『手の中の幸せ』

○最終話○ 描いた未来(その1)










 レイドックの子を妊娠し、逃亡まで約7ヶ月。
 クラークと共に生きて5年と数ヶ月・・・

 その間6年弱。
 全く成長する気配の無かったビオラの腹の子は、バティンの予想通り、たったふた月半程度の間に急速に育っていった。


 前例の無い状況の中、驚くべき事はもう一つある。

 当初母体が腹の子の成長に合わせるのは極めて不可能に近いと思っていたものを、ビオラの身体がそれに合わせるように変化を始めた・・・という事だ。


 一日の大半をベッドで過ごすほど身体の負担は大きいが、確実にその身体は子を生む為の母としての機能を果たそうと、今も刻々と変化を続けている。


 また、彼女を守ったのはビオラ自身だったと言っても過言ではない。

 ビオラの手から発せられる光には不思議な力があるのは、皆前々から何となくは分かっていた。
 だがそれは、単なる治癒効果をもたらすものに留まらなかったのである。

 体調の不安を感じる度に何となく光を腹に当ていたところ、その翌日までにはビオラの身体には必ずと言っていいほど吉兆とも言える変化が訪れたのだ。


 それは、クラークの言う通り、ビオラを選んだのは子供の方ではないかとさえ思えるほど、彼女の変化はその子の為だけに起こったものだったのかもしれない。






 ───コン、コン


 部屋のドアをノックする音が聞こえ、ベッドに横になっているビオラの側に座っていたニーナがドアを開けると、小さな訪問者が衛兵に連れられ立っていた。

 それは第一王子、クラウザーの姿だった。
 彼は昨日訪問の申し出をしてきたばかりだったが、出産を間近に控えているものの比較的ビオラの体調が安定している事と、彼女のたっての希望もあり今日の訪問が実現したのだ。


「いらっしゃい、クラウザー。側に来て顔を見せて」


 緊張で頬を赤く染めている様子が可愛らしくて、ビオラは上体を起き上がらせると微笑みながら声を掛けた。
 優しい声音に少し緊張がほぐれたのか、彼は小さく息を吐いて側に駆け寄り、ビオラに摘んできた花を手渡す。


「・・・これ、・・・くれるの?」

「ぼくの育てたお花です」

「まぁ・・・っ、・・・・・・すごいわ、とても綺麗。・・・・・・ニーナ、早速花瓶を用意して」

「わぁ、ホントに綺麗だね。どの花瓶がいいかなぁ・・・」


 ニーナはビオラから花を受け取り、感心したように呟きながら花瓶を探しに部屋から出て行く。


「ありがとう、私もお花が大好きだけど、あんなに見事に育てられるなんてすごいわ」

「・・・そんなこと・・・」


 褒められて嬉しそうに頬を染めるクラウザーは天使のように愛らしい。
 小さい時のクラークもこんな感じだったのだろうかと思うと微笑ましい気持ちだった。


「あの・・・ビオラ様・・・ご病気?」

「え? ・・・あ、ベッドでごめんね。病気ではないのだけど・・・えっと・・・、これ、わかる?」


 ビオラはクラウザーの手を取って、かなり大きく育った自分の腹に直接触れさせる。
 クラウザーは一瞬とてもびっくりしたような顔を見せたが、直ぐに何か気がついたようだった。


「・・・・・・赤ちゃん・・・?」

「わかる?」

「ぼくの弟たちが、母上のおなかの中にいたときと同じだから・・・」

「そうなの、クラウザーはお兄さんなのね」

「弟が3人いるけど、みーんなわがままであまえてばかり」

「まぁ、えらいのね、きっとみんなが頼れるお兄さんだからなのね」

「そうかなぁ・・・えへへ」

「そうよ。自慢のお兄さんよ」


 ビオラの言葉にクラウザーの頬は薔薇色に染まる。
 何て可愛いんだろう・・・抱きしめたくて手を伸ばした。

 だが・・・


「母上がご病気だから、ぼくがしっかりしなきゃいけないから」


 その一言がビオラの手を止めた。


「・・・・・・お母様・・・ご病気なの・・・?」

「・・・う・・・ん。・・・・・・、お部屋から殆ど出てこないからよく分からないけど・・・。会いに行くと嬉しいって喜ぶのに、すぐに怖いお顔になって、何かをずーっと言ってて・・・」

「何か・・・」

「・・・・・バイタ・・・が何とか・・・、タブラカシタ、ダマシタ・・・って、おまじないみたいに何度もくり返して」

「・・・・・・っ」



 ───それは・・・まじないなどという、そんな生易しいものではない。

 売女、誑かした、騙した・・・
 全てビオラに向けて発せられた感情に他ならなかった。


 一度だけ会った、あの日のナディアの顔が強烈に頭に過ぎる。
 感情全てをぶつけるように顔を歪ませ、ビオラの身体にのし掛かり、殺意をもって首を絞められた。


 あの時、クラークが来るのが少しでも遅れていたら、今の自分がこの世に存在することは無かったかもしれない。

 彼女は本気でビオラを憎んでいた。
 追いやられたような現状に、その感情はあの時よりも強くなっているのかもしれなかった。



「・・・・・・っ・・・、・・・・・・・・・」


「ビオラ様? どうしたの? 寒いの?」


 急に震えだし、青ざめるビオラを心配したクラウザーが顔を覗き込む。


「・・・・・・ごめんなさい・・・、ごめんなさい」


 何故か謝るビオラが不思議で、彼は小さな手で彼女を抱きしめた。
 柔らかい小さな手が、温かく包み込もうとしている。

 その信じられない包容力にビオラは涙を零した。



「泣いたらだめだよ。赤ちゃんも泣いちゃうよ。ビオラ様が笑うと赤ちゃんも笑うよ」


 そう言って、何度も何度も頬にキスをくれる。
 こんな風に甘やかすところはクラークにそっくりだと思った。



 コンコン


 と、そこへノックの音がして顔を向けると、執務の合間を縫っていつものようにクラーク入ってきた。
 彼の後ろから花瓶に花を生けたニーナも続いて入ってくる。

 だが、涙で頬を濡らしてクラウザーに抱きしめられているビオラを目にして、クラークの顔が少しだけ強ばった。


「どうかしたのか?」


 固い声に気づき、ビオラは小さく首を振った。



「・・・何でもないの」

「しかし・・・」

「・・・・・・クラーク、・・・・・・彼はとてもいい子ね。・・・素直で利発で、優しくて・・・」

「・・・あぁ・・・」

「あなたたちそっくりよ。クラウザーは将来クラークのようになるのかしら」


 それにはクラウザーが目を見開いて顔を真っ赤にした。
 恥ずかしそうにもじもじして、父の横顔をチラリと盗み見て・・・


「どうしたの?」

「・・・ぼ・・・ぼく・・・・が、父上みたいに・・・っ?」

「えぇ」

「父上はぼくの憧れで・・・っ、だから・・・っ」

「・・・そう」


 ビオラは微笑みながらクラークに視線を移し、両手を伸ばした。
 それにつられるように彼もビオラに手を伸ばすと、彼女はクラークの手をそのままクラウザーに差し出してみせる。

 どうやら息子の手を取ってやれということらしい・・・

 クラークは僅かに困ったような顔を見せたが、諦めたように苦笑してみせると、クラウザーの背までしゃがんで彼の小さな手を取り柔らかく握ってやった。

 間近で見る父の美しい顔と大きくて温かい手の感触に、クラウザーは驚きのあまり言葉を失ってしまう。


「見て、クラーク。このお花、クラウザーが育てたんですって」

「・・・綺麗だね。・・・そう言えば、お前は昔から草花や小動物が好きだった。他にも何か育てているのか?」

「はいっ、たくさん! 庭のお花はほとんどぼくが育てています」

「まぁ、素敵ね。私も幼い時は庭の花壇で日が暮れるまで過ごしたわ。花の冠を頭に乗せてね」

「ぼく、次に来る時はビオラ様にお花の冠をプレゼントしますっ」

「ほんとう? たのしみだわっ!」


 ビオラの微笑みにクラウザーの頬が赤らむ。
 とても優しい空気が流れていた。

 終始楽しそうな会話が弾み、クラークは穏やかに息子の手を握りながら時折ビオラを愛しそうに見つめて微笑みを浮かべ、クラウザーは父と同じ空間で過ごす夢のように幸福なひとときを得るものとして・・・。

 このささやかで微笑ましい時間はほんの僅かな間の出来事だったが、とても温かな空気に包まれたものだった。



「───さぁ、今日はここまでにしよう。ビオラ・・・、少し疲れたろう。もう横になって休んだ方が良い。私はクラウザーをそこまで送ってくるから。クラウザー、ビオラに別れの挨拶をするんだよ」

「はい」


 クラークはビオラの頬に唇を落とすと、クラウザーの背中をやんわりと押して促す。
 クラウザーは真っ直ぐにビオラを見つめ、彼女の手の甲にキスを落とした。


「・・・今日は楽しいひとときをありがとうございました」

「またいつでもいらしてね」

「はいっ」


 そう言って彼は小さく会釈をして、父に手を引かれて部屋を退出していった。

 部屋に残ったビオラはしばし扉を見つめ続けていたが、不意に先程からずっと皆を見守るようにベッドの脇に佇んでいたニーナに目を向け、小さく微笑みを浮かべる。
 彼女も笑みを返しながら、ビオラの背に手を伸ばした。


「ビオラ様・・・、少し・・・眠ったほうがいいよ・・・」

「・・・・・・ねぇ、ニーナ」


 ビオラは促されるままベッドに横になり、か細い声でニーナに話しかける。
 ニーナは急に心許ない目をするビオラが気になって、僅かに目を細めた。


「あのふたり・・・、5年も会っていなかったんですって。クラークが・・・昨夜話してくれたの。・・・・・・私を后にした時から、ナディア様もその子供達も・・・今は北の棟で暮らしていて・・・本当はここに立ち入ることも禁じられているって・・・・・・」

「・・・・・・・・・うん・・・」


 ニーナの反応にビオラは瞳を揺らした。


「・・・・・・ニーナは知っていたのね・・・、私だけが知らなかったんだわ。・・・・・・いつも・・・昔からそう、・・・大切な事は後から知るの・・・」

「ビオラ様・・・それは違うよ。ナディア様、昔からヒステリックな所があって・・・、小さな事でも大騒ぎになるくらい気性が激しいんだ。そんなのみんな知ってる話だよ。だから・・・、クラーク様がビオラ様だけを望んだ瞬間から、これは避けられないことだったんだ」


 ナディアの気性はビオラも知っている。
 ただ一度だけの面識だけど、充分な程のものだったから。


 だけど・・・



「・・・愛している人を奪われて、心が乱れない人なんていないわ。・・・・・・私・・・、たくさんの犠牲の上に立っているのね」

「ビオラ様・・・」

「それに・・・5年前・・・私達をアカシアの滝を抜けた先にいる事を突き止めたのは・・・たぶん、あの子なのよ」

「えっ」

「クラウザーは・・・私の顔を見ただけで名前まで言い当てたわ。バティンの目の中に私がいたって言ったの。・・・・・・方法はよく分からないけれど・・・、何か特別な力を持っていて・・・、それをクラークにうまく誘導されてやったのかもしれない・・・」


 ニーナはその言葉で、ビオラを連れてアカシアの滝を抜けた時の事を思い浮かべた。
 既に時が流れ、記憶が曖昧になっている部分はあるが、何となく頭の隅に引っ掛かっている事もあったのだ。


「・・・・・・そう言えば・・・あの時・・・追いかけてきたクラーク様、変な事言ってたかも・・・・・・。口に出す言葉よりも確かな真実がどこにあるか知ってるかって、・・・バティンは沈黙を守ってた筈なのに、クラーク様はあんな場所まで迷わず追いかけて・・・それに、ああたしの名前まで知ってた・・・・・・、あの時の事はバティンに聞いても教えてくれなくて・・・」


 ビオラは悲しそうに微笑み、静かに涙を零した。

 クラークはビオラを手に入れる為に手段を選ばなかった。
 言い換えれば、そうまでして手に入れたかったと言うことか。



 だけど、あの時、逃げたのは私・・・

 その後・・・彼の手を取ったのも私だわ・・・



「・・・思い返せば彼のそんな残酷な一面を垣間見る瞬間はあったのに。・・・・・・それなのに私、クラークの手を離せない。一番残酷なのは私だわ。・・・・どんなに罪の意識に苛まれても、彼の手を離したらもう生きていけない・・・っ、今生きている場所だけが私の全てなんだもの・・・っ」

「・・・ビオラ様・・・」


「もう・・・手に入れたと思った幸せを離すのはいや・・・っ!」



 レイドックの時のような事がもう一度あったら、絶対に立ち上がれない。

 あんな風に身を千切られるような想いは二度と出来ない。


 だけど、クラウザーを見ているうちに心が痛くて堪らなくなった。
 父を慕って憧れて、あの瞳が真っ直ぐなほど苦しかった・・・。


 だからせめて・・・、

 時々、同じ時間を過ごすくらいはと・・・・・・、



 自分の罪を誤魔化しているだけに過ぎないのに───
















 その頃、クラウザーを送る為に一緒に着いていったクラークは、北の棟に入る手前の所で足を止めた。
 息子の目線まで腰を落とし、まだあどけないエメラルドの瞳を真剣に見つめる。

 クラウザーは間近に見る父のアイスブルーの瞳に釘付けになり、その真剣な眼差しに思わず息を呑んだ。


「・・・クラウザー、お前に頼みがある」

「・・・・・・は、はいっ」


「ビオラのお腹の中には子供がいる。私と彼女の子だ」

「・・・・・・はいっ」


「それはつまり、お前に弟か妹が出来ると言うことだ。わかるかい?」

「・・・ぼ、ぼくの・・・」


「大切な宝物が出来ると言うことだよ」

「たからもの・・・」


「だから、この子が生まれたら・・・・・・どうしたらいいか、お前にはわかるね?」

「・・・は、はいっ、・・・ぼく、赤ちゃんのお兄さんだから、抱きしめてたくさんキスをあげますっ」


 クラークは静かに微笑み、クラウザーの頬にキスを落とした。


「・・・・・・ッッ!!!」

「そうだよ、こんな風にね」

「はいっ、・・・はいっ!!!」


 クラウザーは何度も何度も返事をして、顔を真っ赤にして頷いた。
 まるで身体中でびっくりしたみたいにガチガチに固まってしまい、そんな様子がとても愛らしい。

 クラークは静かに微笑み、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を続ける。


「この先、様々な出来事が起こるだろう。あらぬ噂や思惑に左右されそうになる事があるかもしれない。・・・だが、お前だけは周囲の意見に惑わされず、曇りのない強い心と眼を持ち続けて欲しい」

「はいっ」

「そうやって・・・生まれてくる子も慈悲深く愛し、守ってくれる事を願うよ・・・」

「はいっ」

「・・・だけど、子供のことは生まれるまで誰にも言ってはいけないよ。特にお前の母上には絶対に秘密だ」

「はいっ、絶対に言いません。それに・・・ぼく、今日のことは誰にも言いません。これからも誰にも言いません」

「今日は何て言って出てきたんだ?」

「北の森の珍しい花を観察してくるって・・・」

「そうだったのか・・・、クラウザー・・・お前は、とても賢い子だね」


 クラークは微笑み、ミルク色の柔らかな頬をやんわりと撫でてやる。
 嬉しそうに笑うクラウザーは真っ直ぐに父を見ていた。



「・・・また来る時は言いなさい」


 そう言って彼は静かにクラウザーの側を離れ、そのまま歩いてきた道を戻っていく。
 一歩進むごとに輝く金髪が柔らかく揺れ、高い背から伸びた四肢が滑らかに動き、ブーツの踵が鳴らす規則的な音が遠ざかる。

 クラウザーはどこまでも憧れて止まない父の後ろ姿を見つめ続け、やがて姿が見えなくなってしまうと小さな吐息を吐きだした。


 あんなに優しく触れてくれたのはいつ以来の事だろう。

 あんなに幸せな言葉をくれたのは・・・



 彼にとって父という存在は一般的なそれとはかけ離れていた。
 尊敬と憧れは真っ直ぐで純粋であるほど父を常人とは違う存在として認識するようになり、月日が経つほどその存在全てが神々しい光の中に包まれた尊いものだと感じるほどに。

 だから彼は常に側にいた母より、5年ぶりに会った父の言葉を何よりも大切にした。
 一言一句として聞き漏らさないよう、意味を取り違えないよう、小さな頭の中で自分の取るべき行動を何度も考える。

 全ては父の為に───





「クラウザー・・・、今日は北の森に行っていたんでしょう? 珍しい花は見つかった?」

「今日は何も・・・。見つけたら、母上に差し上げます」

「あなたは優しい子ね・・・、年々顔立ちもあの人に似て、とても愛しいわ」


 その日、母に抱きしめられながら、クラウザーは平然と嘘をついて見せた。
 微笑みながら、心の中では別のことを考えて。


 今度はビオラ様に北の森の花々で冠を作っていこう・・・


 クラウザーにとって、父はあまりに特別すぎた。
 父と母が仲むつまじく過ごす事よりも、自分達兄弟が父から愛情を得る事よりも、父が幸せそうに笑っている事の方が遙かに重要だったのだ。


 ビオラと共に笑っている父が、今まで見たどんな瞬間よりも幸せそうだったから。






 そして、クラウザー訪問から僅か2日後、極限られた者だけしか妊娠の事実を明かさないまま、ビオラは男の赤子を無事出産したのである───










その2へつづく


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