○第8話○ 孤独な傷痕(その5)
美久は窓の外から自分を見下ろす男から逃れようと、後ずさって後ろの壁に強かに頭をぶつける。
それでも更に後ろへ逃れようとして壁に全身を貼り付けた。
恐怖で声が出ないがそこから視線を逸らすことは出来ず、その男を見ていると、ふと、白い着物に黒い染みのようなものが出来ているのが見えた。
それは男の頬にも散っており・・・とても嫌な考えが頭に浮かぶ。
そして、男がゆっくりと窓に手を掛けようとしているのを見て、美久は絶望的な気分になってその場に尻餅をついた。
鍵が開いたままだということを思い出したのだ。
先ほどルディが外から窓を閉めてくれたが、美久は鍵を閉めなかった。
だが、この状況で鍵を掛けていたとしても何の役に立っただろう。
そんなものは割ってしまえば済む話だ。
音もなく窓が開けられる。
冷たい風が美久の頬を打ち、あまりの恐怖と絶望にぶるぶると全身が震えた。
「・・・・・・・、・・・これは何かの因果か・・・」
強風に紛れ、低い声がそう言ったのが聞こえた。
近くで見た男の着物はやはり黒っぽい染みが飛び散っている。
恐ろしい考えが頭に過ぎる、考えたくないのに嫌は予感は膨らんでいく。
男は震える美久の傍に膝をつき、顔を覗き込もうとしていた。
しかし、サク・・・サク、サク・・・雪を踏む足音が背後から聞こえて意識が逸れたようだった。
「何だよ。こっちから入れるのか」
突然現れたもう一人の男。
美久は更なる絶望に追い込まれ、全く声が出ない。
そのうえ、もう一人の男は肩に誰かを担いでいて・・・
「・・・───ッ!!!!」
色素のない髪の毛と・・・見覚えのある軍服でそれが誰かなんて言うまでもなかった。
───ル・・・ディ・・・
「これはこれは、かわいいお嬢さん。・・・もしかして彼は君の恋人だったのかな?」
真っ青になって固まっている美久に気づいたもう一人の男が、ルディの肢体を無造作に放り投げて笑う。
それはとても人懐こい笑みだったけれど、今の美久には悪魔のようにしか見えなかった。
畳に転がってピクリとも動かないルディの身体。
美久は噛み合わない歯をガチガチと鳴らしながらルディの身体に飛びつき、喉の奥に張り付いていた声を絶叫と共に吐き出した。
「ルディッ! ルディ、ルディルディルディ!!!!」
揺すっても叫んでもルディは動かない。
そのうちぬるっと手が滑ったのを感じて、それがルディの身体から流れ出ているものだと知った。
男の着物に散った染み・・・それが今のルディと嫌が応にも重なる。
「・・・やああっ、やだぁ、・・・ああああああーーー・・・っ!!!」
最悪の考えが頭を過ぎる。
取り返しのつかない結果を想像して目の前が真っ暗に澱んだ。
無事ではなかった、止められなかった、ひとりで行かせてしまった、ルディを犠牲にしてしまった・・・・・・・・・
笑った顔が蘇る、一緒に星を見ようと・・・
「だーいじょうぶ。気を失ってるだけだよ? 少ししたら目を覚ますから」
肩にぽんと手を置かれ、耳元で男が甘く囁いた。
けれど目の前は真っ暗になり、もう何も言葉が頭に入ってこない。
「・・・っ、はっ、・・・はっ、はっ、はっ、・・・」
「? おい、どうした?」
「・・・はっ、はっ、・・・っ、・・・っっ、・・・───」
「おい、ちょっと・・・!?」
もう何が何だか分からなかった。
息が出来なくて、どうやっても身体の中に空気が入ってこない。
苦しくて苦しくて喉をかきむしる。
男が何か言っていたけれど、それを理解する前に音がばらばらに飛び散った。
暗く澱んだ世界に飲み込まれる・・・そう思った瞬間、大きな手が自分の背中を押して、其処から暖かいものが注ぎ込まれたような気がした。
だが、それが何であったのか理解する前に、美久の意識は完全に途切れてしまったのだった。
───暗闇の中で、不気味な沈黙が続く。
風の音と雷鳴の音が鳴り響き、時折雷光が部屋の中に差し込んで男達の顔を照らし出した。
「助けるなんて、珍しく優しいな」
意識のない美久の身体を抱えた男が沈黙を破り、黒髪の白い着物を着た男に向かってニヤリと笑いかける。
黒髪の男はじろりと睨み、美久の背中に当てた己の手を静かに離した。
「・・・何のことだ」
「怪我まで負って、らしくないんじゃないか?」
見れば黒髪の男の手は酷く爛れていた。
それを無感動に見つめ、男は静かに口を開く。
「其処の・・・窓に触れただけだ」
「だろうな、扉の前に立ってても無理にこじ開けるのはまずそうな予感がしたし。俺ひとりだったらこんな所ぜったい近づこうと思わないね」
黒髪の男は沈黙し、意識のない美久を静かに見つめている。
やがて感情の見えない紅い双眸を僅かに細めると、ゆっくりと立ち上がった。
「・・・・・・・・連れて行く」
「えっ!?」
「其処の白いのが目覚めればまた煩わしいことになる。・・・行くぞ」
「おいおい、待てって・・・っ、今来たばかりじゃん。もうちょっとこの辺りを見て回ったりはしないのか? だいたい俺三日も駆け通しで足腰ガタガタなんだけど・・・」
「これ以上留まる事に意味はない。腹が減ったのなら、その白いのから血を貪ればいいだろう」
「どっちかというと俺は彼女の方が・・・すっごい美味しそうだし」
「・・・それは止めておけ」
黒髪の男はそう言って割れた窓の外を静かに眺めた。
眉を寄せ、不愉快そうに溜息を吐く。
「・・・全く気分が悪い・・・、二度と此処には戻らぬと決めていたものを・・・」
「はぁ? そりゃこっちの台詞・・・」
「・・・ふん、面倒だ。その者を渡せ、俺が連れて行く」
そう言うと、黒髪の男は美久をもう一人の男から奪い取る。
予期しない行動に面食らった男は、長い黒髪が風に揺れる後ろ姿を呆然と見上げている。
そして、とん、と小鳥が枝にとまるくらいの微かな音を立てると一気に空に舞い上がり、あっという間にそのまま闇の中へと姿を消してしまった。
「あっ、おい、多摩っ! ちょっと待てよーーーーッ!!!! ・・・〜〜〜〜ちっ、いつもながら人の言うこと全く聞かねぇ・・・っ!」
残された男は大声で叫ぶも何の答えも返ってこないことに悪態をつくと、横に転がっているルディを一瞥する。
考えるように眉を潜め、何を思ったかしゃがんで気を失っている頬をペチペチと叩き始めた。
「おい、・・・おい!」
「・・・・・・・・・ぅ・・・・・・、・・・・・・」
「・・・ふん、やっぱ生きてたか」
「・・・・・・、・・・・・・」
「見たところバアルの軍人だな。・・・一般的な制服と少し違うみたいだが。あんな動きが出来るなんてエリートなんだろう? 何だってこんな所にいたのか知らないが、今回は相手が悪かったと思って諦めるんだな。アイツ本当は腹が減ってたわけじゃないんだろうけど、足を踏み入れた途端吹き飛ばされてぶち切れたんだよ。俺だってあんな惨い血のすすり方はじめて見たんだ」
「・・・・・・・・・」
「ま、追いかけてくるなら次は死を覚悟しとけよ。ありがた〜い忠告だろ? 俺としてはバアルにはあんまりケンカ売りたくないんでね」
「・・・・・・」
「・・・・・・、さて、俺も行くかぁ。まーた三日も駆け通しかよ〜っ」
ぶつぶつ文句を言いながら男は立ち上がって首をコキコキ鳴らすと、先に行ってしまった先ほどの男に続いて闇の中へと消えてしまった。
開け放しの部屋には冷たい風が容赦なく吹き込み、ルディの白い髪を大きく揺らした。
頬にかかって表情を隠していた髪が後ろに流れ、大きく見開いた青と緑の瞳が露わになる。
悔しさに顔を歪め、ルディは荒い息を一度だけ吐き出して唇を震わせた。
───・・・何が起こったのか、自分でも分からなかった。
上手く誘導する自信はあったのに。
レイの仕掛けた結界が弾けたのだって予測通りだった。
突然の雷鳴も真っ黒い大空も、不気味には思ったが動揺するには至らなかった。
相手に自分の姿を態と確認させるために近づき、追いかけてきた所までは確かに問題はなかったのだ。
しかし、後ろから追いかける相手を一度だけ振り返り、闇の中で光るあの深紅の瞳が一瞬だけルディの動きを鈍らせた。
紅い閃光と共に四肢を突き刺す鋭い痛みが走り、意志に反して深い雪の中へと身体が沈み込む。
気づいたときには頸を掴まれ身体を引きずられて、ボタボタと雪を濡らしていく液体が視界に入ったが、それが自分の身体から流れ出たものだと気づくまでに少し時間を要した。
ぼやける視界が反転し、獲物を狩る眼光で見下ろす紅い双眸と目が合ったのは一瞬の出来事だ。
恐ろしく整った容貌・・・散った鮮血・・・、容赦なく首筋の皮膚を肉ごと食い破られ、此処で散るのかと己の最期を自覚した。
───運が悪い、なんてもんじゃない。
あれは"同族食い"だ。
よりによってあんなものに出くわすなんて、誰が想像出来る?
それも、あんな強烈な化け物・・・
まさか此処が"ベリアル"だったなんて想像もしなかった。
"生き残り"がいたなんて、そんな話は聞いていない。
「・・・・・・っ、・・・う・・・、・・・、・・・・・・なん、で、レイ以外にも、あんな化け物が・・・」
ルディは途切れそうな意識を手放さないよう、力の抜けてしまった己の身体を何とか動かそうと試みた。
僅かに意志を受け取った指先の関節が少しだけ曲げられる。
それで感触を得たのか、痛みで麻痺した首を僅かに動かし、部屋の中を見回すように視線だけをぐるりと動かしてみた。
「・・・・、・・・・・・ミク・・・、・・・わすれもの」
視線の先にあるのは、彼女のバッグだ。
中にはレイから贈られた携帯が入ったまま・・・、そこからは息づかいすら聞こえてきそうな程強いレイの気配が感じられる。
キーケースは寝るときでさえ手放さずに持っていたから、今も彼女が持っているのだろう。
少し、また少し指を動かし、肩の関節が動くのを頭に描きながら腕を伸ばしていく。
指先がバッグの紐に掠り、思い切り手を開いてそれを掴んだ。
「・・・・・・僕に・・・、届けろって・・・?」
小さく苦笑し、腕を引き寄せバッグを胸に抱える。
あぁ、なんだ。そんなに痛くない。
もしかして、傷が深いほど痛みは遠ざかるんだろうか。
だったら、・・・痛みが遠いなら、まだ僕は動けるのかもしれない。
そこまで考えて、どうして美久を追いかける気になっているのか、自分自身が理解出来ずに笑いが込み上げる。
なんで、僕が?
あんなに弱い生きものを、どうして・・・?
警戒心が無くて、忙しく動いて、寒がりで、泣き虫で、大したことじゃないのに嬉しそうに笑って。
あんなへんな女を、どうして僕が。
「・・・あ、・・・。星を一緒に見るって・・・約束したから、かも・・・」
なるほど。
だから僕は追いかけるのか。
腰に力を入れて上体を持ち上げると、脚が勝手に動いた。
右、左、一歩ずつ前に進んで大空を見上げる。
いい風だ。
簡単に高みへと導いてくれそうな・・・。
「・・・はは・・・っ」
痛くないなんて、単なる自己暗示に過ぎないというのに。
ビュウ・・・と風がルディの周りに渦を巻く。
身体はふらついていたが、両の瞳はしっかり見開いて、その顔には笑みさえ浮かべていた。
「・・・やだなぁ・・・、何なのこれ? すっごい試されてる気分」
まるで理解できない自分の行動に呆れながらも、迷わず大空に向かって身体を投げ出す。
ルディの身体は風に攫われ、天高く舞い上がると、荒れ狂う雲の渦の向こうへと消えていった───