『約束』

○第9話○ それぞれの闇(その3)







 宮殿から程近い場所にクラウザーの別邸がある。
 彼はその場所に到着するなり、ある部屋へと真っすぐに足を向けていた。
 其処はこの屋敷の主であるクラウザーだけが管理し、四六時中鍵がかけられていたが、ここ数日はひとりの女性が中の様子を確認するように日に何度か訪れるだけで、今までこの部屋から誰かが出てきたことは一度も無い。
 かと言ってこの部屋が無人であるというわけではないらしく、これまで窓越しに人影を目撃した使用人は何人もいる。
 しかしそれをクラウザー本人から語られることは一切なく、元より秘密主義の主人は掴みどころも無く何を考えているのか分からないのが常であり、屋敷の使用人たちもそんな彼の不審を買うような真似はせず、深く詮索するような者など誰一人いない。
 クラウザーは屋敷の最奥にあるひっそりとした部屋の前に立ち、一度だけ様子を窺うようにコツンと扉を軽く叩いた。
 部屋の中からは物音ひとつ返ってこなかったが、彼は懐に入れて肌身離さず持ち歩いていたこの部屋の鍵を取りだし、なるべく音を立てないよう解錠する。
 静かな屋敷の中に、ガチャ・・・という金属が立てる音が一瞬だけ響きわたった。
 扉を開け中の様子を確認すると、何故か彼はホッとしたように息を漏らす。


「・・・・・・リーザ・・・」

 クラウザーは部屋の隅で揺り椅子に座って窓の外をひっそりと眺めるその人物に声をかけ、ゆっくりと此方を振り返る様子を確認してから窓際に近づいていく。
 リーザと呼ばれたその人物は、見目麗しい程の美女だった。
 隣にクラウザーが立つと、彼女は静かに彼を見上げてにっこりと微笑む。
 釣られて微笑むクラウザーの表情は、彼を知る第三者が見たら別人ではないかと疑いそうなほど柔らかい。


「何を見ていた?」

 椅子に座る彼女の高さに合わせるよう腰を屈めて話しかけると、彼女はまたにっこりと微笑んだ。
 そして、ぎこちない動作で人差し指を窓の外に向けて目を輝かせる。


「・・・レイ・・・、ちかい?」

 その台詞を聞いた途端、クラウザーの表情が僅かに曇った。
 彼女はそれに気づかないのか、返事を待つように真っすぐクラウザーを見つめたままだ。


「・・・ああ、近い。前よりもずっと」

「うれしい」

 まるで褒美を貰った時のような満面の笑みが花のように綻ぶ。
 窓の外を指さしていた手を己の胸に当て、『うれしい、うれしい』と何度も繰り返しては無邪気に笑う。
 クラウザーはそれをどことなく寂しそうに見つめ、リーザの手にそっと触れる。
 触れると少しだけ反応が遅れて握り返してくる細い指。
 嬉しそうにはしゃぐその様子は部屋中を走り回りそうな雰囲気すらあるのに、彼女の足は石のように床に投げ出されたまま動く気配すらなく、美しい唇からは、ただひたすら簡単な単語ばかりを繰り返す。


「リーザ、・・・私の名を呼んで御覧」

「・・・クラウザー」

「もう一度」

「・・・クラウザー、・・・クラウザー、クラウザー」

 言われるままに、彼女の艶やかな唇が彼の名を繰り返す。
 青い海原のように深い碧眼、整った鼻腔、緩やかに巻かれた金糸の髪、吸い付くような絹の肌。
 それは、神に愛された造形と賞賛されるに相応しい美しさで、彼女を象る全てに誰もが目を奪われる様子を想像するのはあまりに容易い。
 ただ、リーザは足が不自由で、手も、ぎこちなくしか動かすことが出来ない。
 更には多くの言葉を操るのは、彼女にはとても難しい事で・・・・・・、ただそれだけだ。
 しかし、リーザとて最初からこうだったわけではない。
 昔は軽やかに動き回り、周囲を楽しませる会話が次々に出来る頭の良い女性だった。
 教養もあり、血筋も良く、皆の羨望を一身に集め、それでも奢る事のない性格は誰からも好かれるものだった。
 将来の展望に至っても、輝かしい未来だけが待っている筈だった。
 ・・・・・・ある事件が起こるまでは。
 クラウザーは真っすぐにリーザを見つめ、彼女の手を少しだけ強く握りしめた。
 彼女は僅かに首を傾げたが、まるで返事をするように、もう一度クラウザーの手を握り返してくる。

 可哀相なリーザ・・・

 その美しさは欠片も損なわれていないにも拘らず、今の彼女はクラウザーの庇護の元でしか生きられない。
 血族に捨てられ、不自由な身体を引きずり、言葉まで失い・・・おまけに、殆どの記憶を失った。
 唯一・・・愛しい男の存在を除いて───


「リーザ・・・もっと、呼んで御覧」

「・・・クラウザー、クラウザー、・・・クラウザー・・・」

 あの忌まわしい事件から、たった一つの単語を口にするまでに数十日を要した。
 自分の名を呼ばせるまでに数年を要した。
 笑いかけて貰うまでに数十年を要した。
 けれど、リーザが愛しい男の存在を忘れる事は決してない。
 最初に彼女が口にした単語は愛しい男の名だった。
 他の何を忘れても、愛しい男の存在だけは決して手放さなかった。


「レイ、・・・・はやく、あいたい」

 彼女はクラウザーと呼んだ次の瞬間にはレイを想って頬を染める。
 潤んだ眼差しがレイを想い、会いたい会いたいとそればかりを願い続ける。
 重ねた手を引き寄せ、クラウザーは彼女の指に唇を寄せた。
 この指でさえ、最初は全く動かなかった。
 だけど、こうして何度も触れているうちに少しずつ動くようになっていったのだ。


「・・・・・・リーザ、・・・レイに会えるのは、少し先になってしまった」

「・・・え?」

 びくん、と肩を震わせリーザは目を見開く。
 たった今まで夢見るように頬を染めていたものを、一瞬で強ばり見る間に涙を滲ませ肩を震わせる。


「ど、して?」

「すまない。・・・・これほど期待をさせたというのに」

「・・・ひっ、・・・っ、・・・」

 ぽろぽろと零れる涙がキラキラと輝きながら頬を伝う。

 あぁ、リーザ、
 そんなにもレイに会いたいのか。

 クラウザーは彼女の頬に指を伸ばし、抵抗されないのを良いことに零れる涙に唇を寄せた。
 滑らかな頬が胸をくすぐる。
 涙が伝う跡に沿って唇を滑らせ、リーザの唇にも少しだけ掠めてから意図的に自分の唇を押し当てる。

 くちゅ・・・

 重ねた唇の隙間から舌を突き出し、彼女の舌を絡め取る。
 間近でぶつかる彼女の視線は真っすぐクラウザーに向けられ、何度か瞬きをするのみで抵抗する気配は全く無い。
 彼女の腰に手を回し、自分に引き寄せ、壊さないように抱きしめる。
 首筋を撫で、背筋に指を這わせ、その間も重ねたままの唇からは湿った音が部屋に響き続けた。
 こうしている間、リーザが無抵抗なのには意味がある。
 『これは儀式』だと、最初に唇を重ねた時にクラウザーが言い含めたのだ。
 『レイに会うために必要な儀式』だと、思いつきで言っただけの言葉にリーザは素直に従っているだけで、彼女は本当に意味が分かっていない。
 どうして唇を重ねるのか、どうして会う度に必要以上に身体に触れようとするのか。
 分からないから、リーザは何でも受け入れてしまう。
 きっと身体を重ねようとすれば、それすらも必要な儀式なのかと簡単に受け入れてしまうだろう。


「リーザ・・・、可哀相なリーザ」

 甘い唇を貪るように奪い、息苦しそうにしているのも構わずに舌を絡める。
 少し涙目になっているのは自分の所為。
 他の事を考えられないくらいきつく抱きしめてしまいたい。

 あぁ、可哀相なリーザ。
 何もわからないのを良いことにこんな事をされて、嘘の言葉もわからずに騙されて。

 レイをこんなにも想っているのに、可哀相なリーザ。


「大丈夫。必ず・・・レイに会わせよう」

「・・・・・・うん」

 素直に頷く澄んだ瞳が胸に痛い。


「また此処に来る時まで大人しくしておいで」

「うん」

「・・・・・・愛しているよ、リーザ」

 言っても伝わらない言葉を何度でも言う。
 帰る間際に必ず。
 一方通行な想いが行き過ぎていくだけだ───



「・・・クラウザー様」

 部屋から出て扉を施錠し、早々に宮殿に戻ろうとしていると廊下の向こうから声を掛けられた。
 声の方角に振り向くと女がひとり佇んでいる。


「・・・・・・あぁ、・・・伊予か」

 クラウザーは僅かに眼を細め、その女が此方に歩いてくるのを待った。
 この国には珍しい黒髪の女だ。
 加えてその名の響きも非常に珍しく、赤みの強い茶色の瞳が印象的だった。


「もう行かれるのですか?」

「あぁ、暫く此処を離れる。戻るのは少し先になるだろう」

「リーザ様は・・・」

「連れては行けない。悪いが日に何度か様子を見てやってほしい」

「はい」

「それから・・・」

「はい」

「おまえの主に会ってくる。伝えたい事があれば言うといい」

「は・・・、それは・・・クラウザー様があの地に行かれると言うことですか・・・?」

「そうだ」

「・・・・・・そ・・・、・・・いえ・・・私などがあの方に伝える事など・・・・・・、・・・」

「・・・・遠慮などしても何の意味もない」

「・・は・・・はい。・・・で、では・・・・・元気にしているとだけ・・・」

「わかった」

 クラウザーが頷くと伊予は嬉しそうに微笑んでいる。
 彼女はベリアルの主がバアルと交わした密約を反古にする代わりに差し出された人質だ。
 そして同族食いと言われて恐れられてきたベリアルの民の生き残りでもある。
 人質として差し出された伊予がクラウザーに預けられたのは数年前の話だ。
 珍しい黒髪は宮殿内では目立つうえに、彼女の事を知らない者に出自を詮索されるような事があっては面倒になると思案した結果、クラークは彼女をクラウザーに預けたのだ。


「レイをおびき出す役をおまえに任せて正解だった。いい働きだったと聞いた」

「ありがとうございます。他にもお役に立てる事があれば、どうぞお申しつけ下さい」

「・・・あぁ」

 美久をクラスメートに襲わせてレイを部室棟におびき寄せたのは彼女だ。
 簡単な術を使って人々を洗脳していくにしても、術者は陥れる相手と同姓の方がより深く暗示にかかる。
 そこで彼女を利用する手を思いついたのだが・・・人質としてやって来た伊予は自分が役に立たなければベリアルの主の恥になるとでも考えているのか、いつもこんな物言いをしてみせる。
 人質とはいえ出自が出自だけに、そう目立つような行動はさせられないという此方の事情は分からないようだった。


「・・・今はリーザの様子を気にかけてくれるだけで充分だ。では、行ってくる」

「はい、いってらっしゃいませ」

 深々と頭を下げるのを見てクラウザーは身を翻、彼の姿が見えなくなるまで伊予が顔を上げることはなかった。

 その後、屋敷から出たクラウザーは、ふと空を見上げた。
 今日の空はリーザの瞳の色に似ていると思ったのだ。
 また暫く彼女の元には戻れない。
 彼女が待ちくたびれて泣かない事を願うばかりだ。
 いつだって一番心に引っ掛かるのはリーザだった。
 想いは届かなくても、他の誰に恋していても知ったことではない。
 唇に残るリーザの感触が胸をくすぐる。
 本当は思いのままにあの美しい身体を自由にしてしまいたかった。
 リーザに触れると、忘れかけた感覚が急激に胸に迫り、捉えようと追い縋ってしまいそうになる自分がいる事に気づく。
 けれど・・・いつまでもこんな事を続ける意味が一体どこにあるのか。
 彼女が求めるのは自分ではない。


《あのレイが大人しく意に染まぬ女のものになるとは思えぬがな・・・》

 突如、クラウザーの中から別の男の声が発せられた。
 それに驚く素振りもなく、クラウザーは同調するように頷いてみせる。


「・・・分かっている。・・・だが、このままレイの思い通りにさせるつもりもない」

《それにしても何とも報われぬ話よ。あの女・・・元々はおまえの婚約者だったのだろう? それを王の都合ひとつで強制的にレイの婚約者にさせられたばかりに・・・》

「・・・その件は軽々しく言葉にしてほしくはない」

《・・・・ふん。・・・・・おまえはどうもあの女の事になると頑固になるな、俺の介在を赦そうとせぬのが不可解だ》

「・・・・・・?」

《・・・まぁいい・・・ならば、ベリアルの主に俺を会わせろ》

「どういうことだ」

《あれは俺の古い馴染みだ・・・かなり癖のある男だが、他の誰の言葉を無視しようと俺の言葉には多少は耳を傾けるかもしれぬ。おまえは俺の言う通りに動けばそれでいい》

「・・・・・・わかった」

 それきり声は途絶えた。
 クラウザーは彼女の瞳のように美しく広がる青い空をじっと見上げ、無言のまま宮殿へ戻っていった。










その4へつづく


<<BACK  HOME  NEXT>>



Copyright 2012 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.