怪譚 伍話・迎法師
東京・渋谷区にある、なんの変哲もない昼間の路地に私は立っていた。
背後にはコンビニがあり、奥には交通量の多い大通りが見えている。
距離にすれば全長30メートルほどの路地であった。
「ここが問題の通りでしてね。今月だけで三人も行方不明者が出てる」
電柱の側でそう言った彼の名前は、寺田史郎(てらだしろう)という。
ここに来る前の東渋谷警察署で自己紹介された。
年齢は五十に入るか入らないかのあたりで頭髪が薄く、皺だらけの茶色いコート姿の冴えない風貌をしている。
「警察(そっち)の事件報告書を読んだけど、行方不明者に多額の借金は無かったそうね」
「金銭トラブルの他には、犯罪に巻き込まれたなんてのもありがちですなぁ。ですがいまのところ、そういったこともないようです」
「事件の目撃者はいるのかしら」
「目撃者というか……お会いになりますか?」
「今できることは、それくらいしかなさそうだもの」
彼は車に乗りこんで運転を始め、右手で角張った顎を撫でる。
「それにしても、こんな行方不明事件になんで内調のあなたが出てくるんです?」
「一ヶ月間、同じ地域で三人も行方不明者が出ているわ。偶然で片付けるのが、難しくなってきたからよ」
「自分も二十年以上、刑事(デカ)やってますがね、こんなこたぁ初めてです。この近辺の巡回を強化してたんですが、その矢先にこれだから、たまったも
んじゃない。行方不明者の家族にも会いましたが、原因がさっぱりわからんのです。一人目は佐々木洋輔という、いたって普通の勤め人でして。大手家電メーカ
に勤める五十四歳の既婚男性。金関係を洗ってみましたが、どこにも借金はなく、そっち方面のブラックリストにも載っていなかった。職場での勤務態度も真面
目で、なにかに悩んでいた様子も無かったようです。二人目は梶原美樹という二十二歳のキャバ嬢。その娘も一人目の男性と同じように、職場でのトラブルはあ
りませんでした。借金は数万程度で、収入のバランスからすればすぐにでも返せるような額です。三人目は清川宏という三十歳の新婚男性。これも特に問題な
かったです。その三人に共通しているのは失踪の時刻が深夜で、この通りで消えたってこと。いずれも行方不明になってから、五日ほどで警察に届け出がありまし
た」
車のウィンカーを点灯させ、彼は左の路地にハンドルをきった。
「三人目の行方不明者である、清川さんを最後に目撃していたのはコンビニ店員です」
「向かっているのは、その目撃者の自宅ということ?」
「いえ……詳しくは会ってみてください」
彼は歯切れ悪く言い、コインパーキングに車を停める。
都内でも有数の高級住宅街の一角にその家はあった。
敷地沿いに長く続く土壁と武家屋敷のような門構えから、居住者の桁違いな資産家ぶりが見て取れる。
「東渋谷警察の者です」
門に付けられたインターフォン越しに彼が要件を説明すると、和装の四十代らしき女性が木製の引き戸玄関から現れた。
「咲美さんはご在宅ですか」
「今日は日曜で、特に用もないので家にいます。先日で事情聴取は終わったと、お聞きしましたが……」
咲美の母親であろう女性の顔は不安そうだ。
「聴取は署にきて頂いたとき、終わっています。今回は軽いお話というか、そんなとこです」
「娘を呼んできますので、こちらでお待ち下さい」
私と寺田が待たされたのは、屋内の広い和室だった。
床の間には活けられた花があり、水墨による山水画の掛け軸がその壁にさがっている。
私たちの前には煎茶と羊羹が置かれ、咲美の母は軽く会釈して部屋から出た。
じっと黙りこんでいると、音もなく襖が開く。
「今日はどのような、ご用件ですか?」
座布団に座った、ショートカットの少女が言う。
彼女の隣にはハーネスを付けたラブラドールの成犬が座り、こちらを見ている。
「今日は、わたしだけではないんです」
そう言って寺田は、私に視線を向けた。
その意味を理解する。
咲美は盲人なのだ。
彼女の横にいる犬は盲導犬で、彼女の目となっているのである。
「内閣調査室の遠見綾乃よ。はじめまして」
「はじめまして、遠見さん。わたしは目が不自由で……。それにしても、聞いたことがない役職ですね。声の感じからすると十代の方?」
「こないだ高校三年生になった。あなたは?」
「盲学校の高校三年です。同じ学年ですね」
彼女の所作には品があった。
それが先天的なものなのか、後天的なものなのかまでは洞察できないが、彼女の母親の影響が色濃く出ているのは間違いなさそうだ。
私は彼女と互いの私生活について語り、寺田がそれに端々で加わるという流れになった。
「三人目の行方不明者の近くにいたのが、この咲美さんなんだよ」
会話が途切れがちになったころ、寺田はそう言って事件の話題を振った。
「足音を聞いたかもしれないんです」
この家にくる前に、彼女が”目撃者”と寺田が断言しなかったのは、このことだったらしい。
見てはいないが事件現場に居合わせており、最後に清川と接触したかもしれないのは盲人の彼女なのだ。
「路地の入り口の角にはコンビニがあり、深夜二時に行方不明者の清川さんがそこに寄っている。そして路地の出口の大通りでは、タクシー運転手がいた。なん
でも、客が酔っ払いで料金を払ってもらえず、一時間もそこで立ち往生していたそうだ。しかし路地から清川さんが出てくるのを見ていない」
「その路地に脇道はなかったわね」
菓子楊枝に羊羹を刺し、口に運ぼうとする寺田に聞く。
「遠見さんも見たはずだが、左右がビルとマンションの壁面で塞がれている。事件当夜、咲美さんのことをタクシー運転手は見ているんだ。清川さんと咲美さんは、それぞれ路地の逆方向から入った。その真ん中で二人は会ったんじゃないかという話になる」
二つの出入り口には目撃者がおり、咲美と清川は路地の中央付近ですれ違った。
しかし、路地から出てきたのは咲美だけだったのだ。
事件の輪郭は見えてきたが、彼女の状況には不自然な点がある。
しかも、根本的な部分に。
「――なぜ、そんな深夜に街をうろついていたの?」
盲目の少女が深夜二時に街を徘徊するなど、私には想像もつかない。
寺田は羊羹を食べているだけで、話しに入ってこなかった。
彼は知らぬ顔をしているが、咲美が深夜に出歩いていた理由を聞き出せていないのだ。
それは彼女が、重く口を閉ざしたことでわかった。
「昨日、空き巣に入られた家に、これから事情聴取に行かにゃならんのです。遠見さんは、帰るときに電話ください。そいじゃ咲美さん、今日はお邪魔しました。お母様にも、よろしくお伝え下さい」
挨拶もそこそこに座布団から立ち上がった寺田から、携帯番号の書かれたメモを渡される。
彼が退室し、部屋は私を含めた二人と一匹になった。
「……少し外を歩きませんか?」
咲美からの提案で私たちは家を出て、近所にある代々木公園の歩道を歩く。
「桜は散ってしまいましたか?」
「ほとんど散ってしまったわ」
「そうですか。数日前まで、落ちてくる桜の花びらが頬にあたっていたんですけど。他にも匂いや気温でも季節を感じることがあります」
彼女の連れている盲導犬は、しきりに周囲を見ている。
「この子の名前はミルト。小学生六年生のときから一緒にいて、オスの七歳になります」
ミルトは賢いようで自分が紹介されたのを知ってか、『よろしく』といわんばかりに尻尾を激しく振った。
「立ち入ったことを聞くけど、いつから目は見えなくなったの?」
「生まれたときからです」
十八年間、世界を一度も見たことがない――彼女の心はどのように、その暗闇を払ってきたのだろう。
「あなたは強いのね」
「それ、よく言われます。でも目が見えるから、恐ろしい現実もあるんじゃないですか」
彼女の柔和な表情が消えた。
そのことにミルトも反応したらしく、飼い主を心配そうに見つめている。
「あなたはさっき季節の感じ方は匂いや気温と言った。それ以外にも、周囲の変化を感じ取る方法があるでしょ。たとえば音。深夜に行方不明者の足音を聞いたらしいけど、他にも別の音を聞いたんじゃない? それから、どうして深夜の街中にいたの?」
「遠見さんて、さっきの刑事さんより押しが強いんですね。……この世の地獄を見てきたように昏く、温もりなんてない声をしているくせに」
「彼になにか訊かれたの?」
「なんで行方不明者のいた路地にいたのかって、刑事さんから遠回しに何度も訊かれました。わたし、わかってもらえそうにないから、別の話題ではぐらかしたんです」
「そこまで、他人に話したくないこと?」
私は食い下がる。
彼女が”あれ”と会っていたとしたら、すぐにでも策を練らねばならない。
「どうして、そこまで聞きたがるんですか!」
歩みを止めた彼女は、声を荒げて言う。
――私は立ち入ってはいけない領域に足を踏み込んでしまった。
だが彼女の心の扉が閉ざされていくのを、なにもせずに見ているわけにはいかない。
それは内調で二年を過ごした、私なりの意地だ。
ここで引き下がるわけにはいかない……あの閉まりかけた心の扉を、なんとしてでもこじ開けたかった。
「あなたのご両親は、どう思ったんでしょうね。深夜に一人で街を歩くなんて、とても心配したはずよ」
口から飛び出した言葉は、私の率直な感想である。
彼女は会話によって生じる微妙な声質やタイミングの違いで相手の性格や感情を読むという、常人では考えられない高難度の技術を会得している。
さっきも『この世の地獄を見てきたような昏く、温もりなどない声をしているくせに』と、私の人物評を極自然に言ってのけた。
出会って一時間もしないうち、私の過去を彼女に覗かれた気分になった。
それは彼女が盲人になって獲得したものの、一つかもしれない。
そんな彼女に有効な言葉を探す時間稼ぎなど、通用しないだろう。
説得や情報を引き出す交渉術はアヤカシ調査の経験で培ったが、所詮は数年の付け焼き刃である。
彼女は”話す”ことの本質を捉えており、だからこそ何も考えずにさっきの言葉を放った。
この子に迂遠な言葉は、逆効果でしかない。
「深夜の街がどういうものか体感してみたかった。普通の人には大したことはないでしょうけど、わたしにとって深夜は別世界だったんです。だから両親には内
緒で、何度か深夜の街を歩いたんです。こないだそれがバレて玄関には警報センサーが取り付けられ、二度と深夜の外出は禁じられました。あなたが言うよう
に、父と母には迷惑をかけたと思います」
夜の街を歩いてみたいという渇望――私にとっての日常は、彼女にとっての非日常だったのである。
私は何故、彼女のこんな初歩的な欲求に気付けなかったのかと、自責の念にかられた。
きっと刑事の寺田も盲点だったはず。
彼女は深夜の街を歩いてみたかった。
本当にそれだけだったのだ。
「さっきの質問の続き。あなたはあの路地で被害者の足音とは別の音を聞いたんじゃないかしら」
彼女は緊張した面持ちで、ミルトのハーネスを右手でぐっと握る。
あの反応を、私はよく知っている。
恐怖だ。
「これは刑事さんにも話していませんが、あの路地で足音とは別の音を聞きました。輪の鳴るような音です」
「それ以外になにか変わったことは?」
「……ありません」
ここが引き際だった。
私は彼女を家に送り、スマートフォンで寺田に連絡を取る。
「あなた、私になら深夜に出歩いていた理由を彼女が話すと思っていたわね」
信号待ちの車内で、私は寺田にそう言った。
「女の子同士のよしみで話すんじゃないかと。俺には話してくれそうになかったもんで」
この寺田という男、見た目は鈍くさそうだが抜目のないところがある。
咲美と私を引き会わせたのは、事件現場に彼女が居合わせた理由を聞き出すためだったのだ。
「調書ってやつも面倒なもんで目撃者の目が見えなくても、現場に居た理由は書かなければならんのです。そこを空白にしてしまうと、上からいろいろと言われましてね。刑事といっても、お役所仕事なんですわ」
咲美が何故、深夜に歩いていたかを喋らなかったのか少しだけ理解できた。
彼女にとって、それは密やかな楽しみだったからだ。
それは盲目というハンデを背負った人のみに許される、至福の時間だったのかもしれない。
車の通りが少なくなる、静かな深夜の街。
自分の姿が闇に溶け、外界との境目が薄くなる時間帯。
深夜には、そうした不思議な魅力があるのも確かである。
「彼女は理由を喋ってくれたけど、あなたに教えたくない。内調にもプライバシーの守秘義務があるから、それを適用するわ」
寺田は心底残念そうな顔で、アクセルをゆっくりと踏みこむ。
「あの反応……彼女は見ている」
私は夕焼け色に染まった空をフロントガラス越しに眺め、ぽつりと言った。
「見ている? そりゃ、おかしい。彼女の目は見えないのに」
「いいえ、見ているわ」
「一体、なにを見たっていうんだ?」
彼は混乱した様子で私に訊く。
「――迎法師よ」
歩行者信号の青色が点滅し、赤になるのを見つめて私はつぶやいた。