○第7話○ 捕獲命令(その6)
血が滲むほど唇を噛み締めたレイは、ベッドの端に折りたたんである薄手のブランケットで震える美久の身体を覆い、その上から彼女を抱きしめた。
油断すると力が入ってしまう両腕に細心の注意を祓いながら、怯えさせないように何度も何度も、言いきかせるように「大丈夫」と、祈るように繰り返す。
「・・・・・・レイ・・・、レイ・・・、レイ・・・」
助けを求めるようにひたすら名を呼ばれ続け、レイは少しだけ抱きしめる腕に力を込めて、こめかみに唇を寄せた。
特に嫌がる様子は見せない。
たったそれだけのだったが、どうしようもなく安堵してしまう。
「・・・・ここにいるから」
「・・・・・・、・・・・・・、・・・、レイ・・・・・・」
「うん・・・」
少しだけ・・・落ち着いてきたんだろうか。
部屋中を包む沈黙の中で時折美久の嗚咽が響くものの、先ほどまでのように取り乱した様子は見せない。
静かに泣き顔を見つめていると、やがて身体に巻き付けたブランケットの隙間から此方を見上げる美久と目があった。
真っ赤に充血した瞳から溢れる涙はまだ止まりそうもないが、思った通り先ほどまでの不安定さは幾分影を潜めている。
しかし、溢れ出す大粒の雫がコロンと頬を弾き、美久がふるえる声で賢明に絞り出した言葉にレイは息をのんだ。
「・・・・・・・・・・・・いつも通りでいるのが・・・わがままだって思わなかったの・・・・・・・・・」
「・・・───ッ!!」
腕の中で青ざめながら小さく震え、涙で濡れた睫毛の隙間から雫が次々とこぼれ落ちたのを見て、レイは今ほど己の無力を思い知らされた事は無いと思った。
美久の思い描く日常なんて、ありふれたものだ。
そんな些細な願いすら我が儘と言わせてしまう自分の存在は、どう考えたって彼女にとって足枷でしかない。
この先、今日の事を思い出す度に、美久が自分の腕さえも怖がるようになったらどうすればいいのだろう。
傍にいると言った彼女自身の言葉を、後悔する日が来たとしたら。
一緒にいるのはごめんだと、こんな想いをするなら離れた方が幸せだと・・・今この瞬間にも思っていたとしたら。
そんな事が脳裏に過ぎっただけで、胸の奥がどこまでも冷えていく。
力なんて何の役にも立たない。
そんなものがあっても、彼女の心を自分に向け続ける事は出来ないのだ。
美久が去っていく事の方が、あまりに簡単に想像出来てしまう。
レイはそれらの考えを慌てて振り払うかのように、美久の身体を抱き寄せた。
「・・・・・・美久・・・遠くへ行こうか。・・・誰も知らない、秘密の場所を知ってるんだ。・・・美久は・・・、これからもオレと・・・ずっと一緒にいてくれるだろう・・・?」
美久が嫌だというなら、もう二度と触れられなくていいから。
例え身体を重ねなくても、唇を重ねなくとも、その瞳にオレを映してくれるだけでいいから。
・・・だから・・・どうかどうか、たったひとつだけでいいから、それ以外は望まないから、この人だけはこの手の中からすり抜けないでくれと、願いを込めて強く強く抱きしめる。
ふと、美久の口元がゆっくりと柔らかい弧を描きだす。
そして、真っ直ぐにレイを見つめて小さく一度だけ頷いたのは、決して見間違いなどではなかったはずだ。
───だが、
「・・・・・・───、・・・あ・・・」
不意に美久の表情が消え去り、今までレイを見つめていた瞳は宙を仰ぎ、何か別のものに意識を傾けている。
彼女の唇はうっすらと開いたまま、見る間に何かを警戒するかのような眼差しに変わった。
「・・・レイッ、・・・、・・・う、・・・後ろ・・・ッ!!」
突然、美久が悲鳴に似た声をあげた。
レイは咄嗟に後ろを振り返り、僅かに感じる不穏な空気に息を飲む。
黒い・・・人影───?
ゆらめきながら、その人の形を象った影は緩慢な動作で迷うことなくレイの首に手をかけた。
「・・・・・お前・・・っ・・・」
何かを感じ取ったレイが口を開くと、影にしか見えなかったそれは徐々に色彩を帯び、真っ白なきめ細かい肌を持つ指先が露わになっていく。
同様に色を取り戻した赤い唇がゾクリとするような笑みを浮かべ、見事な輝く銀髪から覗くエメラルドの左眼が酷薄に煌めいた。
それは一度見れば絶対に忘れる事は無いと思えるほど、壮絶な美貌を持ち合わせたレイの兄クラウザーであった。
「・・・嘘・・・、・・・どこから・・・っ」
唇を震わせて驚愕する美久の声に、クラウザーは視線を移して僅かに眼を細めた。
「怯えずとも、これ以上美久に手を出す気はない」
「・・・れ、レイから・・・、離れて・・・っ」
レイの首に手をかけているのを見て、彼がレイに傷を与えた記憶が蘇る。
それに気づいてか、クラウザーの片眉が僅かに持ち上がり口角がゆっくりと引き上げられ、寒気のする笑みを浮かべた。
こうして彼を目にするのは2度目だが、この独特とも言える雰囲気に慣れる気がしない。
何か底知れない恐怖を抱かせるような・・・見た目だけは優しげにも見える容貌も、瞳の奥に隠れた仄暗い影が危険を警告する。
美久は自分の中に感じた嫌な予感に逆らう為、レイの胸にしがみついた。
しかし、まるでそれを予想していたかのように不遜な笑みを讃えるクラウザーが、レイの耳元でひっそりと囁きを漏らしたことで状況は一変した。
「・・・レイ、このまま美久も共に連れて行くか?」
「・・・・っ!? ・・・・何だと・・・?」
「そうこわい顔をするな。選択肢を与えてやろうと言っているのだ。・・・今日起こった出来事を並べてみれば、もはや一刻の猶予も無い事は充分理解しているだろう・・・? ・・・・・・いい子でお家へお帰り」
「ふざけるなっ!!!」
だが、レイが声を荒げた瞬間だった。
不愉快そうに眉をひそめるクラウザーの表情と重なるように、
───ビリ・・・ッ・・・・・・
手をかけられたままの首に小さな痛みが走ったのだ。
「・・・・・・、・・・・・・っ? ・・・・・・は・・・・・・」
「時には大人しく従う事の賢さを学んだらどうだ」
一瞬何が起こったのか理解出来ず、緊張だけが全身を駆け抜ける。
しかもそれは、冷静に考えようとする思考を喰らい尽くすかのように、怒濤の勢いでレイの体内を一気に襲い始めたのだ。
「・・・ッ!!! ・・・・・・う、・・・あぁ・・・・・・ッ、・・・・・・っっ!!!!」
ぶるぶると震える全身と得体の知れない悪寒に喉を引きつらせながら、レイの身体から力という力がごっそりと抜け落ちていく。
・・・なんだ・・・、これは。
ぐるぐると目が回り、息をする方法さえ分からなくなっていく。
自分の中で何が起こり始めているのか、あまりに一瞬の事で理解が追いつかない。
「・・・レイ・・・・・・っ!? いや、首が・・・、どうしてっ、レイに何をしたのっ!?」
美久の叫びが頭の端の方から響いては弾けていく。
身体が・・・動かない。
美久が叫ぶ言葉も聞いた先から分からなくなる。
冷静に考えろと頭の隅で叫ぶ自分がどんどん遠ざかっていった。
「レイッ、レイ、しっかりして!! もうやめて、レイを離してっ!!」
美久はかつて無いほど必死だった。
クラウザーの手から彼を奪い取り、自分の身体を包むブランケットでレイを隠そうと、裸にも拘らず覆い被さる格好でレイの上に乗り上げる。
力が抜けてしまっているレイの身体はぐったりと横たわり、しがみつく美久をぼんやりと見上げていた。
レイの身にとんでもない事が起きていると理解するには、これだけで十分すぎるほどだ。
そのうえ、彼の首筋には・・・赤黒く変色した痕がどんどん範囲を広めているのだ。
クラウザーは平気でレイを傷つける。
一瞬だったけれど、レイの首に触れていた彼の指が何か違う動きをしたのを見たのだ。
「どうしてっ、どうして兄弟なのにッ、レイのお兄さんなのにいつも傷つける事ばかり・・・っ、何で放っておいてくれないのっ!!!」
悲鳴に似た叫びにクラウザーが密やかに笑う。
何が可笑しいのかと強く睨み付けると、彼は更に口元を緩めた。
その笑みはこれまで見た彼のどの笑みよりも遙かに冷徹で、まるで血の通わない人形のようだった。
「なぁ、美久よ。・・・今、レイの身体の中で何が起こっていると思う?」
「・・・・・・っ、な、・・・なに、よ」
震える声で聞き返すと、彼は右手を開き、己の中指の第二関節を直角に曲げて見せた。
と、同時に爪先から小さな針がゆっくりと飛び出し、目を見開いた美久にそれを態とらしく見せつける。
「これが何かわかるか? 猛毒の牙を持つ獣から採取した少々強い毒が仕込んである」
「え・・・っ」
「普通の者ならほんの一刺しで数分のうちに死に至るが、レイならどうなるだろう。・・・少なくともこの様子を見る限り無害ではなさそうだ」
美久は喉を鳴らし、背中に冷たい汗が流れるのを感じながら改めてレイの顔を覗き込む。
反射的に此方を見つめかえすものの、すぐに焦点が合わなくなるのかゆらゆらと視点が定まらず、蒼白な顔色は生死を彷徨っていた数週間前の彼と嫌が応にも重なった。
毒・・・、毒って何よ。
レイをどうするつもりなの。
「・・・だけど、治せる薬・・・・・・持ってるんでしょう? ・・・連れ戻したいならレイを殺すはずないもの・・・っ」
ガチガチと歯をかち鳴らして震えながら言い返す美久に、ゆったりとした動作でクラウザーは笑みを浮かべながらレイの髪に手を触れる。
それを赦せなくて美久は力いっぱい彼の両手を押し返した。
「レイに触らないでっ!」
まるで全身の毛を逆立てた子猫のようだ・・・クラウザーは益々可笑しそうに唇を歪め、低いバリトンの声が部屋に静かに響き渡った。
「・・・さぁ、どうするレイ。・・・このまま美久も連れて行くか? おまえの答えをまだ聞いていない」
美久はレイに必死でしがみつきながら、まどろんだままの瞳からこのまま光が失せてしまったらという恐怖に怯えていた。
確かにレイは普通じゃないのかもしれない、・・・人ではないのだろう。
もしかしたらクラウザーが言うように、彼の仲間と呼ばれる人たちと比べても特別なのかも知れない。
けれど痛みを与えられれば同じように痛みを感じる筈だ。
苦しみだって同じ、命を奪うほどの毒を受ければ同じように苦しいに違いないのだ。
こんなの酷すぎる。
もしかして、これまでもレイはずっとこんな風にされてきたんだろうか。
クラウザーだけじゃなくて、レイに関わる全ての人が彼をこんな風にしてきたんだとしたらあまりに哀しすぎる。
どうしてこんな風に扱われなきゃいけないの。
「お願い・・・っ、そんな事よりレイに薬を・・・っ、・・・早く・・・っ、お願いたすけて・・・っ」
クラウザーが言っている事はよくわからない。
自分も連れて行くとは何なのか、何処へ行こうというのか。
だけど連れて行くならどこにでも連れて行けばいい、こんな所でレイと引き離されるわけにはいかない。
「・・・・・・う・・・・・・ん・・・、・・・・・・っ、、・・・っ・・・クラウザー・・・・・・」
ふと・・・青ざめた唇で、レイが口を開いた。
クラウザーの問いかけに反応したように見えるが、その瞳は依然として美久をぼんやりと見つめたままだ。
美久は激しく打ち鳴らす自分の心臓の音を聞きながら、レイが何を言おうとしているのか分からなくて息を飲む。
「・・・・・・・・・オレだけ・・・・・・・連れて、・・・行け・・・・・・・・・」
───・・・・・・・・・え・・・?
レイ・・・何を・・・
「・・・そうか。・・・ならば、おまえだけ連れて行こう」
そう言うと、クラウザーは一瞬だけ後ろを振り返った。
其処には誰もいないのに、まるで見えない何かに向かって合図を送ったようにも見える仕草だった。
そして次の瞬間・・・クラウザーが現れたときのように、レイの身体が徐々に黒い影となって消え始めたのだ。
「いやっ、・・・どうして、レイ、レイ・・・っ」
「・・・・・・う、・・・ん・・・・・・・・・・」
「レイ・・・ッ、一緒にって、ずっと一緒にって・・・ッ」
───どうして?
彼の言葉が計り知れない痛みとなって美久の中に突き刺さる。
そうしている間にもレイの身体は足下から影となり、果ては影すらも無くなって消えていくのを目の当たりにして美久は悲鳴をあげた。
「・・・いやだ。レイ、レイ・・・っ、何処に行くの!? お願い、レイを連れてかないでっ!!」
同じく影となり消えていくクラウザーの腕を掴み、美久は悲痛に叫んだ。
もはや頭の中はパニックを起こしているとしか言いようのない状態だった。
レイが消える、どこかへ行ってしまう。
ひとりで行ってしまう、置いて行かれてしまう。
全ての事が一瞬で現実となって襲いかかってくる。
「・・・・・・美久、・・・特別に教えてやろうか」
「・・・・・・っ、・・・」
そう言ったクラウザーの瞳の奥には冷たい輝きしかない。
嫌な事を言うに決まってる。
そう思うのに美久は彼の唇が何を言うのか、全ての神経をそこに集中させる以外の方法を思いつかない。
「・・・レイと共に生きたいと願うなら、まずは己の全てを捨ててみたらどうだ?」
「・・・・・・っ?」
全てを・・・捨てる・・・?
目を見開いて彼の言葉に耳を傾ける美久に、クラウザーは尚も淡々と口を開く。
「例えそれが出来なくとも、誰もおまえを責めたりはしないだろうがな」
静かにそう言ったクラウザーの身体は殆ど消えかけている。
それはレイも同じだった。
美久は小さく悲鳴をあげ、残ったレイの身体に必死でしがみつく。
恐らく全く意味を成さないであろうこんな行動も、やらずにはいられないほど今の状況は恐ろしすぎる。
「───・・・・・・あぁ、・・・ひとつ言い忘れていた」
思い出したようにクラウザーの瞳が静かに揺れる。
しかし、既にその表情がどんなものか分からないほど消えかけ、レイにしがみついていた美久の手も虚しく空を切る。
「期待に添えず心苦しいが、この針に仕掛けたものは解毒出来る代物ではない。・・・もとより、そのようなものをこの子に使っても面白味に欠ける」
「・・・それ・・・って・・・」
「ここで終わるならそれまでのつまらない存在・・・。父の御前には屍を差し出すだけのことだ」
彼はどうしてこんな言葉を淡々とはき出せるんだろう。
どうしてこんなに残酷でいられるんだろう、
どうして、どうして、どうして・・・・ッ
美久の頭の中でクラウザーの言葉が重くのし掛かる頃には、既に目の前には誰の姿もなくなっていて・・・・
レイの姿も・・・どこにもなかった・・・───