『約束』

○第8話○ 孤独な傷痕(その8)







 その夜は月のない朔だった。
 かつてのレイが過ごした部屋はすっかり闇に包まれ、時折微かにうめき声らしきものが響いていたが、完璧な防音を施された部屋からはその微かな音すら漏れることはなく、誰ひとりそれに反応する者は居ない。
 レイになりすました男はベッドの上から転がり落ち、床に蹲りながら苦しげに肩を震わせていた。
 その額には汗が滲み、吐き出す息は激しく、とても普通の状態ではない。
 しかし、異様な光景はこれだけに留まらなった。
 四体もの女の肢体が、ピクリと動くこともなく部屋の方々に転がっているのである。


「・・・ウゥ・・・・ッ・・・、ウー・・・・・・」

 異様な光景の中・・・男はひとり苦しそうに呻きながら、頭の奥が痺れてまともな思考が根こそぎ奪われていくような感覚にひたすら堪え続けていた。
 そのうえ、先ほどから頭の中で繰り返される断片的なフラッシュバックに、言いようのない息苦しさを感じて猛烈な吐き気に襲われている。

 

『随分捜したよ、反抗ばかりして困った子だね。・・・その目も口も、何をしたって可愛らしいだけなのに』

 部屋に残ったクラーク、片足に錠を嵌められた自分。
 これにどういう意図があるのか理解出来ぬまま、ベッドに横になって背を向ける自分にクラークがそう言って静かに語りかけてきたのは、かなりの沈黙の後だった。


『これからはずっと此処で過ごすんだよ、わかるね?』

 静かに触れる手のひらは驚くほど優しい。
 漸く戻った我が子に触れることができ、その青い眼は微笑んでいるのだろうということは、顔を見なくても分かった。
 だがそれと同時に、声の中に含まれる有無を言わせない一方的な意志が、はっきりと見え隠れしているようにも思えた。


『大丈夫。昔のように私の言うことを素直に聞けば悪いことは何も起こらない。此処にいる時と同じように過ごせばいいだけだ。・・・だから、これを嵌めた意味もわかるだろう? 全てはお前の為なんだよ』

 足枷に触れながら、小さな子供に言いきかせるようにクラークは言う。
 当然ながら此処での生活など知る由もない自分にその意味は分からない。
 それでも、クラークの言葉の端々からは息苦しいほどの閉塞感が漂い、相手の意志を無視して何かを一方的に押しつけようとする一種の強迫観念のようなものが漠然と感じられた。
 そして・・・昼が過ぎた頃、意外な事が起きた。
 部屋に誰ひとり監視を付けることなく、クラークは執務に戻ると言い残してあっさりと部屋から出て行ってしまったのだ。
 足に付けられた枷は確かに頑丈だった。
 だが、それなりに力を有した者であれば、これを壊す事など造作もないだろう。
 まして相手はレイだ、こんなものが拘束力を持つとは到底考えられない。
 にも拘らず、まるでレイが此処から出て行くわけがないと確信しているかのように、クラークは出て行ったのだ。
 結局、それが本当に意味するところの意味は未だ分からない───



「っ、・・・はっ、・・・ゥ・・・・・・、ウ・・・・・・ッ・・・───」

 男は荒い息を吐き、低く呻きながらシルクの夜着の襟を引きちぎった。
 生地が首に触れるだけで狂いそうになる。
 焦らされるように舌先でなぞられているみたいな感覚に震えが止まらない。
 上気した頬で息を弾ませ、尚も奪われゆく己の思考を欠片ほどの理性で懸命に捉まえる。
 そうして自分を取り戻そうとすればするほどフラッシュバックは激しくなり、吐き気が酷くなる一方だった。



『ほら、抵抗しないで。さっき約束したばかりだろう? 大人しくしておいで』

 日が沈みかけた頃、兵士を伴いクラークが再びやってきた。
 今度は何だと思っていると突然腕を取られ、抵抗すると二人がかりで身体を押さえつけられた。
 ドロリとした液体を無理矢理口の中へ流し込まれ、不快な味に顔を顰めていると頬を撫でられ、また澄んだ青い目が笑った。


『これで全てが元通り。・・・いい子でおやすみ・・・』

 その時になって、彼の瞳の奥に狂気じみたものが揺らいでいる事に漸く気がついた。
 遠ざかる背中。
 クラークと入れ替わるように部屋に入ってきた4人の女達。
 己の身に降りかかる異変に気づいたのは、それから間もなくのことだった───




「・・・・・・ッ、・・・ウ・・・、・・・・・・ウゥ・・・・・・」

 身体が熱い。片足に嵌められた枷が肌を擦るだけで息が上がる。
 ジャラジャラと繋がれた鎖が鳴る音が肌に響いて、背筋が粟立った。
 男は熱い息を吐き出しながら額から汗を流して、何とか立ち上がろうと震える腕に力を込める。
 ベッドの端に掴まり、暗闇に慣れた目が部屋の中に転がる4人の女を捉え、込み上げる吐き気でまた息を乱す。

 ───コツン、

 不意に窓を打つ、微かな音がした。


「・・・・・、・・・・?」

 朦朧としながら視線を移すと、其処には窓一面を覆い尽くすような大きな黒い影が見えた。
 それは一度だけゆっくりと羽ばたき、その巨大な影は徐々に小さくなっていく。
 そして、影はその中心部分へと吸い込まれるように小さくなり、窓の向こうに人影だけが残ったのを見て、その正体を漸く理解した。
 男はふらつく足で気力を振り絞りながら窓へと近づき、出来るだけ音を立てないように気遣いながら、外からの訪問者を招き入れる為にゆっくりと窓をあけてやる。


「・・・早速、洗礼を受けたみたいだな」

 部屋に入るなりつけていたマスクを煩わしそうに外し、転がる4人の女の肢体と男の乱れた様子に眼を細めて、レイは小さく呟く。


「中々の忍耐力だけど、・・・我慢しない方がいっそ楽になれるんじゃない?」

 女達は一様に薄い生地の布を巻き付けているだけで、身体の線をわざと見せつけている格好だ。
 彼女たちが何の目的でこの部屋にやってきたのかは一目でも見ればわかるだろう。
 何よりも、燃えるように熱い自分の身体がどういう意味を持つのか、男は嫌でも理解していた。
 レイの言葉に首を横に振った男は、壁に身体を預けるようにもたれ掛かる。
 まともに立っていられないのだ。


「・・・へぇ、女を抱くのが嫌なのか? 姿形が似ているとそういうのも似るんだな・・・」

 感心したようにレイは呟き、転がる女達を侮蔑するように見下ろした。
 その瞳は激しい憎悪に染まっていて、このまま彼女たちを殺してしまうのではと思わせるような危うさを感じさせる。
 しかし、小さくため息を吐いたレイは女達を避けて通り過ぎると、長い足をゆったりと組みながらベッドに腰掛け、壁から繋がれている男の足錠の鎖を手にして弄び始めた。
 少し鎖が引っ張られるだけで足首に嵌められた枷が肌を擦り、息が上がる。


「・・・・・・やめろ・・・」

「・・・なんだか自分の喘ぐ姿を見てるみたいで、全然面白くないな」

 レイはつまらなそうに鎖を手放し、窓際で壁に凭れたままの男に本題を切り出した。


「・・・ひとつ、取引をしないか?」

「・・・・・・」

「あんただってそのつもりだったんだろう? 入れ替わることに何の得があるのか分からなかったけど、あんたはオレが戻ってくると最初から分かってたんだ。・・・違うか?」

「・・・・・・あぁ、・・・その通りだ。よく暴走して逃げなかったな」

「当然それは考えた。・・・だけどそれじゃ彼女を守れない」

 その言葉に男は僅かに笑みを零し、ぐらつく足を何度もたて直しながらベッドに腰掛けるレイの傍へ近づく。
 レイは僅かに眉を寄せながら男の様子を見ていたが、何も出来ないと判断したのか、身体から張り巡らされていたピリピリとした警戒を少しだけ解いたようだった。


「分かっている。君が欲しいのは、あの変わった機械だろう?」

「そうだ」

「保管場所を知っている」

「・・・充分だ、・・・あんたの要求を言ってみろよ」

 想像通りの展開に、レイはニヤリと笑って男を見上げる。
 だが、そこで身体に力が入らなくなったのか、男はその場に崩れ落ちて床に倒れ込んでしまった。


「・・・っち、立つことも出来ないのか」

 面倒臭そうに舌打ちしたレイは立ち上がり、男の腕を引っ張り上げる。
 触れられただけで身体の熱が暴れるのか、辛そうに歪む顔が今の男を物語る全てだった。
 その様子にレイは苦笑を漏らし、掴んだ腕をそのままに男の額にトン、と指先で触れる。


「・・・っ!?」

 途端に指先からは数え切れないほどの光の粒が飛び出し、レイの指の周囲を光の粒がクルクルと飛び回り、次から次へと止めどない源泉のように溢れ出していく。
 暗闇の中、光り輝く粒が幻想のように煌めく。
 男は呆然とその光景を目にしながら、目の前のレイをじっと見上げていた。
 光に反射する瞳、角度によってその色を変える輝きはまるで宝石のようで、言葉に出来ない感動を与える。
 そして、きらきらと飛び回る光の粒は男の額へと意志を持っているかのように飛び込み、全てが額の中へと消えてしまうまで延々と続く。


「・・・これでじきに元に戻るだろう」

「・・・・・・」

 男は自分の身体から急激に熱が引いていくのを身を以て感じていた。
 光が消え、再び暗くなった部屋の中で、レイの瞳だけが静かに揺れている。
 静寂が広がる部屋に長い沈黙が続き、その間ずっとレイを見ていた男は唐突に掠れた笑い声を吐き出した。


「・・・・・・っは、・・・・・・はは・・・・・・、・・・ッ・・・・・・───」

「・・・?」

 意味が分からないと言ったように眉を顰めたレイを見て、尚も男は笑い続けた。
 笑いながら手を伸ばし、レイの頬に触れる。


「・・・・・・!?」

 そして、驚くレイを無視するように、男はなんの前触れもなく今度はレイを抱きしめたのだ。
 どちらかというとそれは抱きしめると言うより掻き抱くという感じで、困惑したレイは勢いに圧されて押し倒されてしまい、床に頭をごちんとぶつける音が響き渡る。


「ちょ・・・、まだ治らないの、か? ・・・ていうか、オレ確かにさっきは女を抱くのが嫌だって同調したけど、そういう意味じゃないからなっ、男はもっとあり得ない・・・っ」

 身体を捩り男を引きはがそうとしているレイは割と必死だ。
 本気で焦って青ざめている様子を腕の中で感じ取ったのか、男は腕の力を緩めて真っすぐレイを見つめる。
 その顔は不思議と穏やかに綻んでいた。


「・・・すまない、俺もそういうつもりじゃないから安心してくれ」

 そう言って身体をどけてレイを起こしながら、先ほど床にぶつけたレイの後頭部をそっと撫でてまた笑う。
 さっぱり意味が分からないレイは沈黙し、男の様子を窺っているようだった。


「とても似ていると思ったんだ」

 やがて男は静かな声で呟く。
 そう言われてレイは少し考えたが、自分に似ている者など思い浮かばず、単純に思ったことを問いかけた。


「・・・あんたとオレがって事か?」

「いや・・・、違う。・・・光の中で見た君の瞳が・・・俺の捜している人に、とても似ている気がしたんだ」

 どことなく哀しそうな表情でレイを見た男は僅かに眼を細める。
 それが自分を通して誰かを見て居るんだろうと言うことだけは、レイにも何となく分かった。






その9へつづく


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