○第7話○ 捕獲命令(その7)
目の前で起こった悪夢に、美久は全身をブル・・・と粟立たせた。
そのうえ、クラウザーの最後の言葉が強烈に頭の中に残り、震える身体に呼応するようにカチカチと歯がぶつかり合う音が不規則に鳴り響く。
どういうこと・・・・・・?
初めから解毒する気なんて無いって・・・そう言った・・・?
ぞくぞくぞく・・・と嫌な悪寒が全身を駆けめぐる。
まるで実験してるみたいに愉しそうに嗤っていた。
『普通と違うなら加減は必要ないだろう?』と言ってるような目で・・・
どうしよう、どうしよう。一体何をすればいい。
「・・・・・・・・・あ・・・」
不意に頭の中にレイの言葉が過ぎる。
───この家の合い鍵も作っておいたから、その時になったらここに来て───
最後にレイのマンションへ行ったときに彼の家の合い鍵と、もうひとつ奥の部屋のものと言って渡された鍵を思い出す。
何かがあったらそこへ行くようにと彼は確かに言っていた。
レイが言っていた"その時"が、今のような状況を想定していたとするなら・・・。
「・・・あ・・・・・荷物・・・、・・・・・・ぜんぶ学校だ・・・・・・」
そうだ、鞄に入れたままで全部学校に置きっぱなしだった。
そう思った瞬間、蘇る忌まわしい記憶に身体の芯が冷たくなり、力なくペタンと床に座り込んでしまう。
学校というキーワードだけで・・・。
たったそれだけで、男達に組み敷かれた記憶にスライドされて身動きがとれなくなる。
「───はっ、・・・はっ、はっ、はっ、はっ・・・」
全身が冷たくなり、激しく心臓が打ち鳴らされ浅い呼吸を何度も繰り返した。
身体が・・・、動かない。
こんな場所で躓いている場合じゃないのに、このまま黙っていたら全てが終わってしまうかもしれないのに。
レイと一緒にいれば足手まといになるだけかもしれない。
だけど今の自分に、レイの言葉を思い出して彼の痕跡を辿る以外何が出来るだろう。
出来る事すらやれなかったら、そこで終わりだ。
恐怖に背を向けて耳を塞いでいるだけで終わってしまう。
「・・・・・・はっ、はっ・・・はっ、・・・・・・は、・・・・・・」
美久は息を大きく吐き出し、ふと・・・裸のまま何も身につけていない事に初めて気がついた。
部屋を見渡せばベッドの近くに手当たり次第に取り出したと思われる洋服が散在していて、開けっ放しの箪笥の引き出しからも洋服がはみ出ている。
それが誰の仕業かなんてあまりに簡単に想像できて、どれだけレイが動揺していたかと思うと堪らなくなった。
「・・・・・っ・・・、・・・・・学校・・・、・・・・・・行かなきゃ・・・・・・」
震える手で彼が選んだ服を一枚一枚身につけながら小さく呟き、言葉と裏腹に挫けてしまいそうな自分の心に美久は唇を震わせた。
レイは消えた。どうすれば彼に手が届くのかも分からない。
彼と一生添う覚悟があるなら、他の全てを捨てろとクラウザーは言った。
そもそもそんな資格が自分にあるのかすら分からない。
一歩先が見えないって、きっとこういう事を言うんだ。
怖くて身体の奥から冷えて身動きが取れない、そんな感じだ。
でも・・・もしもクラウザーの言葉通り、他の全てを捨てる事で彼と生きられるとしたら───
その考えが頭の中を過ぎったとき、前触れもなく部屋の中に大きな風が吹き抜け、美久の黒髪が激しく揺らされた。
カツ・・・ッ、唐突に部屋の中に響き渡った音に、美久は弾かれたように後ろを振り返る。
「・・・なに・・・っ!?」
疑問に思ったのは一瞬。
目に飛び込んできた光景に美久の頭の中は真っ白に書き換えられてしまった。
一体いつからいたのか・・・開け放たれた窓に腰掛け、見知らぬ少女が首を小さく傾げ意味深な笑みを浮かべていたのだ。
「ねぇ、コレは君のもの?」
学校にある筈の美久のバッグを携え、指先で窓を叩いてカツッと音を鳴らした。
「・・・・・・だ・・・れ・・・」
いくら何でもこのタイミングは変だと不審を抱く。
大体顔の造作から髪や肌の色、瞳、身につけている服装まで何もかもがこの世界に少女は馴染まないのだ。
白い肌に白い髪、片方ずつ色の違う緑と青の瞳。
そして、着ているのはまるでどこか異国の軍服のようにも見えた。
少女から発せられる異質な空気は、レイやクラウザーとは違う色をしているような気もするが、非常に酷似しているとも思える。
「・・・要らないの? ・・・それとも、君のじゃない? だったら貰っちゃうよ?」
言いながら少女はバッグからキーケースと携帯を取り出し、美久を試すかのような笑みを浮かべてみせる。
「・・・だ、だめっ。・・・それ、返して。必要なの、かえして」
「ふぅん? じゃ、取りにきなよ」
「えっ」
片方ずつの手にキーケースと携帯を持ち、『はやく』と声には出さず唇だけがゆっくり動く。
突然現れた奇妙な存在に近づくことを一瞬躊躇すると、若干苛立ったように片眉を引き上げた少女は大仰にため息を吐き出した。
「あのさ、こっちもヒマじゃないんだ、要らないならコレ持って行くよ?」
「だめっ」
立ち去ろうとする様子に、美久は慌てて立ち上がり少女の方へと駆け寄った。
見せつけるように手に持っている携帯とキーケースを奪い返そうと大きく腕を伸ばす。
・・・が、
「ねぇ、レイは君のどこが好きなの?」
伸ばした手を簡単にかわされ、探るような瞳で少女が美久の耳元で問いかける。
間近で見た瞳があまりに深い色をしていて、美久は飲み込まれそうな錯覚を憶えた。
「君を庇ってまであんなに拒絶していた場所にあっさり戻るなんて、そんな価値がいったい君のどこにあるの?」
「・・・・・・私を・・・庇う・・・?」
どういうこと?
驚いて固まっている美久を見て少女は呆れたように眉をひそめる。
「・・・君、もしかしてそんな事も理解出来ないの?」
「・・・・・・・・・」
現実味の無い容姿に顔を覗き込まれ、美久は小さく頷くしかできない。
「はははっ、信じられない!! あのレイがッ! こんなのまるで一方通行じゃない!!」
突然大声で笑い出し、色の違う左右の瞳が心の底から侮蔑するように美久を見下ろす。
彼女はいったい誰なんだろう、まるでレイを知ってるみたいな口ぶり。
このタイミングで現れた事を考えてもクラウザー側の者だろうと想像は出来るが、探しに行くはずだったバッグをわざわざ持って現れた真意はまるで掴めない。
そのうえ、どうしてこんな風に馬鹿にされたような目で見られているのか美久には理解出来なかった。
底冷えのする笑みを浮かべ、そのくせ決して嗤っていない瞳が美久を射抜く。
もしかしたらこの人は返す気がないのだろうか・・・?
美久を見ながら挑発するようにバッグの中にキーケースと携帯をゆっくり投げ入れ、それをゆらゆらと揺らしながら、トン、と足の爪先で壁を弾いた。
「・・・えっ・・・!?」
まるで重力を感じさせない軽やかな動きで少女は2階の窓から飛び上がり、庭の芝生に弧を描きながらふわりと舞い降りた。
追い縋る間もない出来事に美久は窓から乗り出すと、此方を見上げて笑みを浮かべる少女の周囲を円を描くように風が流れているのが見えた。
だが、呆気に取られている美久を他所に、少女は見せつけるようにバッグをクルクル回しながらもう一度舞い上がると、今度は家の塀をふわりと乗り越えてしまう。
あの子・・・、返す気なんてないんだ・・・っ!!
「おねがい、かえして・・・っ!」
大声で叫んだが、更に遠くへ行こうとしている背中を見て、美久は慌てて2階から駆け下り玄関から飛び出した。
しかし、先ほどまで立っていた場所には既に少女の姿はなく、道路に出て周囲を見回すと3軒先の塀に腰掛け、頬杖をしながら此方を見ている少女を見つけて急いで駆け寄った。
「ねぇ、おねがいだからかえして! ・・・私・・・それを持って行かなきゃいけないところがあるの・・・っ!」
「・・・へぇ?」
どうやら彼女は美久の言葉に興味を持ったらしく、無感動だった瞳に光が宿る。
音もなく塀から舞い降りると全く色素のない白い髪が風に靡き、彼女の周りを巡っていた風音がぴたりと止んだ。
バッグを美久の目の前に突き出し、左右色の違う瞳が楽しそうに嗤う。
「・・・・・・コレ、たまたま見つけたんだ。レイの念がやけに強く込められてるから。理由もなく物に念なんて送り込んだりしないよ。面白いからあとでじっくり検証するつもりだったけど・・・どうやら君はこれが何かを知ってるみたいだね?」
念と言われても美久にはよくわからない。
レイの数少ない言葉を思い返して、今はそれしか出来る事がないと思うだけだ。
兎に角今は、返す気があるかどうか疑わしいこの少女から、どうやって取り戻せばいいのか考えるだけで精一杯だ。
だからこの少女が鍵と携帯の使いかたを分かっていないらしいと言う事を今の話から理解できただけでも大きい。
美久はぐるぐると考えを巡らせながら、ごく、と喉を鳴らして言葉を絞り出した。
「・・・そ・・・、それは私じゃないと使えないの・・・。だから・・・、あなたが持っていても意味がない物なの」
勿論こんな話は嘘に決まっている。
簡単に騙せるような相手じゃないかもしれない。
しかし、他に良い方法が見つからない。
少女は黙って此方を見ている。
何を考えているか読み取ることは出来ない。
───と、
「あっ!」
突然片腕を掴まれ、少女の方へと引っ張られる。
想像だにしなかった力強さに驚き見上げると、間近にある凛とした美しい顔立ちに息を飲んだ。
それはどこか人とは違う妖しさを秘めていて、やはりレイやクラウザーに共通する空気を感じさせる。
「・・・そう言うなら、君には案内役になってもらおうかな」
言うと同時に二人の周りに風が巡り始める。
そのフワフワとした不思議な感覚は心許なく、次第に自分達を囲む風によって身体が浮き始めているのに気がついた。
「・・・あっ、・・・なに・・・」
とても不安定な場所に立っている気がして、無意識に少女にしがみつく。
ふと、女にしては筋肉質な腕に違和感を感じたが、今はそれ以上の疑問を思い浮かべるほどの余裕は無かった。
「ねぇ、どこへ行く?」
「・・・・・・っ」
「・・・どこへ行くつもりだった?」
「ここから見える・・・いちばん・・・・・・、高い建物に・・・・・・ッ」
少女はぐるりと周囲を見回し、西日が射した先にある高層マンションを目に留めるとうっすらと笑いを浮かべた。
「ふぅん・・・?」
何を考えているんだろう・・・
目標を見据えた少女はとても愉しそうで、それがとても不気味だった。
そして、一気に上空へと飛び上がったのを感じて小さく悲鳴をあげ、2階建ての自分の家の屋根が小さくなっていくのに気づいて、奇妙な感覚に襲われていくのを感じた。
すごく変な感じだった。
何故だかこの光景を目に焼き付けておかなければいけない気がして、どうしてか眼が離せない。
あの家は、父である貴人のそのものだった。
生まれてから今日まで成長を見守り続けてくれた、貴人そのものだ。
後何時間かすれば、彼はいつも通り此処に帰ってくるだろう。
今、彼を出迎える事が出来ないのが無性に残念で仕方なかった。
出かけるって・・・置き手紙残せばよかった・・・
でも、今はこうするしかないんだ・・・
そう思いながら美久は、家の屋根や慣れ親しんだ風景がどんどん小さく遠ざかっていく様子を、ただひたすら見つめ続けていた───
───そして、一見目撃者がいそうにない、この一連の出来事の一部始終をすぐ傍で見ていた者たちがいた。
「・・・レイよ、美久が連れて行かれたぞ?」
クラウザーは腕に抱いたレイの耳元で態とらしくそう囁きかけた。
朦朧とした状態のまま息を乱すレイは額から冷たい汗を流し、遠ざかる美久を呆然としながら目で追いかけ続けている。
「はぁ・・・っ、・・・はぁ・・・っ・・・、・・・はぁ・・・、」
彼女の姿が見えなくなるとレイは忌々しそうに眉を顰め、自分の周囲に視線を彷徨わせた。
目の前に見えるのは美久の部屋だ。
しかし、少し視線をずらせば家の庭が見える。
自分たちはずっと美久の部屋にいたが、家の中も外も透けて見える上に降り注ぐ西日は眩しさも温度も感じられない。
彼は美久の直ぐ傍で、泣きながら震えている彼女を見ていた。
消えてなどいなかった。
声を絞り出して何度か声をかけたが美久には聞こえないらしく、また目の前にいるレイたちに気づく様子も無かった。
レイの目には、見えるもの全てが偽物のように映っていた。
そしてその奇妙な感覚は、探るように手を伸ばした時に確信に変わった。
手を伸ばせば触れられそうな場所にあるベッドもシーツも床さえも、先ほどまで当然のように触ることが出来たそこにある全てが、伸ばした手をすり抜けていく。
何一つ触れられるものがないのだ。
「・・・・・・ここは・・・、どこだ・・・」
「面白いだろう? この場所にいる限り、おまえが美久と触れあえる日は永遠に来ない」
「・・・そんな力・・・、お前にはなかった」
「だからひとりではないのだ」
そう言われてゆっくりと視線を横に移すと、いつの間にかクラウザーの傍らには軍服を着用した長身の男が立っていた。
口元から上部分を金の刺繍が施されたマスクで覆い、素顔を窺い知る事は出来ないが、静かに佇むその男からは得も言われぬ独特の空気が放たれており、クラウザーの言葉通りに理解するなら、この妙な場所はこの男が用意した世界とでも考えればいいのだろうか。
確かにこの場所がとても妙だというのはよく分かる。
どこか今までいた世界からずれたような・・・無機質なだけではなく体感温度も下がったような感覚を与えるこの空間は、見える色が若干褪せたようにも感じられ、言葉にし難い違和感で満ち溢れているのだ。
ここはなんだ・・・どこに放り出された。
どこへ向かう。
・・・・・・いや、オレはさっき言った。
あんな場所へ美久を連れて行けないと。
朦朧としながら、レイは自分の意志で答えたのだ。
今どこにいようと、向かう場所はひとつしかなかった。
「毒の味はどうだ? ・・・かなり効いていると見える」
「・・・・・・っ、・・・だまれ、・・・」
「尤も・・・、同じ毒も二度目となれば耐性ができるのか・・・」
「・・・っ!? ・・・・・、・・・二度、目・・・だと・・・・?」
レイにはクラウザーの言葉の意味が理解出来なかった。
これと同じ毒を受けた・・・?
身体を巡る毒を感じながらも、それに関して身に憶えはなく、問いかけるようにクラウザーを見上げるが、その目は冷淡で感情が見えない。
情の欠片もない瞳はこれ以上の会話を不毛と感じさせた。
レイは鈍る思考を振り払うように荒い息を吐き出し、やっとの思いで力の入らない腕を伸ばして冷たい汗を額から流しながら傍らに立つ男の裾を掴む。
「オレを、戻せ・・・・・・っ」
少し身体を動かすだけで意識が飛びそうになる。
しかし、故郷への拒絶と美久が連れ去られた事に対する危機感が、彼の意識を引き戻す力となっていた。
クラウザーは感心したように尚も藻掻くレイを眺め、愉しげに目を細める。
「何をそんなに焦る? 戻ると言ったのはおまえ自身ではないか」
クラウザーの問いは尤もだったが、レイは苛立ちながら数回肩で息を弾ませると、男の軍服の胸元に刺繍された黒羽の紋章を憎悪を込めて睨みつけ、飛びかかった。
レイは己の全体重を乗せるようにして男に掴みかかる。
すると勢いのままに二体の長身が倒れ込み、荒い息のレイが蒼白な顔色で男の上にのし掛かった。
「はぁー・・・っ、はぁー・・・ッ」
布を裂く音と共に顔をあげたレイの口には、男の胸元から食いちぎった黒羽の刺繍が揺れていた。
それを忌々しげに吐き捨てると、男の襟を力いっぱい引き寄せる。
レイは既に意識を保ち続けるのが困難な状態だったが、震える手に力を込めて吐き出した絶叫は鬼気迫るものがあった。
「オレをここから出せっっ!!」
「・・・・・・っ」
「あの場所には戻らない!! これ以上、オレの邪魔をするなよ・・・っ!!!」
突如、レイの瞳が金色に輝き、地響きのような音が空気を揺らした。
急激なエネルギーの膨張をレイから感じ、彼が見えるもの全てを本気で破壊し尽くそうと考えているのは獣のような瞳を見れば明らかだった。
目の前の男はその力を前に一瞬だけマスクの奥で眼を細めたように見えた。
顔を覆う金糸の刺繍で彩られた金属製のマスクがそのエネルギーで溶け出し、僅かに男の容貌が見え隠れする。
レイはそれを見た瞬間、僅かに目を見開いて息を飲んだ。
・・・しかし、
「・・・・・・ッ・・・・・・・・・・・・ッが、・・・は・・・・・・・・・ァッ!!」
大きく目を見開いたレイの喉が苦しげに鳴り、彼の瞳からは一瞬のうちに生気が消え失せてしまう。
眼前でその様子を見ていた男は僅かながら唇をひくつかせたが、レイの真後ろで銀髪がゆっくりと棚引いたのを目の端に捉えた。
「化け物とはよく言ったものだ。この毒を受けて意識を失わぬどころか・・・・・・底の知れぬ怪物め」
短剣を手に持ったクラウザーが腰に下げた鞘にそれを収めながら冷酷に言い放つ。
一瞬目にしたその短剣にはおびただしい血液が滴っており、そのうえ刃先には毒液が塗り込められていたらしく、血液と毒とが混ざり合って異様な臭気が周りを包んだ。
「まぁ・・・暴れる気持ちは察するがな。見目がどうあれ、美久を連れて行ったあれが"男"ということはレイも知っている。・・・心配で堪らないのだろう」
既にレイの意識は無い。
男に全体重を預けたまま、まるで命が尽きたかのような蒼白な顔色。
浅く細い息を繰り返していることで、生きているというのは分かるが。
「・・・・・・ひとつ、聞きたい」
その時、初めて男が口を開いた。
自分の上に乗ったまま正体をなくしてしまったレイを抱えて起き上がり、つい先ほどクラウザーが抜刀して傷つけられたその背に手を伸ばす。
傷は既に修復を始めていた。恐るべき治癒力だ。
見れば首元の赤黒く変色した部分も心なしか小さくなっている。
本当にこの毒に耐性があるのかもしれなかった。
「・・・何だ」
「彼は何故、故郷を捨ててまでこのように生きる道を望んでいる?」
男の質問にクラウザーの口角が最大限にまで持ち上がる。
完成された美貌が残酷な笑みを浮かべた。
「見ただろう、先ほどの少女に対するこれの執心を。今のレイにとって父上の傍に戻るという事は、己を殺して生きる事を意味するのだ」
黙り込む男からレイの腕を取りあげ、ぐったりしたその肢体を抱き上げながらクラウザーは含んだ笑いを浮かべる。
「・・・だが、全てはこのままレイが大人しくしていればの話だ」
「・・・・・・」
「どちらにせよ渦の中心から逃れるのは容易い事ではない。・・・そうは思わぬか?」
そう言ってレイのつむじにそっと唇を寄せ、クラウザーは男に向かって視線を投げかける。
男はゆっくり立ち上がりながら、クラウザーの腕の中で気を失ったままのレイの髪がサラサラと柔らかく流れるのをじっと見つめていた。
暫くして半分近く溶けてしまったマスクを指でなぞりながら、男は静かに口を開く。
「・・・渦の中心に居る事を強制しようと、綻びが大きくなるほど取り返しがつかない事態を招くこともある」
クラウザーはそれを聞いて可笑しそうに嗤いを漏らした。
男のマスクを指先で持ち上げ、その隠された素顔を満足げに覗き込みながら。
「・・・・・・それは自分の事を言っているのか?」
その問いかけに男は答えなかったが、クラウザーは愉しげに笑みを零す。
そうして彼は目の前の男から手を離すと、レイを抱きかかえる腕に力を込めて固く閉じられた瞳に唇を寄せた。
「どうせ破綻するなら、何もかも滅茶苦茶に壊してしまえばいい。・・・なぁ、レイよ───」
そう言って囁く声音は、相手を愛おしむような柔らかな響きが多分に含まれていた。
簡単にレイを追い込んでみせる一方で、彼は別の何かを求めているかのような様子を時折垣間見せる。
そんなクラウザーの危うい二面性は真意を疑われるものであり、彼の立場を考えても決して歓迎されるものではないはずだ。
だが、目の前にいる男は裏切りとも思える言葉を耳にしても、沈黙を続けるだけで特に何の反応も示さなかった。
「では、行こうか、・・・・・・父上の御前まで・・・・・・」
クラウザーはそれきり沈黙し、男は静かに頷く。
その瞬間、目の前にあった世界が遠ざかり、一筋の光すら存在しない暗闇の中へと、彼らは飲み込まれていったのだった。