怪譚 玖話・妖双
眼下は、数え切れないほどの灯りで彩られていた。
高度445メートル、ここはスカイツリーの天望回廊である。
分厚いガラスの向こうで黒い蛇のように横たわっている隅田川に沿い、首都高六号向島線の光帯が南北にのびていた。
閉館時間を過ぎ、回廊のなだらかなスロープを歩くのは私だけである。
そのまま進んでいくとフロア450と呼ばれる展望台につく。
このダイナミックな夜景を眺め、人によっては心が癒やされるのかもしれない――いまの私は、そんなものとは無縁だけど。
私はアヤカシ絡みの仕事でここにきており、都内の夜をゆっくり堪能している場合ではなかった。
事の発端は二週間前。
ここで奇妙な現象が起こるようになった。
それは私のいるフロアの監視カメラが、ありえないものを映したのだ。
直下にあるスカイツリーの事務所内で私はその映像を確認したが、たしかに異常であった。
映像に記録されていた日時によると午前零時をまわったころ、その現象は頻発している。
警備員が何度もフロアを見回ったが異常の原因を突きとめられず、内調に調査依頼した。
そろそろ時計の針が今日を越える……私はフロアの真ん中で棒立ちのまま、アヤカシが出現するのを待つ。
表情にはでないけど、これはこれで緊張する。
これからどのようにアヤカシに対応しようかと考えているうち、フロアの風景がコーヒーに溶けたミルクみたいにぐにゃりと歪みだす。
――アヤカシが現れたらしい。
監視カメラの記録によると、このあとさらにおかしなものが外に映される。
ぼやけていた景色が鮮明になってきた。
そこに映しだされたのは、なにもかもがなぎ倒されて焼け野原の街だった。
さっきまで、ここは深夜だったのに外は真昼だ。
五分ほどしてから、別のものが映された。
景色は焼け野原から一転して建物がある。
フロアの南西方向には高い鉄塔……東京タワーが見えた。
だが現在の都内とくらべると高層ビルが少ない。
そんないくつかの風景が繰り返されるうち、一つの共通点を見出した。
――隅田川。
ここから見えるあの川の形状と位置は変わらない。
それがなにを意味するのかといえば、外に映っているのは過去の東京ということ。
焼け野原だった光景は第二次世界大戦中の東京大空襲直後であり、ビルの少ない都内の光景は平成ではなく、昭和ではないだろうか。
こうした過去を映すアヤカシに心当たりがあった。
フロアを探しまわらずとも、それは私の背後にいる。
「あれを見せていたのは、あなただったんでしょ」
振り返った私が見たのは、高さ一メートルほどの大きな蛤。
その姿はまるで鮮魚店に置かれている貝の販促オブジェクトでしかなく、シュールの極みともいえる。
「よう※く、話しので※る者※きたか」
アヤカシの声は男性のものだが、ところどころ聞き取りにくい。
人語を喋るのは苦手のようで、内容を把握するまで数秒のタイムラグが生じる。
彼(そう呼んで差し支えはないだろう)は、蜃(しん)という名のアヤカシである。
中国が発祥の蜃は気を吐き、楼閣の幻影を見せたのが自然現象である蜃気楼の語源となった。
しかしここにいる蜃が吐くのは、土地に眠っている記憶の映像だ。
伝説上の蜃とアヤカシの蜃は、見せるものに違いがある。
これはアヤカシの蜃が後に発見されたため、伝説上の蜃の名をあてたせいだ。
このアヤカシが伝説上の蜃と同じ貝の形をしているのは偶然なのか、あるいは二つの蜃は同種なのか……それはまったくの謎である。
蜃は過去の街並みを映すだけで、無害なアヤカシと推察される――内調の事件ファイルに載っていた、その一文を私は思いだす。
記録によると以前に蜃が現れたのは1964年(昭和39年)で、内調に所属していた当時の遡行者が騒動を解決している。
それ以降に蜃が出現した記録は残っておらず、今夜は希少な接触例となるはずだ。
「あなたがスカイツリーと東京タワーに現れたのはなぜ?」
前回、蜃が出現した場所とスカイツリーには類似点がある。
彼が前に出現したのは東京タワーだ。
そしていまはスカイツリーにいる。
都内でも有数の高所に二回も現れているのだから、なんらかの傾向があると推測するのが自然だ。
「あ※とき目が醒め、高所か※街を眺めてみたかったか※トウキョウタワーと※いうと※ろに行った」
「高い場所が好きなの?」
「わたし※数十年に一度の間隔※起き、また眠る。眠っているあ※だに変化した街を観察す※ため、このよう※場所にやってくるのだ」
数十年も眠るなど、私には気の遠くなるような話しである。
「眠りから醒めるのはかまわないけど、ここは観光スポットなの。どこか人のいない場所に移動してほしい」
「こ※に数多の人間がくる※は承知している。いまの風景※昼間に映すこ※も吝かではない」
――そうだ。
事件ファイルには昼夜問わずに東京タワーで異常が起きたと書かれていたけど、ここで過去の都内が映るのは深夜のみだ。
ちなみに昭和39年に蜃が起こした東京タワーでの騒動は内調の事件ファイルを除き、公の記録から抹消されている。
報道には圧力がかけられ、目撃者たちには『あれは誤認であった』の契約書サインと引き換えに多額の口止め料が支払われた。
その口止め料は用途を明確にしなくていい、内閣官房機密費から支出されている。
時は折しも東京オリンピック直前だったため、政府はアヤカシによる不穏なイメージを可及的速やかに払拭したかったのだろう。
尚、アヤカシ絡みで内閣官房機密費が充てられたのはそれだけではないらしく、蜃の騒動以外にも過去に何回かあったらしい。
「わざと誰もいない夜に過去の東京を映したってことかしら」
「前回※誤ってトウキョ※タワーとかいう人間の集ま※場に行ってし※ったが、今回はそ※ではない」
この巨大蛤はなにかの意図があって、こうしているようだ。
私を待っているような素振りも感じられたので、これは訳を聞く必要がある。
「あなたがここにいるのはどうして?」
「それに答※る前に質問が※る。おま※はナイチョウとか※う組織の者か?」
「そうよ」と私は短く言った。
「トウキョウタワー※会った奴から、な※か問題が生じ※ら自分と同※ナイチョウの者を呼びだ※と言われたのだ」
「……どういうこと?」
「わたしがここ※きたのは、街を眺め※のだけが目的で※ない。こ※して過去の東京を映し、気※悪がった人間がナイチョウの者を呼びだ※はずだと予想してのこと。大きな騒ぎにな※のは御免なので、深夜に※け異変を起こし※いたのだ」
蜃は私をここに連れてくるため、この展望台に留まっていたらしい。
大きな騒ぎにしたくないとはいえ、内調の遡行者である私が動いているのだから、それなりの騒ぎにはなっている。
とはいえ、混乱を避けたのは評価できるのかもしれない。
わざわざ観光客のいない深夜を選んで過去の東京を見せているのだから、彼なりに配慮したともいえる。
この現象が昼間のスカイツリーでも起こっていたら、それこそ東京タワーでの大パニックを再現していただろう。
「狙いどおり、私はここにやってきたけどなにかあったの?」
蜃に呼ばれた理由をいくつか想像してみるけど、アヤカシの『問題』とやらがどの程度かもわからない。
そのせいで彼がなにに不安を感じているのか、なにひとつ見えてこなかった。
「この界隈に、なにかが※る。わたしが目覚め※のは、その者のせ※だ。気配か※してあれは災いの火種となり、人世を乱すや※しれぬ」
「……この界隈になにかがいる。わたしが目覚めたのは、その者のせいだ。気配からしてあれは災いの火種となり、人世を乱すやもしれぬ?」
補足した言葉を私がいうと、蜃は肯定の意思表示のようにゆっくりと縦に揺れる。
この巨大蛤は着ぐるみで、中に人でも入っていそうな動きだった。
「要件はそ※だけだ。お前の言うと※り、わた※はここを去ろう」
蜃はそのまま消えてしまい、展望台の外は現在の夜景にもどる。
内調からの依頼はスカイツリーに潜む蜃の調査のみだ。
それは無事に終了した。
だが蜃の不吉な言葉が、私の心をざわつかせる。
この周辺で新たな事件が起こるのではないか――アヤカシの消えたスカイツリー展望台で、そんな予感がした。
……事件は起こった。
スカイツリーから、さほど離れていない現場である。
数日前に女子小学生たち四人が、夕暮れの神社に集まっていたときだ。
彼女たちが学校の合唱コンクールで歌うフレーズを口ずさんだとあと、境内に自分たちの影が一つ増えていることに気づく。
日の落ちかけた神社で四人は互いを確認するように顔を見合わせたのだという。
すると知らない少女が急に地面から湧いたように立っており、四人は悲鳴を上げて神社から逃げてしまった……そんな話しらしい。
提出された報告書にはそれだけでなく、近隣住民の何人かがここで謎の少女を目撃している。
私にしては珍しく、今回の件はアヤカシによるものだと確信していた。
先日、スカイツリーで聞いた蜃の言葉と無関係ではなく、むしろ一連の事件の本命はこちらにあると私は思っている。
私は夕方が迫った神社の境内で調査を開始した。
神社の敷地は狭く、すぐに隅々までまわることができる。
鎮魂用の要石なし。
特定のアヤカシが発生する呪物なし。
人為的な機材なし。
このように、なんの変哲もない場所を私たち内調は”平場(ひらば)”と呼んでいる。
逆にアヤカシが発生しやすい場所を”異場(いば)”と呼ぶ。
都内には、大昔からいくつかの有名な異場がある。
そこは宮内庁の陰陽師が管轄しているため、内調には調査権限がない。
――日に照らされていた、建物の輪郭が消えてしまう逢魔時となった。
この時間は昼夜の境がなくなるため、アヤカシの出現率が高まる。
私は境内で、ある童謡を歌う。
アヤカシと出会った小学生たちが、ここで歌っていたものだ。
歌い終わって数秒後、夕闇にまぎれこむようにして車のクラクションがどこかで鳴った。
それから、水を打ったような静けさ。
落日で真っ赤に染まった空の下、遠くのビルが逆光で黒く塗りつぶされている。
私が視線を右斜めに移すと、やたらと黒瞳が大きい小学校低学年くらいの少女が立っていた。
そして赤い鼻緒の草履、白衣、長い黒髪……背の低い彼女は巫女そのものな容姿だ。
「…………」
彼女は黙ったまま、私の右手をつかんで歩きだした。
「どこに行くのかしら?」
少女は横に頭を振った。
「行き先がわからない?」
少女は複雑な表情で私を見返してくる。
「もしかして喋れないの?」
この問いに彼女は首を縦に振った。
私は彼女が非業の死を遂げた少女のアヤカシ”結巫女(むすびみこ)”であるのを、すでに看破している。
彼女に従って、私は神社の境内を出た。
結巫女は異界の社(やしろ)で”清め”を済ませると廻巫女(まわりみこ)になる。
二つのアヤカシは同族でありながら性質が変わるため、生物でいう進化に似たものがあるようだ。
結巫女の上位である廻巫女は道に迷った人間を目的地に導く、善良なアヤカシである。
一説には東北地方の伝承”迷い家(まよいが)”までの案内役とも言われているが、内調でも実態はよくわかっていない。
以上のことから、彼女についていっても危険はないと判断した。
それに結巫女は”清め”を済ませないと面倒なことになるので、異界の社までなんとかして送り届けたい。
『この路地だったかな』
『いや、違う』
『こっちのはず』
『あの道はもう行った』
私の手を引く彼女に台詞をつけると、そんな具合だった。
彼女は歩き疲れたのか、自販機の前に止まって私を見つめてくる。
「喉が渇いたの?」
彼女はコクコクと頷いた。
どうやら人間だったころの記憶が色濃く残っているらしい。
やはり、清め前の結巫女のようだ。
清めとは俗世にいたころの影響を落とすと言われている。
普通は廻巫女が結巫女を異界の社まで連れて行くのだが、残念ながら全員そうなるわけではない。
清めが済まないままの結巫女は邪なアヤカシに連れ去られ、厄巫女(やくみこ)となる。
厄巫女は人間を道に迷わせたり凶事に遭遇させるアヤカシで、廻巫女とは逆に災いをもたらす。
スカイツリーの蜃が災いになるかもしれないと言っていたのは、この清め前の結巫女なのだろう。
「これがいい?」
彼女は自販機のオレンジジュースを指差したので、私の分と合わせて二本買う。
それからいろいろな場所を歩きまわったのだが、元の神社にもどってきてしまった。
結巫女はよほど喉が乾いていたのか、さっき買ったオレンジジュースをすぐに飲み干す。
そんな彼女を見ながら、私はある現象について考えていた。
妖双(ようそう)――それはアヤカシが狭い地域内で複数同時に出現する状況をいう。
二つのアヤカシは干渉しあうことがある。
最近になって発生した結巫女が、この土地で眠っていた蜃を起こしてしまった……それが今回の真相のようだ。
ここからさらに発展するとアヤカシたちが集団となる百鬼夜行への呼び水となり、事態の収拾が難しくなる。
そのため、妖双の段階で原因を究明できたのは幸いだった。
「また歩くのね」
オレンジジュースを飲み終えた彼女は、また私の右手をにぎって神社を出発した。
今度は一度通った道なのに、見覚えのないところにでる。
――ふと、アヤカシの気配が強くなった。
いつの間にかあたりは霧に包まれ、アスファルトだった地面は苔むした石段になっている。
石段を登った先にあったのは朱色の大きな鳥居で、その前に私と同年代であろう巫女装束の美しい女性が立っていた。
私と手をつないでいた結巫女は、その女性へ嬉しそうに抱きついてから鳥居の奥に消えていく。
不思議なことに鳥居の向こう側は濃霧で遮られ、内部がどうなっているかわからない。
「人の身でありながら、わたくしたちの同類をよくぞここまで送ってくださいました。感謝いたします」
「あなたは?」
「現世(うつしよ)では、廻巫女と呼ばれる者の一人です。固有名はありません。わたくしが廻巫女の一部であり、すべてなのです」
廻巫女は意識を共有した集団で個性をもたないのかもしれない。
それは清めという儀式の後、そうなるのだろうか?
「そうです。清めを終えた廻巫女に個性はありません。この幽世(かくりよ)にいるわたくしと、いま現世にいるわたくしは意識を共有しているのです。あなたがさきほど考えた概念が、もっとも認識しやすいでしょう」
「……こんな簡単に人間の心を読むんだから、隠し事はできないようね」
ここまで人外のアヤカシと会うのはひさしぶりだ。
大抵のアヤカシはどこかに俗っぽさがあるのだが、廻巫女にはそれが薄い。
学校の体育館で二人きりで話しているはずなのに、館内に入りきらいないほど大量の人々に聞き耳を立てられているような矛盾した感覚――目眩のするような、この独特な雰囲気の正体は”複数の他の彼女”によるものなのだ。
「わたくしにとって、人の隠しごとなど無用でございます」
彼女のやたらと大きな黒瞳が私の顔をじっと凝視している。
あまりに美しい存在は他者に恐怖を与えると聞いことはあるけど、いまがまさにそれで彼女への畏れが胸中に満ちてきた。
アヤカシに読心されるのは慣れていないため、躊躇いがちに質問してみる。
「あの子はなにがあって結巫女になったの?」
「さきほど、あの子に触れて短い一生の記憶を拝見しました」
アヤカシの中には接触しただけで、相手の記憶を見る者もいる。
廻巫女はそのタイプらしい。
「彼女はあの公園で遊んだ帰り、見知らぬ男に連れ去られ……生きたまま焼かれて雑木林に埋められたのです」
結巫女とは非業の死を遂げた少女――それを改めて知った。
廻巫女が会話の一部をぼかしたのは、その間に起こったおぞましい出来事を私に伝えたくなかったのだろう。
あの子が声を出せなかったのは燃えさかる炎で喉を焼かれたからで、ジュースを買って欲しいとせがんだのは地獄のような熱さの中で苦悶していたからなのだ。
私は無表情のまま、やるせなさで心が張り裂けそうになった。
「……これを、あの子に」
私は自分のために買ったオレンジジュースの缶を廻巫女に渡した。
それが私にできる、精一杯の手向けである。
「たしかに受け取りました。一つだけ、あなたに言っておかねばなりません」
内心で悲嘆する私に彼女は声をかけてきた。
「結巫女の清めとは、現世との辛い結(むすび)……生前の凄惨な最期を断ち切るためのもの。あなたは彼女を永遠の乾きから救ったのです。どうか哀しまないでください」
廻巫女の労いの言葉とともに霧が晴れ、異界の鳥居前から墨田区の神社にもどっていた。
私は溜息まじりに神社から、重い足取りで歩きだす。
細い路地の先には、結巫女がジュースをねだった自販機が闇夜の中でぽつんと佇んでいた。
蜃と結巫女の事件を解決してから一週間。
私は日暮れのスカイツリーにやってきていた。
一階の所員に現状をたずねると、あれから蜃は現れていないようだ。
まだ、あの事件は私の中で吹っ切れていなかった。
人はなにもかもを救えるわけではない――それにしても、私は無力ではないか。
三年間もアヤカシと人間の狭間で懸命に立ち回ってきたつもりなのに。
私の遡行者としての自負……それがここまで脆弱なものだったとは。
事件は解決され、この地域に平穏が訪れたのに後味の悪さはどうにもできない。
悠々と流れる隅田川を見つめながら気落ちしていると、小さな女の子が側にやってきた。
「どうしたのかしら?」
「あのね……おかあさんと、はぐれたの」
あたりを見渡したが今日は休日のせいで観光客が多く、どの人が彼女の親なのかわからない。
「じゃあ、お母さんを探しましょう」
私は彼女と手をつなぎ、展望台を一周したが親はいないようだった。
しょうがないので一階のサービスカウンターに行くと、彼女の母親らしき人物がこちらに気づいた。
三十代前半の母親は迷子届けをだそうとしていたようで、私は何度も頭を下げられる。
「お母さんと、はぐれては駄目よ」
女の子にそう言って、私はスカイツリーをあとにした。
さっきの迷子の少女を見て、私は結巫女を呼び出した童謡を思いだす。
結巫女が無慈悲な運命を辿る前、友達と公園で歌っていたのかもしれない。
私は夕日を受けたスカイツリーの下でその歌を口ずさんだ。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ――
――了――