怪譚 壱話・影水

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 夕暮れの都内は暗がりを進む歩行者と、渋滞した車の真っ赤なテールランプでひしめきあっていた。
 私、遠見綾乃(とおみあやの)はファストフード店前のガードレールに寄りかかり、そんな往来を注意深く眺めている。
 通行人たちは私のことなど、見向きもしない。それがこの街の優しさなのか冷たさなのか、十七歳という年齢になったいまも掴みかねていた。
 私は横断歩道の人混みに一人の男子を発見し、尾行を開始する。対象はブレザー制服を着た、あの短髪の少年。別にストーカーというわけではなく、彼と二人で話をする機会ができればそれでいいと思っていた。
 彼はどこかの目的地に向かっているというよりも、適当にほっつき歩いている。分かれ道でどちらに行くかを決めているらしく、やがて住宅街にある狭い公園のベンチに腰掛けた。
「こんばんは」
 公園の彼に声をかけると、あからさまに警戒される。そりゃ、そうよね。日が沈んだ公園のベンチに座っていたら、見ず知らずの女子高生がやってきたんだから。
「誰だ?」
 彼は硬い表情を浮かべ、いつでも逃げ出せるようにベンチから立ち上がった。
「なるほど、これは見事ね。ここまで実体化しているのも珍しい」
 これは感嘆に値する事例だが、評された相手には意味不明にしか聞こえないはず。
「なに訳わかんないこと言ってんだよ」
「訳わからないのは、君の方じゃないかしら?」
 私はベンチに座り、秋風に揺れる無人のブランコを見つめた。
「深夜、この付近を警邏中の警官がある少年を補導しようとした。しかし彼は、その場で幽霊のように消えてしまったんですって。そんなことが一ヶ月で三度も起これば、ちょっとした騒ぎにもなるわ」
「どういうことだよ、それ……」
「まわりくどいことを言っても、仕方がないわね。事実だけを伝えるわ」
 セーラー服スカートの膝上に左肘を乗せて頬杖をつき、正面の闇を私は見据えた。
「木嶋陸(きしまりく)さん、君は一ヶ月前に死んでいる」
 彼は無言だ。生きているはずの自分が死んでいると言われれば、誰だって言葉を失う。
「俺はこうして生きてる。お前、頭おかしいだろ」
「それは半分正解で、半分間違っている」
 制服の胸ポケットから、名刺を取り出して彼に渡した。
「内閣調査室特殊対策課課長・遠見綾乃……」
「長ったらしい肩書だけど、君のような都市伝説のアヤカシ対処依頼を受けるのを生業としているの」
「アヤカシ?」
「アヤカシは妖怪と言い換えることもでき、幽霊よりも実体を持ちながら、人とはかけ離れたモノを指す。例えば君は名刺を手に持ち、私と日本語で会話してい る。これは幽霊というには、あまりにも実体としての濃度が高い。しかし普通の人間は、補導しようとする警官の前から消えることなど不可能よ」
 彼は制服のネクタイを弛め、ベンチに座り直した。
「そのアヤカシとかいうの相手にしてるお前が、俺になんの用だ?」
「見たところ、このまま君を放置しても特に問題はない」
「じゃあ、なにしにきた」
「忠告しにきたの。すでに気づいているんじゃないかしら……日を追うごとに魂が薄くなっているのを」
「魂が薄くなる? マジで意味わかんねーわ」
「では、質問。自宅に帰ることができる?」
「…………」
「次の質問。昼間の記憶はある?」
 どちらの質問にも、彼は答えられなかった。
「どうやら順序立てて、説明していく必要があるわね」
「どこ行くんだよ!?」
 彼は公園を出ていこうとする私を呼び止めた。
「君は自分が”どうしてそうなってしまったのか”を、知りたいんじゃないの。安心して。なにも強要しないから。私と話すのが嫌ならいますぐにでも消えて、どこかに行けばいい」
 なんだかんだで、彼は私についてくるのを決めたようだ。
 酔っぱらいの大学生らしき集団とすれちがい、ファミレスに入ろうとする若いカップルを横目に二人並んで通りを進んでいく。
「夜はどう? 君が活動する時間帯でしょ」
「楽しかったよ……最初だけ。この街の人たちは、俺なんか見えてないみたいだ」
「必要のないものは見ない。人なんて、そんなものよ」
「俺もお前も誰からも見られてない、オバケみたいなもんだな」
「ええ、それは自分たちから見た他人にも言える。さっきファミレスの入り口にいたカップルの男の顔を覚えてる? 私は覚えてない。極端だけど、あのカップ ルが本当に存在したかもわからないわ。いまから戻って確かめることもできるけど、それをするほど暇でもないのよ。アヤカシもそう。みんな知らず知らずのう ち、人とは異なる生き物と出会っている。それを確かめる術がない以上、常識という枠で処理するしかない。見間違い、気のせい、錯覚……あらゆる手段で人は 自分を騙す。それでいいの。君のようなアヤカシの存在を認めるというのは、狂気の世界に足を踏み入れるのと同じだから……着いたわ」
 なんの変哲もない交差点で、私は立ち止まる。裏通りのため、交通量はそれほどでもなかった。
「ここが、どうかしたのか?」
「君はここで死に、ここで生まれた」
 私はメモ用紙を出して読み上げる。
「広陽高校二年・木嶋陸。十月二十六日の午後十時十五分、予備校から自転車で帰宅途中、乗用車に撥ねられ死亡。死因は頭部強打による脳挫傷」
「う、嘘だ。俺、生きてるじゃねーかよ!?」
「肉体は維持されている。でも警官の前から消えたことを、どう理由付けるの。君は意識して、体を消せる人外の能力を手に入れた。それこそがアヤカシの証明」
 歩行者用信号の電柱の下には、死者を供養するための花束が括りつけられているが、それはすでに枯れていた。
「アヤカシの影水(かげみず)が現れ、事故死した君と同化したのよ」
 黙っている彼は、淡々とした私の話に耳を傾けている。
「多分、事故死直後に魂が抜けるときを見計らったのね。実体を持たない影水は、君の魂を取りこんだ。公園で自宅に帰れるかと質問したわ。あれは影水との同 化具合の確認なんだけど、君は答えられなかった。生前に覚えていた自宅までの道順を忘れるほど、影水との同化が進んでいる」
「俺の体は、その影水とかいう化け物ってことかよ!?」
「そう。影水は消えるのを得意とする。幽霊の正体と言ってもいい。それが魂を取りこみ、実体化したのがいまの君ってこと」
「信じられねぇ。信じたくもねぇ。俺を騙してなにが楽しいんだよっ!!」
「まだ信じられないの。それなら、もっとはっきりした証拠を見せることにするわ」
 通りのタクシーをひろい、車内の後部座席から行き先を運転手に告げた。私の隣にいる彼の顔は血の気が失せている。自分が死んだのを拒絶したいようにも、真実を知りたいようにも私の目には映った。
 さっきの交差点から十分ほどでタクシーを降り、二階建ての家の前にやってくる。
「ここに見覚えは?」
「……俺の家」
「帰り道は忘れていても、家のことは覚えているみたいね」
 家の玄関ドアに近づいたが、彼は中に入ろうとしない。
「賢明だわ。死んだ息子が現れたとなれば、親も驚いて収拾がつかなくなる。姿を消して。そこからは私が上手くやるから」
 彼が姿を消したため、傍目からでは私だけになった。
「夜分遅くすいません。亡くなった陸さんの知人の遠見という者です」
 インターフォン越しにそう言うと、玄関ドアが開く。後ろをちらと振り返り、透明な彼へ家の中に入るように合図した。
「申し訳ないです。急に立ち寄ってしまって」
「失礼ですが陸とは、どういったご関係だったのでしょう?」
 四十代とおぼしき彼の母親は、突然の来訪者である私にそう聞いてくる。
「陸さんの通っていた、予備校の者です。彼とはあまり面識はなかったのですが、友人から亡くなったと聞きまして。その友人から、こちらの家も教えてもらいました」
 一緒の予備校というのは、もちろん嘘だ。しかし工作済みのため、私の名前は予備校のPCデータバンクに受講生として記録されていた。
「予備校からの帰り道なのですが、線香をあげにきました」
「そうですか。どうか陸に会っていってください」
 亡くなった息子と同年代の私が線香をあげるというのを、無下に断る親はいない。私は一階の仏間に通される。仏壇には彼の小さな遺影と位牌が置かれており、線香をあげて両手を合わせた。
「母さん! 俺だよ! 帰ってきたんだ!! なぁ、母さんたら! 聞こえてるか!? なぁ、なぁっつってんだろ!!」
 彼は叫んだが、その声は相手に届かない。
「ほら、俺だよ! 見えるだろ!?」
 彼は姿を見せているつもりかもしれないが、母親にはなにも見えないはずだ。急速に影水との同化が進んでおり、声も伝わらず、姿も希薄になっている。
 母親への挨拶もそこそこに、私たちは彼の家を後にした。タクシーがこない細い通りなので、外灯に照らされた夜道を二人で歩く。
「わかったでしょ、君は死んでいる。そして、君の存在はすでに遡行者(そこうしゃ)の私にしか見えないほどになっている。タクシーに乗る前までは実体化していたのに、それからは体を失いつつある。この状態を見るなんて、普通の人には無理だわ」
「霊感とかそういうことか?」
「まぁ似たようなものかしら。私たちはそれを感じ取る者を遡行者と呼んでいる。人は本来、鋭敏な感覚をもってるんだけど、進化の過程でそれらを捨て、いま に至った。しかし中には捨てたはずの能力を持った、私みたいなのもいる。いまという時間を逆行し、遡った能力を持つ人間……遡行者っていうのは、そういう 人たちのこと」
 シャッターの閉まった商店街のアーケードを、あてもなくぶらついて会話を続ける。
「俺、どれくらいもつ?」
 医者に余命を聞く患者のような諦めが、その声には含まれていた。
「影水との同化から考えると、もって今夜ってとこ。それ以降、君は意識と肉体を保てなくなり、この街を透明なままで彷徨うことになる。私はそれを忠告しにやってきたの」
「そっか……」
「この後はどうするの。魂が影水と完全に同化するまで、静かに待つのもいいわ」
 これは死の宣告に等しかった。彼の二回目の人生は、終焉が近づいている。
「それ、やだな。俺が俺でなくなるのを待つなんて。その影水っていうのから離れたい。それで命が消えるなら、それでもいいさ。だって、このままだと俺は人じゃなくなるんだろ」
「公園で会ったとき、昼間の記憶があるかと質問したわね。影水は昼間に実体化できない特徴がある。君は気づくといつの間にか、夜の街中に立っていたような感覚を味わっていたはずよ。それは影水として、唐突に湧き上がったことによるものが原因なの」
「なんで忠告しにきた。さっさと俺を、成仏させればいいじゃねーか」
「それは専門外ね。……仮に暴れている人がいたとする。その人は何故、暴れまわっていると思う?」
「なにか嫌なことでもあったとか」
「そうね。暴れるという行動は思考の終着点にすぎない。肝心なのは暴れていることよりも、その人の心が何に納得していないかって部分にある。納得すれば、 その人は暴れるのをやめる。君のように、いきなりアヤカシになってしまった者にもいろいろいる。自分がアヤカシなことに納得できず、人に害をなす者も少な くない。私は彼等がそうなるのを未然に防ぐための、人間側からの相談役なの。だから、君とこうして話すことのみでしか、問題を解決することができない」
「変わったことしてんだな」
 彼の姿は遡行者の私から見ても、その存在感が薄くなってきている。下手をすると、数時間後の朝を迎えられるかも危うい。それを口にするほど、私は残酷ではなかった。短い寿命がさらに短くなったといえば、彼は動揺する。いま、彼に必要なのは安らぎであった。
 近くに二十四時間営業のバッテイングセンターが見えたので入ってみるが、私たち以外には誰もいない。平日の午前零時すぎの娯楽施設なんて、どこもこんなものだろう。
 談話スペースのテーブルに自販機で買った缶コーヒーを置き、錆びたパイプ椅子に座った。
「さっきの話だけど、本気で影水と分離したいと考えているの? それは君自身が消えるということでもあるわ」
「本気さ。意識のなくなった俺が、街を彷徨うなんて御免だね。それに、ずっと行きたかった家にも行けたし。もうこの世に思い残すことはない」
 私は缶コーヒーを開け、一口だけ啜る。――苦い。缶コーヒーよりも、ミルクココアにしておけばよかったと軽く後悔した。
「影水の力が、最も弱まるのは夜明け。そのタイミングで分離を強く望めば、君はこの世界から消失する」
「朝まであと六時間くらいか。それが俺に残されたこの世で過ごせる時間……」
「そういうことになるわ」
 感傷的になるのは避けたかった。彼は一度死んでいるわけで、影水の肉体を得て二度目の生を受けている。車に撥ねられ、なにが起こったかわからないまま一 度死んだのに比べたら、二度目の生は死までの猶予を与えられているのだ。これはむしろ、喜ぶべきことではないだろうか。そうでもないという、正反対の自分 もいた。二度も生を授けられ、二度も死を経験する。彼が平静を保っていることが、逆に痛々しく感じられた。
「……意外と怖いもんだな」
 そう呟いた彼の頬に澄んだ雫が流れ落ちる。
「自分が消えるということに、怖さを感じない人なんていない。君は正常……言い方を変えるわ。君はまだ影水に侵蝕されていない、人間なの。奴等に魂まで食われたら、感情が失せて心が動かなくなる」
 そっとテーブルの上にハンカチを差し出すと、彼はそれで目元を拭き、元の位置に戻す。
「朝まで時間がある。私で良かったら話し相手になるけど」
 彼は子供のときのことを語る。絵のコンクールで賞をもらったとか、宿題を忘れて教師に怒られたなどの記憶の断片だ。それが、この少年の生きた証でもある。
 黙りこんではまた喋り始め、それを互いに何度も繰り返すうち、空は夜明けの色に染まってきた。
 私たちはバッティングセンターを出て、大通りの方角に歩きだす。
「俺の体は影水でできてるらしいけど、どんな奴なんだ。一ヶ月も一緒にいたのに、まったくわからない」
「影水は人々が忘れた思い出の残滓。一人や二人がなにかを忘れたところで、どうってことない。では、それが千人や一万人ならどうかしら。それだけの数の思 い出が、この街では秒単位で忘れられていく。行き場をなくした思い出たちは、やがて薄暗いビルとビルの狭間に水のように溜まり、影となって夜の街を徘徊し はじめる。それが影水というアヤカシの成り立ち。奴等も永遠に生きるわけじゃなく、思い出が風化していくようにそのうち消えてしまう。忘れられたというこ とさえ、忘れられてしまえば、あとにはなにも残らないのと同じ」
「寂しい生き物だな……」
 ――街は目覚めつつあった。朝刊を配達する新聞屋のオートバイのエンジン音が、路地の奥から聞こえてくる。
 私たちは大通りの歩道橋で、夜明けを待った。
「俺のこと見えてる?」
「見えてるわ」
 そう返したが私には、彼の姿が見えていない。声の方向を見て、曖昧に頷いているだけである。彼は影水に、体を蝕まれてしまったのだ。
「嘘が下手だな。とっくに俺の体なんて消えてるの気づいてた。でも、ありがとう。遠見さん」
「最期に聞かせて。君は二度目の生を受けて幸せだったの? それとも……」
「俺は――」
 朝の陽光を浴びた彼は、水が弾ける音とともにこの世から消えた。
 歩道橋の床タイルには黒い水の染みが広がったが、砂上のようにすぐ乾いてしまう。
 木嶋陸という十七歳の少年の魂は、今度こそ天に昇った。
「……影水、あなたも損な役回りね。彼は両親や友人の心の中で、これから永遠に生きていくってのに。あなたは誰の心にも残らず消える」
 私は黒い水が消えた床を、憐れむような目で眺めた。
「せめて私くらいは、影水のあなたが彼と生きたことを覚えておくわ。……彼のように魂は貸せないけどね」
 朝の冷たい北風が、歩道橋に立つ私に吹きつけてくる。
 ――冬は、すぐそこまでやってきていた。



 ――了――


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