その日、私は都内の開帝(かいてい)高校での入学式を終えた。
知らない生徒たち。
知らない教師たち。
教室のみんなは笑顔だが、私の表情は変わらない。
喜怒哀楽とか、そういったものが綺麗さっぱり抜け落ちている。
だから他人の表情が変わる場所というのは、とても苦手。
彼等は何故、あんなに嬉しそうに笑えるのか。
この世なんて、地獄みたいなものなのに。
早い子は登校初日から、生徒たちの輪の中に入っていく。
入学から二週間もすれば、私のような”異物”とそうでない者たちとの溝は深まるだろう。
教室で下校の準備をしているとき、数人の生徒に話しかけられた。
相手は私の素っ気ない態度に気まずくなり、そのまま退散した。
――それでいい。
これからの三年間、私に友人など必要ないのだから。
◆
校門を出てすぐのことだ。
道路の真ん中に少女が立っていた。
ここは一方通行のため車の通りは少なく、せいぜい学校関係者が車通勤で使うくらい。学校にしか繋がっていない通りなので、当然といえば当然である。
だからといって、道路の真ん中で少女が腕組みして立っているというのも変だ。
もっと変なことがある。他の生徒たちに彼女は見えていないらしく、誰もが気にも留めず素通りしていた。
街路の桜の花弁が、ブレザー制服の少女へと雪のように降り注いでいる。
開帝高校はセーラー服のため、他校の者なのが一目で分かった。
私は彼女がただの少女でないのを覚った。
それは彼女の殺気だ。
一度でも他者に殺されかけた者なら一生忘れないであろう、衣服越しに肌を焼くようなじりじりとしたあの感覚。
そういう強烈なものを、彼女は極自然に発している。
それでいて気配も消すという、矛盾したことをやってのけていた。
「こんにちは。遠見綾乃さん」
彼女に名を呼ばれ、足を止めた。
私は彼女を見据える。
茶褐色の髪をまとめたツインテールと黒縁眼鏡が特長的で、美人というよりも可愛いと言ったほうが良い外見であった。
年齢は私とそう違わない。
新調したブレザー制服からすると、私と同じようにさっき高校の入学式を終えたばかりかも。
「あなた、誰ですか」
私は問いながら、わかっていた。
彼女も自分と同じ、世間に相容れない異物であるのを。
「内閣調査室(そっち)も今年の春から代替わりって聞いて、こうして挨拶に来てやったのよ。……あんた大昔の日本人形みたい。でも、すごく綺麗な顔。これはお世辞じゃないわ」
彼女は観察するように私のまわりを一周し、そう言った。
「あたし、三条院奈実(さんじょういんなみ)。宮内庁の陰陽師よ。……親を目の前で殺されたとき、どんな気分だったぁ?」
私の顔色を窺いながら、奈実は厭味ったらしく言う。
「表情を無くしたなんて嘘。表情に出まくりじゃない。これが見抜けないなんて、宮内庁の奴等の目は節穴ね。今から四年前。都内の住宅に強盗が押し入り、夫
婦が刃物で惨殺された。当時十一歳の子供はかすり傷程度で済んだけど、心に深い闇を抱えることになった。それから精神に異常をきたしたその子供は、事件の
後遺症で表情が消えた。その後、病院に一年ほど隔離され、在りもしない物をその子供は見るようになる。強烈なショックが、遡行者としての能力を発現させた
んだわ。……そうよね、遠見綾乃さん」
私は左手に持っている革鞄を振り回し、奈実の横っ面にぶつける。
「へぇ、意外と過激なのね」
「忘れたい過去を掘り起こされるのは嫌い?」
「あんた、警察に発見されたとき、親の返り血で顔が真っ赤だったらしいじゃない」
目の前にいた奈実は消え、新たに三人の彼女が私の前に現れて別々のことを喋った。
状況だけ言えばそうだが、あきらかに非現実的な光景だった。
「鞄で殴られたあたしは偽物。陰陽師からすれば、一人が三人に増えるくらい余裕だわ。簡単な足し算よ」
私の右横にいる奈実は、小学校で習う算数を説明するような口ぶりで言う。
さっき消えた彼女の位置には人型の小さな紙切れがあったが、風に煽られて近くのフェンスに引っかかる。
「こんなことして、どうしようっていうの」
「挨拶に来た……なんてのは口実。内調のあんたはアヤカシと交渉、宮内庁のあたしはアヤカシの殲滅。役割は違うけど現場で一緒になったら、足手まといにな
らないか確かめたい。こっちも伊達に千年以上、この商売やってないわ。あんたみたいな遡行者のド素人と組むかもしれないなんて、正直、いい迷惑」
「言いたい放題ね」
「本物のあたしが何処にいるか、同業ならわかるでしょう。内調の新人さん」
その声には明らかな嘲笑が含まれていた。
「……面白い原理。アヤカシが実体化のため、依り代を使うように陰陽師はこの紙を使うってことかしら」
私はフェンスの近くにしゃがんで、人の形をした紙きれを拾う。
「人工的に思念の器を作る――まさにこの紙がそう。ただし思念の器を使うということは、対象の”思い込み”というエネルギーが必要になる。手っ取り早くそ
うするには、相手が感情をぶつけるスイッチを刺激すること。あなたがあそこまで私を怒らせたのは、この紙を使って幻を作り出すことを前提にしていたから」
桜の舞い散る中、話しを続ける。
「この三人のあなたは私の昂った心に反応した鏡みたいなもので、こちらが思い込みをなくせば勝手に元の姿に戻る。アヤカシにはこの原理と似たタイプがいる
から、感情の切り替えは必須。……人はただの枯れ木を幽霊だと思い込むし、それが枯れ木だとわかっても幽霊を見たと言い張る。そういう思い込みを上手く
使ったのが、この幻の正体だわ」
三人の奈実はすでにただの小さな紙になっていた。
「へぇ、少しは使えるらしいわね」
「舞台の能に使われる能面は、光源と角度によって感情の起伏を錯覚させる。私はあなたと会った最初から、表情は動いていない。あなたは私の表情が変わったと勝手に思い込んだだけ」
「偽りの表情を作り上げ、感情があるように思い込ませた――騙されたのはこっちなんて、これは傑作だわ。あたしがさっき分身に使った形代(かたしろ)を、自分の顔でやってのけたってことでしょ。陰陽師としての技術を持っているの?」
「いいえ、そんなものない。だけど思い込みって、アヤカシを構成する一部。先代にはその辺を上手く扱えと言われたわ」
声しかしない奈実の位置を探っていた。
すでに彼女の分身は消え、ここには私だけしか立っていなかった。
「で、本物のあたしが何処にいるかわかった?」
感情を遮断し、思い込みを無くしてさえ、彼女は見えない。
「あたしの分身を消しただけでも優秀だけど、所詮は遡行者として日が浅いわ。ここが限界っぽいわね」
私はありとあらゆる方法で彼女を探したが見つからなかった。
声の方向から位置を割り出そうとしても、声そのものが動いている。いくつものスピーカーに囲まれ、そのどれかからランダムに発声されてるようなものであった。
「…………」
私は思考する。
彼女が私を怒らせたいのを見抜いたとき自分のほうが優勢だったが、ここにきてそれは逆転している。
この短時間で彼女の性格はなんとなく掴めていた。
おそらく極度の自信家なのだ。
こういうタイプは一方的な謎かけ(リドル)など好まない。
会話の中に、自分のプライドを満たすための何かを含ませているに違いない。
――そして気づいた。
彼女が私に仕掛けたものの正体を。
「さっきのあなたの言葉。簡単な足し算、その次は引き算、さらにその次は、いわば掛け算」
私は振り向き、真後ろを見た。
そこには腕組みをした奈実がいた。
「あたしの性格を読んだ上で足し算の言葉に辿り着いた……そんなとこでしょ。あれくらいのハンデはあって然るべきよ。どうにか内調(そっち)の面子は保てたんだから、あたしに感謝しなさい」
どこまでも高飛車な言い方だが、それは事実である。
彼女は自分のプライドが守られたことと、私が術を破ったことに一応の充足感を得ているようだった。
「私に三人の幻を見せたとき、あれは感情の加法だわ。三人のあなたを存在させるため、私を煽った。それに対応するため私の取った方法は、感情の加法の逆の
減法。思い込みという感情を無くした。そして今、あなたが存在すると強く思い込まなければ見えないという、感情の乗法を使って姿を消していた。思い込むこ
とと、思い込まないことは方向が違うだけで、表裏一体ということ」
「まぁまぁね……と言いたいけど、あんたは陰陽師の昏い淵の部分を見たに過ぎない」
彼女は私に向かって、近付いてくる。
「それとは別にして、頭の良い子って好きよ。初めてあたしと会って、ここまで術を破る奴なんて滅多にいないわ。たとえヒントをあげてもね。要はセンスの問題。あんたがアヤカシとの交渉役に選ばれたの、なんかわかる気がする」
彼女は私を見つめていた。
その瞳に妖しい輝きが宿っている。
「これはほんの挨拶……」
――唇を。
彼女に唇を塞がれた。
桜の花弁がアスファルトに落ちる中、私は少女に口付けされた。
「……初めてのキスなのに、やっぱり無表情なのね。美人なのに勿体ない」
私は笑みを浮かべている彼女の頬を平手で打った。
すると彼女は消え、地面に人の形の紙切れだけが残る。
「安心なさい。あたしとあなたは他の生徒たちに見えない結界を張ったから、さっきのキスも見られてないわ。……いつか本物のあたしに会えるといいわね、内調の新人さん」
声はするが、彼女の姿は見えなかった。
――からかわれたのだ。
そう理解しているが、私は人差し指で唇をなぞっていた。
生々しい感触が、そこにまた蘇る。
それにしても……本物の彼女は一体、どこにいたのだろうか。
難解な宿題を出されたような気分だった。
◆
――日が落ちかけた、郊外の墓地に私は来ていた。
私は前にある墓に、白菊と焚いた線香を添える。
ここに来る途中で木桶に汲んだ水を、墓石の上から柄杓で掛けた。
「二人が亡くなってから、こうして墓前に立つのは初めてね」
私は一人娘ではあるが、両親の葬儀に参加しなかった。
当時の私は幼いうえに心神喪失状態で葬儀の喪主をすることもできなかったため、親戚が代わりにすべてを取り仕切った。
それを最後に親戚との交流は絶えた。
両親が惨殺された不吉な家に関わるなど、二度と御免ということかもしれない。
――あの日から、人生の歯車が狂いだした。
深夜、派手な物音と悲鳴が、二階の子供部屋で寝ている私を目覚めさせた。
急いで階段を降り、電気を点けた一階の廊下で見たのはうつ伏せになった父の足だった。
そして真っ赤な血が、私の素足に付着した。
恐怖で廊下にへたりこんだのを、今でもはっきり覚えている。
私のすぐ横から、激しい足音がした。
反射的にリビングの扉を開けたと同時に目の前が赤一色になった。
その赤色を手の甲で拭い、まず見たものは母の首に刺さった包丁。
私の顔にかかったのは、母の返り血だ。
力尽きた母のすぐ横には見たこともない黒覆面の男が立っていた。
殺気を纏った男の目は、ぎらついている。
身の危険を感じ、全力でその男に体当りした。
私はそのときに倒れ、床に頭を打って気絶してしまう。
……意識が戻ったのは早朝である。
覆面男はいなくなっていて、リビングには母の遺体が窓ガラスからの朝日に照らされていた。
死んだ母の顔は、血の気の失せた真っ白な蝋人形のようだった。
私の記憶はここまでしかない。
警察を呼んだのは近所に住む主婦だった。
その主婦は母と仲が良いため、朝のゴミ出しを忘れたのかと思ったそうだ。彼女が私の家のインターフォンを押しても無反応なため、玄関を開けると父の遺体を廊下で見つけ大騒ぎになった。
私はリビングの壁に寄りかかり、無表情のままで母の遺体を見つめていたところを、警官に保護されたらしい。
あれから、四年。
私は今日から高校生になり、下校中に三条院奈実という陰陽師が私の過去を話した。
――私はあの化かし合いで彼女の挑発に敢えて乗ったように見せていたが、実は感情の昂ぶりを抑えられなかったのである。
「笑顔で高校入学の報告をしたいけど、今の私には無理みたい。……ごめんね。父さん、母さん」
セーラー服の肩に乗っていた桜の花弁を払い、空に向かって伸びる線香の青い煙を見上げる。
私の表情は、夕闇の中でもまったく変わらなかった。
――了――
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