『手の中の幸せ』
○最終話○ 描いた未来(その5) ───時を同じくして・・・北方の地・ベルフェゴールで起こった異変についても触れなければならない。 彼の地では、ビオラの最愛の兄・レイドックによる統治が今も尚続いている。 他国との国交を徹底的に拒み続ける姿勢に変化はなく、異文化交流など一切存在しない閉鎖的空間の中で、人々が彼を絶対君主として見つめ続ける眼差しはあの頃よりも狂信的と言ってもいい程に強烈なものとなりつつある・・・という以外はさして変わった事は無く、それはまるで、ビオラと共に姿を消した一年を闇に葬り去ろうとする光景のようにも思えた。 レイドックの望みは、裏を返せば人々にとっては畏怖すべきものだった。 彼が自分達の理想通りの皇帝であることが正義であり、それを疑うなど悪に等しく、また道を踏み外す存在などあってはならないものだ。 その思考によって、レイドックの中の孤独を一層の深淵へと沈み込ませていようとも・・・ だからこそ、その影にある彼の素顔など、誰ひとりとして知ろうとはしないのだ。 当然の如く続いていく皇帝としての激務に追われる日々、その一見何事もなかったかのように流れる日々ですら、彼にとっては真に求めるものからは遠くかけ離れた暗闇でしかない。 何故なら、執務室の外からあの軽やかな足音を聞いてペンを置く事も、その扉の向こうから小さな顔を覗かせて笑顔で名を呼ばれる事も、今では夢の中でしか叶えられない遠いものだからだ。 今の自分はあの子との些細な想い出が何よりも大切だと言ったら、人々は笑うだろうか・・・。 それでも、彼女を忘れる事など絶対に出来ない。 忘れようなど思いつくはずもない、それだけがレイドックには生きる糧であり、この場に留まり続ける理由だったからだ。 彼女さえ無事でいてくれるなら、彼女を追わない事でその命を守る事が出来るのなら、皇帝としての望まぬ日々を全うする事など何でもなかった。 ・・・・・・だが・・・・・・、 幾ら感情をねじ伏せようと、どうしても過ぎる想いは次から次へと濁流のように押し寄せる。 あの時の自分に、他に選択肢が存在しなかったと分かっていても、 捨てたはずの皇帝という地位に戻らなければ、彼女の命が保証されることはなかったと分かっていても・・・ それでも、もしも全てを振り切ってビオラを探しに出ていたならば、 もしも追っ手より先にビオラを見つけ出す事が出来たなら・・・・・・ また繰り返し追われながらの生活を強いらなければならないとしても、隣に彼女さえいてくれれば、どれだけ満たされた日々だったろうと。 ───コン、コン 不意に扉をノックする音を聞き、我に返る。 レイドックが静かな声で返事を返すと、扉の向こうから小さな顔が此方を覗いた。 「・・・・・・父上・・・、少し宜しいでしょうか?」 「・・・あぁ、カーマインか・・・。構わぬ、入れ・・・」 一瞬ビオラかと思ったのは、あの頃に想いを傾けすぎていた為だろう。 執務室に遠慮がちに入ってきたのはレイドックの息子、カーマインだった。 名が表す通り、真っ赤な髪の色は非常に珍しく、一度見れば絶対に忘れないであろう印象的なものだ。 「どうした?」 「・・・あの・・・・・・フィーシャが倒れて・・・」 「なにっ?」 「すぐに目を覚ましたのですが・・・、前にフィーシャに変わった様子があったら何でも良いから報告するよう父上が仰っていたので・・・」 「・・・・・・あぁ、すぐ行こう」 レイドックは立ち上がり、カーマインを連れて執務室から足早に出て行った。 そして、二人が駆けつけた先にいたフィーシャは、若干青ざめた顔色のレイドックを見ると、ベッドで上体を起こしながら柔らかな笑顔を向けた。 それを見たレイドックは、僅かに安堵したように小さく息を漏らす。 「レイドック様、ごめんなさい」 「謝る必要はない。・・・何があった? 突然倒れるなど・・・・・・」 「・・・・・・はい・・・」 フィーシャは小さく頷き、レイドックを澄んだ青い瞳で見つめた。 その青い瞳を見る度に、彼はあの頃の自分に戻ってしまう。 決してビオラに似ているとは言えないその容姿のどこかにビオラを探してしまう。 ───もうあれから何年が経った・・・。 彼女はビオラが作り出した存在だ。 家族というものに強い憧れを持っていた彼女が、子供を産むのとは違う方法でビオラが自分の命の一部を使って創造した特別な存在だ。 フィーシャがまだ小さな虹色の珠だった頃から、レイドックはビオラと共に彼女を見てきた。 虹色の珠から命が弾けた瞬間さえも、未だに鮮明に思い出すことが出来るほど、ビオラと過ごした鮮やかな日々・・・。 嬉しそうにはしゃぐビオラを見て、欲しいのは女の子供なのだろうと漠然と思ったのを憶えている。 一体彼女はどれだけ遠くに行ってしまったというのか・・・ 彼女の気配を辿ることなど造作もなかったというのに、今の彼にはビオラを辿ることすら出来ない。 だからこそ、ビオラがフィーシャを作り出したということは、この子の命をビオラが繋いでいると、レイドックはこの数年間、それしか縋るものがないというギリギリの所に立ち続けるしか道がなかった。 そして、そのフィーシャが倒れたと言うならば、ビオラの身に何かが起きたのではと危惧するのは当然の理由だったのだ。 「・・・・・・・・・、突然首に痛みが走って・・・気づいたときには意識が途切れていました。でも、すぐに何もなかったみたいに痛みは消えて・・・・・・、それで・・・・・・また、ビオラ様の感情が・・・・・・頭の中に流れ込んできたんです・・・・・・」 「彼女は何と? ビオラの事ならどんな些細な事でも構わない・・・教えて欲しい」 「・・・・・胸の中を・・・・、・・埋め尽くすくらいの強い想いで、死ねない、まだ死ぬわけにいかないって・・・」 「・・・・───ッ、・・・馬鹿な」 一体ビオラに何が起きている。 どれ程の苦境に立たされていると・・・ 「・・・・・死・・・・・だと・・・・?」 レイドックは両手で顔を覆い、抑えきれない感情に打ち震えた。 ビオラが大きな感情を持った瞬間だけ、フィーシャにこうやって彼女の感情が流れ込んでくるのは何度目の事だろう・・・。 それが幸せなものを想像させるのであればまだ良いのだが、そうでない場合はこのベルフェゴールを飛び出してビオラを探し出そうと気が逸って抑えられなくなる。 ただ聞いているだけという己の不甲斐なさを呪うだけでは、抑え続けることに限界があるのだ。 しかし、今回のは今までとは全く違う。 フィーシャが意識を失うほどの何かがあったのだ・・・ ビオラ、ビオラ、ビオラ、 満開の花のような存在だった、何より大切な宝だったのだ。 死など考えるような娘ではなかった。 手折ったのは俺だ。 苦しまなければならないのはビオラではない。 彼女の身に起こる全ての不幸を背負うつもりで奪ったのは俺の方だ。 なのに何故あの子ばかりが───? 「父上、・・・父上はこの国に必要な存在です。それに・・・父上を監視する目は今も尚、光り続けています」 「・・・・・、・・・わかっている」 カーマインに袖を引かれ、レイドックは感情の籠もらない返事を返した。 そんな事は分かっている。 俺がひとつでも怪しげな動きをとれば、それが命取りとなる可能性があるということも、これまでの日々が全て無駄に終わるという事も何もかも嫌と言うほど分かっている。 だが・・・ どうしても、おさまらない。 感情が爆発するのをとても抑えられない。 今日こそビオラを・・・ しかし、レイドックの瞳がふるえる感情を抑えきれずに金色に変化しだした瞬間、カーマインの信じがたい言葉が耳に入る。 「ぼくが・・・ビオラ様を捜しにいきます。ぼくが・・・ビオラ様を父上の手にお返しします」 「・・・、・・・・・・カーマイン?」 ・・・・・・今、何と言った・・・? 「今はまだ子供でも、ぼくだってあと何年かすれば大人として認められるはず・・・。・・・・・・だから、それまで・・・その日まで待ってください・・・・・どうかぼくを信じてください」 「・・・・・・お前・・・何を・・・・・・」 「そうしてビオラ様を父上の手にお返ししたら・・・・・・、今度こそ、お二人で幸せになってください。・・・その後のベルフェゴールは全てぼくに背負わせてください・・・・・・」 カーマインは翡翠色の瞳を真っ直ぐレイドックに向けている。 驚きの表情でレイドックは息子を見つめた。 「・・・・・・なぜだ・・・それは母も民も欺く行為だ。それが分からないお前ではないだろう?」 「ぼくには母はいません」 「・・・クジャタがいるだろう。・・・カーマイン何を考えている?」 「確かにぼくを生んだのは彼女かもしれません。ですが、部屋に閉じこもり、夢見の能力に取り憑かれている彼女とは、今に至るまで殆ど会話らしきものをしたことがありません。別にそれに対して思う事もありません。ぼくには父上だけが存在すればそれで充分です、父上の為なら生涯に一度くらい民を欺いて見せます。それで裁きをうけようと、それがぼくの意志なんです」 「・・・・・・・・・だが・・・・・・」 「ぼくに役目をください。・・・・・・父上の役に少しでも立てる役を・・・」 「カーマイン・・・・・・」 「・・・・・・そして、ぼくにも同じ夢を見させてください。・・・・・・それだけが望みです」 そう言って頭を下げるカーマインの姿にレイドックは絶句するしかなかった。 カーマインは年頃の子供より遙かに大人びた子ではあった。 言葉遣いから行動、政治的なものの考え方全てに於いて幼い頃のレイドックに似た何かを持っている事は間違いない。 しかし、父をこのように慕う姿はレイドックには無かったもので、彼には不思議としか言いようのないものだった。 だが、カーマインの言葉に偽りは感じられない。 浅はかな子供の感情だけで物を言っているわけではないということを、その真剣な眼差しが物語っているのだ。 親近者に強く惹かれる皇族の血が・・・・・・、クジャタの血に薄められた結果、こんな形として現れたのだろうか・・・レイドックは頭の片隅で思った。 きっとこうやって他人の血を混ぜていく事によって、正常なものへと戻っていくのかもしれない。 カーマインはその役を自ら買って出ようとしているのかもしれなかった。 「・・・・・・お前には弟がいるよ。・・・ビオラと私の子だ・・・、罪深いと言われようと2人で望んだ子だ・・・」 「・・・・・はい、フィーシャから聞いています。彼女は大人が教えてくれない大切な事を、沢山ぼくに教えてくれるんです」 「・・・」 「・・・・・・ぼくは父上からすれば望まない存在なのかもしれません。だけど、それを悲観したりはしません、ぼくにはぼくの役目があって生まれてきたんです」 「・・・・・・カーマイン・・・・・・」 「・・・いつかきっと・・・・・・、その子も父上の元へとお返しします・・・・、だからどうか・・・今はお心をお収めください・・・」 こんな事が赦されるのだろうか。 まだ子供の・・・しかも他の女との間に出来た子だ。 その子に言わせていい言葉ではない。 ほんの僅かでも委ねて良い問題ではない。 だが、レイドックにはカーマインの真っ直ぐな想いを、この場で簡単にはね除けることは出来なかった。 本気で言っている言葉だと理解するほど、言葉がでてこなかったのだ。 「・・・・・・・・・あぁ・・・・・わかった・・・・・・」 レイドックはカーマインの頬を撫で、静かに頷いた。 幾度と無く機会を窺い、本当はベルフェゴールを捨てる覚悟などとうの昔に固まっている。 後はいつ捨てるか・・・それだけの話だった。 ビオラの所在さえ明らかになれば・・・・・・ それをカーマインに委ねろと・・・? ───・・・・・・莫迦な事を・・・ レイドックは己の思考を浅く嗤った。 思考の片隅に及んだだけでも罰に値する行為だ。 どこまで愚かなのだと、手段すら選ばないのかと。 確かにレイドックは昔からそういう思考の元で行動してきた一面はある。 だが、カーマインを己の子として思わないわけではない。 ビオラの存在が特別すぎるのだ。 他のどんなものも切り捨ててしまえるほど、彼にはビオラが全てなのだ・・・・・・ 今度こそ失敗は赦されない。 光り続ける周囲の目を欺く為、この数年、民の為の皇帝であることにひたすら徹した。 今動いたところで何の結果も得られないのはわかりきった事だ。 感情に任せて愚かな行為に走る事は、今の自分が一番してはいけない行為なのだ。 ビオラを取り戻す為なら、俺は何にでもなる。 例えこの空白の期間に彼女を奪おうとする男が何人現れようと、そんなものは俺が彼女の手を取った瞬間に全て消え去る幻にしてみせる。 俺達はひとつだ。 在るべき姿を曲げたところで、いつか必ず元の形に戻る日が来る。 「フィーシャ・・・、君が生きているということは、ビオラも生きているということだと・・・俺は思っている・・・」 「はい・・・」 「・・・・・・・・・側にいない事の不確かさを、俺は絶対に受け入れない」 「・・・・・・はい」 「・・・だが・・・今の俺は・・・・・・、あまりに無力で反吐が出る・・・」 「・・・・・・レイドック様」 「唯一の存在すら幸せに出来ずにいるというのに、一体俺のどこに皆の上に立つ資格がある・・・・・・、皆・・・俺を見る目が曇っている、どうしてわからない? 俺は最初からビオラの事しか考えていなかった・・・っ!」 この数年は、ビオラが側にいない現実に押しつぶされるばかりだった。 あとどれだけ、こんな日々が続くというのか。 彼女がこの世の何処にもいないというなら、生きることなど放棄してしまえば済む話だった。 父上が母上を追いかけたように、俺も唯一の存在を追いかけるだけで終わりに出来た。 だが、ビオラは生きている。 そう思うのは、フィーシャが生きているからというだけではない。 あの子が死んだというなら、俺が分からないはずはないと思うからだ。 俺に何一つ知らせることなく、あの子が一人で逝ってしまうはずがないと思うからだ。 幼い日に交わした幸福な約束を夢で終わらせない為に、俺達はもう一度出会わなければならない。 もう二度と会えないと君が諦めてしまっても、俺は絶対に諦めたりはしない。 だからせめて、君の手をとるその瞬間までは・・・・・ 生きることを諦めないでくれ─── その6へつづく Copyright 2011 桜井さくや. 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