怪譚 幕間

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 新宿の自宅マンションに帰ってきて真っ先に私がしたことは、スーパーで買った品物を冷蔵庫に移すことだった。
 卵パックや牛乳などを冷蔵室に入れてから、居間の灯りを点けて座布団にすわる。
 三階のベランダに通じる窓からは、今日の役目を終えた太陽が沈もうとしていた。
 そういえば、”彼”はどこにいるのだろうか。
 私が彼を探そうとしたとき、部屋の隅のゴミ箱がカタカタと動く。
 そっとゴミ箱に近づくと、黒い子猫がうずくまっていた。
 ――五日ほど前の夕方のこと。
 大通りの横断歩道を渡ろうとしたとき、足元に黒い影のようなものが走った。
 それは黒い子猫で、道路を渡りたいらしいが車道にならぶ車に怯えている。
 私はその子猫を抱えて道路を横断し、反対側の歩道にたどりついた。
 すると私の腕から飛びおり、子猫は一目散に走りだす。
 なにを目指して走ったのか、すぐにわかった。
 コンクリートの側溝に黒毛の成猫が横になっていたからだ。
 腹部が上下していないので、すでに呼吸は止まっている。
 外傷はないが大量に吐血していることから、車に撥ねられて全身を地面に強く打ち、少し前に命を落としたのだろう。
 みゃあみゃあと母猫の前で子猫は鳴き続けた。
 それは『おかあさん、おきて』といっているように聞こえた。
 私は後ろから、その様子を黙ってみていた。
 やがて日は暮れ、通りの飲食店に灯りが点きはじめても子猫は母猫から離れようとしなかった。
 ここではそんなこと日常茶飯事だ――私を通りすぎていく人たちから、そういわれている気がした。
 このままでは、子猫も車に撥ねられてしまうかもしれない。
 私は大通りにある動物病院に子猫を連れていき、オスの生後約三ヶ月であることや彼が健康であることなどを獣医から聞く。
 それから、彼とのぎこちない共同生活が始まった。
 居間の窓際にあるネット通販で買った自動エサやり機の器は空になっており、ちゃんとエサを食べているようだ。
 私は警戒されているらしく、彼とは常に微妙な距離を保っている。
 テーブルに置いてあった緑色の猫じゃらし(これもネット通販で買った)を取り、無表情のまま振ってみた。
 彼は猫じゃらしに反応して、首を左右に動かしている。
 内心とても面白いのだが、私の表情に変化はない。
 視界に入った壁掛け時計をみると、すでに夕飯の準備をしないといけない時間になっていた。
 彼と遊んでいると、ついつい時間を忘れてしまう。
 私は自室で制服から、黒のキュロットスカートと白い長袖シャツに着替えて台所に立った。
 まず刻んだタマネギを炒め、ボールの中の挽肉に塩コショウを入れてこねる。
 そこに炒めたタマネギ、ナツメグ、卵黄、小麦粉、牛乳を混ぜ、また挽肉を強くこねていく。
 具材の混ざった挽肉を楕円形に整え、中心部を軽く凹ませてあとは焼くだけ。
 今夜はハンバーグを作ろうと昨日から決めていたのだ。
 彼は台所にある電子レンジに乗って、私がなにをしているのか観察している。
 できれば私の作ったハンバーグを彼に食べてほしいと思ったが、具として混ざっているタマネギは猫には毒でしかないと獣医から警告されていた。
 そもそも人間の食べるもの全般は塩分や糖分が高いため、猫に与えてはいけないともいわれた。
 ということで彼にとって最良の食事は、猫用の缶詰やドライフードなのだ。
 私はフライパンでハンバーグを焼きつつ、仕上げのソースをどうしようかと迷う。
 そういえば……私は冷蔵庫の中に大根があるのを忘れていた。
 それにより和風ソースに決定。
 焼いたハンバーグに緑の大葉を一枚敷き、雪のような大根おろしをかけてから、市販の柚子醤油を満遍なく垂らす。
 つけあわせの茹でたジャガイモ、ニンジン、ブロッコリーを皿に盛って完成した。
『取調べに対して澤村和夫元議員は収賄の容疑を大筋で認め、これにより東京地検特捜部は起訴の方針をかためました。また余罪についても追求を続けていくとのことです。現場からは以上です』
 居間に料理を運んでからリモコンでテレビを点けるとニュース番組が映り、夜の国会議事堂前で若手記者が辿々しく原稿を読んでいた。
 ここ数日、元議員が多額の賄賂を受け取った事件が各メデイアで報道されている。
 その事件の解明には、私も少なからず関与していた。
 しかしいまの私は特殊調査機関の一員とは程とおく、手作りハンバーグをもぐもぐ食べている普通の女子高生でしかない。
 そのハンバーグだけど焼き具合が丁度良く、さっぱりした柚子醤油と大根おろしが効いていてご飯がすすむ。
 晩御飯で使った食器を台所で洗うと、私は自室で問題集を開く。
 出席については国から免除されているが学校側にも体裁があるため、形ばかりの課題を与えられているのだ。
 椅子にすわって数学の問題を解いていると、自室のドア向こうで「にゃあ」と鳴く声がした。
 彼がドアを開けてほしいと訴えているので、私はその望みを叶えてやる。
 自室に入ってくるなり、彼はベッドに乗って室内を見渡す。
 それから特になにをするでもなく、また自室のドア前で「にゃあ」と鳴いた。
 ふたたびドアを開けると、彼は居間にもどっていく。
 自宅内をパトロールしているらしいが、実際のとこは謎である。
 猫の行動に意味を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。
 そうしたいから、そうしているだけ――五日間、彼と同居してわかったのはそれ。
 彼に警戒されてはいても気を使われたことは一度もなく、私も彼に気を使わないので楽ではある。
 自室での課題を終えたとき、日付が変わる二時間前になっていた。
 私は長い髪をバレッタで留め、お風呂で体を洗う。
 泡立ったボディソープをシャワーで流してから湯船に浸かっていると、いま関わっているアヤカシ案件のことを思いだした。
 様々な方面から依頼が舞いこむが、ほとんどは人為的なものが原因だったりする。
 見間違いなどの誤認によるものが圧倒的多数で、本当にアヤカシが絡む事案など依頼全体の数パーセントにすぎない。
 私は都内担当だが、地方にもアヤカシ専門の調査員がいると上司から説明を受けたことがある。
 地方の彼等も私と同じように、調査という名の無駄足を踏みまくっているのだろうか。
 あるいは私も知らないアヤカシと毎日のように顔を合わせているのだろうか。
 パジャマに着替えて脱衣所から出ると彼がいた。
 だからといって彼は私の後を追ってくるわけでもなく、毛繕いしているだけである。
 ……素っ気ない。
 これが犬であれば飼い主にじゃれついてくる場面のはず。
 犬と猫の決定的な違いを見せつけられながら、私は居間で髪を乾かした。
 脱衣所でこの長い髪を乾かすには時間がかかりすぎ、湯冷めしてしまうからだ。
 ドライヤーのスイッチを入れると、彼はどこかに逃げてしまう。
 温風の出る音が嫌いのようで、こうなるとしばらく居間にはこない。
 髪を櫛で何度も梳いて乾かしておかないと、翌朝は寝癖でひどいことになる。
 鏡の中にいる私の前髪は長さが均一ではない。
 いつもは眉毛のあたりで真一文字に揃っているのに。
 髪が伸びてきているので、美容院に行かねば。
 こうしていると猫の毛繕いが羨ましい。
 人間の髪の手入れは面倒なうえ、時間もかかる。
 私は髪を一房つかみ、猫のように舐めてみようとしたが馬鹿々々しくなってやめた。
 明日は朝から公務、昼には約束があるので早めに寝てしまおう。
 私が自室に行くと、洋服箪笥の上の竹籠で彼は丸くなっている。
 彼を一撫でしてから、私はベッドで横になった。





 翌日の朝九時、私の住むマンション前に黒塗りの公用車がやってくる。
 その車は仰々しく、青地に金色で描かれた桐紋の小旗がバンパーの右隅に立っていた。
 民家が立ち並ぶこの通りには、不似合いな存在である。
 運転手がおりてきて後部座席のドアを開けたので、セーラー服のスカートが皺にならないようにして車に乗りこんだ。
 自宅から内閣府までは新宿通りの突きあたりにある内堀通りを南下し、最高裁判所を右手に見ながら国会議事堂の真裏を通っていく。
 他の政府機関の建物にくらべ、内閣府の本庁は地味である。
 庁舎に入るとロビーのエレベーターに乗らず、私の所属する内閣調査室特殊対策課のある地下三階へと階段で向かう。
 薄暗い蛍光灯に照らされた廊下にはドアがあり、その左側の四番目ドアを開けた。
 広い室内には灰色の事務机に事務椅子、入り口のそばにはタイムレコーダーが設置され、それにタイムカードを差しこむと出勤扱いになる。
 一枚の紙が事務机にあり、『六階の特殊情報官室にきてください』と印字されていた。
 ここにくるといつもそうで、絶対にこの紙切れが怪盗の犯罪予告のように置かれている。
 もしかしたら置きっぱなしなのかと思い、公務のない日に不意打ちできてみたが紙はなかった。
 私がくるたびに同じ文面で紙を印刷しているか、同じ紙を使いまわしているのかもしれない。
 ここで仕事をしたことはなく、私はオフィスを別の場所に構えていた。
 この地下三階にくるのはタイムカードを押すときだけで、事務机と事務椅子は無用の長物と化している。
 そのわりには部屋に塵ひとつ落ちていなかった。
 上司がこの部屋を掃除しているのだろうかと想像してみたが、それにはだいぶ無理がある。
 紙に書かれた指示どおり、一階のロビーからエレベーターで六階に昇る。
 エレベーター内に居合わせた職員たちから、場違いな制服少女がいるという視線を感じるがこれもいつものことであった。
 六階の特殊情報調査官室とプラスチックプレートに書かれた扉をノックすると、「入ってください」と男性の声が返ってくる。
 室内には赤絨毯が敷かれ、執務用の大きな木製デスクと談話用の革張りソファが四脚に硝子テーブルがあった。
 さっき返事をした背広男は木製デスクの前に立ち、後ろで腕組みしている。
 彼が上司の安土公克(あずちきみかつ)。
 長身痩躯で髪型は七三分け、そしてノンフレームの眼鏡をかけている。
 年齢は四十には届いていないように見えるので、三十代半ばから後半という線が濃厚だろう。
 世間一般における、キャリア官僚のイメージを凝縮したような容姿――それが最もわかりやすい説明かも。
 初対面のときに貰った名刺を見て名を知っているだけで、彼の出身地や配偶者の有無、その他諸々の身辺情報は聞いてはいない。
「遠見さん、おはようございます。それでは定例会を始めます」
 この定例会は二ヶ月に一回の割合でおこなわれ、室内のプロジェクターを用いる。
 真っ暗な室内の壁面スクリーンに、アヤカシの都内発生分布図や依頼調査の内訳グラフなどが投影された。
 台本もないアドリブのくせに発言を噛むこともなく進行させ、すべての報告が終了してから「なにかご質問は?」と安土がたずねるのが、この定例会ではお馴染みになっていた。
「猫を飼っているのですね」
 私が質問せずにいると、彼は意外なことをいってきた。
「どうして?」
「猫の毛がついています」
 彼は私のセーラー服の上着裾を指差す。
「飼っているのではなく、どこかで猫を抱っこしただけかもしれないとは考えないの?」
「考えません。その毛は裾の内側から出ています。自宅で制服の中に猫が入ったのでしょう」
 その推理は正解なのだが、私は釈然としない。
 要は、この人があまり好きではないのだ。
 安土は国内のアヤカシ情報を網羅し、遡行者についても知りすぎるほど知っている。
 両親を目の前で惨殺されたことだけでなく、小中高の成績、性格傾向、遡行者として得意不得意の分野、果てには恋人がいるかいないかまで私の情報を彼は入手していると先代から聞いた。
 その反面、彼は私の要請が適正だと判断すると議員たちに念書を書くように手配したり、首相と直接電話できるようにしてくれる。
 仕事では有能な人物であるのは間違いないが、非常にとっつきが悪い。
 まるでロボットと会話しているような無機質さが彼にはある。
「ご質問はないようですね。退勤のタイムカードは、わたしが責任をもって打刻しておきます」
 私は心のこもっていない一礼をして退室した。
 屋外に出ると朝に乗った公用車の運転手がやってきて、自宅に送るといいだす。
「帰りに寄りたい場所があるの」
 私は運転手にそれだけ伝え、内閣府から徒歩十分の桜田門駅に歩きだした。
 その駅の改札で、ある人物と待ち合わせの約束をしている。
「おひさしぶりね、内調の新人さん」
 会うことになっていたのは、宮内庁の陰陽師・三条院奈実で面と向かって会話するのは二度目である。
 彼女の下半身はショートデニムにキャメルカラーの編み上げロングブーツ、上半身はプリントTシャツの上からゆったりとしたサイズの濃紺パーカーを着ていた。
 髪型はツインテールで黒縁眼鏡をかけ、ストラップ付きの大きなアイボリーホワイトのバッグを肩からさげている。
 私の地味な制服姿とは大違いであった。
「こないだ、あんたから連絡がきたときは驚いたわ。しかも直接会いたいなんて。初めて会ったとき、絶対に嫌われたと思ってたし」
「あなたのことは、いまも嫌いよ」
「へぇ、嫌いだけど私と会いたいんだ」
 意地の悪い笑みを浮かべた彼女に顔を近づけられ、私は後ろに一歩下がった。
「入学式のときにキスしたこと、まだ怒ってんの?」
「…………」
「……無表情のまま、頬を赤くするのやめなさいよ」
 彼女にそういわれ、自分が赤面しているのだと知る。
 私たちは地上にでて適当な喫茶店に入ると、互いにホットコーヒーをウェイターに注文した。
「どうやってあたしの携帯番号を調べたのよ」
「うちの上司にアヤカシ絡みで陰陽師の力を借りたいといったら、あなたの携帯番号を教えてくれた」
「なにそれ。そんなんで宮内庁に一人しかいない、あたしみたいな貴重で可愛い陰陽師と連絡が取れちゃうわけ? あんたんとこの上司、機密保持って概念が抜け落ちてる」
 自分で可愛いというだけあって、彼女の顔はアイドルのように華があり綺麗だった。
 自信家ぶりは健在だが、初対面のときよりも落ち着いた雰囲気がある。
「依頼についてだけど、結論からいうとあの件は可能よ」
 彼女にあることを頼んでいたため、その進捗状況を会って聞くことになっていたのだ。
 私の能力はアヤカシの微量な気配や痕跡を探ったり、事前に発生を予知するということが苦手である。
 今回の依頼は陰陽師の彼女にしかこなせないものであった。
「条件については特定できた?」
「わかったのは年単位で発生してるってことだけ。あんたの先代、伏宮遥(ふしみやはるか)が消えたのは一年半前、あたしたちが高校に入学する直前の三月。その後、異界化した形跡は現地になかった」
「そう」と私は短くこたえ、運ばれてきたホットコーヒーにミルクと砂糖を混ぜる。
「あんなこと調べてどうすんの。あんた、まさか……」
 奈実の声が低くなり、問いただすような口調になった。
「私も調査をしていたの。京都にいた、ある姉妹を。その姉は由緒ある陰陽師の家系、土御門の次期当主を継ぐ予定だった。だけど、そうはならなかった。その 姉は十四歳のときに失踪する。姉の一歳下の妹は十五歳で土御門の当主を継いだ。……その妹の名前は三条院奈実、あなただわ」
「よく調べたじゃない。あんたがあたしと初めて会ったときとは逆の立場ね。だけどあたしはあんたと違って、怒りで我を忘れたりしない」
 奈実の表情が哀しそうに曇った。
 私は彼女の素性を調べたのだが、入学式の日に逆上させられた借りを返すためにそうしたわけではない。
 彼女の姉が失踪――そこに私は引っかかっているのだ。
「あなたのお姉さんはどこにいったの?」
 彼女は、なにもこたえない。
「私たちが異界と呼ぶあそこにはなにがあるの?」
 店内には私と奈実しかいないため、自分の声がとても響いたように感じる。
「あたしからいえるのは、先代の伏宮遥のことは忘れなさいってこと。あの件はあんたが深入りして無事で済むものではない……」
 それだけいうと、奈実は領収書をレジで精算して帰ってしまった。
 ――彼女は異界になにがあるのかを、知っているのかもしれない。
 だからこそ私に注意を促したのだ。
 彼女の辛い過去を引き合いにだし、異界について聞きだそうとしたことに今更ながら自己嫌悪する。
 会話中に相手が席を立つなど、交渉を生業とする人間として最低の部類だ。
 いまほど内閣調査室特殊対策課課長という長ったらしい肩書が、分不相応だと思うことはなかった。


 私が自宅マンションに帰宅したとき、外は暗くなっていた。
 居間に行くとテレビ台の棚で子猫の彼がくつろいでいる。
 私は晩御飯を作る気力がなかったため、コンビニで買ったカルボナーラスパゲティーをぼそぼそと食べはじめた。
 家に帰ってきたはいいが、まだ大仕事が残っているのだ。
 それは今日こそ、彼の体を洗うことだった。
 私は体操着姿になり、彼を抱えて浴室に行くと買い置きしてあった猫用シャンプーをプラスチック製の桶で泡立たせる。
「にゃーお、にゃーお!」
 激しく鳴きながら、彼は私の腕から懸命に逃げようとした。
 猫は水を嫌うとは聞いていたが、ここまでとは。
 桶の中に、ゆっくりと彼を浸からせる。
 諦めたのか、危険ではないと理解したのか、それとも両方なのか……彼は抵抗をやめた。
 彼の足首から胴体を撫でるように手早く洗ったが、首まわりから頭部にかけては湯が入ってしまいそうな耳が近いので慎重に汚れを落としていく。
 全身を洗うと、予想よりも小さい彼の体がそこにあった。
 毛が濡れているので、いつものボリュームがない。
 桶の中のシャンプーを排水口に流し、湯を入れ替える。
 すると彼は自分から桶の湯に浸かりだして私は感心したのだが、それこそ”そうしたいから、そうしているだけ”なのだろう。
 彼を脱衣所のバスタオルで念入りに拭き、ドライヤーの温風で乾かす。
 ドライヤー音を嫌うわけでもなく、ひたすら風に吹かれている彼の毛にふんわりとした感じがもどってくる。
 入浴のご褒美として高級な猫缶を晩御飯としてだすと、彼はむしゃむしゃと勢いよくそれを食べてすぐに容器が空になった。
 私もお風呂に入り、翌日の日程をノートパソコンで確認してから就寝する。





 その夜、夢を見た。
 あたりは霧に包まれ、地面がアスファルトなことだけがわかる。
 私のすぐ先に黒猫の親子がいた。
 その親子の後ろを歩いていくと、不思議な猫たちにでくわした。
 それは三毛猫と錆猫の二匹の猫で正面の左右に鎮座しており、まるで神社の狛犬を思わせる。
 その二匹の奥はさらに霧が濃くなっていて、一度入ったら二度と出られそうにない。
 母猫は子猫に毛繕いを始め、それを濃霧の前にいる猫たちが静かに見守っている。
 しばらく経つと母猫は濃霧に向かって歩きだす。
 子猫がそれについていこうとしたとき、母猫が鳴き声を荒くして威嚇した。
 いままで穏やかだった母猫だけに、その豹変ぶりが凄まじい。
 子猫は一喝されて萎縮し、その場でたじろいだ。
 三毛猫と錆猫の目は、『そろそろ行くとしようか』と母猫にいっていた。
 母猫は『はい』とこたえるように瞳を閉じる。
 濃霧の向こうに行く寸前、母猫はなにかを語りかけるような目で私を見つめてきた。
 母猫がなにをいいたいのかわかり、胸元に子猫を抱きかかえる。
 安堵したような足取りで、母猫は濃霧の中に消えていった。
 左右にいた三毛猫と錆猫が挨拶するように私の前にやってくる。
 その二匹も濃霧の奥に消えていき、ここには私と子猫だけしかいなくなった。
『おかあさん』と鳴き続ける子猫の声だけが、霧の中を哀しげに漂う。





 ――私が目覚めたとき、部屋はまだ暗かった。
 枕元の時計を見ると丁度、午前三時である。
 布団の中が暖かいので見ると、子猫の彼が初めて私の胸元で寝息をたてていた。
 今日で彼がきて一週間になる。
 そうだ、そろそろ彼に名前をつけよう。
 ……エンジュ(槐)というのはどうかしらと、微睡みの中で思いつく。
 それは白く小さな花をつける樹で、たしか花言葉は幸運のはず。
 私は母猫のようにエンジュを抱きしめ、また眠りにつくのだった。


 ――了――



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