普通、好きだからと言って、いきなり指輪など贈らない。そういうものは、ある程度段階を踏んでから贈るべきモノである。
 夏霞は喜ぶどころか思いっきり引いた。
 しかしテンパっている義夏にそんなことなど分からない。
「聞いてくれ、夏霞」
 義夏の声が緊張のあまりうわずっている。
 告白する気なのだ、と気付いた夏霞は両手で耳を覆い、そっぽを向いた。
「イヤだ。聞きたくない」
「いいから聞けって!」
 傲慢に命ずる義夏の目は、強引な物言いと反対に不安そうに揺れていた。
 可哀想だと想いながらも、夏霞には義夏を拒否した。義夏がテーブルに手をついて体を乗り出すと、少しでも遠ざかろうとするかのように、膝を立て、背もたれに体を押しつける。
 しんと静まりかえった部屋に、二人の衣擦れの音と呼吸音だけが響いた。張りつめた空気が息苦しい。
 ごくりと義夏の喉がなった。
 真面目な顔をした義夏は、つい半年前まで中学生だったことが嘘のように大人びて男っぽかった。全身からオスのフェロモンを発散している。欲望を湛えた目が、飢えた獣のようだ。その関心の全てが自分に向かっているのが、身震いするほどほど嬉しく、怖い。

 この可愛いケダモノを食ってしまいたい。

 こんな時だというのに体の奥底から湧いてくる衝動に、夏霞は焦った。
 口を開いたのは、二人同時だった。
「俺はお前とは付き合えない!」
「おまえが好きだ!」
 入り交じった言葉に、二人は一瞬目を見開いた。
「えっ、なんつった?」
「……」
 夏霞は唇を噛んだ。義夏が首を捻る。目の力が弱くなり、記憶を反芻しているのが分かる。夏霞は息を詰めて反応を待つ。
 だんだん、義夏の口元がへの字に歪み、眉間に縦皺が寄っていった。
「……何ソレ。なんで。なんでダメなの。お、俺のことが、キライなのか……?」
 テーブルの上の拳が、ぶるぶる震えている。義夏の泣きそうな顔に、夏霞の胸はしめつけられるように痛んだ。
 キライだと言うことにしてしまった方が、簡単にことは納まるのに、そんなことにまで頭が回らない。思わずフォローしてしまう。
「いや、そうじゃないけど」
「嘘つくなよっ! キライならキライって言えば良いだろッ! 顔も見たくねーって言えばいいじゃねーか! 気持ち悪いって! ホモなんか、サイテーだってさーっ!」
 義夏は勢いよく立ち上がると、感情を抑えきれない様子でうろうろと部屋の中を歩き回った。ぎすぎすした空気がいたたまれず、夏霞はさらに墓穴を掘る。
「そんな風には思っていない。ただ、付き合えないって言っているだけで」
「そーゆー偽善者じみたこと言うのやめろっ! 余計腹が立つっ!」
「なんだよ偽善者って。ホントに俺、義夏のことは好きだから」
 ぴたりと義夏の動きが止まった。ゆっくり振り返る。
「俺のこと、好き……?」
 しまったと思ったが、もう遅かった。義夏の顔に漲る喜色に、夏霞はソファの上で後ずさった。
「夏霞……!」
 腰を浮かせかけたが、突進してきた義夏に肩を掴まれ引き戻された。視界が反転する。あっと思ったときには、ソファの上に組み伏せられていた。唇に生温かいものがあたっている。
 嫌悪感などなかった。
 ぬるい温度に、逆に興奮した。
 首に手を回し、舌を差し伸べる。
 積極的な夏霞に、遠慮がちだった義夏も欲望を剥き出しにした。
 お互いの口を激しく貪りあう。
 義夏の手が、自分の体をまさぐっている。
 夏霞もまた、義夏の体に手を這わせた。
 厚みのある体も、逞しい腰も、なにもかもが夏霞を煽る。
 だが、義夏の手がベルトに掛かった途端、夏霞はストップをかけた。義夏は構わず脱がせようとしたが、夏霞は断固として許さなかった。義夏の方がガタイが良いとはいえ、身長はほぼ同じだ。無理を押せるほどの体力差は無い。
 息を荒げながらも、義夏は不承不承手を引いた。だが、臨戦態勢は崩さない。夏霞の腿の外側に両手をつき、逃がさないように囲い込む。隙あらば食っちまおうという魂胆だ。
 夏霞はため息をついた。
「俺に気を使うことはないんだぞ、夏霞。例えホモと罵られようと、俺はおまえさえいてくれれば、それだけでいいんだから」
 どうやら夏霞が義夏の将来をおもんばかって振ろうとしたのだと思っているらしい。
「いや、そーゆー問題じゃないんだが」
 ぶつぶつごちる夏霞を無視し、義夏は熱烈に愛を語った。
「好きだ。夏霞を俺にくれ」
 同時に伸び上がって再びキスしようとする。夏霞は両手でその顔を押さえ、ひっぺがした。それからハッキリキッパリ言った。
「絶対にイ・ヤ・だ」
「なんでっ!」
 声が、ひっくりかえる。夏霞はソファの上で胡座をかいた。
「当たり前だろ。俺はカマ掘られるのなんか絶対にゴメンだからな。付き合って欲しいなら、ヤらせろ。それが条件だ」
「えーっ!」
 それが、最大の懸案だった。
 夏霞も男だ。義夏のことは好きだが女役をやる気などさらさらない。そして生まれたときからの付き合いである、俺様な義夏が大人しくヤらせてくれるようなタマではないことは、ようく知っている。
 オス同士で、一体どうやって付き合っていけるというのか。
 頭の良い夏霞には、延々と続くであろう主導権争いが容易に想像できた。義夏は体格が良いから腕ずくでモノにするのは無理だろう。だったら寝込みを襲うか、薬を使うか。
 だがきっと義夏も卑怯技を使ってくる。義夏が断じて清廉潔白な紳士でないことを、夏霞はようく知っている。くれぐれも油断は見せないようにしなければならない。
 想像は膨らみ、義夏はいかに危険を回避して義夏を犯るかというシュミレーションに熱中した。そしてふと我に返った。返ってしまった。
 バカじゃないだろうか。
 どうして好きな相手とお付き合いするのに、こんな事を考えねばならないのだろうか。これが好き合っている同士のすることだろうか。
 しかしーー、しかし。自分が義夏にケツを差し出す事も、逆に義夏が夏霞を受け入れてくれる可能性も、全く想像できないのだ。
 これはだめだと思わざるをえない。
 しかしそんな夏霞の葛藤など義夏が知る由もなかった。子供っぽい俺様論理を振り回す。
「なんでだよっ! 俺の方が体でかいじゃん! 普通に考えたらおまえが女役だろう!?」
「俺の方が身長は一センチでかい」
「んなの、どーでもいーだろっ! お前の方が綺麗だし、線が細いし、絶対おまえが受けだって」
「ふざけんな。俺を好きなら掘らせろ」
「ぜってーヤだっ!」
 わめくなり、義夏がとびかかってきた。実力行使をする気なのだ。だが、もちろん夏霞に大人しくやられる気はない。
 まるでケダモノ同士の喧嘩だった。
 ソファの上に居られたのは一瞬だ。勢いよく転がり落ちテーブルに背中を打った義夏がうめき声を上げた。怪我を気遣う様子など一切見せず、夏霞がすかさずのしかかる。その途端、腹に鈍い衝撃を受けて、体が背後に吹っ飛んだ。義夏が咄嗟に夏霞を蹴り上げたのだ。
 それからは床の上で、下になり上になりの取っ組み合いになった。
 まさに、雌雄を決する戦いである。
 ボタンが飛び、シャツが引き裂かれる。
 義夏の方が幾分力が強いが、夏霞は柔道の寝技が得意だ。教師を落としたのは決して偶然などではない。

 勝負は、つかなかった。
 空調のきいた涼しい部屋の中で、二人は汗だくになって喘いでいた。距離をとり、お互いに注意深く警戒しながら息を整える。
 服はボロボロだった。義夏の顔には痣まで出来ている。
 それでも諦め悪く隙を窺いあっていると、いきなりドアが開いた。二人ともぎょっとして顔をあげる。
 鏡子が入り口に立っていた。
 そういえば、鍵をかけた記憶がなかった。
 夏霞は慌ててはだけてしまった胸元をかき合わせた。義夏も形ばかり居住まいを正す。
 二人の惨憺たる有様に眉毛一筋動かさず、鏡子はおっとり微笑んだ。
「あらあら、酷い格好ねぇ。仲直りは、うまくいったのかしら?」
 義夏は顔を赤らめ、夏霞は苦々しく吐き捨てた。
「この有様の何処をみたら、そういうコメントが出るんだ」
「仲直りにも色々あるでしょう?」
 母は勝手に部屋に入ると辺りを見回し、テーブルの上に置き忘れられていた四枚のプール入場券に目を留めた。宿泊客にチェックインの際渡されるものだ。
「プールに行こうと思ったのにチケットがないんですもの。困ってしまったわ。あなたたちは、行かないの?」
 夏霞は憮然と答えた。
「後で、行きます」
「早くね。暗くなると、危ないから」
 うふふと微笑み、鏡子はチケットを二枚抜いた。そのまま『何をしていたの?』も『変な遊びはダメよ』も無く、出ていってしまう。
 何を考えているのかさっぱり分からない母である。
 しかし、とにもかくにも母の登場により気が削がれてしまった。
 夏霞はのろのろと立ち上がると破れたシャツを脱ぎ捨てた。上半身裸で洗面所に向かう。
 あとから義夏が追ってきた。
 顔を洗っている夏霞の後ろから鏡を覗き込み、目の回りの青あざに情けない唸り声をあげる。
「くそ、汗かいた。風呂入る」
「さっさと入れ。俺も入りてぇ。ったくひでーぜ。全然手加減しねーんだもんな。愛が無いぜ」
「おまえこそ、俺が好きならヤらせろよ!」
「その言葉、そっくりそのままお前に返してやる!」
 鏡の中で睨み合う。
 やがて、義夏が吹き出した。くつくつ笑いながら、夏霞を後ろから抱く。
 夏霞は一瞬体を強張らせたが、邪な動きを見せない義夏に、すこし警戒心を解いて体を反転させた。額と額を合わせて、みつめあう。
 義夏の汗のにおいに気付き、夏霞は目を細めた。マタタビのように、義夏は夏霞に作用する。じんわりと下腹部に欲望が溜まっていくのが分かる。
「俺達って、ヘンだよな」
 笑いながら義夏が言った。
 その声にまた酔う。
 欲情する。
 押し倒して喰らいつきたくなる。
 そんな感情を押し殺し、夏霞は低い声で答えた。
「そうだな」
 腰に回された手が熱い。
「好きだぞ」
「ああ」
「ああ、じゃねーだろ。ちゃんと言えよ」
 夏霞は少し逡巡し、それから微笑んだ。
「俺も好きだ。……いつか絶対モノにしてやるからな」
「それはこっちの台詞だっつーの」
 腰を押しつけられ、夏霞は僅かに顔を歪めた。お互いに固くなりかけている。急速に熱が上がるのを感じながら、夏霞は義夏を押しのけた。またレスリングをやるのはゴメンだ。
「ダメだ」
「いいじゃん、ちょっとくらい。夏霞が嫌がるよーなことはやんない。触るだけ触るだけ」
「そんなの信用できる訳無いだろ」
「ちぇー、ケチめ」
 あっさり義夏は腰を引いた。怒らないところを見ると、夏霞の読み通り下心ありだったのだろう。
「じゃあさ、キスなら、いい?」
 返事の代わりに目を閉じると、柔らかな感触が唇をふさいだ。穏やかなキスだったが、充分気持ちよくて、夏霞は酔った。
 心拍数が上がり、頭の芯が痺れたようになる。
 ちゅっちゅっと数回ついばまれ、気が付くと唇は離れていた。少し淋しさを感じながら微笑むと、義夏もニカッと笑う。
 まるで、本当の恋人同士のような、柔らかな瞬間。だが、それが嵐の前の静けさに過ぎないことを、二人とも知っている。ここから先は持久戦だ。気を抜いた方が負ける。突っ込まれる。
「じゃーさっさと風呂入ってプール行くか!」
「ああ」
 表面上は何事もなかったかのように、誕生日の行事を再開する。例年と違うのは、夏霞がきちんと入浴の前に着替えを準備し、洗面所から義夏を追い出したことだ。

 好きでも、譲れないことはある。

 風呂を出ると、入れ違いに義夏がバスルームに消えた。
 タオルで頭を拭きながらプールに行く支度をしているうちに、ふと夏霞はテーブルの下に落ちている小さな箱に気付いた。

 ベルベットのケース。義夏からのプレゼント。

 乱闘になった際、テーブルの上から転げ落ちたのだろう。それっきり忘れていた。
 口元に薄く笑みを刷いて、夏霞はかがみ込む。
 ケースの中からリングを取り出しひとしきり眺め、夏霞はそれを指に嵌めた。

END.
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