かごめたちが拠点にしている楓の村から里へ続く街道がある。
街道という名前がふさわしいほどの大きな道ではないが、このあたりではもっとも交通量の
多い道路だ。
その道沿いにある苔むした石地蔵がぽつんと立っている小さな祠の側で、かごめは珊瑚たちを
待っていた。
大きな石の上に腰を下ろしたかごめは、人の声を聞いたような気がして立ち上がった。
手を翳し、つま先立ちで街道の向こうを見てみると、案の定、人影が見えた。
弥勒と珊瑚だった。

「珊瑚ちゃーん……って、あれ?」

かごめが大きく手を振って合図すると、ふたりは歩く速度を早めてくれたようだ。
しかし、どうも様子が違う。
弥勒の顔のすぐ横に珊瑚の顔があるのだ。
顔以外は完全に弥勒の陰に隠れている。
何のことはない、珊瑚は若い僧に背負われているらしい。
かごめは少し慌ててふたりに駆け寄った。

「どうしたの!? 珊瑚ちゃん、ケガでもしたの?」

実は弥勒と珊瑚は、里人に頼まれて妖怪退治をしてきたのである。
犬夜叉とかごめを含めた四名のフルメンバーでなかったのは、相手が大百足で大したことは
なかったからだ。

そうでなくても犬夜叉は、四魂のかけらが絡まなければとんとやる気を出さなかった。
もちろん、奈落や殺生丸が絡んでくれば話は別だが、今回のような突発的かつザコ相手の場合、
面倒くさがって出て行こうとしない。
敵が大物の時は、かごめも出ていくし、そうなれば犬夜叉も当然出るのだが、そうでなければ
やる気はない。
そもそも人間のため、などとは全然思っていないからである。
最近はかごめの影響もあって、徐々にそういうところは薄れているが、元来こどものような性格
だから、こういうことには不向きなのかも知れない。

かごめたちも心得たもので、ザコ妖怪退治の時などは犬夜叉を外してやることも多かった。
またそうした場合、かごめも必然的に残ることになる。
なんだかんだ言っても彼女ひとりを残しておくわけにはいかないし、といって現場に行けば、
弱敵とは言え妖怪相手だから、不必要に危険にさらすことになる。
そんなこんなで、ちょっとした物の怪退治では、こうして弥勒と珊瑚がコンビを組んで出る
ことが多くなった。
もちろん妖怪退治を仕事として受けるわけだから報酬は出る。
このメンバーで金銭にこだわるのは、言うまでもなく弥勒と珊瑚だからちょうどいいのである。

退治依頼の報酬は基本的に弥勒と珊瑚のものになっている。
旅の路銀だとか食費や生活費など、この世界での必要経費についてはその中から支払われること
になる。
だから犬夜叉やかごめが特別不満を持つこともなかったのだ。
そうでなくても、かごめなどは金銭感覚がかなり鈍いのだ。
現代に戻ればまた話は別だろうが、この安土桃山時代に於いては、物価や貨幣価値などが二十一
世紀の日本とは根本的に異なっているから実感がわかないというのが本当のところだろう。

かごめが駆け寄ってくると、おぶられた珊瑚は少し顔を赤らめて弥勒に言った。
照れているのだ。

「も、もういいよ、法師さま……。降ろしてよ」
「どうしたの、弥勒さま」
「いやなに、珊瑚が足を少し……」

背中でじたじたしている少女に構わず、黒髪を蓄えた坊主は説明した。

里を襲った化け物百足は、村人ひとりと家畜の牛四頭を殺害して大暴れしていた。
懸念された四魂のかけらはないようだった。
こういう場合、このあたりの村や里では、妖怪退治を専門職とする「退治屋」の部落に急報した
ものだが、珊瑚の故郷であるその里は奈落によって壊滅させられている。

もちろん、そんな人間の事情など妖怪どもは知ったことではないから、以前と変わらず襲撃して
くるやつはいる。
こうなるともうその土地を治める武士にでも頼むしかない。
だが、こういう要請を引き受けてくれるようなご領主さまならいいが、そうでなければお手上げ
なのだ。

あとはもう渡りの退治屋か、さもなくば野武士にでも頼むしかない。
しかし、この手の連中にしたところで妖怪並みの無頼が多いから、村へ滞在させれば様々な問題
を起こす。
それでも退治出来ればまだいいが、返り討ちに遭う可能性もかなり高いのである。

そのせいもあって珊瑚はこの手の依頼は積極的に引き受けていた。
もと退治屋の里の一員として心苦しかったのだ。
別に「退治屋の里」が滅んだのは珊瑚のせいではないし、むしろ被害者なのだが、彼女にはそう
いうところもあった。
カネにこだわってはいるが、それだけではないのである。

村で傍若無人に暴れていた百足を見て、珊瑚と弥勒はほくそ笑んだ。
ただの化け百足である。
裏もなさそうだ。
楽な仕事、と弥勒と珊瑚は苦もなく大百足を始末した。

飛来骨を使って百足の長い躰をぶつ切りにし、バラバラになっても断末魔で暴れている部分部分
を弥勒が錫杖でつぶし、息の根を止めていく。
四半刻もかからずあっさり退治してのけたふたりの手並みに村人たちは大層喜んだ。
おまけに大百足の死骸は使いでがある。
甲羅は農具などの金属部分に、剥いだ肉塊はそのまま家畜の餌としたり、腐らせて堆肥となる。
そんなこんなで今回は報酬もだいぶよかった。

万事うまくいったはずだったが、ひとつだけ誤算があった。
珊瑚が負傷したのである。
負傷といっても足を挫いただけだ。
宙に飛んだ珊瑚が地面に着地した時、右脚の下に石ころがあったのである。
それをモロに踏んでしまったため、足首をぐきっと捻ってしまったわけだ。
油断もあったのだろう。

最初はどうということはなかったので、手当すると言った村人の厚意を謝絶してそのまま帰路に
ついたのだが、道中で痛みが激しくなったということらしい。
それでも強がって歩いて見せたが、そのうちビッコを引き始め、とうとう歩くのも困難になった。
そこで弥勒におぶられた、ということらしい。

弥勒におぶってもらうなど初めてのことだったから、珊瑚もだいぶ恥ずかしがって遠慮していたが、
歩けないものは仕方がない。
そう弥勒に諭されると珊瑚も反論出来ず、おとなしく彼の背に抱きついた。
広くて暖かい背中だった。
弥勒の背で揺られながらも恥ずかしくて仕方がなかったが、恋しい男におぶられるのも悪くないと
思っていたところでかごめと出くわしたのである。

それを聞いたかごめはちょっとびっくりした。
もともと少し無茶をする少女ではあったが、こういうミスは少なかったはずだからだ。
そしてすぐに心配そうな顔になった。

「だいじょぶ、珊瑚ちゃん?」
「あ、うん、こんなの平気。法師さまが少し大げさだから……。ね、ねえ、法師さま、もう
降ろしてよ……」
「なぜです? まだ歩けないでしょうに」
「で、でも、かごめちゃんが見てるし……。あ、もう、大丈夫だから」

珊瑚はむずかるように弥勒の背中で身をよじった。
こんなところを仲の良いかごめに見られるのはいたたまれないのだろう。
かごめもそんな珊瑚の気持ちがわかるから、「気にすることないのに」と苦笑する。
それでもケガの具合を診たいので、少女をおぶった若い僧侶に言った。

「弥勒さま、いったん珊瑚ちゃん降ろしてくれる? 足の具合、診てみないと……」
「そうですな」
「だ、大丈夫だよ、かごめちゃん……あっ」

弥勒が抱えていた珊瑚の足をゆっくりと離す。
かごめが珊瑚の身体を支えて、近くの石の上に座らせた。
かごめはその前にしゃがむと、珊瑚の戦闘服の裾をまくった。
確かに右足首のくるぶし付近が赤く腫れている。
その周辺がぷっくりと腫れて膨れていた。
珊瑚は平気と言っていたが、これではかなり痛みがあるだろう。
事実、かごめが患部を指先でちょんと触れただけで、珊瑚はビクッと身体を痙攣させ、少し
表情を歪めたくらいだ。

「こんなに腫れちゃって……。やせ我慢は毒だよ、珊瑚ちゃん」
「……」

かごめはそう言うと、ポシェットの中からファーストエイド・キットを出した。
学校で貰ったものだが、現代では使わず、こうして持ってきている。
中身はバンドエイドや消毒液、ガーゼに包帯、頭痛薬や胃腸薬などだから、実際、こっちの
世界では大活躍である。
セーラー服の少女はその中から冷湿布を取り出した。

「ひゃっ……つめた……」

セロファン部分を剥ぎ取って患部にそれを張ると、珊瑚はその感触に軽い悲鳴をあげた。
痛みと熱でかっかしていた足首に、冷たい息を吹きかけられているみたいだ。
ずきずきした痛みが少し楽になったし、なによりその冷たさが心地よかった。

「どお?」
「うん、気持ちいい。ありがと、かごめちゃん」
「よかった。それじゃ行こっか、弥勒さま」
「はい」
「え? あっ……」

かごめが珊瑚の後ろに回り、脇に手を入れて立たせると、弥勒はその前に背中を見せて屈んだ。
珊瑚が何か言う前に、かごめはそのまま彼女を弥勒の背中に乗せてしまった。
弥勒の方も心得たもので、腕を後ろに回して珊瑚の膝の下に通した。
珊瑚は一層顔を赤くして言った。

「あ、もう、だいじょぶだってのに!」
「だめだめ、その足じゃまだだいぶ痛いはずよ。無理してもっと悪くなったらどうすんの」
「でも……」
「珊瑚、もう諦めなさい。かごめさまもああ言われているのですから……」
「いいじゃないの、珊瑚ちゃん。弥勒さまにおんぶしてもらうなんて初めてなんでしょ?」
「あ、当たり前よ、恥ずかしい……」

珊瑚は両手に拳を作り、弥勒の背をどんどんと軽く殴って、さっさと降ろせと騒いでいる。
そんな彼女を微笑ましく眺めながら、かごめが法師に言った。

         

「珊瑚ちゃん、あんなこと言ってるけど、弥勒さまはどう?」
「そうですな、悪くありませんな、こういうのも」
「ほら珊瑚ちゃん。弥勒さまも良いって言ってるよ」
「〜〜〜〜〜〜っ!」

弥勒の背におぶられた少女は、その真っ赤な顔を隠すように彼の背中に押しつけた。

* - * - * - * - * - *- * - *

翌日になると、珊瑚の足首の腫れはだいぶ引いていた。
それでもまだ不自由そうで、少し足を引きずっている。
かごめが心配そうに言った。

「ん〜〜、まだちょっと痛そうだね……」
「うん……。でも昨日より随分いいよ」
「湿布だけじゃダメなんだろうなあ……」

冷湿布などは、所詮は応急処置であり、その場しのぎである。
軽めの捻挫ならともかく、現代ならこの後は医師の診察を受けるべきだろう。
とはいえ、この時代では本格的な医者がいるのかどうかかごめにはわからない。
心配顔の友人に、珊瑚は笑って言った。

「だいじょぶだよ、かごめちゃん。どうせ今までだって、こんなの放っておいたんだし」

それはそうで、かごめと出会うまでは冷湿布などという治療法はなかったのである。
捻挫や打ち身などは、患部を川や井戸水で冷やして腫れを収めたあとは、味噌を塗ったり灰を
まぶしたりという、怪しげな民間療法が関の山だ。
人体の自然治癒力に任せるよりなかったのである。
そして、それが普通でもあった。

ふたりのやりとりを聞いていた楓がぽつりと言った。

「……医者に診てもらうか?」
「医者?」
「おばあちゃん、この村にお医者さまがいるの?」

かごめが驚いたように聞くと、楓は首を振った。

「いや、ここにはおらん。だが最近、隣村に医者が来ていると聞いた」
「へえ」

この時代、医師の絶対数が少なく、このような山間の村に医師がいるなどということはまずない。
そもそも珊瑚にしたところで、産まれてからこの方、医師に掛かったことなどないのだ。

「それがけっこう評判が良いようでな、近隣からも患者が来ておるらしいぞ」
「ふーーん」
「珊瑚ちゃん、診てもらえば? 早く治ればそれに越したことはないでしょ」

それもそうだと珊瑚は思った。
医師に掛かる料金はもちろん安くはないだろうが、幸い、昨日の仕事のおかげで懐はそれなり
に暖かい。
インチキ臭かったらさっさと帰ってくればいいのだ。

「そうだな……。行ってみてもいいかな」

珊瑚がそうつぶやくと、かごめも奨めた。

「そうしなよ。あたし一緒に行ったげるし」
「あ、いいよ。もう脚もだいぶいいんだ」
「またまた。弥勒さまのおんぶが……」
「だっ、だからもういいって!」

かごめは面白がって珊瑚をからかったが、珊瑚の方はひとりで行くつもりだった。
弥勒におぶられるのが恥ずかしいというのももちろんあるが、本当に痛みはだいぶ引いていた
のである。
かごめが一緒に行くと言ってくれているが、彼女も雑用はある。
珊瑚がこんな状態だから、細々と動き回る仕事はみんなかごめ任せになっているのだ。
そのかごめにつき合わせるのは申し訳なかったし、どうしてもとなれば雲母もいる。

* - * - * - * - * - *- * - *

珊瑚が隣村の医者のもとへ行ったのは、もう日が暮れようかという時刻になっていた。
珊瑚たちも、楓の家で暮らしている以上、雑用や家事はある。
今日はほとんどかごめ任せにしていたが、じっとしているのは珊瑚の気性に合わないから、
さほど負担のかからぬ洗い物や洗濯物干しなどをこなしていた。
なんだかんだしているうちにこんな時間になってしまったのだ。

まだ暗いという時刻ではなかったが、なんとなく心細かったのでかごめを探したが、生憎
見あたらない。
なにしろ医者にかかるのは初めてなのだ。
明日にしようかとも思ったが、日延べしても仕方ないと考え直し、結局行くことにした。

「おばあちゃん、じゃああたし行ってくるから……」
「ん、行くか。おぬしひとりで歩けるか?」
「大丈夫。なるべく早く帰るから弥勒さまやかごめちゃんにそう言っといて」
「ん。混んでるからも知れんから、遅くなっても慌てずにゆっくり帰って来い」
「あ、混んでるんだ」
「うむ。評判が良いようだからな、あちこちから病人が来よるらしい」

珊瑚はもう一度、弥勒たちへの伝言を頼んで村を後にした。
場所はすぐにわかった。
その村へ行き、村人に尋ねると親切に教えてくれた。
どうも、大きな農家の納屋をひとつ借りて、そこを臨時の診療所にしているらしい。
混雑しているかも知れないとおどかされたが、行ってみると並んでいる人はいなかった。

戸が閉まっている。
もう今日は終わったのかも知れない。
ガタガタいわせて板戸を開けると、カーテンのように筵がかかっていた。
少女はそれをめくり上げて中を覗いた。

部屋の中は整然としていて、納屋らしさはほとんどない。
臨時にこしらえたらしい土間の上には、小さな文机と薬品や治療器具が入っているらしい
茶箪笥がある。
そして患者が使うのか、大きめの敷き布団が敷いてあった。
板間には文机、その前に二枚ほど藺草座布団があった。
医師と患者が座るのだろう。

内部は薄暗く、部屋の隅二箇所にロウソク、文机と布団の前後に行灯があった。
ロウソクも行灯に使う油も貴重品のはずだから、それをこれだけ使わせてもらっているという
のは、この医師が村人から大事にされている証なのだろう。

「どちらさんじゃな?」
「あ」

珊瑚がきょろきょろしていると、奥の方から老人が現れた。
白髪を綺麗にまとめ結い、胸まで届きそうな見事な白い顎髭を蓄えている。
表情はいたって柔和で、深い皺で目が覆い隠されてしまっているようだ。
どうやら彼が話題の医師らしい。

「今日はもうおしまいなんじゃが……」

やはりそうだったらしい。
珊瑚は少し慌てて言った。

「あ、そうですか、わかりました。じゃあ、また今度出直します……」
「ん?」
「何か……?」

老人はまじまじと珊瑚を見ている。
珊瑚の不思議そうな視線を受けて、老医師はとりつくろうに言った。

「どれ、診せてみなさい」
「あ、でも、もうおしまいって……」
「構わぬよ。そなた、右脚を痛めておるのだろう?」
「あ、はい……。わかるんですか?」
「歩き方が不自然じゃったからな。その足で遠くからわざわざまいられた患者を追い返すわけ
にはいかんじゃろうて。なぜわかるかって? ぬしの脚、砂埃でだいぶ汚れておるわ」
「ああ……」

靴下もなければ道が舗装してあるわけでもない。
しかもこの時代、4,5キロくらいは平気で歩いた。
着物の裾や足元が砂埃にまみれるのは当然だ。
珊瑚は、老医師の用意してくれた桶の湯で足を洗い、早速問診を受けた。

「……なるほどの、着地を失敗したか」
「はい。まだ未熟者で」
「謙遜せずともよい。それと、今日の診料はいらぬよ」
「え? なぜです? あたし、お金なら少しは……」
「ぬしらがこの近隣で妖怪退治をし、民百姓たちを助けていることは、村の衆から聞いておる。
そのような者からカネなど受け取れんわ」
「……ありがとうございます」

珊瑚は、「因果応報」、「情けは人のため為らず」という言葉の意味を噛みしめていた。
かごめは口癖のように言っていたが、善行は見返りを期待してやるものではないのだろう。
自分たちのしてきたことは、こうして巡り巡っていつかは返ってくるものなのだ。
医師は言った。

「ではそこに横になりなされ」
「あ、はい」
「少し膝を立てて。そう、それでよい」

珊瑚は素直に仰向けになり、右膝を立てた。
着物の裾が開き、中を覗かれるようで恥ずかしかったが、相手は医者である。
しかも枯れた老人なのだから、よもやそういう邪な考えはあるまい。
老医師は珊瑚の右足首を手にして聞いた。

「痛かったらいいなさい。これはどうだな? これは?」

老人は珊瑚の足首を少しずつ角度を変えて曲げていた。
珊瑚は痛みを口にはしなかったが、痛みのある方向に曲げられると少し顔を歪めたから、それで
医師の方には伝わったようだ。

「ふむ、骨は大丈夫そうじゃな。じゃが、まだ腫れが残っとるし、痛みもあるようじゃな。
少し打っておくか」
「……」

医師は珊瑚の足を布団に戻すと立ち上がり、茶箪笥から道具を持ち出してきた。
小さな瓢箪と動物の革のようである。
医師は瓢箪を文机に置くと、巻かれたなめし革を解き始めた。
そして中から取り出したものを見て、珊瑚はぎょっとした。

「それ……」
「ん? 初めて見るかな? これは鍼じゃよ」

鍼治療の歴史は古く、紀元前の中国に遡る。
その発祥は数千年前といわれ、漢方薬とともに東洋医学の源となってきた治療法である。
鍼は、はじめ石で出来た針が用いられ、金属文明の発達とともに、鉄針が使われるようになった。
石から金属鍼に変わることにより、患者の痛みも激減することになる。

その後、診断及び治療の技術も体系化され、これらを集大成した最古の医書「黄帝内経」は
紀元前に著したものだと言われていた。
日本に伝来したのは六世紀頃といわれ、仏教とともに中国から渡来した。
奈良時代には既に日本最古の「医疾令」に鍼師、鍼博士、鍼生等の制度として記録に残っ
ている。
祈祷師や呪い師、陰明師しかいなかった当時の日本医療のお寒い状態の中では、はじめて
生まれたシステマティックな医療体系だったのである。

とはいえ、これらの恩恵にあずかっていたのはいわゆる上流階級であり、庶民とはほとんど
無関係で、珊瑚のように見たこともない者の方が多かっただろう。
一般大衆にまで広まっていくのは明治以降まで待たねばならない。

老医師は、机の上に置かれた硯のような石の皿の上に、瓢箪から液体を注いだ。
その微醺で、珊瑚はその透明な水のような液体が酒であることを知った。
濁酒のように白く濁っていないところを見ると、アルコール度数の高い蒸留酒−焼酎なのだろう。

老人は、鍼を持つとその先をロウソクの炎で熱している。
さっと赤くなると、熱せられた鍼を皿の中の焼酎に浸した。
軽くジュッと音がして鍼が冷える。
恐らくこれは、ロウソクの炎と強アルコールの焼酎で滅菌しているのだろう。
珊瑚は少しゾクリとした。

「そ、それを刺すんですか……」

見たところかなり細そうな針だから、もしかしたらそれほど痛みはないのかも知れないが、
それでも皮膚に刺されるわけだから怖いのは当然だろう。
少女が竦んでいるのがわかるのか、老爺は笑みを浮かべて答えた。

「初めてだから恐ろしいかも知れぬがな、痛くはせんから安心せい」
「はあ……」

そう言われても不安は消えない。
そうこうしているうちに、もう準備は整ったようだ。
珊瑚は覚悟を決めた。
その様子を見て老医師は破顔し、珊瑚の患部を焼酎で湿した手拭いで拭いた。
消毒だろう。

「そう怖がらんでもよい。なに、この程度すぐ終わるでな」

そう言うと医師は左手に例の細い針、右手にそれよりは二回りほど太い針を持ってきた。
老人は右手に持った針に左手の細い針を通した。
どうも太い方は棒ではなく管になっているらしい。
その穴に細い方の針を貫通させた。
そしておもむろに珊瑚の右足首に鍼を突き立てる。

「あっ……」

ちくり、という感じだった。
老医師は彼女の足首に鍼を刺すと、管から出たその頭を指先でとんとんと叩いて患部の中に
刺し込んでいく。
そして半ばまで挿入すると、すい、と管を抜く。
これで一本打たれたらしい。

なるほど、確かに大した痛みではなかった。
見透かすかのように老医師が聞いてくる。

「どうだな? ほとんど痛みはなかろうが」
「はい、思ったほど……。なんだか蚊に刺されたみたいな感じでした」
「うむ、そんなもんじゃろうな」

医師はそう言いながら続けて二本目を用意していた。
あっというまに患部周辺には五本ほどの鍼が刺されていた。
老医師はそれらの鍼を、とんとんと叩いたり、あるいはくるくると指で回転させたりしている。
珊瑚がちょっと脚を動かすと、鍼もそれに合わせてぶらぶらと揺れていた。
どうも縫い針のような硬い金属ではないらしく、もっと弾力があるようだ。
細さも縫い針の半分もない。
これだけ繊細な針なら痛みもないだろう。

珊瑚が感心していると、医師は次の準備をしていた。
どこから持ち出したのか、一本の線香に火をつけて線香立ての灰に刺している。
そして巾着袋の中からなにやらもわもわしたものを出していた。

「なんですか、それ?」

煙草かと思って少女が尋ねると、医師はそれを指でこねながら答える。

「これか? 艾(もぐさ)じゃよ」
「艾? ……って、お灸でもするんですか?」
「その通り」
「えっ……」

また珊瑚が少し青くなる。
子供の頃、悪戯が過ぎて母から背中にお灸を据えられた思い出が甦った。
背中に置かれた艾の中にまで火が通り、頭の芯が砕けるかのような凄まじい熱さというか
痛さを思い出したのだ。
それを見て、好々爺然とした笑いを浮かべて医師が言った。

「ほっほっほっ、確かにお灸するがほんのちょっとじゃよ」
「で、でも……」

そう言っている間に、老医師は艾を刺した鍼の頭にこねこねと少量盛りつけた。
五本すべてに艾をつけると、線香の火で点火する。
少女は少し安堵した。これなら熱くはないだろう。

「あ……熱っ……」

鍼を打たれた箇所にピリッとした痛みとも熱さともつかぬ刺激が走る。
珊瑚は思わず目をつむったが、その苦痛もほんの一瞬だった。
艾が燃え尽きたのである。

「お、終わったようじゃな。もう少し我慢せい、そしたら抜いてやろう」
「はい。でも、なんで鍼を刺しただけで効果があるんでしょう?」
「不思議かな? もとは唐から伝わった考え方なのじゃがな、鍼灸というのは自然の中で生活
している人間を、こころとからだで形づくられた小宇宙と考えるのじゃな」
「小宇宙……」
「そうじゃ。その中を気と血が流れて人間は生きておる。この自然の大宇宙と人体の小宇宙、
気と血の割合がくずれた時、病になると考えるのじゃ。鍼というのはの、その崩れた関係を
調整する医術なのじゃな」

鍼灸の東洋医学では、人体には経絡と経穴(ツボ)があると考えている。
経穴とは、長い東洋医学の歴史上、経験的に発見された特別に治療効果のある体表上のポイント
のことをいう。
その数、全身に三六五もの代表的な経穴があるとされている。
それらの経穴は気血の流れに従い、十四本のルートに分かれており、これを経絡と呼んでいる。
経絡は鉄道、経穴は駅のようなものだ。

「へえ……」
「大昔に唐で書かれた「黄帝内経」という医書にはの、「未病を治するは名医なり」とある。
つまり鍼灸というのは予防に重点をおいた治療じゃ、ということがわかる」
「予防ですか……」
「うむ。じゃから、こうして怪我してからその手当するというよりは、むしろ健康な時に打って
おくべきものなのじゃな」
「なるほど」
「とはいえ無料ではないしの、そうたびたびというのも難しかろうて。……どら、もういい
時間じゃな」

珊瑚は四半刻ほども老医師の話を聞いていたらしい。
そういえば、足首の腫れぼったさもすっかり消えている。
試しに、くいと足首を動かしてみると、痛みはほとんどなくなっていた。
まだ少し違和感はあるが、確実に治ってきているようだ。
医師が鍼を抜いた。

「……いいようじゃな」
「はい、ありがとうございます」

珊瑚は礼を言って身体を起こそうとしたが、それを医師に止められた。

「何か……?」
「そなた、冷え性ではないかな? さっき足首に触れた時、冷たかったからな」

確かにその通りだった。
夏以外は、朝夕は手足が冷える。
ついでに言えば、朝起きるのも苦手だった。
低血圧なのである。
珊瑚がそう言うと老医師は哄笑した。

「いやいや、おなごは皆そんなもんじゃて。よしよし、ついでじゃ、そっちも治しておこう
かの」
「え、でも……」
「構わん構わん、ものはついでじゃ。なに、お足(料金)を戴こうとは思わんわい」

拒むのもおかしい気がして、珊瑚は好意に甘えることにした。
医師は珊瑚に横たわるよう指示した。
新しい鍼を用意しながら説明する。

「冷え性ちゅうのは、要するに身体の中の血の巡りが悪いちゅうこっちゃ。爪先や手の指先に
まで血が流れにくいということじゃな。それを改善するツボもあるのじゃ。どれ、腹を診せい」
「お腹……ですか?」
「そうじゃ。血流をよくするツボはそこにある」

そう言って医師は帯を解かせ、寝かせた珊瑚の着物をはだけた。
ぬめっとした白い、女らしい肌が晒された。
恥ずかしいのか、珊瑚は少し顔を背けた。
着物の下から出てきたのは、この時代では見慣れぬ下着−パンティであった。

「またこれか」
「は?」
「いやいや、なんでもありませんわい。珍しい履き物を履いとるのう、と思うてな」

老医師はすっと珊瑚の腹を撫で、ツボを探す。
へその脇、下着のゴム付近の高さに、左右二箇所、鍼を刺した。
ちくん、というごく微少な痛みがあったが、気にするほどではない。
それよりも、老人とはいえ、医師とはいえ、やはり見知らぬ男に肌を観察されるのはいい
気分ではない。
早く終わって欲しかった。

「仙骨のいちばん上……しょうりょう。次、じりょう……」

医師はぶつぶつ言いながら鍼を刺していく。
ツボの名前なのかも知れない。
そうして珊瑚の腹部には、四本ほどの鍼が刺さった。

「もう一本いくか。気穴……と」

少しパンティを降ろされ、やや下に一本打たれた。
へそから三寸ほど下あたりだろうか。
計五本の鍼を刺すと、医師はそれまでとは違った行動を執った。
打った鍼をとんとんと珊瑚の身体に押し込み、とうとうその全部を埋め込んでしまったの
である。
羞恥で顔を逸らせていた珊瑚はそれにまったく気づかなかった。
老医師は、それまでとは調子を変えた少し低い声で珊瑚に言った。

「どうだな、娘。ぽかぽかとしてこなんだか?」
「え……あ、そう言えば……」

顔を正面に戻した珊瑚は、露わになった腹部にすっと右手を乗せた。
心なしかお腹のあたりが暖かくなった気がする。
なぜ手足の冷え治療で腹に鍼を使うのかわからなかったが、内臓が悪い時などは患部に直接打つ
とは限らないらしいので、特に疑いもしなかった。
手足はともかく、打たれた腹部を中心に暖まっているのは確かのようだ。

「なんか、お腹の辺のあったかくなってます」
「ふむ、なかなか効果が早いな。ではもう少しじゃ」
「はあ……」

この熱が身体の末端に広がっていくのかと思ってそのまま待っていると、さっきとはまた異なった
感覚になってくる。
腹部の熱は、全身に広まるというよりは、そのまま内部に籠もっていくようだ。
そしてその熱が、どんどんと身体の奥底にまで達していく。
ここに至って、珊瑚にも異変がわかりはじめた。

「……あっ……」

熱は高まる一方だ。
刺された部分から奥へと進み、最奥に溜まっていく。
それが子宮付近だとわかった時、珊瑚は思わずお腹を両手で押さえて横向きになり、呻いた。

「うっ……く……」

あっと思う間もなかった。
子宮、特に子宮頸部付近がずきんずきんと突き上げるような熱気を帯びている。
下腹を押さえ込む手の指が恥丘付近に触れると、珊瑚はそれこそ愕然とした。
濡れているのだ。
女らしい恥毛はしっとりと潤いを帯び、あまつさえ割れ目が少し口を開けかけている。
熱い蜜で満たされつつある媚肉をかき回したい思いを懸命に堪え、少女は半身に起き上がった。

「あ、あなた……ああっ……な、なにを……ううっ、したの……」
「……」

苦悶する珊瑚を見下ろしたまま、老医師は表情を消した。
そして顔に手のひらを当てると新たな顔が表れてきた。
珊瑚は、身を灼く淫らな炎を一瞬忘れ、さっきまで老医師だった男を見上げていた。



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