東京地検の執務室に入ったとき最初に目についたのは、椅子に座っているヨレたワイシャツ姿の男だった。
彼は静かに私を見つめて冷笑する。
「これはなんの冗談ですか。取り調べをセーラー服の女子高生が受け持つなんて聞いたことがない。東京地検もよほど人材不足と見える」
男は覇気のない声で言った。
「冗談ではありませんよ、斉藤さん。たった今から彼女が、あなたの担当官になります。挨拶が遅れました……警部の久坂です」
後から部屋に入ってきた久坂暁仁（くさかあきひと）が、床にバッグを置きながら応える。
三十ニ歳の彼は長身で整った顔立ちのせいか、ただ喋っているだけで俳優のように映えた。
「なぜ警察がこの件に介入する。この手の事件は特捜部が扱うと決まっているだろう」
「それについては順を追って話します。綾乃ちゃん、取り調べを」
私は検察官の席に腰を下ろし、机の調書に目を移す。
「斉藤俊二（さいとうしゅんじ）、四十三歳。北海道帯広市出身。帝都大学法学部を卒業。大学卒業と同時に日本政大党の村澤和夫議員の政策担当秘書となる。職務態度は真面目であり、理想の秘書として何度か雑誌取材やテレビ出演……あなたがこの斉藤俊二さん？」
私は書かれている文章を適当なところで切り上げ、斎藤という男に訊いた。
「子供が検察官の真似事とはね。これは巷で流行ってる新しい遊びですか」
それが私に対する斉藤の嫌味であるのは、暁人にも十分に伝わったようだ。
「お言葉ですが、この取り調べは政大党の田嶋次郎氏から、徹底的に事実を追求するように後押しされています」
「田嶋先生からだとっ!? 馬鹿なことを言うんじゃない。あの方は澤村先生とは同郷で旧くからの友人だ！」
斉藤の表情筋が初めて大きく動いた。
暁人は背広の内ポケットから、二つの封筒を出して彼に渡す。
「その封筒が田嶋氏からのものです。もう一つの封筒を開けてください」
「…………ど、どういうことだ、これは!?」
二つ目の封筒の中身を見た彼は驚愕した。
「それは加賀山首相からの念書です。この女の子……失礼、女性は内閣調査室特別対策課の課長です。首相からの特例で、本日十四時より臨時の検事総長となりました。正式な手続きどおり、内閣からの任命も受けています」
「君は法曹界に疎いようだから言うが、検事総長は裁判官や弁護士経験の資格が必要なんだぞ！」
「先ほど言いましたが特例というやつです。なんなら、他の方々のサインが入った書類を見ますか？ これは検察の元締めである法務大臣の近永耕太氏、こっちは内閣官房長官の井上国一氏」
斉藤は両手の手錠を鳴らし、渡された封筒を鬼のような形相で確認した。
「これにどれだけの法的な根拠があるというんだ」
わたしたちが準備した書類に、法としての効力があるのかと彼は嘲笑する。
「……そうくると思ってたわ」
事の成り行きを見守っている暁仁に私は目配せした。
「どうせこの書類は、でっち上げなんだろう。検察ではよくある手だ。カマをかけ、相手を揺さぶろうとする。こんなことが法治国家である日本で通用すると――」
「通話状態です。是非、会話してください」
斉藤の言葉はスマートフォンを持った暁仁に寸断された。
「こんな物を渡されたところで……」
渋々、スマホを耳にあてた斉藤は顔面蒼白になる。
「まさか……いまは会談でアメリカなのでは…ええ……書類は本物!? はい…いえ、そんなことは決して！ ……もう一度聞きますが書類は本物なのですか!? と、とんでもありません！」
斉藤は頭を何度も下げ、電話向こうの相手に謝罪していた。
「君たちはなんなんだ!? 首脳会談で渡米している加賀山首相と直接、連絡を取り合うなんてありえん！」
首相との会話で疲労困憊したらしく、彼の容姿が十歳は老けこんだように見える。
「私が関係各省に念書を準備させるほど、異常なことが起きているということよ」
「澤村先生の賄賂疑惑が、そこまでの大事とは思えない。何度も言うが僕はあの時間、赤坂の料亭で澤村先生と一緒にいた。これ以上なにも言うことはない」
「先月、九月十四日の二十一時、赤坂の料亭・慶蝶（けいちょう）にあなたと澤村議員はやってきた。そして翌日の零時すぎに二人は店を出た。一方、同じ日の
二十二時半ごろ、六本木のバー・ソワレで広域指定暴力団の草雲会幹部と澤村議員が目撃されている。その際、多額の不正献金が暴力団から澤村議員に支払われ
たという容疑が浮上。しかし料亭にいたあなたは、澤村議員のアリバイを主張している」
私は調書の一部を読み上げたが、澤村議員のアリバイを崩すことに腐心しているわけではない。
そんなこととは別件で、私はこの東京地検に来たのだ。
「先生は僕と一緒にずっと料亭にいたんだ。六本木になんか行っていない」
「では、バーにいた人は誰かしら？」
「先生によく似た人だろう。他人の空似なんてよくあることじゃないか」
彼は澤村代議士の賄賂疑惑重要参考人として、ここに勾留中である。
澤村議員について、わたしは予備知識を入れてきた。
澤村という男は利権の絡む荒事を専門に扱う、政界のハイエナとして世間では通っている。
暴力団との癒着が噂されるのも今回が初めてではなく、過去に何度かこうしたスキャンダルはあった。
そのたびに、この斉藤という第一秘書が根回しに奔走しているのだという。
澤村の身動きがとれないとき、斉藤は紙袋に数千万円の”実弾（現金）”を持ち歩き、関係者を買収して回る。
そのことから彼は、澤村代議士の懐刀と呼ばれるまでになっているらしい。
「同じ人が別々の場所に現れるなんて、あるはずがないんだ」
「――いいえ、あるわ」
私は机を挟んだ向こうにいる斉藤に言った。
「ドッペルゲンガー、複体、ダブル、バイロケーション、離魂。その現象の呼び方は世界中にあって、日本では文豪の芥川龍之介が死の直前に見たとされている」
「最近の女子高生は、そんなデマを信じてるのか。君は見た目がいいんだ。僕みたいに、現実を受け入れるような生き方をすべきだと思うが」
「二重存在を信じていないのね」
「先生がバーにいたのを証明するというなら、やってみるがいい。もっとも、君らにそれができるはずはないがね」
「なにを言っているの？ これからアリバイを証明するのはあなたよ」
彼は必死に、わたしの言葉の意味を考えているらしいが理解できなかったようだ。
「斉藤さんをここに勾留しているのは、澤村議員のアリバイの件の他にもう一つあります。……実は、あなた自身のアリバイなんです」
会話を壁際で眺めていた暁仁は、床のバッグからノートパソコンを出し、それを執務室のテレビにケーブル接続する。
「これは名古屋にある病院の監視カメラ映像で、右下に表示されている日時は九月十四日の二十二時すぎです」
テレビに映ったのは、夜間のカメラ映像である。
病院の受付入り口に備え付けられたカメラに男性が近づいてくる。
「この動画に出てくる人に見覚えは？」
暁仁はテレビ画面を眺める斉藤に質問した。
「これは――」
目を見開き、信じられないという顔で斉藤は呟く。
まさに幽霊でも見たように、顔が引きつっている。
「ここに映っているのは僕だ」
斉藤の混乱によって、取り調べは三十分の休憩となる。
私と暁仁は取り調べ再開まで、東京地検のがらんとした会議室で過ごすことにした。
「まったく、綾乃ちゃんは人使いが荒いなぁ。いきなり呼び出して、大物議員たちの念書を取りにいかせるんだから」
「アヤカシの絡む事件は人を選ぶわ。一年前、あなたとは”箱”の事件で会ってるから、適役だと感じたの」
暁仁は紙コップに入ったパック緑茶を飲み干し、テーブル上にある茶請け皿の煎餅に手をのばした。
「あれも妙な事件だった。……まぁ、それはそうとして、今回の事件の流れを教えてくれないか？ 俺は君に言われるまま、念書集めで霞ヶ関や永田町を走り回ったんだ。そろそろ全体像くらいは把握しておきたい」
彼は立ったままで小気味よい音とともに煎餅をかじり、事件の説明を私に求めた。
「検察から内調（うち）に依頼がきたの。同じ男が同時刻、二ヶ所にいるって。さっき見た監視カメラの映像は、そのとき送られてきたわ。これは検察上層部のみしか知らない情報だから、マスコミもまだ嗅ぎつけてない」
「検察も訳がわからなかったはずだ。ドッペルゲンガーなんて有り得ない。俺も一年前の事件を経験しなかったら、斉藤と同じように信じなかったよ」
「澤村議員のアリバイ工作をしている斉藤……その男の”鏡人（かがみびと）”が事件を面倒にしてる」
「やはり、アヤカシなのか」
「所謂、二重存在よ。私たちはそのアヤカシを、そう呼んでいる。鏡に映ったように同じ人物だから鏡人。検察は頭を悩ませてるみたい。鏡人は法律というもの を覆すような存在だし。二ヶ所同時に存在した人物を法で裁くなんて無理だわ。法律なんて所詮は人間に適用されるものだから、アヤカシは司法を扱う者には最 悪の相手なのよ」
「どうりでお偉方がすんなり念書を渡してくれるはずだ。法律そのものの、危機ってわけか」
私は暁仁の言葉に頷いた。
「澤村議員のアリバイを主張する斉藤が、東京から約350キロ離れた名古屋の病院に同時刻、現れたとする。赤坂の料亭にいたという彼のアリバイが崩れ、澤 村議員の賄賂受け取りに検察はメスを入れることができる……とは、ならない。料亭従業員の話しでは、トイレに向かう斉藤がその時間に目撃されている。その 矛盾が彼を助けているんだわ。名古屋と東京に二人の彼がいるかぎり、司法は手出しできないのよ」
「もうアリバイ云々という話でもないな。迷信犯の類だ。君がなんで内閣調査室にいるのか納得したよ。要は”こういうとき”のため、超法規的処置が取りやすい肩書が必要というわけだな」
「アヤカシは対象の社会的地位の高さなど関係なく出現する。だから斉藤秘書や澤村議員のように政界の中心にいる人物さえも、首相や閣僚の圧力で強引に黙らせる力が必要なの。それが内調に属していることの意味よ」
「この事件はどうなる？ 法律が効かないとはいえ、このままにしておくわけにもいかないだろ」
暁仁は東京地検に来てから初めて椅子に腰掛けた。
斉藤の扱いが今後どうなるか、まるで展開が読めていないようだ。
「法律では裁けないといっても、別の方法で裁くことはできる。その切欠のため、刑事のあなたを呼んだの」
「澤村議員のせいで、警察は手が出せなかったからな。綾乃ちゃんに頼まれて持ってきた念書は、すでに別の場所でも効果が現れ始めているはずだ」
彼は話しながら、嬉しさを隠せないでいた。
それは大きな祭りが始まったのを、はしゃぐ少年のようだった。
「あと、そっちから預かってる名古屋の病院の証拠は、タイミングを見て出させてもらうからね」
「助かるわ。私は取り調べが専門じゃないから、あなたに任せたいの」
「ああいうのは出しどきってものがあるんだよ。まぁ、見ててくれ」
私は彼のテンションの高さとは逆に、無表情で紙コップのお茶を飲みつづけた。
休憩後、私と暁人は執務室での取り調べを再開した。
「東京にいたはずの自分が名古屋の病院にいた……これで落ち着けなんてほうが、無理だと思わんかね。これはあからさまな捏造だ」
悔しいとか、怒りとか、そういったものとは別のものが斉藤の顔に浮かび上がっている。
今の彼を表現するには、この言葉が適切なのかもしれない。
――困惑。
なにかしら思い当たることはあるが、それを受け入れられないというような、あらゆるものがごちゃまぜになった心情。
アヤカシは非常識な存在のため、普通の者は徹底的に拒絶する。
道を歩いている野良猫が突然、人の言葉を喋ったとして、どれほどの人たちがその現実を認めることができるのか。
言ってしまえばそういうことで、斉藤は至って正常である。
この室内で……いえ、この世の中で異常なのは私と暁仁のほうだ。
一度でもアヤカシを体感してしまえば、この世界には未知なるモノが跋扈していると自然に頭が理解してしまう。
「九月十四日の二十二時すぎ。あなたの携帯電話に着信があった。これは認めるわね？」
私は机の上にある調書に目を落とし、斉藤に訊く。
「それは何度も聞かれている。連絡はカミさんからのものだ」
「どういう内容？」
「娘が喘息を患っていて、その発作のせいで名古屋の病院に担ぎ込まれた。カミさんは動揺したんだろう」
「おかしいわね。あなたの自宅は世田谷区の成城のはずでしょ。何故、名古屋に奥さん……斉藤恭子さんがいるのかしら」
「それは……」
私は、押し黙った斉藤の背後にいる暁仁を見た。
「斉藤さんはそのことについて、勾留されてからずっと黙秘を続けているんだ」
調書によると奥さんの実家が名古屋ということだが、別居しているわけではないらしい。
世田谷区の自宅に報道陣が押しかけるのを嫌ってそうしているようだが、今回は異例なことが一つあるのだと暁仁は教えてくれた。
「澤村議員のゴタゴタのたび、恭子さんと娘の由佳さんをマスコミから遠ざけるために名古屋の実家に連れて行くように指示しているそうね。いつもは二週間も すれば、世田谷の自宅に戻ってくるはずなのに、一ヶ月半もその様子がない。これはどういうこと。娘さんも三週間前に退院しているんでしょう？」
「…………」
私の問いに斉藤は黙秘を続ける。
――停滞した空気を破ったのは暁仁だった。
「斉藤さん、これを見てください」
暁仁は小さなビニール袋に入った一枚のコピー用紙を斉藤に渡す。
あれは私が前もって彼に渡した、名古屋での証拠品だ。
どうやら彼はここを、取り調べの山場と踏んだらしい。
「それは娘さんが入院した名古屋にある大学附属病院の受付用紙です。あなたの指紋が採取され、筆跡鑑定でも極めて本人に近い結果が出ています。もう一人の あなたは間違いなく、喘息の発作を起こした娘さんのために病院へ駆けつけていた。……東京の料亭にいたあなたと、病院にいたあなた。本当のあなたはどちら なんですか？」
斉藤の顔が途端に強張っていく。
「そ、それでは僕の作ったアリバイが壊れてしまう……！」
取り調べのプロだけあって暁仁は最高のタイミングで証拠品を出したらしく、斉藤の心に亀裂を生じさせたのは明らかだった。
「いや……捏造……捏造に決まってる！ 僕は赤坂の料亭にいたんだ!!」
自分の知らないところで、もう一人の自分が動き回っていた――これを当人に認めさせるのは簡単なことではない。
しかし彼の取り乱し方は、それだけでは説明できないものがある。
澤村議員への忠誠というには、あまりにも怯えが目立つ。
アリバイ工作が崩れることよりも、別の何かに意識が向いているのではないか。
椅子に座って小刻みに震える斉藤を観察していると、暁仁のスマホが鳴る。
「愛知県警からです。斉藤さん、名古屋で軟禁されていたご家族は無事に保護されました」
斉藤は俯いてた顔を上げた。
「本当ですか!? 本当に恭子と由佳は無事なんですねッ!?」
斉藤は立ち上がり、手錠のかかった両手で暁仁の体を揺する。
「真実を話すときじゃないかしら。これであなたは澤村議員の二重存在という、下手な芝居に手を貸す必要はなくなったはずよ」
斉藤は足の力が抜け、よろよろと椅子にすわった。
彼は長い沈黙のあと、訥々と語り始める。
「……料亭に行く十日前、澤村先生からアリバイ工作するように言われていた。その日、スキャンダルになるのを畏れ、名古屋にある恭子の実家に恭子と娘を逃がした。アリバイ工作の日、先生は夜の九時半ごろに料亭の裏口から、六本木のバーに移動したんだ」
「それは澤村議員の犯罪幇助についての自白と捉えていいですか？」
暁仁の発言に「ああ」と、斉藤は諦めたように答える。
「名古屋の実家に移って数日後、誰かから監視されていると恭子から電話があった。先生に相談したらこう言われた。それは自分と繋がりのある暴力団だ、と。 今回の取り引きは重要なため、アリバイ工作でミスしたら恭子と由佳を海に沈めると言われたんだ。僕は名古屋で隠し撮りされた恭子と由佳の写真を見せられ、 先生に”また二人に会いたいだろう”と脅された。暴力団は家を常に見張っていたため、安全なホテルに娘と移動しろと僕は恭子に電話で提案した。しかし 彼らにそれを阻まれ、恭子は警察を呼んだそうだ。でも実害がないことを理由に、取り合ってもらえなかった。警察に澤村先生の圧力が、なんらかの形でかかっ ていたんだ」
斉藤の自白を聞いても、私の表情は動かなかった。
だが暁仁の顔は二枚目なモデル然としたものから、無慈悲な現場に何度も立ち会ったであろう刑事になっていくのがわかる。
「澤村議員に脅されていたから、アリバイ工作に加担したわけですね」
警察手帳に斉藤の証言をボールペンで書き込み、暁仁は言う。
「そうだ。でもそれとは別に、先生を守りたかったというのもある。二十年以上も先生の下で秘書をやってきた、恩がそうさせたのかな」
斉藤は枯れた声で呟いた。
その言葉には澤村に対しての憎悪と畏敬が、複雑にブレンドされているように私には聞こえる。
「アリバイ工作の日、僕は先生を守る覚悟をしていたんだ」
「その覚悟が名古屋からの電話でゆらいだ。あなたは娘が喘息発作を起こして入院したのを聞き、議員秘書からただの父親に戻ったんだわ。そしてあなたの強い想いが、名古屋の病院に鏡人となって現れた」
「あの電話によって、僕の心は二つに分かれたのかもしれない。本当は赤坂の料亭からすぐにでも、娘が搬送された名古屋の病院に行きたかった。だからもう一 人の僕が名古屋に居たと聞いたとき、ほっとしたのが本音だ。……僕には二重存在という現象が有るのか無いのか、まだ結論は出ていない」
彼は「でも」と言う。
「その、もう一人の僕っていうのが居てもいいんじゃないかと思い始めている。不思議なことだ」
「ここからは司法についてだけど。一人が二ヵ所同時に現れた処置は、その当事者がどちらに居たかを選択する権利がある。過去にも鏡人による、二重存在の判 例があるの。こんなこと、裁判や取り調べ記録に残ってないけど。あなたは東京と名古屋のどっちに居たの？ 今回の事件を裁くのは裁判官でも陪審員でもな い、あなた自身よ」
両手を膝につき、斉藤は心の中でなにかを決めたようだった。
「僕は、名古屋の病院にいたんだ。それが先生と僕にとって、一番良いことな気がする。もしそうなったら料亭でのアリバイが無くなり、先生は失脚するがね」
「さっきの愛知県警からの連絡で、澤村議員も都内で確保されたと言ってました。その第一報では、秘書がやったことで自分は無関係だと供述したそうです」
暁仁は敢えて感情を殺したように告げた。
それが彼なりの気遣いだったのかしれない。
「……僕が…先生と初めて会ったとき……この国は…もっと良くなるって……それには…………君の力が必要だと…………先生は理想の政治家で…せ、先生は…………ッ!!」
そこから先、斉藤がなにを言ってるのか私には聞き取れなかった。
しゃくりあげるような嗚咽をもらす彼の姿を、私と暁仁はただ呆然と見守るだけだった。
我が子のため、もう一人の自分を出現させた彼。
信じていた者に裏切られた彼。
その二つの事実は、まぎれもなく彼一人の身に起こったのであった。
私が羽田空港の出発ロビーにたどりつくと、私服を着た斉藤がすでに待っていた。
「セーラー服で来るなんて学校帰り？」
「いいえ」
斉藤は私のそっけない返答に頭を掻き、気難しい表情で「そうなのか」と言う。
「あなたが実家に帰ると聞いて来てみたんだけど……見送りは私だけなのね」
あたりを見渡した私は、そのことに気付く。
「どういう理由であれ、僕は第一秘書なのに澤村先生を守るのを放棄したからな。政界では裏切り者だ」
「その澤村議員だけど、わざと発見されるように計画していたという供述が取れたわ。彼、六本木のバーにいたのをすぐ認めたの。あなたの指示に従って、六本 木に向かったと言っていた。今までの不正献金疑惑を、あなたにすべて被せたかったようね。そのために脅迫までしていた。赤坂の料亭にいたままだったら今 頃、澤村議員の罪をすべて押し付けられていたかもしれない」
「先生が僕に罪を着せたかったのは知っていた。僕のことを脅したときから、そうではないかと疑っていたんだ。その手で秘書が罪を着せられて逮捕されるの は、よくあることさ。……政治家と言ってもピンキリでね。先生はいつも閣僚入りしたいと言っていた。そのため、今までのダーティなイメージを秘書の僕のせいにして、変えたかっ た……そんなとこかな」
「あなたは二重存在……鏡人を信じることができたのかしら？」
「初めて聞いた時は信じなかった。でも、今は信じかけている」
彼はズボンのポケットから古いお守りを出し、私に見せる。
「僕も子供の頃は体が弱く、それを見かねた祖母がこれをくれた。大人になってからも、これを鞄にいつも入れておいたんだ。でも奇妙なことに、これが名古屋の病院にあった。娘の由佳がいた、集中治療室のベッドに置かれているのを看護師が見つけたらしい」
斉藤は目を閉じた。
娘のように病床で過ごした時間を、彼は思い出しているのかもしれない。
「僕は大学に入学した。そのときは政治なんて興味なくてね。そんなころ、駅前で選挙演説していた先生を見たんだ。国を変えるって、拡声器を持って大声で必 死に叫んでいた。僕はあの人なら、本当にこの国を変えられるかもしれないと信じたんだ。昔の先生は国民に信用される政治家でなければいけないとよく言って いた。……どこで先生は変わってしまったんだろう。次第に先生の事務所に出入りする人たちが、ガラの悪い連中になっていった。それでも僕は先生のやり方を 信じていた。信じるしかなかったんだ」
斉藤はロビーを歩く人々に目を向けた。
「でも駄目だった。先生は変わってしまった。理想の政治家なんてどこにもいなかったんだな」
「これから、あなた自身が政治家になって、理想の政治というのををすればいいのに。簡単なことでしょ？」
私は斉藤の目を見つめて言う。
それが子供らしい、浅はかな考えなのは自覚している。
「僕も最初は君と同じように考えていた。でも政界というのは、難しいところでね」
彼は腕時計の時刻を確認し、搭乗時間まで少しの余裕があることに安堵したようだった。
「……僕は理想を捨てたときから、君の言うカガミビトのように二つの存在になっていたのかもしれない。心では違うと思っても、現実は意にそぐわない流れに 従うしかない。僕は、もう一人の自分を怖くて見れなかった。理想から外れた自分を見る、もう一人の自分がもっと強かったら、澤村先生の罪を告発できたはず なんだ。……僕は、やっぱり三流以下の秘書でしかなかった」
私は滑走路の飛行機を眺め、なにも言わなかった。
慰めが無力であることを、私はよく知っている。
失ったなにかは、誰かの慰めで戻ってはこないのだから。
「東京（ここ）は、僕には大きすぎた。これからは喘息の由佳のため、僕の実家の帯広に住むことにしたんだ。あそこは空気が綺麗だからね」
飛行機の搭乗時間になり、斉藤は近くのキャリーケースを掴んで自分の方に寄せる。
「理想の政治家になったら、アヤカシに手を焼く私に協力して。これは約束よ」
「いつになるかわからないけど、前向きに検討しておこう。……こういう議員のような曖昧な言い回しってのは、昨日今日じゃ抜けないもんだな。君も元気で」
彼はそう言って手を振り、家族の待つ北海道に帰っていった。
――三週間後。
澤村議員の賄賂事件を扱った写真週刊誌の一部が、東京と名古屋の二ヵ所同時に元第一秘書の斉藤が現れたと騒ぎ立てた。
しかしそんな絵空事を誰も信じるわけがなく、凄まじい速度で事件は民衆から忘却されていく。
アヤカシにとって都合の良い世界は、これからも続いていくようだった。
――了――