『手の中の幸せ』
○第3話○ 願いを叶えし者(その3) バティンがビオラの逃亡を決行させたのは、翌日の夜明け前だった。 彼は音もなく寝室に忍び込み、クラークがビオラを抱き込むようにして寝ているのを目にして、思わず寝る前に行われたであろう情事を想像してしまい、一瞬複雑な表情を浮かべたが、直ぐにいつものような落ち着いた表情へと戻った。 だが真実を言えば、二人の間にはまだキス以上の事は何もなかった。 一度だけ求められたのだが、ビオラが極度に怯えたのである。 以来、彼にも欲求はあるものの、それ以上は正式に彼女を妻にした後でも遅くはないと、一緒のベッドで寝るだけにとどまっているのだ。 その代わり、彼女が逃げないよう腕の中に抱きかかえながら毎晩眠りにつく。 ビオラにとっては窮屈で仕方ないのだが、これ以上の事をされないのであれば・・・と、受け入れてしまうしかなかった。 しかしクラークは動きや気配にとても敏感で、ほんの少し身動きをするだけで目を覚まし、ビオラの様子を窺う。 それが例え寝返りであったとしてもだ。 にも関わらず、バティンが部屋へ侵入した今、クラークが起きる気配はない。 昨夜のうちに飲まされた薬によって深い眠りに陥っているからだった。 そうしてビオラは一睡もせずバティンが来るのを待ち続け、彼が現れた途端緊張が解けてしまい、泣きそうになりながらベッドから抜け出し駆け寄った。 「遅れてすみません。準備に手間取ってしまいました」 「準備?」 首を傾げるがバティンは無言で頷くだけだ。 「これをお召しになってください。このままでは目立ちますので」 そう言って渡されたのは衛兵服。 つまり、変装をしろと言うことなのだろう。 ビオラはバティンの意図を理解して頷き、急いでそれに着替える事にした。 だが焦っているから・・・というわけではなく、男性ものなど着た事も無く、ましてや衛兵服などもってのほかで・・・うまく着る事が出来ないのは当然のことだった。 「・・・あの・・・バティン・・・・・・」 数分後、ビオラがおずおずと話しかけると、こちらを見ないようにしていたバティンが身じろぎをした。 「用意は出来ましたか?」 「そうではなくて・・・あの・・・うまく着られないの・・・・・・それで・・・よかったら手伝ってほしいのだけど・・・」 「え?」 驚き一瞬躊躇した後振り返ると、努力だけはしたらしいビオラの困り果てた姿があった。 彼は自分の失態に漸く気付き、頭を下げて彼女に手を貸した。 「申し訳有りません。この服装が一番目立たなくて良いと思ったのですが・・・」 「ううん、私が不器用だから」 バティンは手際よく彼女の身支度を整えると、ドアを静かに開け、外の様子を窺った。 程なくして、ビオラに目配せをして彼女の手をとる。 「まだ大丈夫です。今のうちに出ましょう」 「・・ええ」 まだ・・・という言葉の意味が今ひとつ理解できなかったけれど、ビオラは素直に頷き、彼の後に着いて行く。 考えてみれば部屋の外に出るのはここに来てから初めてだった。 見渡す限りの広い廊下と壁や天井など細部にわたって美しく彫刻された装飾・・・目に映るもの全てが芸術のようだった。 「・・・すごい」 純粋に目の前の芸術に対する感嘆の言葉を吐き出す。 だが、建物ばかりに目を奪われて他への意識が疎かになっていた彼女は、足下にあった何かにぶつかってしまった。 「・・・っあ、・・・・・・え?!」 ・・・・・・なにこれ!? ビオラと同じ服装の衛兵が二人、廊下に横たわっていたのだ。 もしや死んでいるのでは・・・と息をのむと、バティンが静かに彼女の背中を押した。 「行きましょう」 「・・・バ・・・バティン・・・これは」 「寝ているだけです。それよりも急がなくては」 彼は表情一つ変えず、ビオラを誘導する。 動じないバティンの様子から、もしやこれは彼の仕業なのだろうかと思った。 ならば、動揺している場合ではない・・・一刻も早く逃げないといけないのだ。 「・・・ごめんなさい、行きましょう」 廊下を進み階段を下り、二人は広大な城を迷路のように歩き回る。 その間何人もの衛兵を見かけたが、先程部屋の前で横たわっていた衛兵と同じように眠りに落ちていて、唯一人として意識のある者を見かけることはなかった。 「ねぇ、・・これってやっぱり・・・・・バティンがやったの?」 バティンはまっすぐ前を向いたまま答える。 「逃亡に失敗は許されません。私が遅くなってしまったのは、城全体を覆う程度の薬品の調達に手間取ってしまったからなのです」 「・・・それって・・・?」 衛兵姿とはいえ首を傾げる姿がどうにも愛らしい。 バティンは思わず笑ってしまう。 「皆を少しの間眠らせました。深夜ですから大体は寝ていますが、見張りや見回り等で起きている者も多数おります。この効力も後1時間もすれば切れるでしょうが、時間稼ぎには充分です。・・・・・・ちなみにビオラ様には就寝前に薬を飲んでいただきましたが・・・あれは睡眠薬の効力を無効化するものなのです」 「・・・・・・そうだったの」 ビオラは感心したようにバティンを見つめた。 何の薬か分からず言われるままに飲んでしまったが、あれはそういうものだったのかと・・・。 「あ、・・・じゃあ、この服装はどうして? 万が一皆の目が覚めてしまった時バレないように?」 「それもありますが、どちらかと言うと外に出てからの為に用意したものです。この時間帯外に出歩いて不自然じゃないとすれば衛兵くらいですからね」 「バティンって頭がいいのね」 「そんなことはありません」 あまり褒められた頭の使い方ではないのだから・・・と彼は苦笑した。 その顔が優しくて、何だか涙が零れそうになってしまう。 「ここが出口です。この先は頻繁に使われる場所ではないのでそれほど心配は要らないはずです。私はここから裏門までしか着いて行けませんが・・・出たら何も考えずにひたすら真っ直ぐ進んで下さい。程なくして小さな山小屋が見えて来るはずです」 「・・・分かったわ。・・・バティンは一人で戻っても・・・大丈夫? 怪しまれない?」 「部屋に戻って寝たふりでもしてますよ」 「・・・・・・うん・・・」 「それと、山小屋にニーナという女性が現れるはずです。彼女を頼って下さい。悪いようにはしない」 「・・・ありがとう・・・」 ビオラは強く頷いてバティンに握手を求めた。 彼はそれを握り返し、穏やかに微笑む。 「一つだけ聞かせてほしいの」 「はい」 「どうしてここまでしてくれるの? あなたは・・・ベルフェゴールを追放されたのでしょう? 恨んでないの?」 「あぁ・・・そんな事ですか」 「そんな事じゃないわ」 バティンは肩を竦め、ビオラの背を押す。 もう行きなさいと言っているのだ。 「バティン」 彼女は押された背を振りほどく。 バティンは驚き、そして苦笑した。 それはどことなく温かみを感じさせる表情で、胸の深いところへ染み込んでくる。 「聞かない方がお互い幸せな事もある。これ以上私がベルフェゴールについて話すことはありません」 「・・・・・・バティン」 「どうか、逃げ延びてください」 「また・・・会える?」 「生きていれば会うこともあるでしょう。さあ、行ってください」 「・・・・・・」 これは・・・どう聞いたとしても、バティンからこの話を聞き出すことは出来ないらしい。 ならば次会えたときまで取っておこうと、今はこれ以上の言葉は飲み込むことにした。 裏門を通り抜け、後方に立つバティンを振り返る。 彼は立ち止まったまま動かない。 ここが別れの場所と言う事なのだろう。 ・・・私は・・・進まなくてはいけない。 未来のために。 誰にも束縛されることなく、監視されるわけでもなく。 「ありがとう・・・っ!」 一歩、二歩。 踏み出したらもう止まらない。 ビオラは頷くバティンの姿を確認すると満面の笑顔を向けて、あとは前だけを見据えてひたすら先に進むことだけを考えて歩き出した。 あと少しで手に入るであろう自由の為に─── ▽ ▽ ▽ ▽ ビオラが去ってから約1時間が経過した宮殿内は当初静かなものだった。 急激な睡魔によって全ての者が意識を手放し、漸く覚醒した者がいても誰ひとりとして状況を把握出来る者はいなかった。 そして、元々寝ていた者は何事も無かったかのように眠り続け・・・任務があった者も起きることなく眠り続けた者が殆どであった。 ところが最初に異変に気付いたのは、城中にばらまかれた薬品を吸った上に、寝る前に飲んだ薬で誰よりも眠りが深かった筈のクラークであった。 彼は常日頃から眠りが浅く、眠れない事も多い。 執務に影響を来した事は無いのだが、時折それを気にかけたバティンがクラークに軽い睡眠薬を処方していた。 当然ながら術で眠らせることも可能だが、それでは効きすぎて翌朝になっても起きられなくなる事もあるので、バティンに調合してもらう薬を服用する事が殆どであった。 この日も同様の薬をバティンに処方されたが、最近はそれほど眠れないという事も無かった。 しかし全幅の信頼を寄せる彼から渡されたものに不審を抱くことはなく、素直に手渡されたものを飲み下し、丁度城中を覆う薬の効力が切れた頃クラークの意識もうっすらと戻ったのだ。 腕の中で寝ていたビオラがいない。 部屋の中を見渡すも何の気配もなかった・・・ 彼は直ぐに部屋の外で警備をしている衛兵を呼んだ。 だがいくら待っても返事がなく、確かめるために部屋を出てみた所、2人の衛兵は倒れ込んで完全に眠りに落ちている。 更には同様に廊下で寝ている者の姿がクラークの目に映った。 ブル・・・と、鳥肌がたつ。 「・・・・・・なんだこれは」 低く呻き、只ならぬ事態を察知し彼は廊下を駆け出した。 尋常な事ではない。 誰かが意図的に起こしたとしか考えられない。 クラークはその『誰か』を一瞬で頭に描いていた。 こんな事を誰にも気付かれず実行出来るのは、彼が知る限りではたった一人だ。 誰よりもこの手の能力を高く評価し、信頼して側に置いてきたのは自分なのだ・・・分からないわけがない。 クラークは目的の部屋に辿り着き、荒い息をそのままに扉に手をかけた。 鍵は・・・掛かっていない。 いるか、それとも、もぬけの殻か? 「バティン!」 勢い良く扉を開け、部屋に足を踏み入れて、一瞬のうちに部屋全体を見渡す。 暗い部屋の中、窓辺に佇む影がゆらりと動いた。 クラークはそれがバティンであると確信し、怒りに満ちた様相で近づいて行く。 「・・・・・・言い訳をしてみるか?」 「いいえ」 返ってきた声は間違いなくバティンのものだった。 クラークは苦々しく眉を引きつらせた。 「そうか。では、ビオラをどこへやった?」 「黙秘します」 「そんな権利があると思うのか?」 「・・・・・・」 権利があろうと無かろうと、バティンはそれを言う気は無かった。 城に戻ったのは、クラークがまず最初に自分を疑い部屋にやってくる事を予想し足止めする為だった。 クラークの指示無しに他の者は容易に動かない、ならば少しでも長く彼を引き止めれば良いのだ。 「・・・ビオラの側にお前を置いたのは間違いだったようだな。ビオラに心惹かれたか? お前も男だ、そんな事もあるだろう」 「そう思われるのなら、それでも構いません」 「違うというのか? ならば理由は何だ、長年私に仕えて不満でもあったか?」 「クラーク様には感謝をしております。・・・理由など、取るに足らない事です」 「・・・それを言えと言っているのだ」 「ビオラ様を解放してください。クラーク様がどれほど焦がれようと、あの方はここにいる事を望まないでしょう」 「どうしても答えないつもりか?」 「・・・・・・」 バティンの顔が曇る。 かつての祖国で彼が追放となった原因が・・・ビオラに対しての後ろ暗い想いが彼を苦しめていた。 何故ならばビオラとレイドックが引き裂かれる要因を作ったのは、元を正せば遠い過去の自分だったからだ。 近親者同士の婚姻を禁じるよう先代の皇帝に進言したのは、他ならないバティン本人だった。 それは生まれてくる皇族の例外無き異常が原因だった。 異常能力者や、奇形、先天的に暴力的な性格を持ち善悪のつかない者等々多岐に渡っていたが、原因は濃すぎる血に起因する事は誰もが分かっていた。 彼ら皇族が近親者ばかりに異常なまでに執着し、求めあう傾向にあることも熟知している。 だがこの先もベルフェゴールの繁栄を願うからこそ、正常な血を入れる事が急務だったのだ。 その後双子が生まれ、先代の皇帝の英断で近親同士の婚姻関係が禁じらる事になり・・・ 翌年皇帝が崩御されると、まだ赤子のレイドックが皇帝に擁立させられ・・・・・・程なくしてバティンは追放された。 しかし、月日が流れ・・・ かつての祖国に思いを馳せる事も少なくなった時、突然舞い込んだビオラの存在が、かつての自分の進言による結末を突きつけたのだ。 クラークに連れられて城にやってきたビオラを見た瞬間、バティンは愕然として我が目を疑った。 自身の蒔いた種により引き起こした双子の最悪の未来・・・ のうのうと他国で生きている自分が恥ずかしかった。 だからせめて、ビオラの小さな望みをかなえてやりたかったのだ・・・ 「お前がビオラの何を知っている? 二人で何を話した」 「・・・・・・」 「黙秘か」 だんまりを決め込むバティンに憤り、クラークは冷静さを失わないようにと窓の外を見つめた。 ビオラ・・・どこにいる? どうして逃げる? 彼女は最初からこの城を出ていくと言っていた。 一方的に結婚を決めた後も良い返答は無かった。 そもそも彼女はどうして一人で旅をしていたのか・・・ 「───正直なところ、ビオラの素性は未だに分からないままで、周囲の・・・特に重臣達の反応は良くない。中にはナディアのように売女だと蔑む者までいる。私がビオラに惑わされ騙されていると」 「・・・・・・」 「だが、彼女のどこを見れば噂されるような悪女だと言える? 私はあれ程純粋な瞳をして儚げに微笑む女性を見た事がない」 「・・・・・・」 「素性は分からなくとも、彼女が尊い生まれだと言うことは漂う気品や仕草を見れば分かる。その辺の貴族の女では絶対に出せないものだ」 顔には出さなかったが、バティンの内心は驚きでいっぱいだった。 周囲の意見に惑わされることなく、ビオラの見目だけではなく・・・そこまで本質を見抜いていたのかと。 ───おそらく、クラーク様ほど今のビオラ様を護るにうってつけの人物はいないのだろう。 だが本人がそれを望んでいないのに無理強いしてどうなる? 結局どれほど引き離そうとしたところで、ビオラの心はレイドックのものなのだ。 「クラーク様のお気持ちは分かりました。・・・・・・しかし、私は何も話すつもりはありません。これ程の重罪・・・どんな罰でも受けるつもりです・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうか・・・」 クラークは暫し頭を垂れるバティンを見つめていた。 だが、諦めたように目を閉じるともう何も言わず、素早く踵を返して足早に部屋から出ていった。 靴音が遠ざかり、やがて物音一つしない部屋の中・・・バティンは複雑な気持ちで闇夜を眺めていた。 クラークは・・・ベルフェゴールから離れ、身元の知れないバティンに何の追求もせず側に置いてくれたいわば恩人だ。 温厚で気さくな人柄は好感の持てるもので、程なくして尊敬の念を抱くようになり、忠誠を誓うまでそう時間はかからなかった。 ナディアとの仲は一見して良さそうに見えたものの、実は彼女を愛しているのか、子供達を愛しているのか・・・そもそも愛というものが何であるのかよく分からないのだと漏らしていたこともあり、内心では随分悩んでいるのでは・・・と感じたこともある。 きっとクラークにとってビオラは、全てを捨てても構わないと思わせるほど、運命を感じさせる女性だったに違いない。 相手がビオラでなければ出来うる限りの協力は惜しまなかっただろう・・・。 ───私は、クラーク様の信頼を失望に変えたのだな・・・ 恩がある身で、それを仇で返すような形で裏切ったのだ。 分かっていても、自分の所為で歩ませた不幸を放っておくことなど出来なかった・・・ 辛い思いを抱えている筈のビオラ様の瞳が真っ直ぐで眩しかった。 ───だから・・・ 「・・・・・・償いたかった」 部屋の中、あまりに悲しい声音が・・・小さく響いて消えた。 その4へつづく Copyright 2006 桜井さくや. 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