『手の中の幸せ』

○第5話○ 血の呪縛が解かれるとき(前編)









 クラーク達が宮殿に戻ったのはそれから一週間後の事だった。
 王の不在という緊急事態を出来る限り内密に処理してきた重臣達は、無傷で帰ったクラークの姿を見て誰もが胸を撫で下ろし安堵した。
 このままクラークが戻らなかったら・・・そんな不安がどこにも無かったとは、誰にも言い切れなかったのだ。


 彼の愛馬・ランスの上にはクラークの腕の中で守られるようにビオラも騎乗している。
 話ばかりで本人を見たことがなかった彼らは、この時初めてビオラの姿を目の当たりにすることになった。
 そして、広がる噂と思い描いていた悪女のイメージと随分かけ離れた彼女の容姿に一瞬のうちに見惚れ、毒気を抜かれてしまったらしい。

 ひとめで目を奪われる彼女の容姿は、そこに存在するだけで皆が目を細めてしまうほど可憐で、クラークと寄り添う姿は溜息が出るほど美しい。
 王は卑しい女の色香に惑わされていると噂したのはどこの誰だったのか・・・場の空気が一気に静まりかえった。



「不在中、色々と迷惑をかけた。滞った執務などで報告もあるだろうが、全て明日以降にまわして欲しい。・・・私も彼女も今日は休ませてもらう。・・・・・・それからバティンを部屋まで呼んでくれないか」


 クラークは必要な事だけ言うと、ビオラと共に馬から降りて城内へ歩き出す。
 途中二人に着いていこうとするニーナを一人の衛兵が止めようとしたが、クラークに静止させられ、そのまま彼女も二人と一緒に立ち去った。




「君はすごいね。・・・存在ひとつで、面倒な彼らの口を封じてしまったみたいだ」

 歩きながら耳元でクラークに囁かれ、ビオラは意味が分からず小さく首を傾げる。
 そんな様子を彼はただ微笑ましく見つめた。

 彼女が腕の中にいる今・・・あの荒れるような感情は消え失せ、温かく穏やかな気持ちで満たされている。
 クラークにとって、ビオラはもう絶対に失くせない存在なのだ。
 彼はビオラの柔らかな抱きしめ、その滑らかな頬に静かに唇を寄せた。

 二度とこの腕の中から消えないでくれ・・・

 まるで願いを込めるかのように・・・。



 それから部屋に戻って程なくした頃、衛兵に連れられたバティンが手枷をつけた状態で入ってきた。
 憔悴しきった彼は別れた時より随分痩せており、その様子にビオラは目を疑い大きなショックを受けた。
 しかし、一番ショックを受けているのはニーナに他ならない。
 なのに彼女は一瞬だけ泣きそうな顔を見せたものの、取り乱したりはせずに無言でバティンを見つめるだけだった。
 もしかしたら、彼らはこれ以上の事も覚悟した上で行動していたのかもしれない。


「バティン・・・・・・こんなにやつれて・・・・・・っ」

 ビオラが駆け寄ると、彼は首を振って力無く目を伏せた。


「・・・・・・申し訳・・・ありません・・・・・・」

「何故謝るの?」

「結局私があなたの足枷になってしまった・・・・」

「ちがうわ、戻ると決めたのは私の意志よ、バティンの所為じゃない」

「・・・しかしそれは」

「大丈夫、そんな顔をしないで」

 そう言ってバティンに微笑んで見せると、ビオラはクラークを振り返った。
 真剣な眼差しのビオラに、クラークは僅かに目を細める。


「あの・・・クラーク、お願いがあるの・・・」

「・・・なにかな」

「彼の手枷を外して欲しいの。それから、今まで通りここで生活させて欲しい・・・ニーナさんも一緒に」

「・・・・・・欲張りだね」

 一方的な要求にクラークが苦笑する。

 ビオラの言葉は、裏切り者を側に置き続けろと言っているようなものだ。
 そんな事を受け入れるなど、到底考えられない事だった。


 とてもお願いを聞いてくれそうもないクラークの表情を見たビオラは、ここまで彼らの立場を追い込んでしまった自分の行動に胸が痛み、少しだけ唇を噛み締めた。

 しかし、ここで引くわけにはいかなかった。
 このまま目の届かない場所に彼らを追いやられてしまえば、不幸の連鎖が続くだけだという事はビオラですら想像出来ることだ。
 何としても彼らを助けてみせると心に誓いここに戻ったのだ、必ず果たさなければ意味がない。

 だけど、このような駆け引きの経験が無い彼女には、その方法が思いつかない。
 どうすればクラークが話を聞いてくれるのか見当もつかない、というのが本当のところだった。



「認めてくれるまで、クラークとは・・・・・・お喋り、・・・しないわ・・・っ」


 結局そんな短時間に名案など思い浮かぶはずもなく、プイッとそっぽを向いて言った言葉は苦し紛れでしかなく、そんな自分の不甲斐なさが悔しくて、拗ねた顔をするビオラはまるで子供みたいだ。


「・・・それはまた・・・」

 クラークは一瞬ポカンとして、頬を真っ赤に染めて俯いているビオラを静かに見つめた。

 こんな幼稚な取引など未だかつてしたことがあっただろうか・・・
 内心過去を振り返るクラークであったが、考えるだけ無駄だった事を悟り、ただ可笑しそうに笑みを浮かべる。


「な、何がそんなに楽しいのっ! 本気なんだからっ、どうやって私の居場所を突き止めたか知らないけれど、バティンをこれ以上苛めるのは許さないわ・・・ッ」


 苛める・・・
 彼女が言うとそんな単語にすら微笑ましいものを感じてしまうのは何故なのか。

 クラークはどうしても笑ってしまう自分の口元を片手で隠さなければならなかった。


「・・・では・・・教えてくれないか? 君たちにある繋がりは一体なんだ? 場合によっては検討する余地が生まれるかもしれない」

「・・・・・・・・・それは・・・」

「それは?」

「繋がりなんて無いもの。バティンは私の我が儘を聞いてくれただけだわ。・・・これ以上疑うなら・・・」

「なんだい?」


「・・・・・・・・・一緒のお部屋で寝ないわ」


 どう見ても苦し紛れで返した言葉なのだろう。
 自信なさげに目を逸らし、もの凄く小さな声で彼女は言う。


 だが今のクラークにとって、彼女と夜を過ごせない事がどれだけの拷問に値するのか・・・ビオラは知っているのだろうか。

 彼は溜め息を吐きながらビオラの手を取り、その指に口づけた。


「・・・君は私を脅迫するの?」

「・・・・・・・・・だって・・・バティンもニーナさんも・・・好きだから・・・・・・」

「私の事は?」

「だっ、だから・・・それは・・・っ」

「なに?」


 クラークは一度としてビオラから確実な言葉をもらってはいない。
 『もうどこへも行かないから』という台詞は確かに聞いたが、それはまだ言葉のままの意味だけで、気持ちが追いついたわけではないように思う。

 だが、此処まできてそれ以上を望んだとしても、誰が彼を責めるだろう。




「・・・・・・・・・ちゃんと好きになる・・・・・・予定なの・・・・・・」



 予定・・・。

 流石にその場にいる誰もが言葉を失った。


 予定で誰かを好きになれるものなのだろうか・・・



 クラークは小さく溜め息を吐いて、静かにビオラを見つめた。

 確かにビオラの様子は、この一週間でほんの少し変化したような気がしないでもない。
 抱きしめようとしても拒絶の色は見せなくなったし、少しずつ身を預ける仕草を見せるようになった。

 ・・・それらはあくまで何となく・・・と思う程度の、ささやかな変化ではあったが・・・



「私は気の長い男ではないよ。いつも君に触れる事ばかり考えてる」

「・・・・・・それは・・・・、・・・・・もう、・・・厭がったりしないわ・・・」

「なら・・・妻として迎えても・・・?」

「・・・・・・・・・・・・・、・・・いい・・・わ・・・」


 ビオラは少し考える様子を見せたが、クラークをちらり・・・と上目遣いで見つめて小さく頷いた。

 クラークは思わず目を見開いて、これは夢かと我が目を疑う思いに目眩をおぼえる。
 何故なら独断で彼女を后にすると公言してから、初めて彼女自身の言葉でそれを肯定したのだ。


「あ・・・あの、バティンとニーナさんの事は・・・」


 どうやらビオラはこの二人のことが、どうしても頭から離れないようだ。
 これほど大事な話をしていても、相変わらず不安そうに彼らを見て、目に涙すら溜めて・・・


「・・・あぁ・・・バティンとニーナね・・・」


 クラークは思い出したように二人に目をやり、しばし逡巡した。

 当然ながら、ビオラの言う『バティンは私の我が儘を聞いてくれただけ』という言葉をそのまま鵜呑みに出来るわけがない。
 バティンがただの我が儘を聞く為に動く男ではないことは、クラークが誰よりも理解している事だ。

 だが、その裏にある感情をどうしても知ることが出来ない。
 クラークの息子であるクラウザーにその心の内まで探らせてしまえば・・・そんな考えもちらつくが、ビオラが望まない事を強行してまで卑怯な真似をするのは己の意に反する。




 ・・・こんなに譲歩する事など、今までの私では考えられないな。

 しかし、クラークにはビオラが自らの意志でここに戻ってきた事の方が、余程重要に思えてしまうのだ。
 それに・・・少なくとも、彼らがビオラに対して危害を加える人物ではない、と言うのは今回の一件で充分すぎるほど理解したのは確かだ。



 実際のところ、今後の事を考えてもビオラにとって敵が多いこの城の中で、命に代えても彼女を守ろうと力を尽くしてくれる存在がいるのはクラークにとって非常に重要なことだ。
 自分ひとりで全ての力を押さえ込もうと思っても、彼女の全ての時間を見続けるなど不可能に近いことは分かっている。
 ナディアの存在も軽視することは、今後も出来ないだろう・・・
 そうなれば、一番危険に晒されるのはビオラなのだ。


「・・・・・まぁ・・・そうだね。・・・検討の余地が無いと言ったら嘘になる・・・」

「・・・・・・っ、本当?」


 クラークは頷き、彼女の頬に手を滑らせ耳元に唇を寄せた。


「君とのお喋りも、一緒に寝ることも・・・私には何よりも譲れない条件だから・・・・」

「・・・・・・」

「それに君は私の命の恩人だ。その恩に報いるのは道理だろう?」

「・・・・・・あれは・・・っ、・・・」

「君は私と生きることを選んでくれた。・・・これ程の幸福を感じたことはないよ」


 穏やかに微笑むクラークの表情があまりに優しくてビオラは言葉が詰まってしまった。
 言葉ひとつひとつがいつも情熱的で・・・そういうのは何だか慣れなくて。


「バティン、ニーナ・・・君たちの処遇は後日検討して通達する。・・・今日はもう休むといい」


 クラークの言葉を受けて、バティンもニーナも深く頭を下げたが、彼らはこの先のビオラの行く末が心配でこのまま部屋を出て行く事に不安を感じているらしい。
 二人とも表情を硬くして、少しも緊張が解けていないのが目に見えて分かる。


「ビオラ様・・・」

「久しぶりに、二人でゆっくり休んでね・・・」

「・・・・・・」

「ニーナさん、ありがとう」

「・・・っ」


 ビオラの微笑みにニーナは堪えていた涙を溢れさせ、そんな彼女の肩を抱いたバティンは瞳を揺らしながら、もう一度問いかけるようにビオラを見つめる。


 殆ど選択肢のないカードの中から、彼女は何を選び取ろうとしているのだろう・・・
 いや、自らの意志でクラークの隣にいる事を思えば、選択肢など既に存在しないのではないのか?


 いつもと変わらないように見える彼女の様子が、かえってその考えを正解へと導いているような気がしてならない。
 それが分かっても、二人がこれ以上彼女を逃がす為に行動する事は限りなく不可能に近い。
 何より、自分達を見るビオラの瞳がそれを望まないと言っている。

 彼らは身を千切られるような想いを抱えながら、せめてこの先の彼女の未来が少しでも幸せであるよう・・・・・それだけを願うことしかできなかった・・・。







「ビオラ・・・・・・」


 バティンらが去り、部屋に二人だけになると、クラークはビオラをきつく抱きしめた。


「キスをしてもいい?」


 ビオラは一瞬目を見開いたが、直ぐに彼に身を委ねて小さく頷く。
 彼はその瑞々しい唇に自分の唇を重ね、かつてない素直な反応に胸が熱くなるのを感じた。


「・・・・・・君は本当に私の妻になっても良いと? 聞き間違えではなくて・・・?」

「・・・・・・・・・・・聞き間違えじゃないわ」

「・・・・・なら・・・・・・手を伸ばしても、いやだと言って泣くことはないの・・・?」


 耳元で熱く囁かれ、ビオラの身体が小さくふるえる。



「・・・・・・・・・ない・・・わ・・・・・」


 わかってる・・・、彼の想いに応えるとはそういうことだ・・・・

 同じベッドで眠っても、今までのように何もせずには終わらない。
 レイドックしか知らないこの身体で、クラークを受け入れるということ・・・

 こうなる事を理解した上で出した答えだ。
 ・・・・何もかも全部、分かっていて側にいると・・・。



「・・・・・・・・・っ・・・、・・・ッ・・・・・・」


 なのに・・・・・・

 首筋に唇を寄せられただけで、身の内から沸き起こる嫌悪感が全身を包み込み、言った先から彼を拒絶してしまいそうになる。
 ぞわぞわと全身を駆けめぐるそれは、間違いなくラティエルと迎えた初夜に経験したものと同一のものだった。

 受け入れる決心をした己を嘲笑うかのように、自分の中の何かがその一線を越えることを拒絶し、徹底的にはね除けようと阻み続ける。
 自分ではどうしようもない、抗い難い感覚だった。



 いや・・・・・・

 レイドック、レイドック・・・・・・ッ



 だけど、今更この名を叫んだところで何の意味があるというのか。
 こんな事を口走ったらクラークに何を疑われるか分からない、バティンもニーナも救うどころの話ではなくなってしまう。

 ビオラは小さく震え、どんな言葉も呑み込まなければと、きつく瞼を閉じた。



「・・・・・・ビオラ・・・」


「・・・・・・っ・・・・・・・・・ぃ・・・・・・」



 だが、耳たぶを甘噛みされ・・・どうしようもない嫌悪感に反射的に拒絶の言葉を吐きそうになる。
 飲み込んでも飲み込んでも『いやだ』という一言が溢れ出してくる。




 ───しかし、再び首筋に唇を寄せられ、全身が凍るような思いに限界を感じた瞬間だった。




「・・・・・・・・・あ・・・っ・・・」



 身体の底から彼を拒絶しようとする何かが・・・・・・

 嫌悪感も何もかも・・・
 触れられるだけで鳥肌が立つような拒絶反応全てが。




 ほんの少し、・・・お腹があたたかくなった・・・・・・、

 ただそれだけの事で・・・・・・・・・




 クラークを受け入れる為だけに、信じられない勢いで解かされていくのを感じたのだ。












後編へつづく


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