怪譚 拾弐話・越境者

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 内閣府の執務室で私は書類の山に囲まれていた。
 内調に入って十三年の歳月が流れ、二十八歳になった私の肩書は内調特殊対策室の室長である。
 二年前、上司の安土は関西支部の立ち上げとともに移動して私が後任となった。
 それにしても、この報告書の束に目を通すだけでも一苦労である。
 膨大な事例の中から重要なものとそうでないものを分けるのが毎朝の日課だ。
 安土はこんな地味な作業を繰り返していたのかと、今では頭の下がる思いである。
 ようやく事務処理が一段落した私は脱いでいた灰色スーツの上着に袖を通す。
 室内の空調が効きすぎているらしく、私はリモコンで設定温度を上げた。
 七月の中旬ではあるが連日のように記録的な猛暑のため、熱中症で搬送される人々が続出と各メディアで報じられている。
 こんなとき私は高校時代のように、腰まである長髪ではなくて良かったと胸をなでおろす。
 大学時代にショートカットにしてからというもの、ずいぶん髪の手入れが楽になった。
 壁掛け時計が午前九時五分を指すと同時にドアがノックされる。
「入りなさい」
「目が覚めたら、時間ギリで。すいません!」
 ブレザーの制服を着た蔵木悠(くらきゆう)が汗だくになりながら入室してきた。
「五分の遅刻よ。高校生なんだから、もっとしっかりしなさい!」
 私は厳しく注意した。
 悪い子ではないが、彼は万事につけて雑なところがある。
「あー、やばい。走ってきてすげぇ喉が乾いてる。先代、水飲んでいいっすか?」
 私は無言のまま、頷いた。
 彼は私のことを先代と呼ぶ。
 最初は先輩と呼んでいたが、それも違う感じがして先代という呼称に落ち着いた。
 紙コップに水を注ぎ、一気飲みすること三回。
 悠はやっと喉の渇きがおさまったらしく、私の前に立った。
「それでは定例会を始めます」
 私は後ろ手を組み、都内で発生したアヤカシ事件の詳細や傾向を説明する。
 途中でいくつかの推論を彼は言った。
「その件て世田谷と目黒で多発しているアヤカシのケースと一致してるっすね。場所も神社仏閣の近辺で起きてるし、多分アヤカシとしては異場から発生した旧いタイプですよ。近代の都市伝説型なら発生地域にもっとこう、ランダムさがあるんじゃねーかな……根拠ねぇけど」
 彼は現段階で提示するものは、すべて無根拠だと扱っているようだ。
 安易に答えに飛びつかない慎重さは才能の一部であり、彼独特の嗅覚によるものなのかもしれなかった。
 定例会が終わり、部屋ら出ようとする悠を呼び止める。
「ほら、ネクタイ曲がってる。身だしなみは他人を信頼させる第一歩よ。それは調査員としての基礎なんだから」
「先代のそれ、何度目かわからないくらい聞いた」
「何事も基礎が一番難しいの。今日も暑いから、こまめに水分を摂りなさい」
 悠を内調から送り出してから、私は駐車場にある車に乗りこんだ。
 高校生のころは運転手付きの専用車に乗っていたが、十九歳で免許を取得してからは自分の車で移動するようになった。
 車内で真夏の太陽に目を細め、悠が調査を進めている案件を思い出す。
 足立区で頻繁に行方不明者がでており、その調査に悠が参加している。
 私は提出された報告書から目星をつけ、アヤカシの内部資料を悠に渡した。
 ――あの子はちゃんと資料を読んだのかしら。
 内調の内部資料は先人たちの知恵の結晶ともいうべきもので、いまだに私は読み返す。
 そもそも内調特別対策室は時代によって名を変えながら存続しているため、古くは江戸時代の記録なども文献として残っている。
 この組織の原型がいつ発足したのかは謎だが、最古の記録では奈良時代にまで遡るようだ。
 悠が出会うであろうアヤカシとは、私も高校生のときに会った。
 対応を間違えると犠牲者が増えてしまうので、調査員としては神経をすり減らす相手だ。
 今夜も張り込みに行くので、悠を現地まで送ることになっている。
 今日、悠が遅刻したのも深夜まで見張っていたせいだろう。
 そんな悠とは八年前に初めて会った。
 今では考えられないほど、当時の彼は無口だった。
 母親から虐待を受けていて警察に保護されたのだが、どういうわけか「ナイチョウのトオミアヤノという人に会いたい」と何度も言っていたそうだ。
 警察はもしかしたら彼の血縁者かもしれないと思ったらしく、私に事情聴取を求めてきた。
 二十歳で大学生だった私は悠と面談して、奇妙な話しを聞く。
 彼はハルカと名乗る幽霊のような女子高生に会った、と言うのだ。
 しかし細部については記憶があやふやでハルカの顔は覚えていないという。
 それらの事象からアヤカシの絡む一件だと判断し、悠の保護に関する権限を内調に移譲する。
 いくつかの適性検査により、彼は遡行者であるのが確認された。
 そして悠と出会ってからも度々、謎の女子高生・ハルカの目撃情報が都内の各所から寄せられていた。
 最初はアヤカシの鏡人――二重存在を疑ったが、どうやら違う。
 ハルカはアヤカシに連れさられそうな人を助けたりしているそうだ。
 鏡人は他人にそこまで関心を示さないため、まったく別の何かと見ていいだろう。
 彼女に会いに行こうと都内を何度も巡回してみたが空振り続きだ。
 だが、近いうちに私は彼女と会えそうな気がしており、現れる場所が何処なのかも見当がついている。
 警視庁に着いた私は一階のロビーで待ち合わせしていた久坂暁仁(くさかあきひと)と会った。
「急に警察(そっち)の事件資料が必要になってしまって」
「そんな他人行儀な綾乃ちゃんは似合わないよ。一か月前にアヤカシ関係の事件で協力してもらったじゃないか。お互い、持ちつ持たれつさ」
 暁仁は今年で四十四歳になる。
 私が高校生のとき、彼は三十代で格好いいお兄さんという印象だった。
 いまも役者のように映える魅力的な彼の顔立ちは変わらない。
 彼とは高校を卒業してからも会うことが多く、実をいえば密かに好意を寄せていた。
 それがただの憧れなのか、それとも淡い初恋だったのかもわからぬうち、彼は八年前に結婚してしまう。
 現在、彼の階級は警視長であり、アヤカシ調査に参加した実績なども昇進の評価に繋がっていた。
「おお、遠見さん。元気でやってるかい?」
 私に声をかけてきたのは寺田史郎(てらだしろう)だった。
「まぁまぁです。寺田さんも元気そうで、なによりです」
「俺なんて元気くらいしか取り柄ないからなぁ、ハハハ!」
 警部の寺田は東渋谷警察署にいたのだが、暁仁と同じようにアヤカシ調査にも参加した。
 凶悪事件の中には暁仁とコンビを組んで解決したものもあり、それがきっかけで警視庁への栄転が決定する。
 立場上、暁仁はキャリア組で寺田の上司だが二人は階級を感じさせない間柄だ。
「久坂、こないだ歌舞伎町で起きた発砲事件あったろ。あれ不味いことになってんぞ。俺たちが追ってた草雲会の武器バイヤーが消された。多摩川でそいつの水死体が上がって、さっき現場を見てきたとこでな。鑑識の話しだと死後三日だそうだ。バッグに入っていたはずの拳銃(ハジキ)と弾が全部抜き取られてた」
 寺田は眉間に深い皺を寄せ、暁仁に語った。
「その件で今朝から非常線(アミ)を張ってるって聞きましたが効果は薄いでしょうね。犯人は国外へ高飛びしているかもしれない」
「それならいっそ、犯人が誰だかわかってそうな草雲会の会長に聞いてみるか。どうせ俺は、あと半年でお払い箱だ。今更、なにも怖くねぇしな」
 寺田は五十九歳で来年、定年退職するのが決まっている。
「待ってくださいよ、俺も同行します! あの人、やると決めたら、とことんやるからなぁ。綾乃ちゃん、今日はこれで失礼するよ」
 暁仁は警視庁の涼しいロビーから、炎天下へと出ていく寺田の後を追う。
 あの二人に任せておけば、この国の事件がすべて解決できるのではないかと思う意気込みだった。


 私が次にやってきたのは羽田空港の出発ロビーだった。
「昨日、電話を頂いたのできてみました」
「遠見さん、わざわざこんなところまで。僕の遊説が終わった後でも良かったのに」
 椅子に座っていた斉藤俊二は立ち上がり、私と握手する。
 彼は澤村和夫元議員の失脚により一度は政界を去った。
 その後、地元の北海道を拠点に地道な選挙運動を続けて現在は総務大臣という顕職に就き、いずれは総理になるだろうと世間から注目されるまでになっている。
「飲み物を買ってきてくれないかな」
 近くにいた男性秘書にそう頼んだ俊二は、私にも椅子に座るように促す。
 身辺警護をしている二人に何者なのかと詰問されたが、「僕の恩人だ」と俊二は言ってくれた。
「警護されるのが決まりとはいえ、いつまで経っても居心地の悪さを感じるよ。大臣だからといって空港の特別待合室でふんぞりかえるなんてのも僕の性にあわん……それで電話の件なんだが」
「私の部署に、なにか大きな動きがあったと聞きましたが」
 俊二に『後日、会って話したい』と言われたものの、どうしても気になり、ここまで押しかけたのだった。
 秘書が買ってきた紙コップのコーヒーを私と俊二は受け取る。
 私はコーヒーを飲み、俊二の横顔を見る。
 初めて会ったときにはなかった白髪があり、目じりの皺もだいぶ増え、政界の荒波を乗り越えてきた苦闘の日々が窺える。
「その話しをする前に安土君から今後についてどれだけ聞いているかな?」
「いえ、なにも。あの方は滅多に自分の考えを話しませんから」
「そうか。では、これから話すことは、遠見さんにとっては寝耳に水というやつかもしれない」
 俊二を紙コップを傾けてコーヒーを揺らし、これから話すことを頭の中でまとめているようだった。
「……まず、来年の予算案で国防費が増額される。真夏に来年の話しなんて気が早いと思われがちだが、政界の水面下ではすでに駆け引きは始まっていてね。国防費の増額は計画の第一歩で僕が議員になってから、安土君と進めていたものなんだよ。増額された国防費の一部は内調の特別対策室に流れる。しかも、過去の予算とは桁違いの額だ。都内にいくつもの支部を立て、人員を配置できるほどの規模といえばわかりやすい。もちろん関西支部も来年に新設される」
「それ本当ですか? だって内調のアヤカシ調査は最低限の人数でまわしているのが実状なんですよ」
 特別対策室の支部が全国展開するなんて考えたこともなかった。
「ここから先はもっと驚くかもしれない。拡充した特別対策室に設けられる新しい役職、特別対策統括本部室長は内定している。それは遠見さん……君だ」
「待ってください、私の上司の安土さんがいます。あの方が適任です」
「彼は特別対策室の最高責任者を遠見さんに委ねると決めている。というよりも、彼の主戦場は国内から国外に移る。まずは北米を橋頭保に連邦捜査局(FBI)と太いパイプを築き、その後は主要国に支部を立ち上げていくそうだ」
 安土が海外にまで目を向けているなど、私の想像を超えている。
「安土君が支部の設立にどうしてそこまで尽力するのか、遠見さんは奇妙に感じるかもしれない。きっとこの件も聞いていないだろうから言うが、彼は幼いころ目の前で両親をアヤカシに殺されていてね。彼は自分の認める実力者が現れたら、喜んでその座を譲ると言っていた」
 安土と俊二がよく会っていたのは聞いていたが、まさかそんな話しをしていたとは。
 人の本質は多面体で状況や相手によって見え方が違うと聞く。
 まさに俊二は私の知らない安土を見ていたようだ。
 安土の冷淡にも見える仕事への取り組み方は、アヤカシに対する復讐心からなのかもしれない。
 私は彼のことを、なにも理解していなかった。
 心にまで染みていくような苦みは、飲み込んだコーヒーのものだけではないはずである。
「お嬢さんはどうですか?」
「今年の春から都内の大学に通っている。これから政治家を目指すそうだ。誰に似たんだろうね、まったく。小学生の頃は喘息でよく入院していたが、今ではすっかり良くなってサークル仲間と夜遊び三昧。元気すぎるのも考え物だ」
 俊二が父親としての複雑な心境を語っていると、飛行機の搭乗時間になったのを秘書が報せてきた。
「なにからなにまで、ありがとうございます」
「僕が秘書を辞めて東京を離れようとした日、高校生の君だけが見送りにきてくれた。そして君は僕にこう言った。理想の政治家になったら、アヤカシに手を焼く私に協力してくれと。その約束を僕は果たしているだけさ」
「私、昔はかなり生意気でしたからね。本当にすいませんでした」
 俊二は頭を振った。
「君の本心から出た言葉で僕は理想の政治家になろと決めた。利権を漁ることしか考えていない連中の上辺だけの言葉より、何万倍も価値のあるものだったよ」
 椅子から立ち上がり、北海道へ遊説に向かう俊二の後ろ姿を見送る。
 十一年前、東京を去るときの彼に付き従う者など居なかった。
 しかし今の彼は政府の要人となり、秘書とセキュリティポリス(SP)が脇をかためている。
 彼は落差の激しい己の人生をどう感じているのか――機会があったら聞いてみようと思った。




 俊二から予算増額の話しを聞いてから、三日後の朝。
 執務室にいる私のスマホが鳴った。
 着信は安土からのものだ。
 一週間に一度の割合で彼から電話が入る。
 様々な近況報告を終え、私は思い切って俊二から聞いたことを話した。
 彼の返答は以下のものだった。
『それよりも、都内で頻発している行方不明事件の調査状況についてデータを送ってください』
 その声は機械的で銀行の現金自動預け払い機(ATM)と話しているようだ。
 電話を切ろうとすると、安土は『待ってください』と私を引き留めた。
『わたしの過去を気にするくらいなら、自分の十年後を見据えてください。それはアヤカシと人間の狭間に立つ、越境者である遠見さんの義務です。それでは』
 業務以外について彼が応えたのは、これが初めてである。
 とはいえ、最適解だけを伝えてくるあたりがあの人らしい。
 私が革張りの椅子にもたれて書類を読んでいると、またスマホが鳴った。
 今日は悠の担当をしている精神科医の弥登咲美(みとさくみ)と会う予定だった。
 悠が幸運だったのは日本でもトップクラスの精神科医が担当医を引き継いだことだ。
 彼女の実力は凄まじく、患者と会話しているだけで相手の心理的な病巣を見抜く。
『前の担当医から渡されたカルテで読みましたが母親の肉体的な虐待が根底にあるせいか、異性に対しての警戒心が異常なほど高まっています。ですけど、一つだけ辻褄が合わない点があるんです。女性である遠見さんと話しているときだけ、彼は怯えません。その関係を築くには、彼の信頼を得なければならないんです。一体、どこで遠見さんは彼の心を開かせたんですか?』
 初めて悠をカウンセリングした咲美から、そんな質問をされた。
 もしかしたら、悠が虐待されていたころに会ったという謎の女性ハルカが関係しているのかもしれないと答えた。
 しかし、悠にその女性についての特徴を聞いても覚えていないらしい。
『それは虐待による解離性健忘(かいりせいけんぼう)というものです。あまりにも辛い状況が続くと人間は防衛本能により、忘れてしまう。彼は記憶の一部に、そうした欠落があるようです』
 それには身に覚えがある。
 両親を惨殺した殺人鬼に体当たりしてから先の記憶が消失していた。
 私も、そして悠も、それほどに辛い過去だったのだ。
 私は電話で内調のロビーへ迎えに行くと言った。
「暑いのにきてくれてありがとう」
 盲人用のサングラスをした咲美はハンカチで顔の汗を拭いていた。
「近くまでタクシーで来たんだけど、ちょっと歩いただけで汗が噴き出してくる」
 咲美とは高校三年のとき、アヤカシ事件をきっかけに出会った。
 彼女は高校時代からの願いを叶え、二年前に精神科医となる。
 アヤカシの調査員としても有能で彼女の解決した事件がいくつもあった。
 私が地下の事務室に歩き出すと咲美もついてくる。
「ヒールを変えましたね。前と足音が違うけど、歩幅の感覚は同じだからリズムで追えます」
「こないだ駅前を歩いてたらヒールが折れちゃって。新しく買ったの」
 彼女は極度に発達した聴覚によって私の後ろをついてくる。
 まるで目が見えているような動きだが、生まれながらにして全盲である。
 彼女が言うには音の反響によって、瞬時に周辺の立体構造を把握できるらしい。
 事務室は来客のために冷房を効かせておいたので廊下よりも涼しかった。
 室内のスチールラックには悠が集めているキャラクターフィギュアが飾られ、食器棚や冷蔵庫まで完備されている。
 隣の資料室にはスケートボード、キャンプ用品、コスプレ衣装などが押し込められていて、学校の部室のように雑然としていた。
 十年前、この部屋にスチールデスクとタイムカードしかなかったころとは比べものにならない物量である。
 大きなテーブルと六脚の椅子が部屋に置かれており、咲美に座るように勧めた。
 私は冷蔵庫から買いおきしておいたカステラを出して皿に乗せる。
「ごめんなさい、気をつかわせちゃって」
 奥の流し台で、お茶を出そうとする私に咲美は声をかけてきた。
「主婦も大変でしょ。いつもみたいにここで気兼ねなく、寛いでいくべきよ」
 咲美は研修医だった二年前に同い年の男性と結婚した。
 男性も医師で二人の間に子供はいない。
 結婚式に参加したが、花嫁と花婿の熱々ぶりがこちらにも伝わってきた。
 昔話に花が咲き、私たちはお互いが出会った頃について語る。
「遠見さんの声、だいぶ変わりましたね。高校時代にはあんなに冷たかった声がいまではとても温かいです」
「そうかしら? 悠には”仕事の鬼すぎる冷血女”ってよく言われるけど」
「悠君は遠見さんに気を許しているんです。あなたは彼の育ての親のようなものですし」
「もう八年前になるかしらね。虐待を受けていた母親と離れて暮らすため、私が彼の身元引受人になって。その母親は五年前に病死。最期に送られてきた母親からの手紙の文字は弱々しかった……」
 悠に読ませてもらったその手紙には謝罪の言葉が並べられていた。
 病室で書かれたであろうそれに対して、悠は「先代、いつか僕は母を許せるときがくるんでしょうか?」と語った。
 私は、その問いかけに答えられなかった。
 葬儀場で僧侶による読経が流れる中、母親の遺影を見つめる悠の瞳は闇を見据えるように昏かった。
「この前、悠君のカウンセリングしました。ほぼ完治していると言っていいでしょう。わたしが担当医になった当初は虐待のフラッシュバックによる無言が何分も続きましたが、今はそれもありません」
「彼はあとどのくらい、この仕事を続けられるかしら?」
「本人の遡行者としての資質にもよりますが、見たところだと最長で二十代半ばまででしょうか」
「私は越境者になってしまったから引退はないけど、悠はそうはいかないものね」
「わたしも一生、引退はなさそうです。視覚と引き換えにアヤカシを視られる能力を授かってしまったようなので」
 咲美の能力は減衰するどころか、歳とともに鋭敏さを増していた。
 遡行者として見れば、咲美は国内で最高位の能力者である。
「遠見さんが異界から還ってきて、今年で十年になりますね」
「そんなに経ったのね。この十年、忙しかったわ。大学時代は北海道から沖縄まで、いろんな種類のアヤカシを調査をして。咲美からは調査の役に立ちそうな心理学を教えてもらったり。今でもあなたほど、上手く使えないけど」
「そんなことありません。そのうち、わたし以上に使いこなせます。だって本人の意思が未来を決めるんですもの」
 私はカステラを食べながら、高校生のときに咲美と見た代々木公園の新緑を思い浮かべた。
 彼女もきっと私と同じ風景を覚えているはずだ。
 そして、これからもあの瑞々しい新緑は私たちの心に残り続けていくのだろう。
「執務室にいないと思ったら、やっぱこっちにいた。サクミもきてんじゃん!」
 事務室のドアが勢いよく開き、制服姿の奈実が入ってきた。
「おひさしぶり。病院のほうはどう?」
 奈実の容姿は高校生のときと変わらない。
 魂を依代に移したことによる副作用だと本人は言っていた。
「お陰様で経営も軌道に乗りました。悠君の担当医にもなったし、お得意様も増えてます」
「あとほら、来月の沖縄。サクミも行くんでしょ?」
「残念ですが、その日は夫の実家に行くので、みなさんで楽しんできてください」
「えー、サクミも行こうよー。絶対たのしーよー!」
 見た目のせいもあって、奈実は親戚のお姉さんに無理を言う女子高生のようにしか見えない。
「咲美もいろいろ忙しいんだから、駄々こねないの」
「綾乃はどうせ水着買ってないんでしょ? せっかく沖縄行くんだから、今週末にでも一緒に買いに行こうよ!」
 奈実はキャスターのついた椅子を床に蹴りつけ、私の隣までやってきて腕を組まれた。
「遊びに行くんじゃないんだから。調査なの忘れないでよ」
「綾乃って表情戻っても真面目なとこ、ほんと変わんないわね。いいじゃん、スタイルいいんだから。水着になったら悠が喜ぶよ?」
「あの子は関係ないじゃない。まったく、何度も言ってるけど彼に手を出したりしないでよ」
「出すわけないでしょ。あたしは綾乃一筋なんだから!」
 奈実と友人になってから、こうした関係が続いている。
 初対面の印象とここまで違う人物も珍しく、彼女は気に入った相手にはこれでもかと心を開いてくる。
「はいはい、わかったから離れて。暑苦しいったらないわ」
「奈実さんの恋人発言は本音ですよ。嘘に含まれる独特な歪みが声に混じっていませんから」
 咲美は口元に手を当て、本気か冗談かわからない口調で言った。
「もうっ、咲美まで。恋人じゃないし。奈実も私と同い年なんだから、もうちょっと大人になりなさい!」
「綾乃が怒った顔、めっちゃかわいい!」
 私たちの会話を聞いていた咲美は堪えきれなくなって笑いだした。
「だって、お二人とも凄く仲が良いんですもの」
「仲が良いっていうか、奈実の一方的なものだから。気にしないで」
「きっと綾乃さんはとても困った顔をしているんでしょうね。声からも伝わってきます」
「サクミはアヤカシなみに読心するから、なにも隠せない。旦那さんも、その能力で落としたんだわ」
「だって、交際相手の本音がわかってしまうんだもの」
 私と奈実は互いに頷きあった。
「ところがそうじゃないんです。わたし、好きになってしまった人の心は読めなくて。むしろ夫のほうがわたしの心を読んでくるんです」
 咲美の頬が真っ赤になる。
 聞いている私たちも何故か顔が赤くなった。
「はい惚気(のろけ)、頂きましたー!」
「そ、そういうつもりじゃなくてですね…あの……その……」
 奈実にからかわれた咲美は赤面したまま、開いた両手を顔の前で振った。


 みんなが帰ったあと、事務室で一人になった私は悠の帰りを待つ。
 ――遅い。
 悠は調査で遅くなるとわかっているのに落ち着かなかった。
 事故に遭ってないかしら。
 悪い連中に絡まれたりしてないかしら。
 アヤカシに連れ去られてないかしら。
 悠が無事かどうか不安になり、動物園の熊のように室内をぐるぐる歩き回る。
 アヤカシの調査で遅くなるとわかっていても、いつもこんな感じであった。
 世の親というのはこういった気持ちなんだろうか、と思っていたところに悠が帰ってきた。
「張り込みを刑事に引き継いでもらって、今日の仕事は終了っす」
 肘を曲げてストレッチしている悠はそう言った。
「意外と早かったのね。明日は遅刻しないようにしなさい」
「了解。ここに今日の報告書、置いときますね。そいじゃ、失礼します」
 私は待っていた素振りなど見せず、冷蔵庫を開けながら悠に言った。
 金属製のドアが閉まる音とともに私は胸をなでおろす。
 今日も無事に悠が帰ってきた。
 アヤカシの調査員は危険も多いため、いつも心のどこかで二度と帰ってこないかもしれないという不安がある。
 私はテーブルに置かれた報告書を斜め読みした。
 事件の特徴から見ても、私が目星をつけたアヤカシでほぼ間違いはない。
 報告書の最後の一文は”――これらの状況証拠から、あるアヤカシが候補として浮かびあがるが結論を出すのは時期尚早である”と締めくくられている。
 悠らしい慎重さが滲み出ている報告文だった。


 内閣府から自宅に帰ってきた私は風呂に入る。
 ハイヒールのせいで両足がむくんでいるため、湯船で揉みほぐす。
 高校時代に履いていたローファーが、どれほど楽だったのかを再認識するひと時だ。
「――結婚か」
 咲美の話しを思い出し、私はつぶやいた。
 二十代後半になった私に恋人はおらず、恋愛に発展しそうな異性もいない。
 公務が忙しく、それどころではなかった。
 調査員の悠が事件に首を突っ込む場合には所轄の警察署と一緒に捜査することになり、その際には許可申請が必須になる。
 総理直属の内閣調査室といっても正式な手続きを踏まねば越権行為とみなされ、周囲からの風当たりが強くなってしまう。
 あるときは威圧し、あるときは懐柔し、あるときは妥協し、あるときは共闘し……そうやって相手から権限をもぎ取っていく。
 大人でいうところの”連携を密にした体制”であるが、やっているのは子供の陣地取りだ。
 報告会という名目の接待を求めてくる政府関係者に肘鉄をくらわせ、調査に非協力的な企業や団体に愛想を振りまき、室長としての権威を失墜させずに維持する。
 こんなことをずっと続けているのだから、異性との交際どころではない。
 風呂からあがった私はバスローブのまま、リビングのソファに倒れこんだ。
 テレビの横のデジタル時計は深夜一時になっていた。
 ソファに飛び乗ってきた黒猫のエンジュは尻尾をゆらめかせる。
 エンジュは老猫になったせいか眠っている時間が増えてきた。
「あなた、歳を取ったわね」
 丸まって私を見つめるエンジュを撫でた。
 私はソファの近くにある引き出しから小箱を取る。
 中には先代の遺品である髪留めが入っていた。
 ――異界から還ってきて十年が経つ。
 思い出にとどまって生きられるほど、現世は楽ではない。
 こうしている間にも刻(とき)は何もかもを押し流し、人々の記憶は波濤となって異界という彼岸に打ち寄せている。
 この世のすべてが忘れられていくのを識(し)っているのが、大人というものなのかもしれない。
 しかし、そうではないという見方もある。
「そうですよね、先代」
 私は先代の髪留めに語りかけた。
 永遠は一瞬に宿る――生きているこの時間こそが私たちにとって永遠であると髪留めの輝きは教えてくれているようだった。




 その日は朝から雨であり、夏場の湿気ほど不快なものはない。
 私は執務室で昼食のコンビニ弁当を割り箸で口に運び、安土に提出する経費精算書の作成に追われていた。
 それと同時進行で悠と調査を続けている刑事に昨日の張り込みがどうだったのかを電話で聞く。
 刑事の話しよると異常はないと言っていたが、事件の周期性からみてそろそろアヤカシは次の行動に移るのはわかっていた。
 私は足立区の北千住駅が近い路地裏に車で向かう。
 傘をさし、私は調査を始める。
 付近には学校もある静かな通りだが街灯はなく、夜間はずいぶんと暗くなるのが予想できる。
 特筆すべきは異界によって生じる霧の濃さ。
 普通の人には感知できないが、越境者の私にはこの通り全体が白い濃霧に包まれている。
 今日の悠は大田区で起きている幽霊騒動の調査に行っていた。
 そのため、この通りに彼がくるのは夜というスケジュールだ。
 いつだって特殊対策室は人員不足で、いくつもの事件を掛け持ちしているのが常態化していた。
 内調の中でもなにをやっているかわからないオバケ部署といわれている特殊対策室だが、実態は夜勤が続くハードな部署である。
 傘を打つ雨音が激しくなってきた。
 車内に駆けこみ、スマホで天気予報を確認すると大雨は数時間後には降りやんで熱帯夜になる見込みである。
 私はハンドルに両腕を乗せて前のめりになり、雨に煙った灰色の街並みを眺めた。
 最近、一つの予兆がある。
 それは過去に感じたことのない違和感といってもいい。
 三日後の深夜、あの場所に行けば彼女と会える――彼女とは、今まで会えなかった都内に現れている謎の少女ハルカだ。
 私は悠を連れ、少女と会ってみようと考えている。
 本音を言えば彼女が何者なのか、すでに大方の予測はついていた。
 大人になった私に、彼女はなにを思うのだろう。
「私も歳を取ってしまったわね」
 私はそうつぶやき、車のエンジンボタンを押して千代田区の内閣府へともどった。


 スマホが鳴ったのは翌日の午前二時をすぎたあたりだ。
 監視していた女性が動き出したので尾行するという悠からの報告だった。
 足立区の事件はすでに行方不明者が五人も出ている。
 マスコミを黙らせておくのも限界なため、今夜は私も捜査に加わる手筈だ。
 深夜、都内の車道はすいているせいで走りやすく、昨日よりも早く北千住に到着した。
 雨が止んだ事件現場は濃霧に包まれ、一メートル先も見えないほどだ。
 これはアヤカシ発生による異界の霧のため、この先は現世と遮断されている。
 霧の奥に悠がいるはずだが、姿ばかりか物音さえも聞こえてこない。
 私は霧の中を進み始める。
 すると、前から誰かが走ってきた。
「先代、アヤカシに追われてます! 逃げないとヤバいっす!!」
 近づいてきたのは若い女性の手を引いた悠だった。
「”縁切り”できたようね。ここからは私の公務になるから下がりなさい」
 悠が調査員としての仕事を立派にこなしているのを見て安心した。
 失敗すれば悠と若い女性の両方が犠牲者になってしまうからだ。
 さらにもう一人、私の前に現れた。
 相手が身に着けている網代笠、黒袈裟、錫杖とくれば、当てはまるアヤカシは決まっている。
 ――迎法師。
 それがアヤカシの名である。
 過去に何度か遭遇したアヤカシのため、対処法は心得ていた。
「現世(ここ)に、なにをしにきたのかしら?」
 私は迎法師に問いかけた。
「そいつ、資料には人間と会話できない凶暴なアヤカシって書いてありました。話しかけても無理っすよ!」
 悠は私を心配して言ってくれたが、内調の資料は遡行者向けである。
 すなわち、越境者の私に向けられた資料ではない。
 迎法師が網代笠を上げると、そこには犠牲者の一人である男性の顔があった。
 最初、彼の目は真っ赤に染まっていたが、徐々に緑へと変色していき交渉可能になる。
『わたしは亡くなった妻を探している。ここを通る者たちに妻が何処にいるのかを訊ねていた』
「なぜ無関係な人たちを連れ去るの?」
『ここを通る者たちは生きるのが辛いと言っていた。ならばわたしの妻を一緒に探しに行こうと誘った』
 迎法師は人の心の弱い部分を突いてしまうらしく、その恐るべき能力に彼自身も気づいていないようだ。
「あなたの声を正しく聴けるのは私のような越境者しかいない。そして現世では、あなたの言葉は普通の人々には正しく伝わらない」
『何故だ? わたしはこうして普通に喋っている。彼等はわたしに協力してくれると言ってくれた』
 迎法師との会話で、あることが明確になった。
 彼は迎法師である自覚がないのだ。
「あなたは自分がアヤカシになったのを知らないのね。あなたはすでに人語を喋れない。さっき連れ去ろうとした女性と会うのは二回目でしょうけど、あなたの言葉は彼女の心の深い部分に浸透する危険なものに変換されてしまう」
『……なるほど。わたしは人であるのを捨てていたのだな。しかも、わたしの言葉が彼らに正しく伝わっていなかったとはな』
 迎法師の目から血涙が流れだし、滴となって地面に落ちていった。
 亡くなった妻に会いたいという妄執に囚われたアヤカシの夫。
 結局、人とアヤカシは同じようなものだ。
 迎法師が亡くなった妻を探しに現世にきたのと、先代である伏宮遥を追って異界に行った私に大きな違いはない。
 みんな、失くしたなにかを取りもどしたいのだ。
 それが叶わぬ願いなのは誰よりも知っている。
 私を導いてくれた先代はもう、どこにもいないのだから。
「奥さんは異界にある記憶の水源のどこかにいる。探すならそこへ行きなさい」
『そうしよう。ここで出会った彼らは解放する。人でありながらわたしの声を正しく聴く者よ、さらばだ。そして、すまなかった』
 迎法師の呪縛から解かれた男性が我に返ると、すぐに行方不明者の他の四人が霧の奥から現れる。
 足立区の北千住で行方不明となった五人は、こうして同時に発見された。
 今後、彼等には”捜査協力”という高額な口止め料が支払われ、迎法師の奇怪な事件は闇に葬られる。
 内調の地下にある極秘資料庫は、このような公にできない事件ファイルで埋め尽くされていた。




「三日前の事件ですけど迎法師に攫われた五人は友人同士になってました。SNSで知り合った五人は家族たちに内緒で登山に行き、遭難していたのを救助されたとテレビで言ってましたが無理ありすぎじゃないっすか?」
 私の運転する車の助手席で悠はつまらなそうに言った。
「そんな雑な理由でしか偽装できないのよ。年齢も性別もばらばらな行方不明の五人が同時に発見されたんだもの。ところで、こないだ悠が現場に行った幽霊騒動は? まだ報告書が提出されてないけど」
「現場近くの空き家に白い布切れとかホラーマスクがあって、そこを夜まで張り込んでたら中学生の男の子がやってきたんですよ。近所の人たちが怯えるのを撮影して、動画サイトにアップロードするとか言って。あの中学生が警察に補導されてから、どうなったのかは知らねーっす」
「そう……報告書は書かなくていいわ。ご苦労様」
 悠が言ったような悪戯も調査結果には多い。
 調査中にアヤカシと出会うほうが稀なのである。
「昼に言ってた、先代が今夜見せたいものってなんですか?」
「あなたが小学生のときに見たオバケの女子高生いたでしょ。あれに会いに向かってるのよ」
「ハルカ様って出現場所がランダムすぎて一度も会えてないじゃないですか」
 その指摘は正しく、十年前から都内を中心に現れている謎の女子高生と私は会えていない。
 謎の女子高生はハルカと名乗り、地域によっては『ハルカ様に会うと恋が成就する』とか『ハルカ様に会うと受験に合格できる』という幸運をもたらすオバケとして扱われていたりもする。
 その彼女と私は今夜こそ会える予感がしていた。
 私たちは品川区のだだっ広い公園にやってきた。
 公園とは名ばかりで遊具などは存在せず、大規模な震災時の避難場所として扱われている。
「こんなとこにハルカ様がくるんですかね」
 彼女を待つあいだ、悠はしきりに学校での出来事や公務での愚痴を話しかけてくる。
 この子は高校生のころの私よりもよく喋り、社交的な性格をしていた。
 いまは他愛もない時間かもしれないが、十年後には何物にも代えがたい貴重な時間であったと彼は感じるだろう。
 ――遮蔽物がないせいで見渡しのいい公園の外灯が一斉に消えた。
 あまりにも急な出来事に悠は後ずさる。
「おかしい……アヤカシの気配はなかったし、前兆の霧もなかったのに」
 周辺に明かりが一つもない中で悠は緊張した声で言った。
 彼の言葉は当たっている。
 ただし、アヤカシの気配がなかったかといえば違う。
 越境者の私や一流の遡行者である咲美であれば感知できるほどの微弱なアヤカシの気配が公園に入ってからすでに漂っていた。
 この仕事のせいで彼はアヤカシ慣れしてはいるが、能力はまだ未発達のようだ。
『ごめんなさい、悪気はなかったの。依代もなく現世に転移する瞬間、なんらかの異常な電磁場が発生していつもこうなってしまうようね』
 公園内の外灯が人工の光明を取りもどすと、私たちの前にセーラー服を着た少女が立っていた。
「こんばんは。ハルカ様、いえあなたのことをなんて呼べばいいのかしら?」
 私は長い黒髪のその少女に質問した。
『あなたには私が何者か、わかっているんでしょ』
「今夜、ここで会えるという確信があった。どうだったかしら、都内の夜は?」
『特になにも。そっちこそ、そんなに髪を短くして。これではどっちがハルカ様かわからないわ』
「あの、ハルカ様と先代って知り合いなんですか!?」
 悠は混乱した様子で聞いてきた。
「こういうとき、どちらが自己紹介をすべき?」
『さぁ? ていうか、あなた先代なんて呼ばれてるのね。なぜかしら、少しだけ恥ずかしい』
「この生意気な子はね、昔の私よ」
 シンプル且つ、さらに悠を混乱の渦に巻き込む説明であったが事実なのでしょうがない。
「……あ、いえ…うっすらとですが思い出しました。そうです……たしか真夏なのに冬服のセーラー服を着てて。小学生の俺と都内の勝鬨橋で会ったの覚えてます?」
 彼女と一度会っていた悠は失っていた記憶を復元しつつあるようだった。
『まったく覚えてないわ。特に最近は記憶も曖昧なの。魂魄の残量から考えて、今夜が現世にこられる最期になりそう』
「それが原因で私はここにあなたがくるのがわかったのね」
『私はあなたの魂から生じたんだもの。おそらく別の場所の魂が完全に消えるのを、あなたは無意識のうちに察知したようね』
「どうしてこんなことになったんですか?」
 根本的な悠の問いに私と過去の自分――アヤノは顔を見合わせた。
「私は異界で魂の半分を失ったの。その半分を埋めてくれたのは先代の伏宮遥なんだけど、異界に置いてきたもう半分の魂がここにいる過去の私なのよ」
『ところであなた、人の心について学んだ?』
「深くは学んでないけど、咲美から少々。そういえば彼女、凄腕の精神科医になったわ」
『あの盲目の子は覚えているわ。どうりでいままで使えなかった他人を心理的に誘導できる方法を会得していたのね。あなたの経験は私にもフィードバックされるみたい……これは魂魄の分離における非常に重要なファクターよ。あとでアヤカシの資料として編纂しなさい』
「あなた、ハルカなんて名乗って。わかっているわ。そうすれば私が伏宮遥を連想して、あなたを血眼で探すって狙いでしょ」
『そうよ。あなたは異界で伏宮遥の魂を継承したのと同時に、その呪縛と絆から逃れられない』
 それからしばらく、この十年という歳月を三人で互いに語りあった。
「それにしても先代、ここに過去の自分が現れるってどうしてわかったんですか?」
「ここには私の実家があったの。この公園を作るからって実家も更地にされたわ。もともと両親の殺された事件のあった土地だから買い手もつかなくて丁度良かった。ご近所さんも、みんなこの公園のために引っ越したみたい」
『私は自分の転移する場所を選べない。だけど最期にくるのはここだって前からわかった。動物の帰巣本能のようなものかしらね』
「父はよく休日に洗車をしてた。母は植物が好きでいつも如雨露で庭の草花に水をやっていて」
『母の影響で花言葉を覚えたわ。あのころは平穏で幸せだった』
 私とアヤノは思い出にしかない”我が家”を闇夜の中に見ていた。
『……もう、さよならの時間ね』
 夜明けが近づいていた。
 この時間、一日でもっとも世界が昏くなる。
『ごめんなさい、私はあなたの嫌な過去そのものだもの。思い出したくもない影でしかないわ。会ってはみたものの、迷惑だったはずよ』
「あなた、なにもわかってない……なにもわかってないわ」
 私はアヤノを抱きしめた。
『泣いているの? 十年後の私は泣けるようになっているのね』
「あなたは影なんかじゃない。私の大事な思い出よ。これから私の中でずっと生きるの」
 私はアヤノの髪をなでながら、涙を流した。
『そんなに泣くと化粧が落ちて大変なことになる。いまのあなたは私のようにすっぴんではないのだから』
「昔の私はいつも変なところばかり気にして……」
 私の泣き顔を見たアヤノは笑みを浮かべた。
 彼女の表情が出るようになっていた。
『あなたの顔を見ていたら微笑むくらいはできるようになったわ。最期にあなたに会えてよかった」
「私もよ……」
 腕の中にあったアヤノの感触が消える。
 ――長い夜が明けようとしていた。




 私は中央合同庁舎第八号館の屋上にやってきた。
 中央合同庁舎は内閣府庁舎二階の渡り廊下でつながっている。
 真夏、昼下がりの都内は立っているだけで全身に汗がにじむ。
 しかし屋上は風がでていて地上よりも少しだけ涼しい。
「先代、やっぱりここにいたんですね」
 悠が屋上までやってきた。
「なにかあったの?」
「車で食材の買い出しに連れて行ってほしいので」
 そういえば昨夜、私の過去であるアヤノと会った彼は夕食を私に食べてもらいたいと言ってきたのだ。
「そうだったわ。今夜はなにを作るの?」
「カレーを作ります。生前の母がレシピを教えてくれて。料理はそれだけ作れます。先代の過去と会って、ある約束を思い出したんです。だから、ぜひ俺のカレー食べてください」
 彼は昔のアヤノとなにか約束をしたらしいが、私はそれがなんなのかわからなかった。
 分離した魂魄の記憶は、共有されるものとそうでないものがあるらしい。
「弥登さんと三条院さんにも連絡したら、俺のカレーを食べにくるって言ってくれました」
「あの二人も物好きね。高校生の男の子がカレー作っただけで集まるなんて」
 私は見晴らしのいい屋上からの風景を眺めた。
 近くには首相官邸が見え、奥には皇居の敷地が広がっている。
「先代はたまにここにいますよね」
「ここは私が内調に入った初日、先代に連れられてきた場所なのよ。ここにくると初心に還れる気がする」
「先代はここでなにを見ているんですか?」
 それは奇しくも私が先代の伏宮遥に質問したものと同じだった。
 問う側と問われる側が逆になっているいまでこそ、自分がここでなにを見ているのかわかる。
 この街では人々の過去が量産され、現在を通り過ぎ、未来へとつながり、その狭間である異界からアヤカシが生じる。
 私はこの屋上からそれらを見ている。
 越境者だから見られるのではなく、人との出会いと別れの経験によって見られるようになった。
 おそらく先代も、ここから私と同じものを見ていたのだろう。
「あなたもいつか見られるようになるものをここで見ているわ」
「俺もいつか、ですか……」
 吹きつける風に制服のネクタイを靡かせ、悠も都内の風景を見渡した。
「さぁ買い出しに行きましょう。私も仕事がひと段落したらカレーを作るの手伝うわ」
 私は微笑みながら言った。
 執務室には都内各所のアヤカシ報告が今日も続々とよせられている。
 それらをどうやって効率よく片付けるかを考えながら、私は悠と食材の買い出しに向かうのであった。



 ――了――



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