


「・・・・・・それがおまえの答えなのか」

「・・・・・・・・・」

 美久は天井だけを見て無言で返した。
 クラウザーがどんな表情で、どんな気持ちで呟いたのかは分からない。
 このまま強引に身体を奪われたとしても、絶対に泣き叫んだりはしたくなかった。
 不意にクラウザーは眉をピクリとふるわせ、顔をあげる。
 僅かに後ろを振り返り、何かを探るように目を細めて、彼は溜め息混じりに小さく呟く。


「野良犬が忍び込んだか」

 クラウザーは美久の姿を目の端に留めながら扉に視線を移し、ゆっくり上体を起こしてベッドから降り立つ。
 扉の向こうにある気配に神経を尖らせ、やがてうっすらと笑みを零した。


「盗み聞きとは躾のなっていない・・・」

 そう言ってクラウザーは扉を一気に開け放つ。
 扉の向こうに立っていたのは・・・


「・・・なぁ、レイよ・・・」

 その言葉通り、・・・紛れもなくレイ本人だった。
 美久は言葉を失い、ただひたすらその姿を目で追いかけることしかできない。

 そのレイは、眼前に立ちはだかるクラウザーが目に入らないのか呆然と立ちつくしたままだ。
 だが、彼の瞳は部屋の隅のベッドにいる美久だけをひたすら見つめ、小刻みに唇を震わせている。
 レイは扉の向こうで美久の言葉を聞いていたのだ。


「死ぬのではなかったのか? ・・・それとも今ここでとどめを刺して欲しいのか?」

 クラウザーはレイの顎を掴み、顔を近づけてそう問いかける。
 レイはそこで初めて冷酷に笑う兄の瞳をその目に留めた。
 不意に、レイの瞳から涙が溢れだす。
 零れ落ちた涙の粒がクラウザーの手を濡らし、クラウザーは眉をしかめる。
 そのまま暫く沈黙の時が流れていたが、やがて顎を掴む手を離したクラウザーは、レイから目を逸らすように顔を背けた。

 ───その直後だった。


「・・・・・・っ、・・・ぅ、っ・・・」

 クラウザーはこめかみを押さえ、僅かに苦悶の表情を浮かべてよろめく。
 その様子を見たレイが眉をひそめると、彼は自分の顔を隠すかのように片手で覆い、レイの腕を掴んで美久の傍に彼を乱暴に投げ捨てた。


「・・・レイッ!!」

 レイはベッドの傍に倒れ込みながら強かに全身を打ち付ける。
 衝撃で咳き込み、僅かに血を吐き出したのを目にして、美久は慌てて傍に駆け寄りレイを抱きかかえた。


「・・・何でここまでひどくする必要があるのっ!?」

 美久の叫びにクラウザーは壁にもたれ掛かり、苦しげに息を吐き出すと、二人の視線から逃れるように背を向けてしまう。

 気のせいだろうか。
 何か・・・様子がおかしい・・・?

 その背中はつい先ほどまでとはまるで別人のようで、そのうえ酷く疲弊しているように見えるのだ。


「・・・レイ・・・おまえには執着する者は必要ない。・・・・・・おまえは・・・、とても脆い・・・・・、あまりに簡単に傷つく魂が・・・おまえを破滅させる」

 掠れた声音でクラウザーは静かに呟く。
 その言葉に美久が首を傾げていると、苦しげに壁に凭れて背を反らしたクラウザーは、もう一度こめかみを押さえて小さな呻きをあげた。
 クラウザーの身体がゆらりと揺らぐ。
 そのまま倒れてしまうのではないかと思うほど憔悴しきった背中に呆然としていると、突如彼の立つ周辺が歪みはじめた。


「・・・あっ!!」

 更には、一瞬のうちにその身体が歪みにのみこまれるように透けていくのを目にした美久は、驚いて声をあげる。


「・・・また会うこともあるだろう」

 そう言って、一度だけこちらを見たクラウザーの姿は、忽然と消失してしまったのだ。


「・・・消えたっ!?」

 我が目を疑う思いがした。
 けれど、目の前で見ていて一体何を疑えと言うのか・・・改めて突きつけられた現実に目眩がしそうになる。


「・・・・・・う・・・、・・・」

 美久は腕の中で苦しげに呻くレイの声にハッとした。
 今は他のことに気を取られている場合ではない。
 腕の中にいるレイは血まみれで、一体どうすればこんな状態でここを捜し当てることが出来たのか、その事の方が不思議でならないほどだった。


「レイ、レイ・・・っ!」

 懸命に声を掛けるも、固く閉じられた瞼が開く気配はない。
 美久と別れて僅か数時間で信じられないほどボロボロになってしまった学生服。
 シャツが破け、胸部から見える無惨に剔られた傷。そこを中心として血液が噴き出したかのような惨状に目を背けたくなる。
 これでどうして血が止まっているのか・・・その方が不自然なくらいだ。
 唇は血の気を失くし、顔色は蒼白・・・これではまるで死んでいるみたいだ・・・・


「いやだ・・・っ」

 ぎゅう、と彼を強く強く抱きしめた。
 腕の中から消えてしまうのではと思うと、こわくて堪らない。


「・・いやだよっ・・・っ、レイ、レイっ」

 強く揺すっても抱きしめても、レイは少しも反応を返さなかった。
 体温を全く感じさせない冷たい身体に心が押しつぶされそうになる。


「・・・・っ、・・・どうしたらいいの? どうすれば・・・っ」

 その時、・・・ピク、と、少しだけ唇が動いたように見えた。
 美久は目を見張り、レイの頬に手を添える。


「レイ、レイ! 意識あるの? レイ!」

「・・・・・・・・・・・・、・・・・・・ぁ・・・・・・」

 彼の瞼が僅かに震える。
 それから、ゆっくりと目が開いて・・・レイと目が合う。

 ───生きてる。
 レイは・・・こんな状態でも、生きてるんだ。



「・・・・・・オレ・・・・・・こわく・・・ない・・・の?」

 レイは美久を見上げて掠れた声でそんなことを言う。
 もう涙が止まらず、美久は何度も何度も頷いた。
 きっと今、恥ずかしいくらいぐちゃぐちゃの顔をしている。
 レイはレイでしょう・・・なんて、どうして簡単に言ってしまったのだろう。
 きっとそんな言葉を、彼は心の中で『うそつき』と責めただろう。


「・・・・・・・・レイが・・・、好きだよ・・・、こわいより、その気持ちの方がずっと強いの・・・っ」

 少しでも今の自分の気持ちが伝わってほしい、そう思いながら美久はレイを抱きしめる。
 レイは小さく息を漏らして、少しだけ唇を震わせていた。
 こんな時なのに、彼の瞳が濡れて輝きを増しているのが、本当に溜息が出るほど綺麗だと思ってしまった。


「・・・・・・・本当だよ、・・・私はレイのことが、・・・好きだよ」

 彼の胸に届くようにと、美久は何度も頷きながら告白を繰り返す。
 とても静かな眼差しでそれを聞いているレイから目を逸らさないよう、美久は祈るような気持ちで言葉を続けた。


「・・・おぼえて・・・・・・なくて、・・・ごめんなさい」

「・・・・・・」

「忘れちゃいけないことだったのに」

「・・・・・・」

「それでも・・・私はこの先、あなたと一緒に生きていきたいよ・・・・っ」

「・・・・・・・・・・・・っ・・・・・・」


 ───だから、もしも私を赦してくれるなら、もういちど、あなたの傍にいさせてほしいよ・・・・・・

 美久はそう想いを込めて、レイを強く強く抱きしめ続けた。







その5へつづく


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