『約束』

○第8話○ 孤独な傷痕(その12)







 低いうめき声が不気味に聴覚を刺激して澱んだ空気が渦巻き、再び陽の光を浴びる希望も無く、死ぬまで生き地獄を味わうこの世の終わりのような場所・・・
 それが南の棟にある地下牢だった。
 そんな陰気な雰囲気が漂う地下牢に、規則正しく響く軍靴の音が響く。
 足音は一定間隔聞こえると突然ピタリと止み、再び足音が聞こえてはピタリと止む。
 先ほどから延々と繰り返されているそれは、渦中の存在であるマスクの男に扮したレイが立てる足音だった。
 彼は地下牢の中をひとり徘徊しながら仕切られた牢部屋の小窓を開けては、バティンを探す為にこうして中の様子を一つ一つ確認して回っているのだ。

 レイは薬品が引火して燃えさかる部屋を飛び出した後、真っすぐに地下牢へ向かった。
 地下牢に侵入するにあたっての入り口はひとつしかなく、当然ながら牢番と対峙することは避けられない。
 しかし牢番の存在すら失念する程感情に振り回されていた彼は、堂々と正面から牢番と対峙することになり、強引に突破しようとしたところで戦闘になった。
 三人いた牢番はこういう場所を守るだけの屈強さを求められた者たちだった。
 ただその屈強さが仇となったのか、それともレイの感情が高ぶっていた所為なのか・・・牢番達を倒すために勢い余って入り口の壁を破壊してしまい、それを通りがかった兵士に目撃されてしまったのだ。
 彼らと戦うのを面倒に思ったレイは、咄嗟にそのまま入り口を全て破壊し瓦礫の山をつくって塞いだのだが、結果的に地下牢篭城の話はあっという間に城内を駆け抜け、それが今に至っているというのが事の顛末だった。


 ───・・・ウゥ・・・・・・、・・アァ・・・・・・、・・・・・・

 低いうめき声がそこかしこで響く地下牢で、レイの靴音だけが異質に響き渡る。
 地下牢の内部は一部屋ごとを壁で仕切られており、三列ほどある通路の両端に牢部屋がずらりと並んだシンプルな造りだが、囚人が直接人目に晒されることのない完全個室で、数メートル置きにある小窓をこうして覗いていかなければ、中の様子を確認することは出来ない。
 こんな造りにしたのは、囚人にプライバシーを与えているというわけではなかった。
 囚人の全てではないが拘束具や拷問具によって衰弱しきった者達の荒んだ姿は激しく、生きながら腐敗が進む者すらおり、悪臭も堪え難いものがある。
 つまり、此処を通る牢番や稀にやってくる高官、何よりも自由に立ち入りが赦される王族たちが彼らを見て気分を害さないよう配慮した結果、こういう造りになっているだけなのだ。
 レイは延々と小窓を確認する作業を続けていたが、不意に立ち止まって小さな溜め息を吐いた。
 いちいち中を覗いて確認するのは、想像以上に地味で効率も悪い。
 後ろを振り返ると、まだ1列目だというのに半分ほどしか進んでおらず、先は長かった。
 ざっと見て1列に100部屋ほど、通路は全部で3列だから単純に考えて300部屋・・・全てを見て回るにはどれだけ時間がかかるのか。
 本当はバティンの気配を探りあてるのが一番の近道なのだが、あまりに荒みきった気配が地下牢を埋め尽くしていて、誰かひとりに的を絞って探すのは不可能に近かった。


「・・・・あ・・・、だったらこの壁を壊せばいいんじゃ・・・」

 突然レイはポツリとそんな事を呟く。
 今まで行儀よく一つ一つ確認していたのが馬鹿だったとばかりに彼は身を翻し、通路の先端まで戻っていく。
 そして、近くの太い柱の前で立ち止まり、いきなりその柱に自分の拳を叩き付けた。
 ボゴ・・・低い音と共に拳が沈んだ場所を中心に石の柱が数メートルほど崩れ落ち、砕けた石の欠片が床に飛び散った。
 レイはその中から手に持ちやすい石の欠片を何個か選び取り、牢部屋の壁を敢えて擦るように狙いながら、まるでボール投げでもするかのような要領で、向こうの壁目掛けて石の欠片を真っすぐ投げ放ったのだった。


「まず一列・・・」

 石は壁を剔りながらも軌道を変えることなく向こう端の壁に真っすぐめり込む。
 めり込んだ壁には、隕石が衝突した時のようなクレーターがつくり出されていた。
 そして、僅かな静寂の後、牢部屋の壁は石の欠片が抉りながら通った軌跡を起点にして、滝のように一斉に崩れ落ちてしまったのだ。
 その後も彼は残った列に石を投げては、淡々と壁を崩壊させていく。
 次々に崩れ落ちる壁は地鳴りを巻き起こし、粉塵が視界を白く染め上げていった。
 そうして牢内全ての壁を壊し終えると、今度は少々足場の悪くなった通路を進み始める。
 壁が崩れたために一々止まることなく牢内を見て回ることが出来るのは、効率という視点を重視すれば確かに改善されたのだろう。
 しかし、これでは中の囚人が自由に出て来てしまうのだが、そこをどう考えているのかは、マスク越しでは全く読み取る事が出来ない。
 三列ある通路を全て通り抜けて全ての牢部屋の確認を終えると、レイは天井を見上げて立ち止まる。
 バティンの姿はどこにもなかったのだ。
 薬品の臭気漂うあの部屋で、男は確かに南の棟の地下牢と言っていた。
 もしかすると、あれも嘘だったのだろうか・・・そんな疑惑すらも浮かび始める。

 ───だが、

「・・・・・、・・・あれは・・・」

 地下牢の奥で考え込んでいると、ふと、先ほど投げた石がめり込んだ壁の一部に若干の違和感がある事に気づいた。
 位置で言えば真ん中の列の突き当たりのクレーター付近。
 壁と同化するように、ひっそりと扉らしきものがあるように見えて、レイはその場所へ足早に向かう。
 その間、視界の隅では数人の囚人が壊れた牢部屋からのそのそと這い出てくる姿があったが、彼らはレイの姿を目にした途端、なぜか一様に怯えて後ずさり、瓦礫の山と化している入り口の方へと逃げていった。
 彼らにとってレイは、それほど恐るべき存在に思えたのだろうか。
 そしてレイは目的の壁の前で立ち止まり、唇を僅かに綻ばせた。
 思った通り、一見しただけでは見逃してしまうほど存在感のない扉がそこにはあったのだ。
 早速レイは扉を開けようと手を伸ばす。
 が、押しても引いてもガチッと音がするだけで扉は動かず、そこが施錠されているということに気付いてレイは動きを止めた。
 しかもよくよく見れば鋼鉄製・・・此処が単なる物置だったという結末はなさそうだ。


「・・・当たりだな」

 レイはニヤリと笑う。
 今度は思い切り腕を振り上げて、彼は勢いよく扉に殴りかかる。
 すると彼の腕は鋼鉄の扉に肘までめり込み、そのまま肘を直角に曲げると自分に引き寄せるようにして、腕力だけでメキメキと音を立てながら扉自体をもぎ取ってしまった。
 レイはその扉を投げ捨てると早速中に足を踏み入れる。
 そこは薄暗く陰気な小部屋になっていて、ぼろぼろの机の隣に棚が二つ並び、安物のベッドが置かれていた。


 じゃら・・・、

 部屋の隅で鎖の音が小さく響き渡る。
 レイはまた一歩中に足を踏み入れ、中の様子を窺った。


「・・・・・・・・・っ、・・・───ッッ!?」

 ビクッとレイの身体が震え、驚愕で目を見開く。
 誰かがいるのだ。
 それも、異様な姿の・・・・・・
 肉の殆どついていない細い足首を錠で拘束され、汚れたベッドに腰掛ける影の薄い背中。
 その人物は部屋に何者かが侵入した気配に僅かに反応して身じろぐが、病的なまでにやせ細った肉体ではその仕草だけで骨張った肩甲骨が薄い布越しに浮き出た。
 レイは僅かにその人物の横顔を目にして、喉を鳴らした。
 それは明らかに・・・


「・・・バ・・・ティン・・・───?」

 声を震わせながらレイは駆け寄り、その顔を覗き込む。
 ごく・・・、また喉を鳴らして思わず息を潜めた。
 酷くやつれた頬、窪んだ目、くすんだ皮膚。
 しかしそれは、間違いなくバティン本人だったのだ。


「・・・オレが・・・誰かわかるか?」

「・・・・・・、・・・・・・」

 そう問いかけるも、反応は全くない。
 レイはそこで自分がマスクを身につけているということに気づいて、漸く己の素顔をその人物の前に晒した。


「・・・・・・・・・」

 視点の定まらない瞳がレイを見上げる。
 だが、それが驚愕へと塗り替えられていくまでの表情の変化は、驚くほど大きなものだった。


「・・・ッ、・・・・・・───ッッ!!!??」

 人形のように無表情だったというのに、レイに視点を定めた瞬間、まるで魂が宿ったかのように彼は唇をぶるぶると震わせ、声にならない声を喉の奥で繰り返し始めたのだ。


「・・・・バティン、・・・オレがわかるのか?」

「・・・ッ、・・・・ッッ」

 まともに声がでないのか、バティンは震えながら何度か頷くだけだった。
 その様子にレイは唇を噛み締めて、その細い足首を縛る枷を強引に引きちぎる。


「バティンは今からオレと此処を出るんだ。絶対に連れ出してやるから」

 そう言ってバティンを抱きしめると、折れそうなほど細い首に胸が潰されそうになった。
 それに・・・、この臭いは何だろう? レイは眉をしかめる。
 バティンの背に触れた自分の手がしっとりと湿っていくのだ。
 まさかという考えが過ぎり、レイは彼の服を剥いてその背がどうなっているのかを確認した。


「・・・ッ!? ・・・・・な、・・・んで・・・こんなことに」

 バティンの背はぐずぐずに膿んでいたのだ。
 そう言えば、レイを解放した"あの日"も拷問された状態を放置して、彼の背は酷く膿んでいた。
 まさかあの時の状態のまま、もしくはそれ以上に最悪の状態で彼は今を迎えているのでは・・・そんな考えが頭をよぎる。
 とてもこのまま連れ出せる身体ではない。
 膿んだところから腐敗が進んでいて、それが強い臭いを発している。
 強引に動かして彼の身体がどうなるか想像もつかなかった。
 どうしたらいい・・・レイの中で激しい自問自答が繰り返される。

 ───此処までの状態のものでも、オレは治すことが出来るのか?

 だが、このままにしておけるわけがない。絶対に。
 ならば残された道は一つしかないだろう。
 レイはぐっと拳を握りしめた。


「・・・、少し・・・、じっとしてて・・・」

 レイは掠れた声でそう言うと、己の手のひらに意識を集中させた。
 すぐに指の先からは温かな光が宿り、レイは祈るような想いでその光を見つめた。
 本当は誰かの為に力を使うのが怖くて仕方なかった。
 自分の力で誰かを助け、守ることなど本当に出来るのだろうかと。
 自分が持つ力も自分自身も、何もかもが信用が出来ない。
 何も要らなかったのにと、いつもそればかりだった。
 振り返るのは過去の出来事ばかり・・・、守り通せたものがお前にはあったのかとその過去に追い立てられる。

 ───『いつか・・・、大切な方が出来た時、その方を誰よりも強く守っていける力が貴方には必要なのでしょう』

 遠い昔、どうして自分は他の誰とも違うのかと不満をぶつけると、バティンがそう言った事があった。
 それがいつだったのかは良く憶えていないが、あの時のバティンの顔がどこか哀し気だった事だけはよく憶えている。

 大切な人を守るためだというなら、この手にはその力がないともう間に合わない。
 それなのに、オレはその自信すら未だに掴めず、未来を夢見ても、いつもそれは霞んで輪郭がぼやけている。
 だけど・・・今バティンを救えないなら、こんな力、他に何の使い道があるっていうんだろう・・・?
 この先、自分の力とまともに向き合わずに美久と生きていきたいと願うのは、夢を見ているのと同じくらい心許ない話だ。


 いつしか溢れ出る光は手のひらだけでは収まらくなっていた。
 レイの身体全てから金色の光が止めどなく溢れ出して、彼自身が光の集合体のようだった。
 それらはひとつもこぼれ落ちることなくバティンの身体へと注ぎ込まれ、まるで枯渇した川に豊かな水流が生まれたようで、瞳を閉じてバティンを抱きしめるレイの表情は神々しささえ漂っていた。
 バティンは自分の中に流れ込む何とも心地の良い幸福感にため息を漏らす。
 擦り切れてぼろぼろに千切れた己の心までも優しくつなぎ合わされていくようで、これ以上の安心を得られる場所などこの世のどこにもないと思えた。

 ───あぁ・・・、なんと立派になられたことか。

 感嘆で胸が詰まり、バティンの頬に涙が伝う。
 レイを逃がした後も殺されることなく生かされ続け、また自分を利用してレイを縛り付けるつもりだということは嫌が応にも理解した。
 ならば一刻も早くこの身が腐って、命が朽ちてしまえばいいとバティンは願い続けた。
 ジクジクと膿んだ傷は己の贖罪だった。
 レイの瞳から希望の光を奪い、孤独に貶める為に自由を奪い、その為に利用されるだけだった自分はレイの本物の足枷だったと。
 だから彼は傷など塞ぐ気が無かったのだ。
 しかし、こうしてレイが目の前に現れたことで、バティンの中の微かに残った欲が頭を擡げる。
 それは自身の為の欲では無かった。
 まだ未来を望む選択肢があるというなら、せめてレイに叶えて欲しい小さな望みが彼にはあったのだ。


「レイ様・・・、ひとつだけ・・・どうしても聞き入れていただきたいことがあります」

 バティンのか細い声にレイの瞳がゆっくりと開かれる。
 身体中から溢れ出る金色の光に反射してその瞳は様々に色を変え、まるで七色の宝石のように美しい。
 バティンの身体からは、既に傷があった痕跡すらも無くなっていた。
 声すら出せなかったものを言葉を絞り出すまでに回復し、それでもレイは尚も光を注ぐ事をやめず、それはまるで心に受けた傷さえも治そうとしているかのようだった。


「これより更に地下に・・・、連れ出していただきたい方がいるのです」

「・・・地下? 此処より下に続く道があるのか?」

 一通り中を見て回っても、この地下牢に他へ続く道など無かった。
 だが、そこでレイはハッとした。
 これはもしかすると、あの男の言っていた隠し部屋に関係しているのではないかと。

 だとすると、地下にはあの男の妹が・・・?
 いや・・・バティンがあの男の妹を連れ出してほしいなどと頼むわけがないだろう。


「ベッドの奥の床を調べていただけますか? まだ少々身体が軋むもので・・・申し訳ありません」

「・・・ああ」

 そこで漸くレイの身体から放ち続けた金色の光が消え、彼は言われるままにベッドの奥まで移動する。
 床と言われて確認してみるが、人ひとりが通れるくらいの隙間があるだけで、特に何も無いように思えた。
 しかし、よくよく見れば端の方だけ少しだけ床板がめくれている。


「これか・・・?」

 引っ張ってみると床が少し持ち上がり、覗き込むと階段が下に続いているのが見えた。


「おかしいでしょう・・・そこが地下へと続く道なのです。・・・案内いたしますので、どうか一緒に来ていただけないでしょうか」

「・・・・こんな場所に・・・、どうしてこんなものが」

「歴代の王族が眠る墓になっているようです」

「地下牢の下に?」

「はい・・・、地下牢の存在こそが墓を隠す為の目くらまし・・・そのうえ、此処には宝物の類も眠っているようで。・・・どちらにしても一部の者だけが知りえる秘密です。いずれクラーク様は貴方を連れて此処へ来るつもりだったに違いありません」

「・・・・・・」

 これほど重要な事までバティンに教える程信頼していたなら、クラークはなぜ此処まで彼を放置したのだろう。
 しかも、こんな小部屋に閉じこめながら、一方ではまるで地下へ続く道の番人をさせているかのようにも思える。
 本当に訳が分からない。
 レイにとってクラークの考えは、いつだって矛盾に塗れて理解出来ないことばかりだった。
 床板を持ち上げ、更なる地下まで続く階段をバティンの手を引きながら少しずつ下っていく。
 足場は悪くないが灯りが殆ど無いために視界は悪く、気温も徐々に下がって吐く息が次第に白くなる。
 レイの履いている軍靴が異様なまでに響き渡り、遠くにある壁に反響して音が小さく返ってきた。
 歴代の王族達がこのどこかに眠っていると言われれば、これだけの広さも頷ける気もする。
 ただ、どうして今、自分が此処に連れてこられたのか・・・それだけがレイにはよくわからなかった。


「・・・バティン、こんな場所から何を連れ出すんだ?」

 最下層の更に奥へと続く薄暗い通路を尚も進み、いくつも点在する大きな扉を素通りしながらレイは固い声で問いかける。
 此処が墓場であるなら、何を連れ出せというのか。
 まさか死体を運び出せとでも? いくらなんでもそれは無いだろうと思いながらも、その疑問すらも捨てきれなかった。


「此処です」

 けれど、そう言ってバティンが立ち止まったのは、他と何ら変わりのない扉の前で、此処が目的の場所と言われても今ひとつピンと来ない。
 バティンはレイの気持ちを察してか、僅かに眼を細めて頷き、自らがその扉をゆっくりと開け放つ。


「ニーナ」

 彼の妻の名を呼びながら・・・───









その13へつづく


<<BACK  HOME  NEXT>>



Copyright 2012 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.