怪譚 捌話・人形神
私は中野区にある三階建てのマンションにきていた。
「……佐上さんの部屋の様子がおかしいから、あたしが直接、隣に行ってみたの。ドアを叩いたけど、佐上さんの返事がなくて。それで大家に連絡して隣の部屋の鍵を開けてもらったら、佐上さんが台所で倒れてたのよ。あたし、びっくりしちゃってさぁ!」
二階の中年主婦は玄関先で大袈裟な身振り手振りを交え、事件当日の様子を語ってくれた。
「大家も焦っちゃってて、あたしが救急車を呼んだの。……でね、佐上さんが倒れたとき、変なことがあって。警察にも話したんだけど、隣の壁がドンドンてずっと叩かれてたのよ。それがしばらく続いて。八十歳を越えたお婆ちゃんの佐上さんが、夜にそんなことしないしねぇ。その壁の音が気になったから、大家に連絡したの。後から考えると佐上さんは倒れてたし、お子さんもいなくて旦那さんも十年くらい前に亡くなってるから、誰も壁なんて叩かないのよ」
このアパートに住んでいた佐上さち子という、老婆の遺体を最初に発見したのは彼女だ。
同じく遺体の第一発見者の大家からも事情聴取をしたが、彼女と似たり寄ったりのものだった。
マンション住人の主婦と大家の証言で違う部分があるとすれば、”壁の音”である。
主婦は隣の家の壁が何者かによって叩かれていた、と言っていた。
証言に配慮して居直り強盗の線でも捜査したが、犯人の侵入経路や指紋などの証拠も採取できず、警察は老人の孤独死と断定。
さらに司法解剖によって死因は心筋梗塞と判明し、この一件は終息した。
私たち内調が動きだすのは、そうした騒動後なことも少なくない。
今回は、その典型である。
私は大家から借りた、佐上さち子の部屋の合鍵を使って入室した。
玄関に入ってすぐ横には台所があり、ここで彼女が死亡していたようだ。
居間の八畳間に行くと、黄ばんだ白壁と畳に染み付いた線香の香りがする。
この部屋に仏壇があったのだろう。
奥の六畳間には、すでに家具が一切なかった。
佐上さち子は八十二歳の老婆で隣人の主婦が言ったとおり、夫には十年前に先立たれて子もいない。
大家は彼女の夫の墓を遺品から探り当てて納骨したものの、生前の縁故者は皆無で寂しい葬儀だったと話していた。
――私のいる八畳間の隅に置かれた、高さ四十センチほどの手提げ紙袋。
おそらく、この中身が私の調査対象である。
紙袋の中には人形が入っていたので、床の上に出してみた。
それは美しい日本人形で着物姿をしており、髪はおかっぱで木製の台座がついている。
この手の人形にしてはサイズが小さいとも言えるが、造形については艶やかな肉感が宿っていた。
まるで生きているような人形――と、心のなかでつぶやいたときである。
「おまえの願いを言え」
少女の声がした。
まわりには私以外、誰もいない。
「なんでもいい、願いを言え」
また声がした。
やはり、この人形の声のようだ。
「我が名は人形神(ひんながみ)。願いを言え」
よく見れば人形は瞬きをしているし、発言に合わせて口も動いている。
人形神とは、人形に魂を宿らせた呪物である。
もともと富山県が発祥のアヤカシで墓地の土を用いたり、千の人形を煮て浮いてきたものを素材として使う。
こうした地方のアヤカシが都内にやってくるのも珍しくなかった。
此処ほど、人や物の出入りが激しい街もないからである。
「……もしかして、あなたがこの部屋のお婆ちゃんが倒れたのを知らせたの?」
「ほぅ、わたしと言葉を交わすことができるのか。願いだけを言う、浅ましい人間ではないようだな。いかにも、あの女が倒れたので飾られていた台の上から、こうして壁を叩いたのだ」
彼女は台座ごと動いて電池が入った機械人形のように跳ね、体当たりで壁にぶつかった。
この音を隣の主婦が聞いたのが、騒ぎの発端らしい。
私は内調に入って三年目にして、初めて人形神に会ったが首を傾げたくなった。
どうもこの人形神には、邪なものを感じないのだ。
人形神は本来、人の願いを叶えるために呪いをかけられている。
願いを叶えるかわり、所有者の死は苦しいものになる……それがこのアヤカシの謂れであった。
だが、そこまでの呪力を感じない。
呪物にしては、あまりにも無害な気配しかなかった。
「女って、ここに住んでた佐上さんのこと?」
「左様。あの者はわたしに良くしてくれた」
「――あなたが、呪い殺したの?」
私は、探るような口調で人形神に訊いた。
「なにを言っている。わたしにそのような力があるわけなかろう。願いを叶えたことなど、この世に生じてから一度もない」
「よくわからないわ。あなたは人形神でしょう?」
「小娘、よく聞け。願いを叶えるなど、それこそ神の所業。そのようなこと、わたしごときにできると本気で思っているのか」
「伝承だと、あなたは願いを叶えるとされているわ」
「あれは錯覚じゃ。願いごとが叶わないと知ると、すぐにわたしは持ち主にゴミとして捨てられた。そんなことを百年前から何度も繰り返され、この家に流れ着いたのだ」
もしかしたら個体差があるのかもしれないが、この人形神については願いを叶えることや不幸を招くこともなさそう。
簡潔に言えば、彼女はただの喋る人形である。
願い事を聞きはするが、それを叶えることはできない――要するに、そういうものらしい。
私がここにきたのは、寺からの届け出が元である。
まず老婆の遺品を片付けようと大家が回収業者を雇った。
業者の男性が部屋に残ったこの人形を運ぼうとしたとき、「願いを言え」と囁かれたそうだ。
怖気づいた業者は、この人形の引き取りを拒否して帰ってしまった。
困り果てた挙句、大家は寺の僧侶を呼ぶ。
その僧侶の男が人形を持ち上げると「願いを言え」という声を聞き、報告書にして内調に提出した。
僧侶や神主といっても、すべての者がアヤカシを熟知しているわけではない。
全国の神社仏閣の報告書は、すぐに内調へと回される。
かくして、この人形神の調査依頼が私のもとにやってきたというわけだ。
こういった騒動や事件に、私は半信半疑で現場入りする。
理由はアヤカシの実態として、聞き間違いや見間違いなどがほとんどだから。
私の『アヤカシが現れたなんて眉唾ものだ』という見方は、世間のそれとなんら変わらなかったりする。
それどころかデマに付き合うことが常態化しているせいで、世間よりもアヤカシに対する私の目線は厳しいかもしれない。
そのせいか現場でこの人形神のような本物のアヤカシを見たとき、内心で安堵してしまうのは職業病といっていいかもしれなかった。
「わたしの声は、普通の人間には願いを言えとしか聞こえぬ。いつもはもっと別のことも喋っているのだが、わたしの声をすべて聞けるものには数人しか会ったことがない。小娘よ、何者なのだ?」
「遡行者と呼ばれているわ。アヤカシと人の間に立つ者よ」
「たしか人間の言うアヤカシとは、わたしたちのような妖怪を指すものだったか。妙な者に目を付けられてしまった。この期に及んで、なにも言わぬ。わたしを燃やすなり、壊すなり、好きにしろ。いや……その前に一つだけ頼みごとがある」
「頼みごと?」
「そうだ。先日、亡くなった女の墓参りをしたい」
「アヤカシって墓参りの風習があるの?」
「人間は故人の墓で手を合わせるのが礼儀だと、あの女が言っていた。郷に入れば、なんとやらだ。アヤカシであろうとも、人間のやり方には従う」
内調に入ってから度々、アヤカシの言動には驚かされる。
墓参りに行きたいというアヤカシなど、見たことがない。
この職業は何年やっても、慣れとは無縁であるのを感じさせた。
私はマンションの近隣に住む大家から、老婆の墓が何処にあるのかを聞く。
「佐上さんは亡くなった旦那さんのいる青山霊園に入ったの。あそこは広いから、お墓の場所を書いてあげるわね」
大家から墓のメモと線香を一束もらい、手提げの紙袋に人形神を入れてマンションの部屋を出る。
「墓に行く前に寄ってほしいところがある」
「墓に供えるお花かしら。近くの商店街の花屋がネット検索で引っかかったわ。いま、向かってる」
「その商店街に団子屋があるはずじゃ、そこにも行け。あの女はそこの御手洗団子が好きだったのだ。わたしはなにも食べないのだが毎日、団子を律儀に供えてくれての。いつもわたしのお陰だと、両手を合わせていた。そういうことはしなくていいと何度も言ったのだが、あの女は聞く耳をもたなくてな」
亡くなった老婆の為人が、わかってきた。
どうやら信心深かったようだ。
人は高齢になると、神や仏を信じやすくなると聞いた。
十八歳の私にはピンとこない思考だが、長く生きるとそうなっていくものらしい。
商店街で菊花と御手洗団子を買い、マンションから近い野方駅から青山霊園の最寄り駅である乃木坂駅まで電車で移動する。
車内は平日の昼間なので混んではいなかった。
電車の乗客たちは、まさかアヤカシと一緒の車輌にいるなどと想像もしないだろう。
もっとも彼等に人形神を見せたところで、玩具店で買った喋る人形と思われるのがオチではあるが……。
乃木坂駅に到着して西方向の都道318号線の信号を渡ると、すぐに青山霊園の入り口があった。
青山霊園は敷地が広大なため、区画によって大まかに仕切られている。
大家のメモを頼りに園内を歩き、一基の墓の前にやってきた。
老婆の姓である佐上と書かれた墓石により、これが目的の墓であるのは間違いないようだ。
菊花と御手洗団子を供えてから線香を焚き、墓に両手を合わせた。
あたりに人はおらず、私たちだけが墓参りにきている。
私は紙袋から人形神を出し、墓前に置いた。
「……人など儚いものよな。数え切れないほどの叶えられぬ願いを聞いてきたが、人の欲は生きている証なのかもしれん。肉体が滅べば、欲など消えてしまうからの」
「亡くなったお婆ちゃんとは、いつから住んでいたの?」
「二十年ほど前になるか。その当時、叶えられない願い事を聞くことにわたしは疲れての。ゴミ置き場に捨てられ、このまま焼却場で焼かれて消えるのも悪くないと肚をくくっていた。そんなとき、あの女の夫にゴミ置き場から拾われたのだ。子のいない老夫婦だったせいか、わたしは可愛がられての。最初、あの二人はわたしの声を聞くことがなかった。人間の全員が、わたしの声を聞けるわけではない。夫婦そろって勘が悪かったのだろう」
斜陽に晒されて煌めく落葉の中、人形神は老夫婦との思い出を語った。
「十年前、わたしを拾った男……女の夫が死んだ。居間で女の話しを聞いていたが、夫は出先で脳梗塞とかいう病に倒れたらしい。それから女は大変に気落ちしてな。その時期からだ、わたしの声をあの女が聞けるようになったのは」
夫の急死が引き金となり、身寄りのない高齢の妻は遡行者としての能力を発現させた――あまりにも酷な過去に、私は茜色に染まった空を仰いだ。
「あなたは願い事を叶えられないけど、人に願い事を聞くのよね。佐上さんはなにを願ったの?」
「あの女が願ったのは死だった。すぐにでも亡くなった夫のいる場所に行きたいと願ってきたのだ。わたしはその願いは叶えられないと答えた。小娘と同じようにこうして願い事以外の話しを、あの女とはできた。だからわたしは、願い事を叶えられないのも正直に話した」
「どんな反応だったのかしら?」
「あの女は、わたしと話せるのが嬉しいので願いは叶っていると言った。こんな願い事など叶わぬ人形と話して、なにが楽しいのか。人間にも奇妙な奴がいるものだ」
「……それは違う。あなたは本当に願いを叶えていたのよ」
この人形神が話し相手になったお陰で、孤独に苛まれた老婆は生きることを選んだのかもしれない。
いまとなっては仮説でしかないが、人形神の存在がプラスの方向に働いたのは確かなはずだ。
「日頃から、自分が死んだときは墓参りにきてくれとあの女は冗談で言っていたが、まさか本当にこれるとはな。わたしは本望である。小娘、お前には感謝の念に堪えん」
制服スカートの足元を通った薄暮の風の冷たさで、季節が冬に移ろうとしているのを感じた。
「あなたは、たくさん願いを聞いてきた。あなた自身に願いはないの?」
「そうじゃの……普通の人形として平穏に暮らしたいというのはある。叶えられもしない願いを人間から聞き、それが原因でまたゴミ捨て場に行くのも心が落ち着かん」
この人形神によれば百年は人々の悲喜交交を目の当たりにしてきたわけで、アヤカシとしては波乱に満ちた生き様(?)だったのかもしれない。
「――その願い、叶えるわ」
「小娘は人間であろう。どのようにわたしの願いを叶えるというのだ?」
「最初に言ったはず。私は人とアヤカシの間に立つ遡行者だって。私の仕事は人を裁くことでも、アヤカシを退治することでもない。私の仕事は人とアヤカシによって複雑に絡まった、もつれた糸を解くことなの」
「人間は、わたしたちの仲間の一部を都市伝説と呼でんるそうだがの。わたしたちにも、アヤカシと人間の狭間に立つ者の伝説がある。それはお前が言うのとは、もっと別の特殊な存在だ。小娘よ、お前にはその資格があるのかもしれん――」
「また紙袋に入れるけど我慢してね」
人形神が言いかけた話しに興味もあったが、いまはあの場所に行かなくてはならない。
私は青山霊園から出てタクシーをひろい、南青山の五丁目交差点にやってきた。
ここは通称・骨董通りといわれているが、近頃はその名に反してアンティークショップは減少している。
紙袋を提げた私は、看板に”リコルド”と書かれた店の扉を開けた。
店内にはティーカップやテーブル、洋人形に仏像など、あらゆる骨董品が陳列されている。
「いらっしゃい……あら、綾乃ちゃん!」
緩い三つ編みを前に垂らした女性がカウンターから笑顔で迎えてくれた。
彼女の名は尾庄文那(びしょうふみな)という。
今年二十九歳で内調に属しており、私のサポートをしてくれている。
レトロな内装のこの店は、五十年くらい前に建てられたものだと彼女から教えてもらった。
「あの箱から、二年も経ったのね。綾乃ちゃんは美人で前より背も伸びたから、お店にモデルさんが入ってきたのかと思った。ほんと綾乃ちゃんくらいの年頃って、すぐ大人になっちゃうんだから」
文那が遠い目をしながら言った”あの箱”とは、私が高校一年生のときにおこなった調査に関係している。
「時間は大丈夫?」
店内の柱時計は、ここの閉店時間の夜七時を十分ほどまわっていた。
「あー、いいのよ。内調の仕事は特別だから。なにか持ってきたんでしょう?」
彼女は微笑み、私の紙袋を催促するように両手を出した。
「へぇ、日本人形ね。背中のこの小さな縫い目……なるほど、ここから素体を入れたのね。これは中にもう一つ、人形を入れた形跡があるわ。マトリョーシカのような入れ子人形のようね」
文那は紙袋から出した人形をポケットルーペで観察している。
「願いを言え。これ、わたしのことをそんなに見るでない」
「……そっか、これ人形神ね。亡くなった父から話しには聞いてたけど、見るの初めて。喋るだけにしては手が込んだ作りだけど、全体的に呪物としての技術が低い。本体と生地の劣化具合から、作られて百年は経過してる」
彼女は呪物などを扱う腕利きの鑑定士であるため、人形神が喋っても動じなかった。
私の先代とも面識があり、長年こうしてアヤカシの宿った物品を鑑定してきたそうだ。
「これは呪物師――いえ、そこまでの域に達していない素人が人形に魂を宿らせただけ。平たく言えば、人形神の贋作。この人形からは強烈な憎悪や祝福を感じない。無害な存在よ」
それが文那による、この人形神の所見であった。
「散々な言われようだの。事実だから仕方ないが」
人形神の声は落胆したように低い。
「そんな評価、私は認めない。この人形神は願いを叶えたわ!」
私はムキになって言った。
たぶん、この人形神がどういうものなのかを知りすぎたためだ。
「いまの綾乃ちゃん、先代にそっくり。あの子も鑑定結果に納得できなかったことがあった。……わたしは依頼者の感情や思い入れを排除して鑑定するの。綾乃ちゃんがやっている調査はアヤカシと同調することもあるだろうけど、わたしのような呪物鑑定士の立場ではそれが赦されない。依頼者が何十年も愛でてきた壺が偽物であると包み隠さずに言わないといけないように、鑑定の呪物がなんなのかを素直に伝える義務がある。気を悪くしたら、ごめんなさい」
文那に頭を下げられた私は立場によって、人の評価基準が変わるのを知った。
自分の感情移入した物があったとして、それの評価が一般的に高いかと言えば必ずしもそうではない――そんな当然のことを私は見失っていたのだ。
「綾乃ちゃんが怒ったのを見て、優秀な遡行者なんだって感じたわ。アヤカシは綾乃ちゃんを信頼して、いろいろな話しをしてくれるのね」
自分が優秀な遡行者かはともかく、人形神からたくさん話しを聞いたのは当たっていた。
「……私の方こそ、ごめんなさい」
私は無表情のまま、顔が赤くなるのを感じる。
「いいのよ。それに鑑定士の評価がすべてではないんだから。それより、いまの綾乃ちゃんのほうが可愛い。表情には出ないけど、前よりも感情が声に強く乗っていたわ」
両親の死によって表情を失った後遺症が私にあるのを、文那は内調の上司から事前に聞いていたそうだ。
――彼女が言うように、私はこの三年間で変わったのかもしれない。
来年の春には、高校を卒業する。
振り返れば、あっという間の三年間だった。
「この人形神だけど解呪できる?」
「そうね……解呪に二週間もかからない。この子、人形に戻りたいのかしら」
「捨てられるのが辛いと言ってる。それに私もこのアヤカシには普通の人形として、静かに過ごしてもらいたい」
私は人形神の黒髪を指先で梳き、文那にそう告げた。
「解呪といっても、ショーウィンドウに飾るだけになるけど。ウチの結界だけで、なにもせず自然に人形へ戻していくのが最適ね」
文那によると彼女の父はこの店を経営しながら宮内庁の陰陽師を補佐していた経歴があり、強力な結界を張ることを生業としていた。
だが娘である文那にはアヤカシを退ける結界や呪符の才能はなく、代わりに解呪を得意とする呪物鑑定士の才能が開花して内調に所属することになったようだ。
「わたしは普通の人形になれるのか?」
私たちの話しを聞いていた人形神はそう言った。
「なれるみたい。良かったわね」
「小娘、お前には世話になりっぱなしだな。わたしより、よほど願いを叶えられるらしい」
「アヤカシが人の願いを聞いてばかりいるのは不公平だわ。一つくらい、あなたの願いが叶ってもいいはずよ」
「本当に面白い小娘だ」
「――普通の人形になっても元気でね」
なんとも妙な別れの挨拶だが、これほどしっくりくる挨拶もない。
「小娘も達者でな。この恩、人形になっても忘れぬぞ」
文那に人形神を預け、私はアンティークショップのリコルドから外に出た。
往来の激しい街路を歩きながら考える。
老婆と人形神の出会い。
それは縁(えにし)と呼ばれ、時として叶わないものを叶えるほどの力を持つ。
もしかしたら人も、誰かの願いを叶えるために生きているのかもしれない。
願いを叶えられない人形神が意図せず、願いを叶えたのと同じように。
あの人が私に内調へくるように勧めたのは、こういうものを見せたかったのだろうか……通りのイルミネーションに目をやり、ふと先代の笑顔を思い出す。
――それは私が最後に見た、先代の笑顔だった。
年が明け、卒業が迫った二月。
私は所用で南青山の骨董通り近くに立ち寄る。
ついでにリコルドの前を通ると、ショーウィンドウに人形神がいた。
彼女はすでに普通の人形になっているはずだ。
店内の文那と話してわかったが売約済みで、数日中に購入者が引き取りにくるらしい。
もう一度、店の外のショーウィンドウの人形神を見てみる。
昨年の秋に出会ったときにくらべ、その表情は心なしか優しげなものになっていた。
――了――