怪譚 弐話・八尺様
「……一週間前の午後五時あたり。二メートル以上は確実にあったな。とにかく、あり得ないくらい背の高い女が、オフィスの窓からこっちを見てた。彼女は帽子に白いワンピース姿。オフィスにいた全員が見てね。同僚の中には、ショックで寝込んでしまった奴もいる」
笠田則康(かさだのりやす)と名乗った三十代前半の背広男は、冷房の効いた喫茶店で奇妙な出来事を私に話した。
「報告そのままだわ」
「……報告?」
彼は黒縁眼鏡のレンズを、おしぼりで拭いてかけ直す。
「あなたのオフィスの近くにいた通行人たちも、その大女を見たということ。……異界化してない状態でアヤカシが現れれば、インターネット上のSNSなどで噂が広がる」
「オフィス以外の他の人たちもあの大女を見て、ネットで話題になっていると。そういうこと?」
「そういうこと」
私はメロンソーダフロートに浮いたバニラアイスを、柄の長いスプーンで掬って食べる。
今日は梅雨明けの猛暑のため、店内は涼しさを求める客たちで混んでいた。
「これ、自己紹介」
セーラー服の胸ポケットから、名刺を出して渡す。
「内閣調査室特別対策課課長……遠見さんは女子高生にしか見えないけどなぁ」
「高校生のアルバイトだと思ってもらっていい。今年の春、高校に入学してから始めたの」
「この名刺の内閣って、あの内閣だよな」
「ええ、あの内閣。都市伝説とか、そういうのを専門に扱っているわ。これ以上は、守秘義務なのでノーコメント」
「で、なぜ俺に会いに?」
水滴のついたグラスのアイスコーヒーをストローで飲み、彼は初歩的な質問をしてきた。
「単純な消去法。大女の目撃者は複数いるけど、情報提供で会ってくれる人はあなたしかいなかった。みんな気味悪がって話そうとしないし、こんな普通の女子高生と会おうとも思わない」
「そうかもな。……遠見さん、いい気晴らしになったよ。それじゃ、俺は戻る。会社の昼休みも、終わりそうだからね」
レジで会計を済ませようとする彼の背に、私はこう言った。
「あなた、”彼女”と会ったのは二回目ね」
センサーが反応して自動ドアが開いても、彼は喫茶店から出ていこうとしない。
「一回目は、小学校高学年のころ。あなたは肝心なことを、まだ私に話していないわ」
「……まいったな。ただのオカルト好きな女子高生かと思ったけど、本物のようだ」
私たちは、駅前のショッピングモール屋上に場所を移した。
そこにはUFOキャッチャーやアーケードゲームの大型筐体などが置かれているが、冷房の効いていない屋外のせいで人はまばらである。
「これは今年一番の暑さになるな。昨日は雲があって涼しかったのに……」
鉄柵の向こうに聳える高層ビル群を眺め、彼は着ていた背広を脱いだ。
「遠見さん、生まれは何処だい?」
私は「東京」と、短くこたえた。
「あるデータでは、東京の人たちの約半分が地方出身らしい。俺は、その半分の方でね。子供のころ、山口県の宇部市にいたんだ」
私は眼下の山手線を、出来のいい鉄道模型のようだと思いつつ、話を聞いている。
「十歳のとき、父がギャンブルで大損した。初めは趣味と割り切っていたそうだ。それがいつの間にか闇金にまで金を借り、ギャンブルに突っこむようになった。気づいた時には手遅れ。父は借金取りだけでなく、俺たちからも逃げた――」
話しをそこで区切り、人差し指で真上を指してから、迷ったように真下を指す。
「逃げた先は……天国、いや地獄かもしれない。学校から帰ってきたとき、リビングで首を吊っていた。そういうときって、悲鳴なんて出ないもんだよ。それどころか冷静になる。すぐに警察を呼んだ……あのときの細かいことは、あまり覚えてないな」
記憶そのものを無かったことにしたがっているような、そんな乾いた声だった。
「俺と母は逃げるようにして、関東の埼玉にやってきた。そこで一年が過ぎたときだ。母は当時、最新の携帯ゲーム機を買ってくれた。嬉しかったなぁ。でも、
不安だった。家計が苦しいの、子供の俺にもわかっていたからね。……不安は当たった。翌日、母が倒れた。末期癌の宣告を病院で受けたよ。過労やストレス
が、母の命を削ってしまったのかもしれない」
鉄柵に背を預けた彼は、コンクリートの地面に落ちた私の影を俯き加減で見ている。
「両親を失ったその後は、お約束みたいなものだ。俺は神奈川の親戚に預けられ、ずいぶんと肩身の狭い思いをした。そんな小学六年生のとき、彼女と会った。場所は夕方の神社だ。彼女は白いワンピースを着て白い帽子を被った、髪の長い大女だった」
「彼女はアヤカシの八尺様。ぽぽぽっていう、声のはず」
「そうそう、なんだか変な声だった。その……大女の八尺様とかいうのは、神社の階段に座っている俺の隣に座ったんだ。彼女は、まったく怖くなかった。……
すぐにわかったよ。彼女も俺と似たようなもので、友達もおらず、両親もいないんだって。一人なのかって聞いたら、ぽぽぽって言って頷いた。あまりにも可哀
想だから、母に買ってもらった携帯ゲーム機を彼女にあげた。いつも持ち歩いてたけどソフトは一本しかないから、とっくに飽きちゃってたし。……気づいた
ら、彼女は消えていた。妙なこともあるもんだ。その数日後、俺は東京にいる別の親戚に預けられた。神奈川の親戚に鬱陶しく思われていたみたいで、それなら
と東京の親戚が引き取ったらしい。そんなわけで中学入学から、東京に住むことになった。その後も面倒は起きたが、両親がいなくなったことに比べれば大した
ことじゃない」
「八尺様と会話できたということは、遡行者としての素質があったようね」
「彼女と話ができたというか、なんとなく相手の感情がわかったんだ。……あのさ、ソコウシャってなんだ?」
「アヤカシ……妖怪を見る感覚を備えた者。子供に多いけど、成長とともに遡行者の能力は薄れていく。八尺様は、よほどあなたに会いたいらしい。成人したあなたに姿が見えるということは、なんらかの意志があるはず」
「俺に会いたいとして、用件はなんだろうね」
「それは彼女本人から、聞くしかない。あなたが見てから一週間も経っているのに接触してこないのは、会うのを自重しているのかも」
「あんなオバケが、空気を読むなんてことあるのか?」
「彼等は人間の感情に敏感よ。八尺様は積極的なアヤカシではなく、人前に現れることが稀なの。それだけに私も気になっている。彼女が特定の個人に街中で会
おうとするのは、あまりないことだから。あなたがよければ、今夜、彼女と会ってほしい。……人通りが少なくて、静かで、暗いところ。それがアヤカシの発生
しやすい条件の場所。手間を取らせないよう、その場所を都内に用意する」
「会うのはいいが、そんな場所があるのかねぇ。都内は夜中でも人が出歩いているし、道には外灯だってたくさんある」
彼は時計回りに、ぐるりと周囲を見渡した。どこもかしこも灰色のビルだらけのせいか、頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいる。
「詳細は後ほど、そちらにメールを送るわ」
「それはそれとして、わからないことがある。俺が彼女と会ったのが二回目だと、どうしてわかったのかということだ。いつから、わかっていたんだい?」
「勘よりは確かなものよ。八尺様と会うのが二回目だとわかったのは、私がそっちにメールを送り、目撃証言をしてくれると返事を貰ったときから。喫茶店で話
したけど、あなたを除いた目撃者たちはアヤカシを見たことに怯え、私に証言するのを拒んだ。こういった証言者の半数以上は、過去にアヤカシと接していると
か、どこか慣れた部分があって。アヤカシの耐性とでもいうか、そういうものを身につけている。だけど、それが確証のすべてではない。あなたが八尺様と会っ
たのが二回目だとはっきりわかったのは、会話の雰囲気。まるで旧い友人が会いにきたのを語るように、八尺様のことを話していたから」
「小学生のときの俺は人付きあいが苦手なうえ、転校ばかりしていたから友人と呼べる者がいなかった。八尺様くらいだ、二十年も経ってから会いに来た友人は」
眩しげな表情で彼は、白い入道雲に目を移す。
二十年前に会ったアヤカシが、もう一度、自分に会いにくる――私なら、なにを思うだろうか。例えば彼のように人生の不幸な時期に会ったとしたら、昔の辛
さを連想して陰鬱とした気分になるのかもしれない。なんにせよ私は遡行者としての能力以外は普通の十六歳でしかなく、彼の複雑な過去をどうすることもでき
なかった。