世界樹の七葉T エルフは古城で黄昏れる7

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 二人がデオンの街に入るころ、雨が降り始めた。
「本降りになる前に、着いてよかったわね」
 エミリアの言葉にシオンが頷く。
 街中と野営での雨は、気持ちとしては雲泥の差だ。
 焚き火のない暗闇の中で夜を明かすのは、二度と御免だと彼は思っている。
「おう、二人とも。予約どおり一部屋空けてるぞ」
 酒場近くの宿屋に入ると受け付けに店主のシギがおり、二階からエプロン姿のニッケが慌ただしく降りてきた。
「いらっしゃい。今日は王都に向かう巡礼の人たちがきて満室なのよ。いつも通り、夕飯の時間には食堂にきて頂戴」
 王都シントーンは多数の宗教寺院があることでも有名で、世界各地からそこを目指す巡礼者も多い。
 二人が部屋に行く途中、人間の若い男女と小太りで筋肉質な髭面男と会った。
 髭面男はドワーフでやたらと背が小さく、シオンの胴体あたりまでの身長しかない。
 彼らは、十字架の描かれた青い法衣を着ている巡礼者だ。
 人間の夫婦らしき男女は、エミリアとシオンに軽く会釈する。
 だが、ドワーフ男は会釈などしなかった。
「エルフと同じ宿とはな。儂もヤキがまわったわい」
 エミリアに嫌味を吐いて、そのドワーフは一階に行ってしまった。
 彼等の信奉するファラン教には、トスという人間の救世主(メシア)が登場する。
 そのトスが一万年以上前、現世に降臨し、数々の奇跡を行ったというのがファラン教の興(おこ)りで、この大陸では一大勢力となっている。
 他にも東方で生まれたヤタ教や、万物は宇宙の一部でしかないという教義のハーキ教、太古の神話をモチーフにしたオーディン教などがあった。
 これらの宗教はいずれも旧く、ファラン教と同様に最低でも一万年以上前から存在していたとも言われている。
「ドワーフとエルフって、本当に仲が悪いんだね」
 シオンは濡れたマントを室内の木製ポールハンガーに掛け、エミリアとドワーフの廊下でのやりとりに呆れ顔になった。
 ちなみに人間は中立的な種族なため、商売ではエルフとドワーフの仲介役を務めるのが形式化している。
「もう慣れたわ。二百年前はそれどころじゃなかったんだけど。お互い、そんなことは忘れてしまったようね」
 ふと、エミリアは遠くを見るような目をした。
「エルフの宗派ってなんですか? さっきの人たちを見て、ちょっと気になったので。ボクはファラン教です。ぜんぜん熱心じゃない信者ですが」
「エルフはオーディン教が多いかしら。わたしは、ハーキ教なのよね。魔術はこの世の真理を識(し)ることが最終目標だけど、気術はこの世の真理と一体化するのが最終目標だから。……魔術は外部に真理を求め、気術は内部に真理を求める。どちらが正しいか知らないけど、わたしは気術の考え方が好きなのよ。だからハーキ教に入ったの。わたしも熱心さとは遠いけど」
 エミリアが言うように、それぞれの宗派は固有の思想がある。
 その思想は時として暴走し、しばしば血塗られた跡を歴史の中に残す。
 シオンの入っているファラン教は、他の宗派を弾圧してきた過去があった。
 現在、そうしたことは改善されたが、極一部の過激な信者たちはいまだに他宗派を異教徒として扱い、殺人事件にまで発展するケースもある。
「こないだこの宿をでるとき、ニッケさんに頼んで部屋を取っておいてもらって正解だったわね。こんな大雨だと、野宿も大変だったし」
 ガラス窓の外は風が強く、横殴りの雨が吹きつけている。
 今夜は嵐になりそうな気配だった。


 夕飯を終えたエミリアとシオンは、一階でずぶ濡れになったシギを見た。
「どうしたんですか?」
 困り果てた表情のシギにシオンは聞く。
「それがな……近所の女の子が街外れでいなくなってから、まだ帰ってないんだ。みんなで探してるんだが、見つからないから人を増やそうって話になってな」
「ボクも探します」
 シオンはすぐに部屋から、マントとショートソードを持ってきた。
「エミリアさんは休んでてよ」
「わたしをただの女と思ってるわけ? それに一人でも探す人は多いほうがいいでしょ」
「確かにそうだね。それからシギさん、武器になりそうな物を持ってないでしょ。ただの鉄の棒でもいいから、なにか武器になりそうなものを持ったほうがいいです。夜の街外れは危険です。探してる人たちにも、武器を必ず持つように言って」
「そ、そうだな。俺からみんなに伝えておく」
 エミリアが言いたかったことを、シオンが先に言ってしまった。
 冒険者と一般市民はこうした場面で大きく差がでる。
 言うなれば、緊急事態についての対処だ。
 シオンは片手にランプしか持っていないシギを見て、武器を持っていないことに気づいた。
 その観察力もさることながら、他の者たちが彼と同レベルというのも瞬時に察知して、全員に武器の携行を義務づける。
(……本当に男の子から、男になっちゃったのね)
 シオンの指示になにも付け足すことはないエミリアは、自分の手から少年が離れていくのを感じた。
「待て。聞き捨てならん話しだな。儂も行くぞ」
 それは廊下ですれ違った法衣姿の髭面ドワーフだった。
 二階になにかを取りに戻った彼が一階に戻ってくる。
 手には両手持ちの戦斧が握られていた。
「このようなときエルフに先を越されては、ドワーフとしては名折れだからな」
 ドワーフ男は不敵な笑みを浮かべた。
「――この辺りで、リーナはいなくなったらしい」
 シギに連れられた三人がきたのは、街外れの林だった。
 リーナとは女の子の名前で、いつも彼女はこの周辺で遊んでいたのだという。
 大粒の雨が降りしきる中、強風にあおられた木々が枝を揺らしてざわめいている。
 シオンはショートソードを鞘から抜いた。
「なぜ剣を抜く。魔物はまだ現れていないぞ?」
 ドワーフは鋭い眼光を向け、シオンに言った。
「嫌な予感がするんです。……街が近いから魔物は出ないとか、そんな学校の教本に載ってる常識よりもボクは自分の感覚を信用します。それにここは街外れとはいうけど、視界が木に阻まれて、いつ敵に襲われるかわかりません」
 ふむ、とドワーフは首肯した。
「儂も同じだ。こんな雨の日は、魔物が出やすいからの」
 宿屋のシギが武器を持たなかったのも、街に近いからという安心感がそうさせたものだ。
 ――しかし、どんな場合にもイレギュラーは存在する。
 シオンはこの捜索に、いつも以上の危険を感じていた。
(この少年、いい勘をしている。教本に頼らず、研ぎ澄ました己の感覚を最優先させる……冒険者としての素質は合格点どころか、満点じゃわい)
 自分の本職の癖でドワーフ男は彼に、ついつい点数をつけてしまう。
「まだ遭っていない敵に怯えても仕方ないけど、備えだけはしておいたほうがいいわ。わたしも胸騒ぎがする」
 エミリアは二人の会話に同調した。
 ……そして、それは起こるべくして起こる。
「シギ、大変だ! 林に入った捜索隊がゴブリンにやられた! 何人か怪我をしたらしい!」
 髪の長い若い男が走ってきて、シギに状況を報告してきた。
「くそっ、今からギルドで人集めしてる時間はないぞっ!」
 シギはマントについた雨粒を飛ばし、地面を蹴りつける。
「捜索してる人たちを、林から街に引き上げさせてください。ボクたちが代わりに捜索します」
「あんたら、ウチの客なのに……すまねぇ」
 シギはランタンに照らされた地図で、林の奥に洞窟があるのを三人に説明した。
「リーナは、その洞窟で雨風をしのいでいるんじゃないかってのが俺たちの予想だ」
 帰ってきた捜索隊の目撃談では、洞窟の近辺でゴブリンに出会い、その数はニ十匹はいたらしい。
「すぐに行かないと、手遅れになる」
 そう言ったシオンはランタンで前方を照らし、林の中に走りだした。
 彼はゴブリンの残忍さを身をもって経験しているため、一刻の猶予もないことに焦りだしている。
 その後を、エミリアとドワーフが追う。
「あなた、名前は?」
 エミリアは後ろを走るドワーフに聞いた。
 ドワーフは背が低いため歩幅が狭く、移動速度が遅いという欠点がある。
「エルフに名乗る名前はない……と、言いたいが、いざというとき儂のことを”アレ”や”ソレ”と呼ばれても困る。儂の名はザレッド」
「わたしはエミリアよ」
 エミリアは走りながら、周辺を見渡しているザレッドに名乗った。
「そっちの人間の少年、名を教えろ」
 一番走るのが遅いくせに、やたらと尊大な態度でドワーフ男はシオンに名を訊ねる。
「……シオンです。ザレッドさんはドワーフだから、夜でも敵が見えるんですよね?」
「まぁな。闇の中で敵を探すのは、まかせておけ……ここから左斜め前……距離は二十ナール(二十メートル)に六匹のゴブリンがおるぞ」
 ドワーフの彼は暗視が利くため、木々の隙間からゴブリンたちが見えている。
「ここからは時間との勝負よ。別行動にしましょう。シオン君とザレッドは洞窟に走って。リーナが見つかってない以上、ゴブリンを発見したらすぐに倒して、安全を確保しないといけないわ」
 エミリアは林の奥へと消えていった。
「エミリアとかいったか……あのエルフ、武器を持っていなかったが」
 ザレッドは、前を走るシオンに言う。
「彼女は大丈夫です」
 シオンが彼女に全幅の信頼を置いているのが、ザレッドにはわかった。
「……正面に五匹のゴブリンだ。これから戦闘になるが、儂のことは構わず、奥の洞窟に向かって全力で走れ。まだ敵がいるはずだ、気を抜くなシオン!」
「はいっ!」と応えたシオンは土砂降りの雨の中、ザレッドに引き寄せられるゴブリンたちを横目に疾走した。
 ――豪雨の中で、雷鳴が轟く。
 稲妻が近くの木に落雷し、周囲は真昼のような明るさに包まれた。
 それに反して視界の先には、ぽっかりと暗闇が続いている。
 洞窟の入口に、シオンは辿り着いたのだ。
(剣とランタンを握ってあれだけ走ったのに、あまり疲れてないや)
 シオンはこの旅の中で、肉体が知らぬ間に鍛えられているのを感じる。
 ランタンを左手に持ち、右手にはショートソードを装備して、彼は洞窟内を確認した。
 内部は広く、横幅は並んだ馬車が三台は走れるだろう。
(上は高すぎて、天井が見えない……)
 こうなると、ランタンの明かりでは心細くなる。
 以前に廃屋で戦ったが、あのときは部屋の隅まで明かりがとどいていた。
 今回は暗闇の部分が多すぎる。
 それだけに五感を頼りにして、敵の気配を探るしかなかった。
(どうして、いつもこんな酷い状況になっちゃうんだ!)
 シオンは己の運命を呪う。
 暗がりでの戦闘は、上級の冒険者でも嫌うほどである。
 特にゴブリンは暗視できるため、人間はその点が不利だった。
 彼は暗い洞窟を進んでいく。
 外とは違って、空気が淀んでいるのを彼は感じた。
(なんだろう……肌がヒリヒリする。よくわからないけど、これが敵の気配ってやつなのか?)
 ――ころん、と前方で石ころの転がる音が聞こえた。
(……いまのは!?)
 シオンはランタンを前にかざし、ゆっくりと歩く。
 ――そして、彼は見た。
 巨大な影が、洞窟の行き止まりの岩壁に映るのを。
 それに続いて、女の子の悲鳴があがった。
(な、なんだ……この音…………呼吸音……っ!?)
 脳に入ってくる情報が膨大なため、シオンは体の動きを本能にまかせるしかなかった。
 彼は身の危険を感じ、思いきり背後に飛び退く。
 バックステップというほど軽やかなものではないため、重心移動がめちゃくちゃで、彼は転倒しそうになってしまう。
「うわぁああっ!?」
 シオンの頭部があった場所を、何かが音を立てて通りすぎる。
 さっきシオンが聞いたのは思いきり、息を吸いこむ音だった。
 攻撃において、呼吸は重要な役割を担っている。
 息を吸うときは攻撃の予備動作であり、息を吐くときは攻撃を終えたときだ。
 彼は暗闇で聞き耳を立て、相手の攻撃を察知したのである。
 ランタンに照らされたものは移動しており、足と胴体しか見えない。
 その近くには、頭に赤いリボンをつけた十歳くらいの女の子……リーナがへたりこんでいた。
 どうやらランタンに照らされた魔物を彼女が見て、悲鳴を上げたようだ。
 彼女が襲われる前に、シオンは助けに入ることができた。
(こいつ……大きいぞ。しかも、人型だ!)
 ――彼は、敵の巨躯にたじろぐ。
 学院で受けた授業の記憶を頼りに、シオンはモンスターの照合を始めた。
 体の一部しか見えていないため、今のままでは”体の大きな人型の魔物”という不確定名である。
(こんなことになるなら、魔物関連の授業を真面目に受けておくんだった!)
 敵の正体がわからないというのは、冒険者にとって致命的である。
 種類によっては毒ガスや強酸を飛ばしてくることもあるため、敵の照合が遅れるというのは死に一歩近づいてしまう。
 シオンは危険を承知で前に踏みこみ、ランタンを真上に向けた。
 その生物は彼を見下ろす。
 目の赤い醜悪な顔が、そこにはあった。
 敵は右手に巨大な棍棒を握っており、さっきはそれを力任せに振りまわしていたらしい。
 あのとき飛び退いていなければ、頭部を割られて即死していたことにシオンは身がすくむ。
(こいつはホブゴブリンだ。学院の図鑑で見たけど、こんなに大きいのか!)
 ホブゴブリン――主に森林などに生息する亜人種である。
 特徴としてはゴブリンとよく似た外見であるが、平均身長はニナールから五ナールで腕力が強い。
 最大で十ナールのものも目撃されており、近年、『ゴブリンと巨人種のハーフではないか?』という新説が研究者たちの間では注目されている。
 シオンが見たこのホブゴブリンは、約三ナールのため平均的とも言えた。
 そうは言っても、自分の身長を超える魔物である。
 見下ろされる威圧感は、シオンにとって半端ではなかった。
「くっ……!!」
 シオンは横っ飛びでマントを翻し、ホブゴブリンの繰りだす棍棒の一撃をかわす。
(腰が引けてる……駄目だ。これじゃ敵に深い傷を与えられない!)
 シオンはランタンを地面に置き、ショートソードを両手で握って中段の構えをとった。
 盾があれば、戦局は変わっただろうか――と彼は考える。
 だが、たとえ盾を装備していても、あの棍棒の重い一撃を盾流し(シールド・パリィ)できるほど、彼の技量は高くない。
(ボクが盾を装備してても無駄だな。この状況の中で、やれることを探さないと。力でどうにかできる相手じゃない。……考えろ! 考えるんだ、シオン!!)
 シオンは額から汗を滲ませ、己を鼓舞した。
(体が大きいってことは、そんなに動きは速くないはずだ。前に出会ったゴブリンみたいに足を狙えば……)
 シオンは前転して、ホブゴブリンの左足の向こう脛を斬りつける。
 しかし、まったく手応えはなかった。
「…………ッ!?」
 ――腹部に激痛が奔る。
(ぐぁっ……!!)
 シオンの体は洞窟の地面を、鞠のようにバウンドした。
 地べたに這いつくばった彼は肋骨、腕、足を手でさすって傷の程度を確認する。
(よ、よかった……骨折はしていないらしい…でも……)
 ――左脇腹に、鋭い痛みがある。
 内蔵までは傷ついていないが、さきほどの攻撃を食らって体力をごっそりと奪われていた。
(あいつの足で蹴られたのか!)
 敵は左足を上げてショートソードをかわし、前転後に硬直した彼の脇腹を思いきり蹴飛ばしたのだ。
 彼がよろめきながら立ち上がろうとしたとき、巨体の怪物が近づいてきた。
「なにをするつもりだ……!?」
 ホブゴブリンは弱っているシオンの背骨を砕くため、正面から抱きすくめる。
 殺戮の喜びに敵が黄色い歯を見せて両腕に力を込めると、ぎちぎちとシオンの骨が軋んでいく。
「ぐああああああッ!!」
 唯一、自由に動かせる両手でシオンはホブゴブリンの顔を殴りつけたが効果はなく、さらに背骨を締め付ける腕力が強まる。
(こいつに体を持ち上げられたせいで、落としたショートソードまで手がとどかない!)
 彼はあまりの痛みに、視界が霞んできた。
(体が大きいから動きが遅いと思ったけど、完璧に読み違えたな。膝への攻撃をかわすってことは、こいつはかなり素早く動けるんだ……)
 途切れがちになる意識の中で、シオンはさっきの前転攻撃を振り返っている。
(ボクの旅は終わるのか……エミリアさんを、また抱きたかったのに)
 生き死にの瀬戸際で、彼女とセックスすることをボクは考えている――シオンは心の中で自嘲した。
 彼女の顔が脳裏によぎったとき、シオンはあることを思いだす。
(――そうだ、あれがあった。たしかここに……腕がまわらなくて取れない!)
 シオンは肉体を締め付けられながら、半ズボンのポケットの中にあるものを探す。
(も、もうすこし……もうすこしで……取れる!!)
 朦朧とした意識の中で苦痛に呻き、彼はついにそれを手にする。
「このおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
 シオンは体が押しつぶされそうな痛みに耐え、右手に持っている物をホブゴブリンの首筋に突き刺した。
「アガァアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
 ホブゴブリンの絶叫が洞窟内に反響し、シオンは鼓膜が破れるのではないかと思った。
(エミリアさんから渡されていたあれがなかったら、ボクはいまごろ背骨を折られて死んでいたはずだ)
 敵の首筋には、一本のダガーが生えていた。
 それは数日前、野営のときに焼いた肉を刺したダガーである。
 エミリアに何気なく渡された代物が、まさかこんな場面で役立つなどシオンは考えもしなかった。
(これからは予備武器に、ダガーを絶対に用意しておこう)
 ダガーの傷口から緑色の血液を噴き出しながらも、ホブゴブリンは倒れない。
 この魔物は冒険者たちの間で、”新人殺し(ルーキー・キラー)”と呼ばれている。
 異常な体力と巨体に似合わぬ俊敏さで、駆け出しの冒険者を葬るからだ。
 剣術学校を優秀な成績で卒業した生徒が、最初の冒険でこの強敵に出会ってしまい、殺害されるという事例も珍しくない。
 ゴブリン一匹であれば素人でも一対一で対処できるが、ホブゴブリン一匹に勝つとなると剣の腕に覚えがある者が必要になる。
 シオンはそんな魔物と死闘を繰り広げていた。
(首を刺しても死なないなんて、どんな体してるんだ!?)
 以前に戦闘を経験しているため、恐怖と向き合うことに慣れてきたシオンだが今回は相手が悪かった。
 自分の身の丈を遥かに超える敵が、大量に出血しながらも立っているというのは、見るものに畏怖を与える。
 彼の精神的な足場は、ぐらつきはじめていた。
 自信というのは、己の常識の範疇で生じるものである。
 その常識という枠を超えたとき、いままでの経験で培ってきた自信――精神的な足場は崩壊してしまう。
 足場をなくした者は、恐怖という底なし沼に落ちるしかない。
(こんな奴に勝てるわけがないんだ。ボクはまだ一回しか、実戦しことがないんだぞ。それなのに……なんで、ホブゴブリンと戦わなきゃいけないんだっ!)
 シオンはなにもかも捨てて、逃げ出したくなった。
 このままエミリアとザレッドを待つという手もあるが、後続のゴブリンたちによって、彼等の戦闘が長引いているのも考えられる。
 そして彼等がくるまで時間稼ぎができるほど、ホブゴブリンは甘くない魔物だとシオンは見ていた。
(どうすればいいんだ。逃げればリーナは、ホブゴブリンに殺される。そしてエミリアさんとザレッドがくる時間を稼げるほど、ボクは強くない)
 ――彼は、弱気になっている。
 逃げだすことや、味方がくるという”その場しのぎ”の思考に切り替わってしまったのを当人も自覚していない。
 恐怖にとらわれるのが最も厄介なのは、まさに無自覚という点であった。
 ベテランの冒険者は常に己の精神状態を把握しているため、恐怖から脱する術を知っている。
 シオンは冒険者として練れているわけではないため、一度でも恐怖にとらわれてしまうとそれを食い止めることが難しかった。
「……お兄ちゃんっ!!」
 洞窟の地面にしゃがみこんでいたリーナは、シオンにそう叫ぶ。
 いままで恐怖に支配されていた彼女が、勇気を必死に振り絞った声――シオンはその声で、懐かしい記憶を呼び覚ましていた。
『剣を取るんだシオン』
『父さんのような、強い冒険者になるんだろう?』
『あきらめては駄目だ』
『剣を取れ』
 それは彼の父の言葉だった。
(昔、父さんがボクに稽古をつけてくれたときのことだ。あのとき、ボクは泣きながら、落ちた剣を拾ったんだっけ)
 ホブゴブリンは首筋に刺さっていたダガーを引っこ抜き、地面に投げ捨てた。
「ボクはいつの間にか、負けていたみたいだ。大丈夫、君を絶対にここから助けだすから」
 リーナにそう言ったシオンの表情は柔らかだった。
 敵と間合いを取り、彼は洞窟に落ちているショートソードを拾う。
『そうだ、それでいい……シオン』
 再び剣を構えた彼の記憶の中の父は、そう言って優しく微笑んでいた。
(ボクは勝つための、いや生き残るための覚悟が足りなかったんだな)
『自分が危険に晒されたら、躊躇なく相手を殺すのよ』
 それは旅の初日、エミリアから聞いた教訓である。
 シオンはその言葉に対し、非情で残忍だとさえ感じた。
 だが、いまならはっきりわかる。
 エミリアは過去に、星の数ほどの死線を乗り越えてきたのだということを。
 魔物や野盗と戦うとき、そこに引き分けという結果はない。
 ――殺るか、殺られるか。
 この結末しかないのである。
「もう、躊躇しないよ……ボクはお前を全力で殺す」
 シオンの目が据わった。
 リーナも、彼の雰囲気の変化に息を呑む。
 棍棒を持ったホブゴブリンが、シオンに襲いかかる。
(ここだ!)
 シオンは横殴りの棍棒の下を、ぎりぎりでくぐり抜ける。
 そして身にまとっていたマントを外し、ホブゴブリンの頭に被せた。
「グアッ!? グガアアアアアアアアアア!!」
 雨水に濡れて重いマントで視界を奪われ、敵はマントを剥がすことに手こずった。
 ――それが、戦いの命運を分ける。
 ホブゴブリンは空中から、自分の体の真正面を見た。
 ――それには、頭部がなかった。
 落下までの時間の中、魔物は少ない脳味噌で自分の頭だけが胴体を離れ、宙を飛んでいると認識する。
 シオンは、ホブゴブリンの首を鮮やかに刎ねたのだ。
 マントを被せ、敵の後背にまわったシオン。
 そしてマントを剥がすタイミングを狙い、跳躍しながら相手の首筋にショートソードを水平に薙いだ。
 シオン自身、首を刎ねたことに驚いていた。
 たまたま力の乗りとタイミングが良かったせいか、刃に首の骨や肉などの抵抗をほとんど感じなかったのである。
 彼が落ちたマントの埃を払っていると、洞窟の入り口方向から足音がした。
「……大丈夫!?」
 暗闇の奥からエミリアの声がする。
 どうやら向こうも戦闘が終わったらしく、遅れてザレッドが駆けつける。
「これは見事だ。こいつは、痛みも感じずに死んだはずじゃ」
 ザレッドは、地面に落ちているホブゴブリンの首の断面を観察し、驚嘆の声を上げた。
「このお兄ちゃん、すごかったんだよ! 飛びながら、魔物の首を切ったんだから!」
 リーナはシオンに抱きつき、自分のことのように嬉しそうに語った。
(十四歳で、ほとんど戦闘経験がないのにホブゴブリンの首を刎ねるなんて。わたしは、この子を見くびっていたのかもしれない……)
 エミリアもホブゴブリンの首を眺め、内心で驚いている。
「街に戻りましょう。みんな、心配しているはずです」
 シオンの言葉とともに、全員で洞窟を出て街に帰った。


「……リーナ、無事だったんだねっ! 良かった!」
「お母さん……うわぁああああん!」
 街に戻って最初に出迎えたのは、リーナの両親だった。
 リーナと母親は、抱きしめあって泣いている。
「あなたたちには、なんとお礼を言っていいか。これから、捜索隊のみなさんと一緒にパーティーをするんですが、参加しませんか」
 リーナの父親が、そう提案してきた。
「主役が抜けたパーティーじゃ締まらないだろ。悪いがエミリアさんたちも、参加してくれないか?」
 宿屋のシギからの勧めもあって、シオン、エミリア、ザレッドの三人は無理矢理にリーナ奪還の祝賀会に参加させられてしまう。
 ――酒場の隅で、三人は卓を囲む。
 ザレッドはすでにエール酒をジョッキで四杯も飲み、テーブル上のチリソーセージをむしゃむしゃと食っている。
「たまには、タダ酒というのも悪くない。これでエルフさえ居なければ最高じゃがの」
 ザレッドは憎まれ口を叩いてはいるが、それが本気でないのは口調でわかった。
 宿屋の廊下ですれ違ったとき、彼の言葉にはもっと毒のようなものが含まれていたのをシオンは覚えている。
 それがいまはなくなり、ドワーフという種族の義務感だけで言ってるような感じがした。
 エミリアは自分を変わっていると言うだけあって、ザレッドの言葉にまったく動じていない。
「そうじゃった……シオン、剣を見せてみろ」
 顔が赤くなったザレッドは、シオンのショートソードを寄こせといった具合に右手を差しだした。
「こんなものを見て、どうするんですか?」
 シオンは愛用しているショートソードをザレッドに渡す。
 白身魚のフライをエミリアは食べながら、二人のやりとりを黙って見ている。
 ザレッドはショートソードの鞘を抜き、刀身を凝視した。
(なんの変哲もない安物じゃな。小さい刃こぼれがいくつもある。こんな鈍(なまく)らな剣で、ホブゴブリンの首を刎ねたというのか……)
 感心したことを表情には出さず、ザレッドは何度も髭をなでた。
 その剣を見て、彼は一つの決断を下した。
「学校はどこに通っておる?」
「王都のザンハイム剣術学院中等部です…あの……どうしてそんなこと聞くんですか?」
 シオンはザレッドに、口を挟もうとする。
「……何年生だ?」
 だが、それを許さないという彼の顔つきに、シオンは大人しく問いに答えるしかなかった。
「二年生です」
「高等部の進路は決まっているのか?」
「いえ。高等部には進もうとは思ってるんですが。まだ、どこにするかは決めてないです」
「では、王都にあるアリュース剣術学院高等部に進学してみてはどうじゃ?」
 アリュース剣術学院とは、大陸でも屈指の実力者たちが集まる名門中の名門校であった。
 そこを卒業すれば、高等部よりもさらに専門分野の研究ができる大学進学や遺跡発掘調査など、冒険者として多岐にわたっての活躍が有利になる。
「それはいいですけど、あの学校は推薦状がなければ入学は無理です」
 アリュース剣術学院が狭き門と言われる所以(ゆえん)は、徹底した他薦システムにあった
 まず学院関係者による推薦状が必要とされ、それを超えても実践を重視した難関の入試が待っている。
「その推薦状、儂が書こう。すでに入試も終わっている。ホブゴブリンの首を刎ね、冒険者としての依頼をこなした。これ以上に難しい入試はあるまいよ」
「ザレッドさんは、アリュース剣術学院の関係者なんですか!?」
「左様。あそこで特別講師をしておる。いまは巡礼者の用心棒をしておってな。ま、こっちは副業みたいなもんじゃ。……あと一年は中等部での生活が続くだろうから、その間によく考えておけ。もしウチにくるなら、歓迎するぞ」
 ザレッドの言葉にシオンは喜んだ。
「まさかザレッドさんがあの学院の教師なんて!」
「良かったわね、シオン君……」
 シオンに声をかけたエミリアの眼差しはどこか寂しげだった。
 ――宴は夜更けまで続き、眠くなったシオンは自室に戻る。
 酒場の客は一人減り、二人減りして、とうとうエミリアとザレッドの二人だけになった。
「……あの少年と、いつまで旅を続けるつもりだ?」
 ザレッドは骨付きチキンを片手に、エミリアに聞く。
「王都までの約束よ」
「なるほど。旅も今日の夕方には終わりということか」
 ――沈黙が流れた。
 酒場の壁に掛けられた振り子時計が、時を刻む音だけが聞こえる。
「人間と我々は、時の流れが違う……お前も、わかっているんだろう」
 その言葉だけで、ザレッドがなにを言おうとしているのかエミリアに伝わった。
「案ずるな。あの少年は、きっと素晴らしい冒険者に成長する」
「……そうね」
 それから二人は黙ったまま、エール酒を飲んだ。
 ――エミリアとシオンの別れは、すぐそこまで近づいていた。





 エミリアが部屋に帰ってきたとき、シオンはベッドの上で眠っていた。
「あなたと過ごす最後の夜だったのに。冒険者への依頼は、こちらの都合なんて考えてくれないものね」
 シオンの頬を撫でながら、エミリアは苦笑した。
 彼はホブゴブリンとの戦闘で精根尽き果てたらしく、寝息がいつもより深い。
(このままだと、風邪を引いてしまうわ)
 エミリアはシオンの体に掛け布団を乗せる。
 彼女は飽きることなく、ずっとシオンの寝顔を見つめ続けた。





 朝、エミリアとシオンはデオンの街を出た。
 その日の二人は、交わす言葉が少ない。
 シオンは別れの予感とともに、街道を歩いていく。
(王都に帰りたくない。このまま、エミリアさんと一緒に旅を……)
 シオンの想いとは逆に、昼をすぎたあたりから見知った風景が増えてくる。
 ――夕方になるころ、王都から近い丘陵地帯にさしかかった。
 そこからは王都の王城が見え、シントーンの町並みも一望できる。
「……シオン君、旅はここで終わりよ」
 エミリアは、そう言う。
 シオンは歩みを止め、手を繋いでいる彼女を見つめた。
 草原に風がそよぎ、彼女のポニーテールが靡く。
「君と一緒に旅をできて、とても楽しかった」
 エミリアは丘の上で夕日を背にし、シオンの正面に向き直る。
「ボクもだよ、エミリアさん」
 そう言ったシオンをエミリアは抱きしめた。
「うふふ、これは返すわ」
 エミリアは、ザンハイム剣術学院のペンダントをシオンの首にかける。
「シオン君……いいえ、シオン。あなたは一人の女の心を奪って、このペンダントを取り返したの。それは誰にでもできることじゃないわ。あなただから、できたの」
 シオンの唇に、エミリアは自分の柔らかな唇を重ねた。
「……やだよ、行かないで! ボク、エミリアさんといられるなら、なんだってするからっ!!」
 離れようとするエミリアの手を、シオンは握る。
(――この子のそばに、ずっといてあげたい。でもそれは彼の人生の中でもっとも貴重な時期を、束縛してしまうことになる)
 彼女は、シオンの温かな手を優しくほどく。
「シオン、この旅が終わっても、あなたの人生という旅は、まだ始まったばかりなのよ」
 エミリアは風の中で微笑む。
 ボクの恋は終わったんだ――シオンは彼女の透明な笑顔を見たとき、何故だかわかってしまった。
 彼女は、別れを決めているのだと。
(これ以上、エミリアさんを困らせるのはよそう)
 シオンの視界が、涙で滲んでくる。
「うん……わかった。エミリアさんも元気でね」
 泣くのを堪え、シオンも精一杯の微笑みを返した。
 ――王都に向かって歩き出した彼の後ろ姿が、徐々に遠ざかっていく。
(あなたはこれから数えきれない出会いと別れを繰り返す。そして、いつか知るでしょう。わたしがその中の一人でしかないことを……立派な冒険者になるのよ、シオン)
 エミリアは燃えるような夕日の中で、十四歳の少年の背中を見送った。





 シオンは王都を目前にして、後ろの丘を振り返る。
 そこにはもう、エミリアはいない。
 まるで旅の最初から、彼女など存在していないかのようだった。
 ――シオンの歩みが、速くなる。
 やがて、彼は走りだしていた。
 走らずには、いられなかった。
 息が切れそうになる。
 足がもつれ、道の真ん中で派手に転んだ。
 彼は立ち上がり、再び走りはじめる。
(エミリアさん……ボク、冒険者になるよ!!)
 シオンは溢れてくる熱い涙を拭いもせず、王都の街中を走り続ける。
 他の通行人に、泣き顔を見られても構わなかった。
 彼は街の高台に続く、階段を一気に駆け登る。
 そこからの夕日の眺めの中で、彼は声を上げて号泣した。
(ボク、絶対に忘れないよ。エミリアさんのこと、絶対に忘れない!)
 シオンは沈みゆく夕日を見つめ、腕で涙を拭った。


エピローグ



 ――ザンハイム剣術学院の放課後。
 シオンは、学院長室に呼び出されていた。
(学院長から、直接の話ってなんだろう?)
 学校の授業が終わって寮に帰ろうとしたとき、担任教師に「ステラ学院長がお前に話があるそうだ」と言われたのだ。
 彼は学院長室のドアをノックした。
「……入りなさい」
「失礼します」
 学院長であるステラの声を聞き、シオンは室内に入った。
 そこには黒縁眼鏡を掛けた白髪頭のステラが椅子に座り、机の書類に目を通している。
 書類を持つ彼女の右手には白手袋が嵌められており、それはシオンがここに入学した時から変わらなかった。
「ニ年一組のシオンです」
「……そう、あなたが」
 ステラは書類をめくる手を止め、眼鏡の奥からシオンを探るような目を向けてきた。
「昨日、わが学院宛てに世界樹(ユグドラシル)から、正式な書簡が届きました」
 ステラは机の引き出しから、一枚の白い封筒を出した。
 それは世界樹を型どった赤い蝋で封がされ、見た目からして厳かな書簡である。
「読んでみなさい……その書簡の差出人に心当たりは?」
 ステラは封筒をシオンに渡して言った。
(……どういうこと?)
 シオンはまったく意味がわからず、言われたまま封筒の中の書簡を読んだ。
 そこにはこう書かれていた。

 以下の者が日陽花採取課題を提出したことを、世界樹最高評議会の名に於いて、ここに認めます。

 二年一組:シオン

 案件責任者:エミリア

 シオンはそこに意外な名を発見した。
(エミリアさんだ!)
 日陽花採取の旅が終わって三週間が経ったころ、まさかこんなところで彼女の名前を見るとは彼も思わなかった。
「その書簡のエミリアという方を知っていますか?」
「知ってます。ルハッシュ城に行くとき出会って、二人で旅をしました」
「書簡の通り、日陽花を採取できましたか?」
「……いいえ。ボクは採取していません」
 シオンは素直に、ステラの質問にこたえた。
 しばらくの間があり、「そこのソファに掛けなさい」と彼女は言う。
「紅茶を淹れますね」
 ステラは棚にあるティーカップを用意して、シオンに言った。
 部屋の奥の流し台にあるバルブを開き、彼女はティーポットに熱湯を入れる。
 テーブルの上に紅茶の入ったティーカップを二つ置き、ステラはシオンの正面のソファに腰掛けた。
「さて、なにから話すべきかしら」
 ステラはかけていた黒縁眼鏡を、テーブルの上に置いた。
 そして瞑目し、七十二年という己の半生を振り返る。
 その中でも一際、輝かしい時代である十代の記憶が脳裏に思い浮かんだ。
「……誰もがそうであるように、わたしにも若いころがありました。自分で言うのも妙ですが、お転婆で手がつけられない子供でねぇ。親はそんなわたしの性格を知ってか、魔術ではなく、剣術の道を進むように言いました」
 ステラはティーカップを両手で包みこみ、胸中の独白を語るように言った。
「わたしがこのザンハイム剣術学院に入学したのは、いまから五十九年前になります。一年生のときから、男子を負かすくらい剣術が強かったんですよ。……二年生になるころ、日陽花を採取する課題が出ました。そう、あなたと同じようにね。わたしは噂でゴガ山の古城に日陽花が生えているというのを聞き、いてもたってもいられなくなりました。そして一人で、その古城に行こうと決めたのです」
 傾いた陽光が窓枠で四角く切り取られ、学院長室の床を黄金色に染めていた。
 ステラの話を遮らないよう、シオンは紅茶を一口だけ飲んだ。
「わたしはその古城――ルハッシュ城を目指して何日も旅をしました。いまならわかりますが十四歳の女の子が一人旅なんて、死ににいくようなものです。当時は剣術に自信があったので、調子に乗っていたのでしょう。神というのは存在するらしく、その罰をわたしに与えました。野宿をしているとき、狼の群れに襲われたのです」





 十四歳のステラが森の中の野宿で目を覚ましたとき、すでに何十匹もの狼の群れに包囲されていた。
 寝込みを襲われなかったのは救いではあるが、状況としては最悪に近い。
 しかも狼たちは腹を空かせているようで、彼女が焚き火の炎を振りかざしても逃げなかった。
 彼女は両手持ちのロングソードを鞘から抜き、襲いかかる狼を斬りつける。
(こんなに間合いを詰めるのが速いなんて!)
 汗で濡れた腕に長い亜麻色の髪をへばりつかせ、ステラは剣を振り続ける。
 彼女は対人で、その強さを発揮した。
 学校ならそれで通用したが、今回の相手は動物である。
 動物は人間とは違い、間合いの詰め方が素早く、攻撃に独特の癖があった。
 対人と対動物では、戦い方がまるで異なるのだ。
 いつもの彼女なら、狼たちの動きに対応できたかもしれない。
 しかし動物の群れと戦うという未経験の出来事に、気が動転している。
 その動揺を見透かしたように、彼女は一匹の狼に体当りされて転倒した。
 次の瞬間、右手が今まで感じたことのない高熱に晒される。
「きゃああああああああああああああああッ!!」
 倒れた拍子にステラは、右手を焚き火の中に突っこんでしまったのだ。
「ぐッ……はぁはぁ……い、痛ッ!!」
 彼女は痛みとともに上体を起こしたが、火傷を負った右手は動かすこともできない。
(け、剣が…握れない……!?)
 ――彼女は窮地に陥った。
「ぐぁ……!? このぉ!!」
 何匹かの狼に腕と太腿の数ヶ所を噛まれ、自分の肉を引き千切りながら彼女は振りほどいた。
(このまま傷が増えると、失血で死ぬわね)
 狼たちもそれを待っているらしく、最初のときよりも群れは数を増している。
(どうやら、ここまでっぽいわ。このまま、狼たちの餌になって……)
 ステラの心が絶望に黒く塗りつぶされようとしたとき、急に狼の群れの一部が森の奥に走りだした。
(……どうしたというの!?)
 森の奥に向かった狼たちは、ステラの前に戻ってこない。
 代わりにどさっという音がして、群狼の真ん中にあるものが飛んできた。
 それは胴体を真っ二つにされた、狼の前半分である。
 その半死の狼はまだ息があるらしく、ぜぇぜぇと荒い呼吸をしていたが、やがてそれも止まった。
(すごい。どうすれば、こんなふうに狼を斬れるのっ!?)
 狼の輪切りにステラは心底、感心した。
 肉と骨を一瞬で断つには相当な技術が必要なのを、剣術をやっている彼女はよく知っている。
 肉は勢いで斬れるが、問題は骨であった。
 かなりの速度で剣を振らなければ、硬い骨を斬ることはできない。
 さらにいえば狼は俊敏に動くため、攻撃に対する先読みがずば抜けているのを輪切り死体は証明していた。
 狼たちは仲間の惨い死体を見て、両耳を後ろに伏せて怯える。
(誰かいるわ……)
 森の奥に人影があるのをステラは見た。
 それがステラに近づくにしたがって、狼たちは後ろに下がる。
 その人影がエルフだと彼女が気づくころには、狼はすべて逃げだしていた。
「こんばんは……酷い怪我をしているわね。いま、手当してあげるから」
 そのエルフは挨拶もそこそこに、ステラの火傷に応急処置を施した。
(この人、武器を持っていない……どうやって、あの狼を輪切りにしたのかしら?)
 ステラはさりげなく女エルフを見たが、どこにも帯刀していなかった。
 強いて言えばダガーを腰に何本か下げているが、そんなもので狼をあんなふうに斬れるとは到底おもえない。
 ――手当てされたステラは、ここまでの経緯をその女エルフに語った。
「へぇ、王都のザンハイム剣術学院に通ってるのね」
「これウチの学院のペンダントなんです。良いデザインで、わたしも気に入っているんです」
 ステラは首に下げている金色のペンダントを見せた。
 女エルフがそのペンダントを観察すると表面には、二本の剣が交わる校章が浮き彫りで描かれていた。
「……課題でルハッシュ城に日陽花を取りにねぇ。わたしもゴガ山のほうに用があるから、付き合うわ。それにその傷じゃ、剣も持てないから護衛役が必要でしょ」
 ステラの旅に、女エルフは同行することになった。
(エルフの女性って、こんなに綺麗なのね)
 ステラがエルフを見たのは今回が初めてだった。
 同性でありながら、見つめられると頬が赤くなるほどの美しさである。
(それにミニスカートを履いてて、胸とお尻は大きいくせに腰はすごく細い。わたしが学校で教わったエルフとぜんぜん違う)
 ステラが学校で教わったエルフとはスレンダーな体躯で、性格はプライドが高く、中には人間を低俗とみなす者もいるのだという。
 この女エルフは、そういった常識から大きく外れている感じがした。
(多分、この人はエルフの中でも特殊なタイプなんだわ)
 ステラは野営の焚き火を眺めて彼女と話を続けるうち、なんとなくそれがわかった。
「あの、名前を教えてくれませんか? わたしはステラっていいます」
「エミリアよ、よろしくね」
 ――エミリアは微笑みながら、ステラにそう名乗った。





「……あのとき、火傷したのがこれです。動くようになったけど、剣は握れなくなってしまいました。だから、わたしは冒険者の道を諦めることにしたんです」
 ステラは白手袋を外し、火傷した右手をシオンに見せた。
 一目でわかるほど、それはひどい火傷の痕である。
 シオンはそれ見て、あることを思い出した。
(前にエミリアさんが火傷した少女を助けたって言ってたけど、もしかして……)
 シオンは温くなった紅茶を啜る。
「エミリアさんは元気でしたか?」
 学院長は十四歳のとき、エミリアさんと会ったんだ――シオンはその言葉で確信した。
「はい。彼女はとても元気でした」
 シオンは、かつてエミリアに助けられた少女、ステラに言う。
「わたしはルハッシュ城に着きましたが結局、日陽花を採らなかったのです。エミリアさんの話をその場で聞き、採ってはいけない気がしたの。そのまま、わたしが王都に戻ってから数週間が経つころ、学院に一通の書簡が届きました。……つまり、世界樹最高評議会から書簡が当院に届いたのは、あなたで二通目ということになります。書簡の内容もあなたと同じ。わたしが、あなたを学院長室に呼びつけたところも一緒です」
 ステラは空になった自分のティーカップに、二杯目の紅茶を注ぐ。
「わたしは日陽花を持ち帰っていない。でも、世界樹最高評議会からは持ち帰ったと認定された。この矛盾を当時の学院長は、こう解決したの……ウチの学院に日陽花を採取した者がいる。しかし、事情があってその生徒の名前は非公開とする、とね。そこから日陽花を持ち帰った謎の生徒が、この学院の名物になってしまったわけ」
 何十年も前に日陽花を持ち帰った生徒がいる――その噂をシオンも聞いていたが、厳密には日陽花を持ち帰っていなかったのだ。
「あの話に出てくる生徒は、学院長だったんですね」
「ええ、そのとおり。でも不思議に思わないかしら? 何故、エミリアさんはこんな書簡を学院宛てに出してきたのか。わたしはこう思うの。エミリアさんと仲の良かった王様とお妃様のために、日陽花を採らなかったことが嬉しかったんじゃないかって。わたしとあなたは、日陽花を採らなかった。でもエミリアさんとしては、なにかの恩返しがしたかった……それで考えたのが、この書簡ということ」
 ルハッシュ城庭園の日陽花を採取せず、それでいて日陽花採取を学院に認めさせるには世界樹最高評議会の名を出すのが手っ取り早い。
(それはそうだけど、エミリアさんて何者なんだ?)
 世界でも少ない気術の使い手で、世界樹最高評議会の後ろ盾を持つエルフの女性。
 シオンはエミリアと一緒に旅をしながら、その正体を知らぬままであった。
「エミリアさんというのは、どういう方なんですか?」
 シオンは、ずっと感じていた疑問をステラにぶつけてみた。
「冒険者の道を諦めたわたしは、それから歴史学者になりました。二百年前の英雄戦争を専門にね。あなたもここで教わったように、あの時代は魔物が世界中に溢れ、様々な英雄が生まれた。わたしは当時を知るエルフやドワーフと会って証言を集めるうち、奇妙な話を聞くようになったの。それはエルフの七人。彼等は魔物に押されている部隊に風のように現れる。証言によれば、殿(しんがり)を務めることが多かったそうです。そのエルフの七人は、すべて女性で七万匹の魔物の軍勢と互角に戦った……一人で一万匹の魔物を相手にしたというのです。わたしは眉唾ものだと思いながらも、彼等の目撃証言を集めました。その七人の中に、金髪を束ねた女エルフがいたそうです。彼女は素手で戦い、見たこともない技で魔物を倒したのだとか」
「それが、エミリアさんということですか?」
「……わかりません。しかし、わたしはそれがエミリアさんだと信じています」
 ステラは紅茶を飲んで、喉を潤した。
「わたしはエルフの七人の足取りを追いましたが、何者たちなのかほとんどわかりませんでした。ただ一つ、わかったのは”世界樹の七葉”と呼ばれていることだけです。その名から、世界樹に関係していると思い、エルフのいる世界樹王都(ユグドラシル・キングダム)に出向き、軍部にも聞きましたが無駄足で終わりました。そんなエルフの七人など、ここにはいないと言われてしまったの。でも、これだけ戦場での目撃証言があるのに、存在しないということはないはずです」
 ステラの話が本当だとすると、シオンは伝説的な女エルフと旅をしていたことになる。
(エミリアさん、そんなすごい女(ひと)だったんだ……)
 ステラは腰を上げ、シオンに背を向けて窓辺に立った。
「エミリアさんと出会ったのは、いまから五十八年も前。わたしは皺だらけのお婆さんになってしまいました。ですが、エルフの彼女は今も美しいままなんでしょうね。きっと今日も、あの金髪を靡かせて旅を続けているはずです」
 落日が近い陽光の中で、ステラは言う。
 シオンには一瞬だけ、彼女が十四歳の少女に戻ったように見える。
 ――だが、テーブル上の黒縁眼鏡をかけた彼女は厳格な学院長の姿に戻っていた。
「この件については、生徒や教師たちに公表しません。ですが、ルハッシュ城でのことは、あなたの成績に加味させてもらいますよ……話は終わりです」
「はい。失礼します」
 シオンは学院を後にして、王都近くの丘陵に向かった。
 そこは、エミリアと別れた場所である。
 彼は爽やかな風に吹かれ、夕日の彼方を見つめた。
(エミリアさん、ボクが学校を卒業して冒険者になったら、またいつか会おうね)
 シオンはその決意を胸に、昼と夜が混じりあった群青色の空を見上げた。
 そこには、一番星が瞬いている。
 あの星のように、いつか冒険者として輝きたい――夢の途上の少年は、そう思いを馳せるのだった。


 ――了――



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