『手の中の幸せ』
○第4話○ 逃亡の果て(前編) ビオラが眠りから覚めたのは、極上とは言えないがぐっすり眠るには充分なベッドの上で、やわらかな日差しが窓から降り注ぐ頃だった。 上半身を起こし、目を擦りながら辺りを見渡す。 質素な部屋だが綺麗に片づいて、清潔感に溢れている。 昨晩までの出来事がまるで嘘のように、包む空気が穏やかで優しい。 お腹の子と暮らしたいと夢に描いていた風景がそのまま存在しているかのようだった。 「あ、ビオラ様、起きた? おはよ」 部屋を見渡していると、ドアが開いて昨夜とは違う格好をしたニーナが入ってきた。 その格好は実に動きやすそうではあるが、どちらかというと少年のよう・・・・・・だがニーナにはそれがとても良く似合っている。 「おはよう、ニーナさん」 ビオラはニッコリと微笑み、ベッドから起きあがった。 こんなに穏やかな気分は久しぶりな気がする。 「顔色が良いね、よく寝られたみたいでよかった。少しの間ここで過ごそうと思うんだけど・・・どうかな」 「えぇ、とても綺麗な所でうれしい」 「よかった。ビオラ様には随分無理させちゃったからね。しばらくゆっくりして欲しいと思って」 「ありがとう・・・・・・あの、聞いて良い? ニーナさんはどうしてこんなに親切にしてくれるの?」 「・・・え?」 きょとん、とした顔で目をパチパチしている。 「そんなの当たり前だよ、あたし、ベルフェゴール出身だし」 「え!?」 「なに? まさかバティンから何にも聞いてないの? ・・・も〜、いっつも言葉が足りないんだよね、アイツ」 「じゃ、・・・じゃあ・・・バティンとはどこで知り合ったの?」 「ベルフェゴールだよ。アイツが追放される時はあたしも一緒だったし・・・仕方ないじゃん? アイツと結婚しちゃったんだもん」 「っ、え!?」 「物好きもいるもんだよね、あたしみたいなのでいいんだってさ」 ニーナは笑って肩を竦ませる。 少年のように快活で、太陽のように明るく笑うニーナ。 あのバティンの・・・と驚きはしたが、むしろ嬉しい気持ちの方が強かった。 「ビオラ様、笑ってるなぁ? ど〜せお似合いじゃないよ〜」 「ううん、そうじゃなくてね。何だか嬉しくて」 「ふ〜ん?」 「二人が一緒の所、見てみたいなって思って」 「・・・ん」 ニーナは曖昧に笑って、一瞬遠い目をした。 それを不思議そうに見ると、首を振ってビオラの両腕を掴み部屋から連れ出す。 「外に出てみない? この辺りを案内するよ!」 「え、えぇ」 一瞬見せたニーナの表情がとても気になったが、直ぐにいつもの彼女に戻ってしまったので聞く機会を逃してしまった。 二人は山荘を出て、一面に広がる花畑を歩いた。 うっとりするほど良い香りがして、見たことも無い種類の花々に心奪われる。 美しく可憐に咲き乱れるその姿は、麟とした強さの中にも優しさがあり、同時に癒しを与えてくれるような温かさがあった。 「ビオラ様ってさ、この花畑みたいだね」 「え?」 首を傾げると、ニーナは頬をピンクに染めて笑う。 「・・・花畑って表現は変か。えっと、つまり・・・優しくて綺麗で、絵本に出てくるお姫様って感じ・・・あ、ホントにそうなんだけどさ。何て言うか、花の妖精みたいだ」 「・・・私が?」 「うん、あたしが男だったら一生大事にするよ」 ニーナにとって、ビオラのような女性は憧れだった。 長くて綺麗な髪も、大きな輝く瞳も、やわらかそうな唇も、真っ白なきめ細かい肌も、全部全部自分には無いもの。 それなのに身分の高い者にありがちな高飛車な雰囲気は微塵もなく、優しげに微笑む姿など、もう比べる対象にすらなり得ないと思えた。 「私はニーナさんみたいになりたいわ」 「えぇっ、あたしぃ!?」 「だって何でも出来て格好いいもの」 乗馬だって一人では出来ないし、体力が無いからたいした運動も出来ない。 ニーナを見ていると、一人では何も出来ない事を痛感してしまう。 これはビオラの本心からの言葉だった。 誰かに誉められる事や認められる事が彼女の過去には殆ど無く、自分に自信を持つ事が出来ずに今日まで生きてきた。 誰より愛しているレイドックは、皮肉にも誰よりもコンプレックスを感じさせる存在で、それは今でも変わることはなく・・・同時に別の相手にだって充分コンプレックスを持ち得るものなのだ。 「ビオラ様って・・・変なの。・・・あたしみたいになりたいなんておかしいよ。男みたいじゃん」 「かわいいわ」 「ぶっ、・・かわ・・・っ!?」 「ホントよ」 素直にくるくる変わる表情が本当にかわいい。 もし妹がいるならニーナみたいな妹が欲しかった。 「え、え〜と・・・っ、そうだな、真に受けない程度に聞いとくよ」 「信じてくれないの・・・?」 「うぅっ・・・そ、そんでぇ・・・あ、あたしたちが来たのがアッチ」 ニーナは照れて分かりやすく話を変える。 仕方なくその話は終わらせ、彼女が指差した方角に目をやるが、ひたすら広がる森の木々だけしか目に入らない。 「あの森のず〜〜〜〜っと向こうから滝の中を抜けて来たんだ。普通の馬だったらあの滝に突っ込むなんて芸当出来やしない。馬を使わずに来ようったって、滝壺に落下して死んで一環の終わりだね。なんたってあの巨大なアカシアの滝が相手なんだ。万が一抜けられるとしたら、よっぽどの訓練を積んだ強者だよ、それでも無傷じゃいられない。だからグリフォンはホントに凄いんだ。あたしたち二人を乗せてそれをやってのけたんだから! しかも普通は三日三晩かかるだろう所をあの俊足で休み無しの一晩! カッコイイよな〜!!」 満足そうに頷くニーナはとても饒舌で、グリフォンを信頼し尊敬している様子が手に取るように分かる。 確かに幻のような馬だった。 名馬という言葉では片づけられないほど美しく逞しかった。 「そう言えば今はどこにいるの?」 「あぁ、山荘側の厩舎で休んでる。いくらグリフォンだって休まないとね」 「そう、後でお礼に行きたいわ」 「よろこぶよ。グリフォンは美人が大好きだから」 ニーナと二人、花畑の中央に立つ。 何と美しい景色だろう・・・ こんなに素敵な場所で過ごせるなんて夢のようだった。 「・・・ニーナさん、ありがとう」 「へへ、やめてよ。照れくさいよ」 「ふふっ、かわいい」 「も〜〜っ、またそれを言うっ」 真っ赤になったニーナをギュウッと抱きしめる。 感謝してもしきれない。 ありがとう、心の中で何度も繰り返した。 ヒヒーーーーー・・・・・・・・・・・・、・・・ン・・・・・・ 「え?」 微かに聞こえた馬の啼き声に、二人で顔を見合わせる。 「グリフォンの声だ・・・」 ・・・だけど、変だ。 あれじゃ、まるで・・・・・・・・・悲鳴・・・・・・ 「ビオラ様、ここで待ってて」 「えっ、どうして!? 私も行くわ」 「でも・・・・・・」 「まだ聞こえる。行きましょう!」 「・・・あ・・・・・・う、うん」 ニーナは複雑な表情を浮かべ、迷いながらもビオラの手を取った。 今までグリフォンのこんな叫び声は聞いたことがなかった。 勘が鋭く全てに於いて長けた馬だ。 何かを予感したか、それとも既に何かが起こったのか・・・ ごくり、と喉を鳴らし、ビオラを掴む手に力をこめる。 相手にしているものが大きすぎることは知っていた、だけど、だけど・・・っ 駆け足でグリフォンの元へ向かう間、ニーナの心臓はドクドクと脈打ちやけに五月蝿かった。 「グリフォン!」 厩舎に入ると、興奮して暴れているグリフォンがいた。 周囲には誰もいない。 その事にほんの少し安心する。 だが・・・それなら何故こんなにも・・・ 何もなくて暴れるような馬ではないのだ。 「どうした、どうしたんだ、グリフォン!? 何かあったのか?」 駆け寄り懸命に宥めるも、手がつけられない。 近づきすぎれば踏みつぶされるかも知れなかった。 「・・・弱ったな、こんなの初めてだ・・・」 「怪我をしているとか・・・?」 「ううん、ここに着いたとき全部調べたけどどこも何ともなかったんだ・・・何だろう・・・こんなに暴れるなんて・・・」 ───とてつもなく、イヤな予感がする・・・ 「もしかして・・・ここから出たいの?」 ビオラが話しかけると、グリフォンはピクリと反応して、荒い息はそのままに暴れることをやめた。 それが答えだと直感したビオラは、何の躊躇もなくグリフォンの側まで近づき、驚くニーナの制止も聞かずに繋がれた縄をほどいてしまった。 「ビオラ様ッ!」 「大丈夫よ。どうしたの? グリフォン、何か伝えたいことがあるのね?」 ビオラが見つめると、急激に大人しくなり冷静さを取り戻したグリフォンの目が訴えかけるような眼差しへと変貌した。 それはニーナへも向けられ、切実な眼差しは彼女の予感を身震いするものへと変貌させていく。 「・・・・・・ビオラ様、逃げよう」 「えっ!?」 「いいから、グリフォンに乗るんだっ!!」 「待って、どう言うこと!?」 「あたしだってわかんないよっ、だけど、今は早く逃げるんだっ!!!」 切羽詰まった様子のニーナはビオラを抱き上げ、グリフォンの背中にグイグイと押し上げた。 意味が分からないビオラも、その剣幕に押されてただ従うしかない。 続いてニーナも・・・とグリフォンの身体に手をかけたとき、 ギィ・・・・・・─── 厩舎のドアが軋みを上げた。 「・・・あ・・・っ、・・・あぁ、そんな・・・・・・ビオラ様・・・・・・っ、・・・・・・逃げ・・・、グリフォン、早く早く」 一歩下がり、自分は乗ろうとはせずにグリフォンの尻を叩く。 ニーナの顔は焦り、恐怖、あらゆるものに支配されていた。 「・・・ニーナさん?」 尋常ではないニーナに驚き、彼女が見据えている方向に目をやる。 いつの間にかドアが開いていた。 何となく不自然に感じ眉を寄せると、カツ・・・、靴音が聞こえた。 そして、煌めく長い金髪を靡かせ、悠然と入ってきたのは・・・ 「・・・・・・クラーク・・・!」 逃げてきたはずの・・・ 「迎えに来たよ」 微笑んで、両手を伸ばす。 こっちへおいで、と形の良い唇が甘く囁いた。 ビオラは目の前で起こった事が信じられず、何度も何度も首を横に振った。 こんな所まで追いかけて来られる筈がない、だってどんな強者でも怪我せずにアカシアの滝を抜けることは出来ないって・・・・・っ 「どうしてここが・・・っ」 一歩、 二歩、 近づいて。 「君の居場所を知っているのは、彼しかいないだろう?」 「まさかっ!?」 ビオラの目が驚愕で見開かれる。 だがそれにはニーナの方が更に衝撃を受け、クラークに掴みかかる勢いで迫った。 「うそだっ、バティンが居場所をバラしたりするもんかっ!! アイツはそんな奴じゃないっ、嘘を吐くなよ!」 「・・・? 君は誰?」 そこで初めてニーナの存在に気づいたようで、クラークは目を細めた。 「・・・・・・あぁ、 君がニーナか」 「・・・っ!? 何で・・・あたしの名前・・・っ」 「・・・君は口に出す言葉よりも確かな真実がどこにあるか知ってる? 何もバティンは君たちの事を喋った訳じゃない。沈黙は守っていた」 「・・・・・・だったら・・・っ」 口に出す言葉より・・・? 意味が分からない。 でも、だったら・・・バティンが喋らなかったのなら、どうしてクラークがここにいる・・・? 「さぁ、ビオラ。君は私と一緒に帰るんだよ」 「・・・・・・っ・・・」 ビオラは何度も何度もそれしか知らないように首を横に振り、クラークはそれでも一歩ずつ近づいてくる。 グリフォンが息を荒げ、興奮気味に地面を蹴った。 「行けっ、グリフォン!!!」 ニーナが叫ぶと同時にグリフォンが飛び出す。 「ビオラ・・・っ!!」 後方からクラークの声が聞こえ、厩舎から出るまでは将に一瞬の出来事だった。 グリフォンはそのまま振り返りもせず走り続ける。 空を蹴るかの如く疾風の速さで、最早誰にも追いつくことが出来ない程遙か彼方へと。 背中に乗ったビオラは振り落とされないように懸命にしがみつき、まだあの厩舎にいるであろうニーナを思い、グリフォンの鬣を強く引っ張り叫んだ。 「だめっ、だめよっ!! 戻って!!! こんなのだめよっ!!!!!」 ニーナを置いていく事なんて出来ない。 一人で逃げるなんて出来るはずがない。 「だめっ、止まって、戻ってーーーーーーーーっ!!!!!」 声が枯れるほど絶叫した。 だって、違うもの。 間違ってるもの。 こんな風に逃げるくらいなら、 誰かを犠牲にしなければならないのなら・・・・・・ 「・・・・・・おねがい・・・・・・っ・・・・・・も・・・・・・いいから・・・・・・っ!」 ・・・・・・・・・戻った方が遙かにいい。 悲痛な叫びはグリフォンの耳にも届き、彼の脚が失速する。 ブルッと鼻を鳴らし、それでも暫くは走る脚を止めなかったが、幾ばくかしてグルリと円を描くようにその場で小さく一周すると、足踏みを数回して漸く止まった。 ビオラは依然鬣にしがみついたまま、ゆっくりと言い聞かせるように囁きかける。 「・・・ねぇ、グリフォン。あなたはニーナさんの命令に従ったのよね・・・それはとても素晴らしいことだと思う、・・・けれど間違ってはいけないわ。あなたの主人はニーナさんよ、いくら命令でも主人を置いていってはいけない。あなただって本当は私ではなく、ニーナさんを連れて行きたかったでしょう・・・・・・?」 ポロポロと涙を流し、グリフォンの首を優しく撫でる。 見えた瞳があまりに優しくて、余計に胸が詰まった。 「ごめんね、無理をさせて・・・・・・ッ」 誰かを不幸にするのが厭だと逃げた癖に、私は優しい人たちを犠牲にして自分だけが幸せになろうとしていたんだ。 どうして気が付かなかったんだろう。 バティンが城に残って疑われないという保証がどこにあっただろうか? あれ程ビオラの側にいて一番疑われる存在ではなかったか? 「・・・・・・ごめんね・・・・・・」 今一人で逃げたら、ニーナは・・・バティンはどうなる? 「グリフォン、・・・ありがとう」 彼らを守れるとしたら、それは自分しかいないのだ。 ならば・・・・・・ 「戻りましょうね」 ───短かったけれど、 幸せな夢を、見る事が出来たのだと・・・・・・・・・ 後編へつづく Copyright 2006 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |