『約束』

○第8話○ 孤独な傷痕(その2)







「・・・・・・、・・・これ・・・・・・って・・・」

 辺りを見回しながらも状況を把握することはできず、後に続く言葉が見つからない。

 だって、さっきまで私たち、レイのマンションにいたのに・・・。
 最上階のマンションの扉の向こうが・・・、こんな・・・


「そんなに不安そうな顔しなくても、こっちの世界も君の世界とそんなに変わらないと思うよ」

「・・・───、・・・こっち、の・・・?」

「まぁ・・・誰にも会わずにいられれば、それほど害は無いかもね」

「・・・・・・」

「とりあえず其処の建物に入ろう。そんな格好してるから寒いんでしょ」

 震えてるよと小さく笑われ、自分の格好を改めて思い返す。
 スカートに素足でサンダル履き、その足下は雪で埋まり、カタカタと震えている自分の足を見下ろして、とてもこの寒さに堪えられる姿ではないと思った。
 そして、ふと、手の中のキーケースを思い出し、後ろにある筈の部屋の扉を振り返る。


「・・・・・な、んで・・・?」


 ・・・扉・・・、が、・・・・・・、・・・無くなってる・・・・・・

 まるで、最初からそんなものなど存在していなかったとでも言うように。
 少女の手を振り切って戻ってみたけれど、どこにも扉らしきものは見当たらなかった。
 かわりにキーケースの中で『パキッ』と不自然な金属音が響き、慌てて手の中を確認してみると、部屋の鍵が縦に真っ二つに割れていた。


「戻る道がなくなっちゃったね」

 真っ青になって固まっていると、耳元で愉しそうな少女の声が聞こえた。
 振り返ると左右色の違う瞳がまるで観察するように此方を覗き込んでいる。
 真っ白な肌に色素のない白髪がこの風景に不気味なほど馴染んでいて、漠然とここがどこなのかを理解出来たような気がした。

 ・・・ああ・・・、そうか。

 そういえば、レイと出会ってこういう感覚を何度も味わってきた。
 常識などという言葉が馬鹿らしく思えるくらい、彼といると信じられない事ばかりが起きた。
 だったら、彼を追いかける為に辿り着いた場所で、何が起きたって不思議じゃないのは少し考えれば想像出来たはずだ。


「・・・おいで」

 立ちつくしていると少女に手をとられる。
 一歩進むごとに足が雪に埋まり、その冷たさに現実を突きつけられていく。
 そのまま少し歩くと、何もない場所に何故か一軒だけぽつんと建っている小さな建物が目に入った。
 呆然としながらもう一度後ろを振り返った美久は、やはり何もない一面の銀世界に息をのむ。

 私、レイに近づけてるの・・・?

 出ない答えばかりが目の前に押し寄せてくる。
 戻る道は失った。
 鍵も壊れた。
 ならば・・・進まなければ何一つ答えを見つける事は出来ないということだ。

 ───と、
 建物の扉に手をかけ、ガチャガチャと取っ手を弄りながら、少女が難しい顔をしているのに気づく。
 彼女を見上げると視線を美久に向けて、キーケースを握りしめた左手を指差した。


「・・・?」

「その鍵、ここに差して」

「え? でもこれはもう折れて使えない・・・」

「ちがう、貰った鍵はもう一つあるでしょ? レイの念が込められてるからわかるって言ったはずだよ」 

「・・・っ、・・・だけどこれは・・・・・」

 キーケースのボタンを外しながら首を傾げる。
 確かにレイから受け取った鍵はふたつあった。
 一つは折れてしまった"奥の部屋の鍵"、もうひとつがマンションの入り口の鍵だ。


「何でも良いからとにかく差してよ。こんな小屋のくせに鍵がかかって開かないの。扉を壊しても良いけど直すの面倒でしょ、今夜もし吹雪いたら寒くて大変なのは美久だよ。しかも此処ってレイの気配が凄い残ってるし。こんなの頻繁に出入りしてたとしか思えない」

「レイが・・・? う、うん。・・・わかった」

 そう言う事ならと彼女の言葉に大きく頷き、鍵を差し込む。
 此処にレイが出入りしていたのなら、この中に彼が残した何かがあるかもしれない。
 そう思ったら現金なくらい沈んでいた気持ちが浮上して、例えこの鍵が合わなくても扉を壊して中に入らなければと思った。


「・・・あ!」

 鍵をゆっくり回すとカチャン、と金属が噛み合う音がした。
 驚いて声をあげると、横から苦笑を漏らす声が聞こえてきた。


「こんな事で一喜一憂して、大変だね」

「・・・う」

 皮肉を言いながら扉を開けると、少女は美久の背中をそっと押して中に入るよう促す。
 その様子はまるで紳士が淑女に先を譲る動作のようで、あまりに自然だったために促されるまま建物の中へと足を踏み入れてしまう。
 誰もいないからか異様な静寂に包まれているが、中の様子は想像とは少し違うものだった。
 建物自体は煉瓦で出来ていたようだが、その中は何故か和風の造りをしていて、廊下を挟んで白い和紙が張られた障子戸が並んでいるのだ。
 誘われるようにサンダルを脱いで障子戸を開けると、そこは伊草の香りが漂う畳の部屋になっていた。
 無言で部屋を見渡し、奥の襖(ふすま)を開けてみると、また別の和室に繋がって台所がその奥に見える。


「なんだここ・・・? 変わった部屋だなぁ」

 美久の後を着いてきたのか、不思議そうな声が背中から聞こえた。
 和室を知らないのかと思って何気なく振り返ると、ブーツを履いたまま部屋に上がり込んでいる事にギョッとした。


「ちょ・・・ッ、それだめ!! 靴は脱いでッ、部屋が汚れちゃう!!!」

「は? 何言って・・・」

「とにかく玄関に靴を置いてきてッ!! ここはそれがルールの家なの!!!!」

「えぇ?? ゲンカン?」

「いいからはやく!!」

 突然の剣幕に気圧され、少女はブーツを脱ぎながら考えを巡らせている様子だ。
 そして美久が此処に来てからの行動を思い出し、首を傾げながら玄関に向かうと、揃えて置いてある美久のサンダルに習うように自分のブーツを横へ並べてこれでいいのか聞こうと振り返る。
 すると、どこから見つけてきたのか、靴跡で汚れた畳や廊下をせっせと布で拭いて掃除を始めている美久の姿に目を丸くした。


「何してんの?」

「・・・掃除してるだけ」

「へんな女」

 ぽつんと言われてムッとしたが、此方の動きを興味津々といった様子でジッと見ているので反論する気が失せる。
 それに何を考えているのか、彼女が何者なのかも分からないが、不思議と今は恐怖を感じない。
 本当に感覚が麻痺してしまったのかもしれない・・・美久は改めてそんなことを考えて微妙な気分になった。


「ねぇ、次はなにするの?」

「え?」

「此処でずっと過ごすわけじゃないんでしょ?」

「・・・それは。だけど、とりあえず家の中を調べないと・・・」

「ふぅん」

「あの・・・、聞いてもいい?」

「ん?」

「此処はレイがいる場所からどのくらい?」

「なんで?」

「知ってるんでしょう?」

「知らないよ」

「えっ」

 畳にちょこんと座って不思議そうに答える様子に思わず聞き返す。
 『だから知らないよ』と繰り返し答えたその表情に嘘は無さそうで言葉を失った。


「・・・なに? レイに会いに行きたいの?」

 黙り込んだ美久に少女が呑気な問いかけをする。
 何となく察したのだろうか、こちらをジッと見ながら彼女も沈黙してしまった。
 少しして、彼女は自分の上着のボタンを手慣れた様子で外し、脱いだそれを美久の肩に掛けるとコロンと寝転がり、大きく伸びをしてくつろぎ始める。


「あの・・・これ・・・」

「寒そうなんだもん、僕はあと3枚着てるし」

「・・・そ、・・・あ、ありがとう」

 と、お礼を述べた後、美久は『ん?』と首を傾げる。
 聞き間違いでなければ、今、彼女は自分の事を"僕"と言わなかっただろうか・・・?


「・・・・・っ!」

 横になって美久を観察するように見る彼女を改めて見て、まさかの考えが浮上した。
 シャツの上に刺繍の入ったベストを着た上半身には、どう眼を懲らしても柔らかな胸の膨らみがないのだ。
 かなり華奢なので無いように見えて実はある、という可能性も否定は出来ないだろう。
 しかし、畳に投げ出した手はやや骨張っていて、少女と決めつけるには違和感があるような気がしないでもない。
 確かに横に立ってみると思ったより背が高くて、ちょっと・・・10cm以上は自分より高かったかもしれない。
 よくよく考えると、掴まれた腕は想像以上に強かったし、彼女にしがみついたときに妙に筋肉質だという感想を持ったのを思い出す。
 そう言えばこの家に入るときの紳士的な動作は凄く自然で、寒そうだといって上着を貸してくれたりするのもそう言う事なら・・・

 で、・・・でも、こんな美少女がまさか・・・・・・
 だからって『男ですか』なんて聞けるわけが・・・


「ねぇ、名前なんて言うの?」

「えっ?」

「な・ま・え。教えてよ」

 くるんと身体を回転させて今度は頬杖をつきながら此方を見上げる表情は、なんというか小悪魔的な可愛さだ。
 もしそうなら自分は女性でありながら完全に負けを認めざるを得ないのだが。


「えと・・・、美久。奥田美久」

「ふぅん、ミク・・・」

「あなたは?」

「ルディだよ」

 ルディ・・・これはどう判断すればいいんだろう。
 男名なのか女名なのか、どちらかと言えば男っぽい・・・ような雰囲気・・・、いや、やはりよく分からない。
 ぐるぐると美久がそんなことで考えを巡らせているとも知らず、彼女・・・いや、ルディは相変わらず観察するような瞳で此方を見ている。
 こんな風にジッと見られてても緊張しないのが変な感じだ。
 左右違う色の綺麗な瞳、・・・確かこういうのをオッドアイと言うんだとぼんやり考える。


「あのさ、此処がどこかはともかく、どの方向にレイがいるかは分かるかも」

「え? 本当!?」

「たぶん。・・・暗くなったら見てみる」

「暗く・・・、あ、・・・星の位置でわかるとか?」

「へぇ、ミクの所でも同じなんだね」

「・・・そんな話を聞いた事があるだけ。私がもし遠い場所でひとりで迷子になっても星の位置では解決出来ないだろうけど」

「なんで?」

「どこにどんな星が有ったとか、あんまり憶えてないもの」

「自分の家から空を眺めてたら自然に憶えちゃうものじゃないの?」

「う・・・ん、ちゃんと星空を見た事無いかも・・・」

 ルディにはそれが信じられない話のようだった。
 『なんでー?』としきりに首を傾げて不思議そうな顔をしている。
 確かに見晴らしの良い夜に空を見上げれば自然と目に飛び込んでくるが、これまでの生活では必要に迫られるものではなかったし、興味をもつきっかけもなかったのだ。


「ホント、へんなの」

 そう言って顔を覗き込むルディの瞳は好奇心に溢れている。
 とても綺麗な白い毛並みのネコに懐かれているようで、思わず頭を撫でてしまいそうになって美久は慌てて手を引っ込めた。
 引っ掻かれたら怪我じゃ済まない相手なのにどれだけ自分は呑気なんだと思いながら、そのうちにルディが男でも女でもどうでも良くなっていった。


 ───その後、美久は夜が来るまでの間、家の中を見て回って過ごしていた。
 決して広くは無いので全体を把握するのに時間は掛からなかったが、見れば見るほど此処は不思議な場所だということがよく分かる。
 部屋は2間。
 他に台所とトイレ、お風呂場と最低限のものは備わっていたが、見たところ電気もガスも無縁の場所らしいので、火を熾すにはさり気なく設置してあるかまどを使わなければならないようだ。
 使った事がないのでやり方は分からない。
 しかし問題はそれだけではなかった。
 何処を見渡しても水道の蛇口が見あたらないのだ。
 まさか外の雪を使うのかと窓の向こうを見ていたら、先ほどは気がつかなかった井戸を発見し、どうやらこれを使用するらしいという事を何となく理解した。
 それによくよく考えると、電気がないから日が落ちれば真っ暗になってしまうのだ。
 せめて小さくても灯りになるようなものは無いかと探していると、台所の隅に木の扉を見つけた。
 扉を開けると外に出てしまったが、そこはどうやらすぐ傍にある小さな蔵へ行く為の通路のようで、美久はそのまま蔵へ向かった。


「・・・わ、・・・すごい」

 蔵へ入って思わず感嘆の声を漏らす。
 その中は古い日本を思わせる建物の中とはかけ離れたものが沢山揃えられていたのだ。
 缶切り不要の様々な缶詰やレトルトパック、お米は20kg入の無洗米から湯煎で20分の使い切りパックまで。
 2リットル入の水はケースで積み上げられ、懐中電灯に電池の予備多数に留まらず蝋燭やライターも用意されており、ティッシュやトイレットペーパーなどの紙類も積まれている。
 見れば食べ物は全て賞味期限内できっちり管理されていていたし、仕切りの奥には灯油缶が数ケースに電気不要の石油ストーブまである。
 人が此処に住む為に困らないように用意されているものばかりだった。
 美久は蔵の中にひとり立ちつくし、この家に入る前のルディの言葉を思い出す。
 此処はレイの気配がすると言っていた、・・・何度も出入りしていると。
 彼女にそれを感じ取る事は出来なかったが、その言葉が意味するものは一つしかない。

 ・・・・・・此処にあるものは全部、私の為にレイが用意したということ・・・?

 レイにはこの中のものは殆ど必要無い筈だ。
 彼には不要だが、美久には必要なものばかりが此処にはある。
 ハッとして蔵から飛び出した美久は、通用口から家へ戻って小さな台所をぐるっと見渡した。
 そして、"あるもの"を見つけた途端、呆然とその場にへたり込んでしまう。


「何してんの?」

 美久の様子に、部屋で横になっていたルディが近づいてくる。


「・・・ルディもレイと同じで、お米もお肉も魚も・・・そういうものを食べたりはしないんだよね?」

「当たり前じゃない。僕だけじゃないよ、此処に生きてるみんなが糧にするものなんて産声を上げた瞬間から一つだけだよ」

「・・・・・・そう、だよね」

「だからレイが君を"そういう視点"で見てないなんて、僕には信じられないんだよね」

「・・・ん」

 美久は大きく項垂れて黙り込んでしまった。
 肩が震え、鼻をすする音がルディの耳に入る。
 呆れた様子で溜め息を吐いたルディは壁にもたれ掛かり、『もう帰りたいの?』と面倒くさそうに問いかけた。
 しかし小さく首を振った美久は『ちがう』と消え入りそうに呟いた。
 そして、何かを握っている美久の手を見て『それは何』と聞こうとしたが、静かに振り返った美久の目に涙が浮かんでいたのでルディは言葉を飲み込んでしまう。


「これ・・・家で使ってるのと同じ模様の箸なの・・・、こっちのは一度も使って貰えなかったけど・・・レイの為に用意した箸と同じ。・・・ねぇ、お茶碗まで同じなのよ。お皿も何もかもぜんぶ二つずつ用意してあるの、彼には要らないはずなのに二人分ある。食べなくても私がいつもレイの分を用意するから・・・だから、二人分揃えたんだわ・・・」

「ミク・・・?」


 ───・・・・・・美久・・・遠くへ行こう・・・・・・、・・・誰も知らない、秘密の場所を知ってるんだ・・・・───

 

「・・・・・・此処だったのかな」

 ひっそりと建っていた家。
 周りを見渡しても此処には何も無い。
 まるで他には何も必要じゃないと言われているような気がした。

 レイは、どれくらい待ってたんだろう。
 たった一人で、レイは何を思いながら生きてきたの・・・?


「なんだよ、ミクー、何で泣いてるんだよぅ」

 いつの間にかすぐ傍にしゃがんで顔を覗き込んでいるルディがいた。
 どことなく困り切った表情は拗ねているようにも見えて、突然泣き出したのを自分の所為と勘違いしているのかもしれない。


「・・・・・っ、・・・ここ・・・に、レイが居たんだよね・・・?」

「え? う、ん。・・・住んでたわけじゃなさそうだけど、あちこちに気配が残ったままだし、強い思念みたいなのも残ってるよ」

「それってどんなもの?」

「んー・・・、すごく強い思い入れがあるのが何となくわかるくらい」

「・・・ありがとう」

「なっ!? 突然なに言ってんの?」

 ビクッとして後ずさり、もの凄く驚いているルディにもう一度『ありがとう』と言うと、『へんなのーー』と言って逃げるように向こうの部屋へ行ってしまう。
 その動きがぎこちなくて動揺しているのがよく分かって、やっぱりとても可愛らしいと思ってしまう。

 ルディは何で一緒に来たんだろう。
 好奇心だけ?
 それとも何か理由があるんだろうか。
 レイを知っているみたいな様子も気になる。
 聞いてみようか、答えてくれるなら何か分かるかもしれないし・・・


「あの、ルディ・・・」

 部屋に戻るとルディは窓の向こうを真剣な眼差しで見ていた。
 つい先ほどまで動揺していたとは思えない横顔に、何かあったんだろうかと少し緊張が走る。


「どうしたの?」

「・・・・・・風の音が変わった。・・・これじゃ今夜は星は見られないな。・・・荒れそうだよ、吹雪くかも」

 隣に立って一緒に窓の外を眺めてみる。
 風の音で分かるものなんだろうか、陽が射してとても晴れているように見えるのだが・・・
 けれど、もしかしたら鋭い感覚を持っているなら、そう言う事も分かるものなのかもしれない。


「あ、じゃあ今の内にストーブ出しておかなきゃ、あとは食べ物と水と・・・」

「?」

 パタパタと忙しく奥へと消えていく美久を不思議そうに見て、ルディはすぐに窓の外に視線を戻す。
 その瞳はどことなく険しく、何かを考え込んでいるようでもあった。


「・・・この土地の空気・・・、不気味なくらい澄んでて気持ち悪い・・・」


 ───何か得体の知れないものがいるんじゃないの?

 やがてぽつりと呟いた声は誰かに訴えたものではないようだった。
 ただ、その夜は本当に空が荒れて気温も下がり、ルディの言葉通り吹雪になった。









その3へつづく


<<BACK  HOME  NEXT>>



Copyright 2011 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.