『手の中の幸せ』
○第2話○ 自由と檻(前編) あの悪夢の日から何日経過したのか、いくつも山を越え川を渡り、貨物船に紛れ海まで越え・・・ビオラにはもう昼か夜かという程度の時間の観念しかなくなっていた。 生き続けなければ・・・という強い意志だけが彼女を動かす全てだった。 ひたすら歩き続ける間、思いだしたように時折お腹を触り話しかけてみるが、あれ以来お腹が温かくなると言うようなことはなく、その度に肩を落とす。 それでもたった一人という孤独な気持ちは堪えられず、話しかけることをやめなかった。 「・・・赤ちゃん、・・・ここ・・・どこだと思う? 森に入ったのはいいけれど、一向に出られる気配がないの。真っ直ぐ行けばいつかは出られると思ったんだけど・・・違うの? ・・・・・・もう歩きすぎて足が動かなくなっちゃった・・・・・・」 ビオラはその場に座り込み、側にある大木を背にして一息つく。 ・・・どこまで行けば良いんだろう? 王宮から殆ど出たことのない彼女は、どこまでが自分の国でどこからが他国なのか全く分からなかった。 食事さえも与えられるだけだった今までの生活とは違う。 自分で何とかしなければいけないのに、どうすればいいのかも皆目見当が付かないのだ。 「・・・・・・そろそろ・・・・・・食事・・・しないと・・・・・・いけないのに・・・ね。・・・・・・赤ちゃんの為にも・・・・・・元気が必要なのに・・・・・・・・・」 このままでは母子共々衰弱死してしまうのも時間の問題だ。 何とかしなければ未来はない・・・わかってる。 だけど、悲観的になるのだけはいやだ。 笑っていないと悪いことばかりが起こりそうで・・・ 「・・・・・・ちょっとだけ・・・・・・眠って・・・・・・いい・・・? ・・・・・・・・・もう随分眠ってない、の・・・・・・・・・」 だが、眠れば悪夢が襲う。 おぞましく這い回る男達の手、レイドックとの別離─── だからビオラは極限まで睡眠をとらず、泥のように眠ることで夢を見ることを避けていた。 また眠るということは敵が近くにいても無防備になってしまうと言うことで、緊張と不安から平常心で眠ることなど出来なかったのだ。 今もまた限界まで眠ることを我慢し、無理に起き続けていたが、いよいよ平衡感覚も体力も無くなってきた末の事だった。 遠くで馬の駆ける音がする。 ・・・・・・レイドック・・・乗馬好きだったな・・・ 蹄の音は、兄が愛馬に乗り駆け巡る姿を思いださせる。 ビオラは目を閉じて微笑み、無防備なまま木に凭れているだけで、それ以上は何も出来なかった。 例えそれが敵だったとしても、今の彼女にどうすることも出来なかったが、平常時ならばどこかに隠れる程度は出来たかもしれない。 馬の駆ける音。 それは、確実に彼女の方へと近づいていた・・・ ▽ ▽ ▽ ▽ 「・・・・・っ、どうしたランス、・・・止まるんだっ!」 馬の主の声は若い男のものだった。 男の愛馬が突然命令を無視して進路変更をしたかと思った次の瞬間、もの凄いスピードで駆けだしたのだ。 男は落ち着けようとあくまで冷静に努めたが、こんな事は初めてだった。 普段穏やかで忠実なこの馬が、何らかの目的を持ってどこかに走っているとでもいうのだろうか・・・? 「ランス、・・・どこへ向かっているんだ?」 頭のいい馬だ。 本当になにか目的があるのか・・・ 少し考え、愛馬・ランスの見据える方向へ目をやる。 この辺りは獰猛な肉食獣が出没する危険地帯だ。 ランスもそれは知っているから普段ならば絶対に近寄らない。 分かっていながら向かうというのは余程の何かがあるという事だろうか・・・ 「・・・・・・あっ、・・・っ!?」 唐突に男の眼が見開かれる。 一際目を引く大木の下に、女が横たわっていたのだ。 その直ぐ側に、彼女を狙う獣が・・・一頭、いや、物陰に更に一頭潜んでいる。 「ランス、急げっ!!」 叫ぶと同時に男はランスの背中に足を乗せ、駆ける速度が最高潮に達した直後、その背から勢いよく空に舞い上がった。 彼の腕は数瞬の内に腰元の鞘に手を掛け、それを引き抜くと大きく振り上げた。 獣は殺気を感じて振り向くが、そこにはもの凄い勢いで剣を振り下ろす男の姿を確認する事しか出来ず・・・苦痛も何も感じる間のないまま最期の瞬間を迎えた。 しかし、彼の動きは一瞬たりとも止まることはない。 地面に着地したのも束の間、彼は舞を踊っているかのような華麗な動作で物陰に潜むもう一頭の首を跳ねた。 宙に舞った頭部が弧を描き、ドサッという鈍い音と共に彼の後方に落ちる。 男は真っ二つになった獣を一瞥し、剣を鞘に納めると、横たわる女に目をやった。 「・・・・・・大丈夫ですか?」 屈んで女の身体を揺すろうと、 「・・・・・・・・・っ・・・・・・」 ・・・手を伸ばして止まった。 染み一つない美しい肌は触ってはいけないもののようで・・・。 信じられなかった。 とてもこんな所にいるような女には見えないのだ。 「・・・・・・あの・・・・・・」 どうやら怪我はない・・・単に眠っているだけのようだった。 信じられないほど無防備に・・・しかし、何とあどけなく愛らしい寝顔だろうか・・・ だが、このままでは自分も彼女も危険だ。 先程より危険な獣が集団で襲ってこないとも限らない。 自分一人なら何とかなっても、誰かを庇いながらというのは想像以上に大変なことなのだ。 「・・・・・・起きてください」 恐る恐る肩に手を触れる。 ・・・・・・やわらかい・・・ そんなことに感動してしまうくらい胸が高鳴った。 だめだ・・・いや、・・・だが、 ・・・しかし、このままでは・・・ よ、よし・・・っ 「・・・あの・・・・・・あの・・・、抱き上げ・・・ますけど、怒らないでくださいね? や、やましい気持ちがあるとかじゃなくて・・・この辺りは危ないから・・・あの、だから・・・」 しどろもどろになりながら熟睡して全く起きる気配のない彼女に、まるで言い訳をするかのように話しかける。 緊張のあまり震える腕で抱き上げ、胸の中におさまった意識のない彼女から香る甘い匂いに心拍数が上がり、頬を紅く染めて立ち上がった。 背後で愛馬がその様子を見て尻尾を揺らしている。 「・・・ら、・・・らんす・・・・・・城に・・・・・・連れて帰ろう・・・・・・っ」 ・・・どうしよう・・・・・・くらくらする。 こんなのはじめてだ・・・ 動揺する主人を、ランスは楽しそうに見ていた。 ▽ ▽ ▽ ▽ ビオラが目覚めたのは、翌日の昼をとうに過ぎた頃だった。 正に爆睡をしていたビオラは、男が馬の背に彼女を乗せて走っても、彼の城に連れ帰り侍女達に身体を綺麗にしてもらい着ているものを新しく替えられ、そのままベッドに寝かされても、眉一つ動かさずに寝ていたのだ。 「・・・・・・ん〜〜・・・っ」 伸びをして、部屋の中をきょろきょろと見渡す。 「・・・・・・あれ?」 ここ・・・どこ? 確か森の中をひたすら彷徨っていたはずだ。 だけどいくら歩いても森を出られなくて、ずっと寝てなかったからそれで・・・ それで・・・・・・? ・・・・・・その後の記憶がない・・・・・・ 「・・・私・・・・・・」 「あぁ、良かった。目が覚めたね」 「えっ」 若い男の声に驚いて顔をあげる。 その声の主は丁度部屋に入ってきた所のようで、ビオラが目覚めているのを見て笑顔を作った。 「・・・だれ? ・・・私・・・・・・どうしてここ・・・ベッド・・・?」 不安そうに男を見上げ、身体を震わす。 ビオラにとっては敵の手の中に入り込んでしまったのかという不安が身体を震わせたのだが、男にそんな不安は分からず別の意味で受けとったようだった。 「あ、それは・・・っ、あ、あなたがあまりにも無防備に寝てたから・・・っ、私がたまたま通りかかって・・・それで、獣の出る危ない場所だし・・・っ、どうせ寝るなら私の城でゆっくり眠ってもらおうと思っただけで、その・・・服も侍女に着替えさせたので・・・決して私が脱がせたとかではなく・・・・・・・・・ッ、・・・だから、断じて邪な気持ちがあったとかじゃなくて・・・っ!!」 「・・・・・・・・・え」 顔を真っ赤にして、一生懸命説明をしている。 ビオラは目をパチパチと瞬かせ、目の前の男を凝視した。 男の方は彼女に見つめられる事で心拍数が更に上がり、何も喋ることが出来ずに固まってしまう。 「・・・・・・あなた・・・だれ? ・・・・・・ここ・・・・・・どこ・・・・・・?」 彼はどう見てもビオラを知っているようには思えない様子だ。 その事に多少安堵するが・・・彼の言う城という言葉に不安は拭えない。 どこの誰の城なのか。 「私は・・・クラーク。ここは私の城。・・・・・・多分、この国の中で一番安全に過ごせる場所です」 「・・・?」 「・・・君はどこから来たの?」 クラークはどこの街から? と聞いたつもりだった。 だが、ビオラは曖昧すぎる彼の説明に警戒してしまい、何の気無しの質問にさえ緊張が走る。 「・・・・・・・・・北から」 レイドックと暮らした場所よりもここは暖かい。 だからそう答えたのだが、実際はよく分からない。 第一、目の前の男が敵なのかそうでないのかも知らないのだから、曖昧な答えしか出せないのは当然と言えば当然だった。 「・・・北・・・か。・・・サレオスの辺りかな?」 「・・・・・・されおす?」 「違う? ・・・ん、と・・・じゃあベリトとか?」 「・・・・・・?」 恐らくクラークの言っているのは地域、もしくは都市の名前だろうということはビオラにも理解できた。 だが、サレオスもベリトも全く聞いたことがない。 もしかして・・・・・・逃げ延びたのか? 「・・・・・・・・べりと・・・から・・・」 「そう、・・・それにしてもとても疲れていたみたいだね、随分気持ちよさそうに寝ていたよ」 「・・・ずっと歩いてて疲れちゃって・・・綺麗な森だったから・・・・・・」 「でも、あの森には獰猛な獣が沢山いる。あんなに無防備に寝ちゃいけない」 「ごめんなさい」 「寝ているあなたの目の前に今にも飛びかかろうとしている獣を見て、心臓が止まるかと思った・・・」 「えっ」 ビオラは驚いて目を見開いた。 だとしたら目の前の男は命を助けてくれた事になる。 あんな場所で食われてもあの連中なら黙って見過ごして喜ぶだけだろう。 「・・・助けてくれたの・・・・・・? ・・・・・・・・・ありがとう」 「・・・あぁ、・・・いや、大したことは・・・、うん、何も無かったわけだし・・・」 照れたようにはにかむ、何だか優しい人のように思えた。 それに、輝く金髪を背中まで伸ばし、綺麗にやわらかく整った面差しはビオラの警戒を解くのには充分で、全然違うのに、穏やかそうに微笑む姿が何となくラティエルと重なった。 「・・・私、・・・ビオラ・・・・・・」 「ビオラ・・・良い名前だね」 「そう? 初めて言われたわ」 「良い名前だよ、きれいだ」 まるで熱に浮かされたように見つめられ、ビオラはきょとんとした。 名前を誉めるだけでそんなにうっとりとした顔をして、ちょっと変わった人なのかもしれない・・・などと、少し失礼な事を考えながら。 「・・・ビオラ、それで・・・君さえよければ暫くここで静養していかないか? 医者に言われたんだ、随分体力を消耗しているようだし、休ませないといけないって」 「・・・えっ」 ───医者 ・・・ということは、妊娠しているということも・・・・・・? 「本当に信じられないよ、女性が野宿をしようとするなんて。事情があるにせよ、もうそんな危ない真似はして欲しくない、この白くてやわらかい綺麗な手を土や埃などで汚されたくない・・・・・・ずっとずっと・・・ここにいてもいいんだよ」 クラークはビオラの手を取り、大事そうに握り締めると唇を押しつけた。 どういう意味なのかビオラには理解できず、首を傾げながらクラークの申し出について考えを巡らせてみる。 確かにこんなにふかふかのベッドが恋しくないと言ったら嘘になる。 この城がどういうものかは分からないけれど、この部屋だけ見ても随分豪華な作りをしていて、クラークの力の程が窺える。 ・・・だけど、・・・・・・だからこそ、これ程危険な場所もない、とビオラは思うのだ。 名が知られた者が連れてきた女というだけでも、きっと周囲は騒ぐ。 それは噂となって広まるのだ。 もしかしたらそれが追っ手の耳に入らないとも限らない。 そうしたら・・・・・・今度こそ・・・・・・・・・ ゾクリと身体が震える。 男達が身体をまさぐる乱暴な手、いやらしい目つきで睨め回し、無理矢理・・・・・・っ 「・・私・・・・・・ここにはいられない・・・・・・っ、元気になったら出ていくわ・・・・・・っ、色々・・・優しくしてくれてありがとう・・・・・・っ」 「・・・・・・そう」 クラークはがっかりしたような顔つきで、ビオラの手を離した。 それから彼女の手を布団の中にしまい、彼女自身も横にさせ眠るように促した。 「ゆっくり寝て、また来るから」 やわらかく微笑み、彼は部屋から出ていった。 その後ろ姿を見て、ビオラは瞼を閉じると再び眠りに落ちていくのだった。 中編へつづく Copyright 2006 桜井さくや. 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