怪譚 漆話・覚夜

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 私にとってこの街の夜は馴染み深く、懐かしい時間であった。
 和太鼓と竹笛の音をたどって着いたのは、神社の参道だ。
 夏祭りの定番ともいうべき露店がいくつもならび、そこかしこで人々の陽気な声があがっている。
 石段をのぼって神社の境内に入ると舞台が設置され、地元の有志らしき者たちが祭り囃子を生演奏していた。
 彼らの前にはマイクがあり、そこで拾った音を参道のスピーカーで流すようだ。
 私の前では親子連れが、賑々しい祭り囃子を眺めている。
 しばらくすると演目が終わり、奏者たちが舞台を降りた。
 それから一時間後、参道の露店が店じまいを始める。
 業者は手際よく屋台を分解し、それをトラックに載せてどこかに行ってしまった。
 私はその様子を鳥居の真下で、ずっと見ていた。
 午前十二時にはすべてが撤去され、数時間前の活気がまるで嘘のように神社は静けさを取りもどす。
 ここには私だけしかない――わけでもなかった。
 参道に小学生らしき男の子が立っており、こちらに近づいてくる。
「なにか用?」
 私は少年に話しかけてみた。
「お姉ちゃん、長袖の制服なんて着てる。暑くないの」
「私は夏でも冬でも、この格好よ……あなた、いくつ?」
「八歳だよ。ねぇ、オバケっていると思う?」
 子供らしい話題の飛躍である。
「なんでそんなことを聞くの?」
「さっき道路で影が歩いてたんだ。他の人とかすり抜けてた」 
「どんな影?」
「なんか半透明っぽいやつ。オバケなんていないんだから、おかしいよね」
「いつから見えるようになったのかしら」
「今夜、初めて見た。あんなのいままで見たことない」
 この少年は遡行者としての能力を発現させ、アヤカシの影水を見たようだ。
「お姉ちゃん、ここ暑いから橋に行こう」
「近いの?」
「うん。あっちのほうに勝鬨橋っていう大きな橋があるんだ」
 彼の言うとおり、神社から勝鬨橋までは五分もかからなかった。
 川面に反射した街灯は、波に揺られるたびその形を変えている。
 隅田川に掛かったこの橋のすぐ先は東京湾であった。
「やっぱり、ここのほうが涼しい」
 彼は石柵の上に両手をつき、あたりを見渡す。
「お姉ちゃんが本当についてくると思わなかった」
 彼の頬がかすかに赤かった。
 私を誘ったことが、いまになって恥ずかしくなってきたのだろう。
「私には、行く場所なんてないわ。こうやって気まぐれに歩いているだけ」
「僕と同じだね」
 彼は退屈そうに言った。
「さっきのお祭り、毎年いってるんだ。去年までお父さんもきてたんだけど、今年は僕だけできてる」
 彼との心理的な距離がつかめない。
 この年齢の子供というのは、なにかをあけすけに話すかと思えば、ある部分ではなにを聞いても黙ったままというのも珍しくなかった。
 つまり、私が聞きたいことを、彼が正直に応えてくれるのか――そこがこの会話における最大の分岐点である。
 彼に質問したいのは『今年の祭りにあなたの父親はどうしてこないのか?』であるが、いま聞いても適当にあしらわれる空気が漂っていた。
 そのような問いさえ思案する理由は、彼の左上腕部にある。
 そこにある小さな茶褐色の円痕は、Tシャツの袖で隠されて見逃しがちだ。
 彼が腕を上げるたび、その痕が見える。
 すでに治りかけている烙印のようなそれを見たとき、彼の家族に対する黒い澱のような疑いが湧いた。
 会話というのは、よくボールに喩えられる。
 そのボールを受け取り、すぐ投げ返すのか、あるいは保留しつつタイミングを見計らって投げ返すのか。
 この見極めで、相手からの心象がだいぶ違ってしまう。
 私が以前に出会った盲目の遡行者は数分の会話で、その人物の本質を見切っていた。
 彼女と会ってからだいぶ時間は経ったが、あの境地の入り口にさえ私は達していない。
 だが、私の勘は彼の両親に問題があると告げている。
 それを信じるのであれば家族のことを聞くのは早く、彼が自分から語るように仕向ける必要があった。
「今夜のお祭りに友達はきてなかったの?」
 私は彼の交友関係を探ることにする。
「近所の直哉がいたけど、だれとも遊んじゃいけないってお母さんに言われてるんだ」
 彼から、母親の存在が語られた。
 こんな深夜に小学生の息子を一人で出歩かせ、友人と遊ぶことも許さない――第三者の目線からすると最悪の親である。
「お姉ちゃんのお父さんと、お母さんはなにしてるの?」
 純粋な興味から出た、彼の質問だ。
『なにしてるの?』という表現に幼さがある。
「両親は、もうこの世にいないわ」
 私は静かに流れる川を見下ろしながら言った。
 両親の死因は一般的なものから外れていたが、それを彼が知る必要はない。
「そうなんだ」
 死というものが遠すぎる彼にとって、それ以上でもそれ以下でもない反応だった。
 いま、彼の親のことを聞くべきなのかもしれない。
 人というのは相手がしたことと、同じことを自分も返さなくてはならないという衝動にかられる。
「あなたのご両親はどういう人たちなのかしら?」
 相手が両親の質問に応えたのだから、自分も両親の質問に応えるべき――心理学でいう返報性の原理というやつだ。
 単純な仕組みだが、それを会話の中で活かすには技術が必要になる。
 いくら心の動きのセオリーだとしても使うのが早ければ警戒されるし、遅ければ話題を蒸し返すことになって訝しがられる。
 会話における誘導というのは薬剤のようなもので、相手が気づかないまま飲ませて効果を発揮させなくてはならない。
 高校生のころの私がいまの話術を会得していたら、アヤカシ調査をもっとスムーズに進められていただろう。
「……お父さんは半年くらい前から帰ってこない。だからいまはお母さんと二人で暮らしてるんだ」
 ここでさらに深く訊くべきか、この話題から離れるべきか。
 彼の声は暗く、話しの続きが無明であるのを予感させた。
 アヤカシと遭遇する者は、精神に負荷が掛かっていることが珍しくない。
 やはり彼はなんらかの闇を抱えていると見るべきだ。
「お母さんはどういう人なの?」
 私は彼が遡行者になった原因を突き止めることにした。
 もう、戻ることはできない。
 ここから彼の心をメスで切り開くことになる。
 それを私は自覚しておくべきなのだ。
 なにも考えずに会話していたころ、何度も相手から拒絶された。
 隠したい辛い過去。
 触れられたくない凄惨な記憶。
 そういった繊細なものにこそ、アヤカシに関する解決の糸口がある。
 私が問題視しているのは彼が今夜、なぜ遡行者になったのかだ。
 アヤカシの影水くらいなら、気配に敏感な子でも見ることがある。
 しかし彼は遡行者としての能力が強いタイプにしか視認できない、”あるモノ”と会っている。
 それは同時に彼が大きな危機に直面している可能性を孕んでいた。
 遡行者能力の強さは、当事者の心理ダメージに概ね比例する――この法則に当てはめると、彼の周囲に潜む脅威をすぐにでも排除しなければいけない。
「僕のお母さんは……」
 彼はそこまで言って、語るのをやめた。
 こういったとき注視するのは、彼の目や手といった部位による反応ではなく全体の反応だ。
 たしかに目や手は心の動きと直結しており、感情を読むうえで手がかりとなる。
 しかし反応が顕著に出るのはそこだけではない。
 彼が何気なく右足の爪先で地面をトントンと鳴らしている仕草にも意味がこめられていた。
 それらの情報をすべて丸呑みし、彼の心を読み解いて会話の道筋を作る。
 相手が引くのであれば押し、押すのであれば引く。
 そうやって互いの距離を一定に保ち、核心へと向かう。
 高校生のころの私は純粋だったのかもしれない。
 こちらが真摯に質問すれば答えてくれるという愚直さで内調の職務をこなしていたのだから、若さというのはつくづく向こう見ずである。
「お母さんのこと、話したくないのね」
 私はここで話題を小休止させる。
 彼が爪先で地面を鳴らす動きに変化がないからだ。
 人は居心地が悪いとき、貧乏ゆすりなどを無意識に始める。
 それは転位行動と呼ばれており、彼が私との会話からすぐにでも脱したい心境のあらわれである。
 彼は察しているのかもしれない。
 私との会話により、いままで隠してきた事実が露呈しまうことを。
「お母さん、変なんだ」
「どう、変なの?」
「…………」
「しゃべらなければ、なにも相手に伝わらない」
 それは先代から私が言われたことであり、学んだ理念の一つであった。
 絶望した者は語らない。
 語ることに価値を見出せないから口を噤む。
 この少年のように。
 そして遡行者になったばかりのときの私のように。
 ――やや間をおいてから、私の言葉に後押しされたように彼は続きを語ってくれた。
「お父さんが帰ってこなくなってから、お母さんは変になった。いつもお酒ばかり飲んで、ご飯もたまにしかつくってくれなくなったんだ。学校にも行かなくていいといって、教科書とかランドセルを庭で燃やされた。だから今年の春から学校に行ってない」
「家に帰ってこないお父さんが、どこに行ったか心当たりはないの?」
「よく、わかんない。だけどお母さんが、あんな女のどこがいいのって言ってるのを何度も聞いた」
 多分、彼の父は不倫して家を出たのだろう。
 彼が中高生であれば、そのことに気づけたかもしれないが、八歳の小学生では意味がわからなくて当然である。
「あなたの腕にある、煙草を押し付けられた痕は狂ってしまった母親によるものなのね」
 私がそう言った直後、彼は爪先で地面を叩くのをやめた。
 さっきまで吹き抜けていた海からの風がやみ、あたりは無風になる。
「お姉ちゃんて、オバケみたいで怖い。姿を消して、前から僕のこと見てたんじゃないの」
 彼の瞳は闇の中で無機質な光を宿していた。
 それは川面に反射する街灯に似て、どこか虚ろだ。
「虐待されていたことを隠してきたのね。まわりに知られてしまえば、母親が罰を受けるから」
 子供は大人が考えている以上に、世間というものを把握している。
 虐待した親は鬼畜として扱われる――それはニュース番組を見ていれば一目瞭然だ。
「このままではあなたの心が壊れてしまうわ」
「僕をどうするの?」
「警察に保護してもらう」
 私がそう言うと彼は走って逃げようとする。
「明けない夜の中をいくら走っても、希望なんてない真っ暗な闇が続くだけよ」
 私が放った言葉は、彼の病巣を鋭いメスで切りとる最後の一振りである。
 それが通用しないのであれば、もう手の施しようがない。
 橋の先にあるのは、どこまでも広がる闇。
 あの闇に呑まれてしまった人たちを、内調に入ってから何人か見てきた。
 いわばこの橋は現世と異界の境界といっても過言ではないほど、彼は際どい場所に立っていた。
 ここから畏れながらも、闇を見据えて生きていくのか。
 それとも橋を渡りきり、私のように明けない夜の住人となってしまうのか。
 ――遠ざかっていく、小さな背中。
 だが徐々にその速度は落ち、彼は立ち止まる。
「もう嫌なんだ! お母さんに煙草を押し付けられたり、蹴られたりするの嫌なんだっ!!」
 半年間、彼が溜めこんできた悲しみが絶叫となって闇夜を貫く。
 彼はこの半年間、誰にも弱音を吐かず、気丈に振るまってきたのは想像に難くなかった。
 母親の優しさは子を守る盾であるが、それが不条理な暴力という刃に転じたとしたら……彼のショックは計り知れないものがある。
「自分の感情を他人に伝えるのは生者の役目よ。死者にその役目は二度と訪れない」
 私は先代の言葉をなぞるようにつぶやいた。
 彼の足元に雨のような涙の染みが、いくつも落ちているのが見える。
「体の傷を見せてみなさい」
 彼は手の甲で涙を拭い、素直にTシャツをめくった。
 そこには目をそむけたくなるような虐待の痕跡があった。
 胸部には蹴られたであろう鬱血した青痣、背中には煙草を押し付けられたいくつもの痕、肩口には刃物で斬りつけられたような生々しい裂傷まである。
 陰湿なのは、決して他人には見えないような位置ばかりに外傷があったことだ。
「僕の傷、ひどくない?」
 あどけない顔で彼にそう言われたが、私は「大丈夫よ」と無表情で答えるのが精一杯だ。
 幸いにも傷口が化膿したり、出血したりということはなかったが、このまま虐待を受け続ければ重傷どころか死に至ることもある。
 やはり、然るべき施設で保護してもらうのが最善だ。
「また、お母さんのつくるカレーを食べたいな。もうすぐお父さんも帰ってくるだろうし、みんなでカレーをたくさん食べるんだ。お姉ちゃんもカレー食べに僕の家にきなよ」
 彼の無垢な笑みが、私の心に突き刺さった。
 この子は虐待を受けながらも、母親に罪はないと思い込んでいる。
 何も知らないのは幸福であるというが、いずれ現実を直視するときがやってくる……彼も例外ではない。
「交番がどこにあるか知ってる?」
 ここに留まれる時間が残り少ないのを、小さくなってきた声で私は認識した。
 やはり現世は依代がなければ、長時間の存在は無理のようだ。
「あっちのほうにあるよ」 
 警察に保護されるべきだという私の説得に応じたらしく、彼は協力的だった。
「私たちは遡行者となった夜を”覚夜(かくや)”と呼ぶ。未来の悪夢が始まったのではなく、過去の悪夢から覚めた」
「それ、どういうこと?」
 彼は交番に向かう途中の会話で、そう聞いてきた。
「私を助けてくれた人がそう言ってたの。これからは私ではなく、あなたが受け継ぐ言葉よ」
 彼は難しい算数の問題を前にしたような顔で私の顔を見つめる。
 幼少期の虐待というのは遅効性の猛毒だ。
 肉体の傷が癒えても、精神は蝕まれていく。
 父親が不倫で家を出たことや、母親が無抵抗な自分を傷つけたことを、成長した彼がどのように受け止めるのか私には想像もつかない。
 先代の言葉が、これから闇に覆われる彼の心の灯火となるのを願わずにはいられなかった。
 ――やがて交番の近くまでやってきたが、彼はどうしていいか迷っている。
「まず警官に傷を見せなさい。それから後は彼らに任せておけばいい」
 彼は交番に入り、私の言ったとおり行動した。
 それを私は外から眺めている。
 中の動きが慌ただしくなった。
 傷を見た中年と若い二人の警官たちが、虐待事件と判断したからだ。
 彼と若い警官が外に出てきて、「君の言う、お姉ちゃんというのは、いないようだけど」と私の目の前で言った。
 その警官は彼に交番の前で待つように言いつけて、中に引っこんでしまった。
 これから警察署か病院に彼をパトカーで移送するのだろう。
「あのお巡りさん、お姉ちゃんが見えてなかった」
「私は存在の濃度が薄いもの。あなたのように遡行者としての能力が高い者にしか見えないくらいに」
 彼が神社で私を発見したときから、それは感じていた。
 影水の目撃者は多いが、私を見る者は稀である。
「もしかして本物のオバケなの?」
「オバケ、幽霊、アヤカシ、妖怪、呼び方は違うけど、人の精神が影響を及ぼしている点では同じ。発生源が土着信仰であったり、行き場のない思念であったりと細分化される」
「なにそれ、よくわかんない」
「わからなくていい。それよりもあなたよ。これからあなたは母親とは別の場所で生きていくことになる」
「お母さんが元に戻ってくれるなら、なんだっていい。お母さんと、すぐに会えるんでしょ?」
「ここまで重度の虐待だと、何年も会えないかもしれない」
「そんなに会えないんだ。じゃあ、みんなでカレーを食べるのはずっと先になるかも。それまでオバケのお姉ちゃんも、僕たちとカレー食べる約束を忘れないでね」
 私が黙って頷いていると、警官たちがパトカーで出発する準備を始めた。
「困ったことがあったら内調の遠見綾乃という人か、代議士の斉藤俊二という人を頼りなさい。アヤカシの私を見たと言えば、きっと力になってくれるわ」
「ナイチョウのトオミアヤノとダイギシのサイトウシュンジ……うん、誰だか知らないけど覚えとく」
 警官たちにうながされた彼はパトカーに乗り、後部座席のリアガラスから私に手を振った。
 私も、小さく手を振り返す。
 パトカーは20メートルほど先の交差点の信号を越え、すぐに見えなくなる。
 私は一人になり、勝鬨橋へと再びやってきた。
 橋には海からの風がもどってきている。
 今後、彼が辿るであろう道は平坦ではないはずだ。
 マスコミに報じられれば、彼の母親は犯罪者として日本中に広まる。
 彼は私を恨むかもしれない。
 母親から彼を引き離したのは、結果として私だからだ。
 ――他に彼を救う方法があったと思うの?
 私は自分に問いかけてみたが、なにも思い浮かばなかった。
 いまの”彼女”なら、今回の一件をどう処理したのか。
 内調としての経験も、私とは比較にならないほど積んでいるはず。
 こうやって現世にきていれば、いつかは彼女と会うことがあるのかもしれない。
 私は勝鬨橋を渡りきり、川沿いの暗がりを歩く。
 夜明けが近づいているせいで、段々と存在が薄くなっていくのがわかる。
 次に現れるのは都内の何処だろう。
 それは彼女の記憶によるものなので、私には発生場所を選択する権利はなかった。
 あるアヤカシは自分のことを、『過去と未来の狭間から生まれた、行き場のない何か』と言っていた。
 まさに私がそうである。
 調査する立場から、調査される立場になったことに奇妙な感慨があった。
 今夜会った彼のように遡行者となった夜を覚夜と呼ぶが、人がアヤカシとなった夜をなんと呼ぶのか。
 私は現世から消えていく中、そんなことを考える。
 ――私にとってこの街の夜は馴染み深く、懐かしい時間であった。


 ――了――



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