年末年始を、俺は実家で過ごした。
 母親にそのことを告げたのは、大晦日、マンションを出る寸前だった。今から帰ると電話で告げると、母はああそうなのと何気ない返事を返した。だが、二時間後家に着くとテーブルの上はご馳走で埋まっていた。
 蟹だの、寿司だの、高価な日本酒だの。年末だからといって贅沢をするひとではない。俺が帰ると聞いて慌てて用意したのだろう。
 母親は、益々小さくなったように思えた。そこまでは手が回らなかったのだろう。廊下には綿埃が転がっており、母が、かつてより更に家事の手抜きをしていることが分かる。
 胸のあたりがジンと痛んだ。
 俺は初めてろくに家に帰らなかったことを申し訳なく思った。
 二人でコタツに足をつっこみ、紅白を見る。十一時過ぎ母親は席を立ち、年越し蕎麦を運んできた。これは、俺がガキの頃からの習わしだった。少し早めに夕食をとり、小腹の空いた夜中に蕎麦を食べる。そして、紅白が終わると近所の神社に初詣に出かける。
 ふろふき大根と御神酒を振る舞ってくれる小さな神社の周囲は、俺たちが着いた頃にはもう人波で埋め尽くされていて、お参りを済ませるまでに1時間も待たされた。
 翌日はお昼までたっぷり寝て、お雑煮を食べて。
 穏やかなお正月だった。だが、俺はすぐに暇をもてあました。
 お正月番組は馬鹿馬鹿しいだけでツマラナイ。持っていたゲーム機は全部マンションに持っていってしまったし、そもそも同じ部屋に母親がいるというのが気詰まりだ。元々会話の多い家族では無い。今はそれ以上に、色々聞かれると、困る事情がある。
 食事はちゃんとしているのかとか、お金は足りているのかとか。
 俺の家は母子家庭である。母親からは学費しか貰っていない。その他の生活費を俺はバイトで賄っていることになっている。確かに授業の合間に働いてはいるが、その稼ぎは必要な額からほど遠かった。現実には俺は恋人にくわせてもらっている。
 部屋をシェアしているとか、食料はバイト先から売れ残りを貰っているとか、母親を煙に巻くための嘘は用意してあるが、あまり突っ込まれると困る。
 だが母は、滅多に会えない息子のそばを離れようとしない。
 マンションに帰ろうかとも思ったが、奴がいない部屋に戻るなんて考えるだけでもイヤだった。逃げる方策を考えているうちにふと思い出した。冬休み、奴が帰省していることを。
 翌日の朝、俺は遅い朝飯を食うといそいそと身支度をして家を出た。奴も阿井も、十中八九実家になど帰らず、阿井の部屋に引き籠もっているだろう。予告の電話などしてやらない。ドッキリカメラよろしく二人でいちゃいちゃしているところを邪魔してやるのだ。そう思うと沈みがちだった気分が急に浮き立った。あの二人を苛めるのは、楽しい。
 空気は冷たく、きんと澄み渡っていた。
 阿井の住むアパートは俺の家から一時間ばかりかかる場所にあった。駅から五分の古びた安アパートの二階だ。
 俺は足取りも軽く階段を駆け上がると、軽くドアをノックして、ドアノブに手をかけた。
 鍵は掛かっていなかった。
 阿井にしては不用心だなと思いつつ、扉を押し開く。室内から暖かい空気が溢れ出し、ふわりと俺を包み込んだ。
 静かだった。
 俺は靴を脱ぐと、勝手に上がり込んだ。阿井の家は何度か訪れたことがある。扉を開けてすぐに四畳ほどのキッチン、その奥、硝子戸の向こうが六畳の和室になっている。
 硝子戸は開いていた。ひょいと覗き込んだが、阿井の姿は無い。
 石油ストーブが赤々と燃えている。その上の薬缶がしゅんしゅんと湯気を噴いている。部屋の中央に一つだけ敷かれた布団の中には、奴が眠っていた。
 肩まですっぽり布団にくるまっている。無心に眠るその表情が、間抜けだった。
 俺は静かに歩み寄ると、枕元に膝をついた。
 布団の端をつまみ、そろそろと捲り上げる。
 最初に現れた裸の肩に、俺は目を細めた。布団の周りには、奴のパジャマが脱ぎ散らかされている。パジャマは上だけでなく、下もあった。パンツも転がっている。ちなみに阿井の分と思われる一揃えは、きちんと部屋の隅に畳まれてあった。
 こらえきれない笑みが俺の唇を歪ませる。
 更に布団を捲る。
 胸元に、小さな鬱血の跡を見つけた。阿井がつけたのだろう。随分と情熱的なことをするんだなと俺はほくそ笑む。なんとなく性的に淡泊なイメージがあったから、意外だった。
 その次に現れた腹部は、見事だった。引き締まり、きっかり腹筋が割れている。そういえばサッカー選手なのだ、この男は。流石に躯を鍛えている。
「ん……」
 玩具にされている男が、小さく呻くと目を閉じたまま周囲を探る仕草をした。布団を捜しているのだろう。暖房が利き始めているとはいえ、室温は布団の中よりは低い。このままだと目を覚ましてしまうのは確実だ。
 そう思った俺は、思い切りよく半身を覆っていた布団をはぎ取った。
 思った通り、全裸だった。
 俺はにやにやしながら奴の躯を眺め回した。筋肉質でよく絞ってある。だが、やはり俺の恋人には及ばない。
「うー……」
 不機嫌そうに唸ると、奴はとうとう目を覚ました。しょぼしょぼした目を開き、掛け布団を捜す。視線は一度俺の上を流れたが、ん、と止まると戻ってきた。
 渋い目でじいっと俺を見つめる。
 右手を上げ、両目を擦ると、もう一度俺の顔を見た。
 細かった目が丸くなった。
「え、え? 奈賀!? 阿井は!?」
 狼狽えて、きょときょと辺りを見回す。途中で粗末なモノを晒していることに気がつき、慌てて膝を立てた。ようやく後ろに丸まっていた布団を発見し、引き寄せようとしたところで、金切り声が上がった。
「何してんだよっ!」
 阿井だった。手にはコンビニの袋を提げている。スニーカーを蹴飛ばすように脱いで部屋に駆け込むと、俺の顔を見て立ち竦んだ。
「奈賀!? なんで!?」
「あけまして、おめでとうございます」
 俺はにこやかに言った。
 う、と阿井は固まった。
「お、めでとう……」
と律儀に挨拶を返して来る。その間に奴は布団をひっつかみ、躯に巻き付けた。もこもこした姿でバックを引き寄せ着替えを漁っている。まるで、漫画の一コマだ。
 にやにや笑いながら眺めていると、阿井が隣に正座し、俺の頬を両手で挟んで自分に向けた。奴の姿が視界から消える。
「見ーなーいーの。俺の、なんだから。それより大体何で奈賀がいるの? 桑原さんは?一緒じゃないの?」
 俺の、ときたか。
 俺はまじまじと阿井を見つめた。もっとキャンキャン食いついてくると思っていた。あるいは、ベソをかくか。
 だが、予想に反し、阿井の表情には余裕さえ感じられた。頬がふわんと赤くなっているが、視線は俺をまっすぐ見つめている。俺が奴とナニかしていたかもなんて欠片も疑っていない。
 俺は眉を弓なりに引き上げておどけた表情を作ると、慎重に言葉を選んだ。
「あいつ、年末から郷里に帰っちゃってさぁ。暇なんだよ。で、年始のご挨拶に来たって訳」
「放っとかれて寂しいからって、俺達ンとこ来るな。迷惑だぜ」
 奴の不機嫌そうな声が、背中から俺を攻撃する。
 かくりと首を仰け反らせると、逆さまの視野の中央に、ジーンズを履き終えた奴の姿がうつった。長袖シャツに両腕を突っ込んでいる。薄く浮いたあばらと割れた腹に、つい目を奪われる。
「いーじゃん。おまえ、クリスマスから帰ってきてるんだろ。もう充分いちゃいちゃして、そろそろ飽きてきたころなんじゃねーの? 一日くらい俺に付き合えよ」
 俺の可愛らしいお願いに対し、奴は力一杯バーカッと吐き捨てた。
「勝手なこと言ってんな。そう簡単に飽きるかっつーの」
 嫌そうな表情に、俺のアンテナが敏感に反応する。
 身支度を整え終えた奴は、仕返しとばかりに足で俺の腕を払った。俺はあっさり畳の上に転がる。痛て、とわざとらしく呟いたのに無視された。
 寝癖でぐしゃぐしゃの頭を手櫛でいい加減に整えながら、奴の後ろ姿がキッチンに向かう。
「あー、腹減った。阿井、メシある?」
「今、パン買ってきたから。あと何か卵料理作るよ」
 ふわりと空気の動く気配がして、阿井が立ち上がった。寝転がっている俺なんか全然無視で、奴の後を追っかける。ラヴラヴで、俺なんかお邪魔ですと言わんばかりの雰囲気だ。
 俺は躯の力を抜き、ふうっと一回息を吐くと、躯を反転させ俯せに肘をついた。
「だーれのおかげで今の幸せがあるのかなー」
と、ぼそりと呟く。
 初めて二人の足が止まった。
 奴がちっと舌を鳴らす。阿井は振り返ると、困ったように俺を見た。それから奴の方を窺った。
 奴はかがみ込んで足元に置かれた袋からパンを取りだしていた。
「目玉焼きと、スクランブルエッグ」
 唐突に、言う。
 ん?と聞き返すと、
「どっち食うかってきーてんだよっ。言っとくけどメシ食ったらとっとと帰れよ!」
 と、忌々しげに怒鳴られた。
「じゃースクランブルエッグ。生っぽいところある奴な。それにチーズ混ぜて。やー、餅ばかりで飽きてきた所だったんだ。ラッキー」
 四つ足でちゃぶ台に近寄ると、俺は胡座をかいた。阿井が危なっかしい手つきで卵を割っている。くしゃりと無様につぶれた殻の断片が幾つかボールの中に落ちた。その横で奴がフライパンを火にかける。大きく切ったバターを箸の先でくるくる回しながら溶かしている。
 決して手際良くなんか無い。でも楽しそうだった。
 フライパンに流された卵がじゅうっと音をたてる。
 二人で並んでキッチンに立ち、ああでもないこうでもないと言い合いながら作る料理は、きっと美味い。
 途中で奴がトイレに立った。その隙を突いて俺は立ち上がると、阿井によりそうように立った。
 できあがったスクランブルエッグを慎重に皿に移していた阿井が、警戒心も露わに俺の顔を横目で睨む。
「なあに? 暇ならテーブルに皿運んでくれてもいーよ?」
「いやいや、そんなことよりさ。あいつと何か、あった?」
 阿井がついと視線を反らせる。俺を無視してハムを卵のそばに添える。俺はその横顔をじっと観察する。
 マジメな顔を繕っているがその頬はぴくぴく引きつっていた。笑いたいのを懸命にこらえている、そんな感じだ。
「なー、教えろよ」
 阿井を取り巻く空気が柔らかい。
 俺の知る阿井は、いつも怯えていた。奴とつきあい始めてもそれは変わらなかった。躯を重ねても、自分が愛されているのだと信じられないようだった。びくびくと奴の顔色をうかがい、不興を買わぬよう緊張し、終わりをーー、待っている。
 そういう雰囲気が、消えていた。
 奴もそうだ。
 どことなく遠慮し阿井と距離を保っていた姿が嘘のように、平気でいちゃついている。ごく自然に微笑み合い、腰を抱き、俺が見ているというのに見つめ合って。
 その辺に転がっている、ありふれたカップルと何も変わらない。
 些細だが、大きな変化だった。絶対に何かあったに違いない。だのに阿井は俺に教えてくれなかった。
「ナイショ」
 なんて、意地悪な事を言う。
 その満ち足りた様子になんだかもやもやする。
 仲を取り持ってやったのは俺なのに。
 まわりくどい恋愛を続けていた二人がしっくり行くのは喜ばしい。素直に祝福したいのはやまやまであるが、何かがひっかかる。
 アレみたいだ。
 ほら
 娘を嫁に出す、父親の気分?
 幸せになってくれるのは嬉しいが、寂しい。
 ……桑原も、いないし。

 トイレから出てきた奴は、阿井にぴったりと寄り添う俺を乱暴に引き剥がした。約束通りメシは食わせてくれたが、食事が済むと俺を部屋から追い出す。
 頭に来たのでベランダによじ登って侵入してやろうかとも思ったが、室内からなんだかピンクな声が聞こえてきたのでやめた。
 二人のえっちに興味はあったが、なんだかすごく虚しくなってしまったのだ。
 いや、虚しいのとはちょっと違う。むしろ、寂しい。
 だって、桑原がいないのだ。
 アパートの前でしばらく考え込んだ挙げ句、俺はマンションに帰ることにした。とぼとぼと駅に向かう。
 お正月の電車は家族連れや晴れ着を着た女性のグループが多く華やいでいた。皆幸せそうに見える。
 桑原は三が日が過ぎたら戻ると言っていた。だから帰っている筈はないのだけど俺は無意識に都合の良い期待をしていたらしい。部屋の前に着くと、ブザーを押してしまった。いつもなら、桑原が開けてくれるのだ。だが、当然マンションに桑原が居るはずはなく。俺はがらんとした廊下に立ちつくした。
 独りで苦笑を浮かべ、鍵を開け、後ろ手に扉を閉める。その瞬間、鼻にツンと込み上げるものを感じ、俺は俯いた。ちょっと、 泣きそうだった。


 桑原は、年末ギリギリまで仕事をこなしていた。年末進行とやらで普段よりずっと忙しく、徹夜を重ね、終わったかなと思って様子を見に行くと実家に戻るための荷造りをしていた。義理堅い桑原はそれを、俺に説明する必要もない常識的行為だと思っていたらしい。どこへ行くんだと聞いたら逆に驚いた顔をされた。
 普段帰らないから、盆と正月くらいは顔を出さなきゃなと言われ、俺は曖昧に微笑んだ。俺はそんなこと考えもしなかったからだ。母親のことなど考えもしなかった。年末年始も一緒に過ごすものだとばかり思っていた。
 だけど、別に、良い。一年三百六十五日の、三百六十日くらいは一緒に過ごしているのだ。一緒に年を越せないくらいで寂しいと駄々をこねるほど、俺は子供ではない。
 そう、思っていたのだが。
 どうやら阿井達にアテられてしまったようだった。
 今ここに桑原がいないのが寂しくてたまらなかった。
 あと一日とちょっと経たねば桑原は帰ってこない。
 俺は桑原と一緒にしようと思ってしそびれていた大掃除を始めた。換気の為窓を開けると凍える程冷たい風が室内に吹きむ。マフラーを巻いたまま掃除機をかけた。ソファーを一人で動かし、下に溜まった埃も綺麗に吸い取る。
 やるべき事は沢山あった。カーテンを洗濯し、窓硝子を拭き、換気扇やグリル周りを洗浄する。
 何かに没頭すれば気が紛れると思っていたのだが、単純作業は頭を使わない。逆に桑原のことばかり考えてしまって、参る。
 切なくて、たまらない。

 桑原が帰ってきたのは、翌日の夜半過ぎだった。
 何時に帰ってくるのか聞いていなかった俺は、昼からメシを作って待っていた。メシといっても俺は料理があまり上手くないから、簡単な雑煮の下ごしらえをしただけだ。だが、ちゃんとお正月用の箸をおろして、ちょっと良い酒も用意した。テーブルの上には桑原宛の年賀状が積んである。
 誰もいないキッチンは寒々しい。寝室で、桑原が帰ってくるまでの時間つぶしにシュミレーションゲームを始めたら、三回もエンディングに到達してしまった。しかも一つはバッドエンディングだ。
 きゅうきゅうと腹が鳴る。だが、一人で飯を食う気になれず放っておくとそのうち空腹を感じなくなった。

 鈍い金属音が耳に届いた途端、俺はコントローラーを放り投げベッドから飛び降りた。裸足のまま玄関に向かって急ぐ。
 丁度開き始めていたドアの端を掴むなり思い切りよく開け、俺は目の前にいた桑原に飛びついた。
「おかえりっ!」
 自分でも、テンションが高かったと思う。
 いきなり桑原の首っ玉にかじり付き、キスをしようとした。
 抱き返して欲しかった。久しぶりに桑原の体温を、感じたかった。
 ちいさな、でも、切実な望み。
 だが、桑原は大きな手のひらで俺の唇を遮った。
 反射的な仕草だったが、それは俺の心をえぐった。

 壁に跳ね返った扉がけたたましい音を立てる。
 俺は大きく目を見開いたが、桑原を直視できず、背後に広がる星一つない夕闇を見つめていた。
 食事の支度をしたときには、青かった。
 別に、自分が勝手にしたことだ。桑原には何の責任もない。待っていたのに、とか、そんな女々しいことは言わない。
 桑原の首に回しかけた腕が力を失い、だらりと両脇に垂れた。
 桑原が、ぎこちない微笑みを浮かべる。
「ああ、びっくりした、奈賀───。もう、寝ているかと思っていた」
 俺はゆっくり一歩下がった。
 冷え切ったコンクリの玄関は、骨が凍るんじゃないかと思うくらい冷たかった。裸足の足の裏が砂でじゃりじゃりしている。
 眼鏡をしていて良かったと思った。目の焦点が合いにくい。きっと目が潤んでいる。裸眼だったら、すぐバレていただろう。
 でも、夜だから。
 眼鏡があるから。
 多分、桑原は気付いていないのだろう、視線を横に流した。そして言った。
「あのな、奈賀。これ、俺の弟と、従兄弟なんだ」
 はい?
 俺は一瞬バカみたいに桑原の顔を見返した。それからドア枠を掴んで身を乗り出した。
 二人の男が苦笑いを浮かべて俺を見ていた。
 一瞬、顔から火が出るかと思った。
 俺は慌てて会釈をすると、桑原を睨み付けた。
 親戚を連れて来るならそうと、連絡してくれれば良かったのに、とんでもない事をしてしまった。今更ながら背筋が寒くなる。
 よりによって桑原の親戚の前でホモくさい真似をしてしまうなんて。
「いらっしゃい」
 笑顔が、強張る。
「どうも、こんばんは。兄貴がお世話になっています」
 弟さんはちょっと背が低いだけで、桑原と同じ体格だった。顔も似ている。桑原をキツくしたような感じだ。なんとなく、値踏みするような嫌な目で俺を見ている。
「辰昭(たつあき)だ。後ろのが、従兄弟の仁(ひとし)。一緒に、帰ってきたんだ。二人ともこっちで働いているから」
 仁は小柄な男だった。やっぱり俺をじろじろ眺め回している。小馬鹿にしたような薄笑いが不快だった。
「こちらこそ、桑原さんにはお世話になっています。寒いでしょう、どうぞ、中へ」
 二人を招き入れると、俺は急いでキッチンへ戻り薬缶を火をかけた。ヒーターを点け、奥の部屋からハンガーを取ってくる。
 大荷物を抱えて上がってきた桑原が何か言いたそうな顔をしているが、それに気付くだけの気持ちの余裕は無かった。

 俺は、動揺しまくっていた。
 さっきのふざけた行為を誤魔化す嘘すら思いつかない。
「あの、コート、ハンガーにかけて下さい。今、お茶淹れますから、どうぞコタツに」
 普通の同居人だったら、こんな風に世話を焼いたりしない。そんなことすら、俺の頭にはうかばなかった。
 キッチンに戻ってお茶の準備をしていると、桑原がやってきた。後ろから抱き込んでくる。
 俺はぎょっとした。リビングの間のドアは開け放したままだ。
「桑原」
 小さな声でたしなめ、俺は身を捩った。
 こんな姿を、桑原の親戚に見せるわけにはいかない。
 そう思ったのに。
「あのな、あの二人には、言ってあるから」
 桑原が低い声で囁いた。その言葉の意味することが、俺には分からなかった。
 『言った』。
 そんな風に深刻そうに俺に言うような内容など一つしか思いつかないが、そんなの信じられない。
 震える声で、問う。
「言ってあるって──何を?」
「俺たちが、付き合っているって事」
 俺は瞠目した。お盆の上に置こうとした湯飲みがかたかた音を立てる。手が震えるのは、冷え切った室温のせいだけではない。
 何を言っているのだろう、この男は。
「なん、で。まさか、家族に、カムアウトしたのか!?」
 ごくりと桑原が唾を飲みこむのを感じた。
 どんなに強く抱きしめられても、俺の躯の震えは止まらなかった。
 怖くて、たまらなかった。
 カムアウトしたが為に、家族に引き離された恋人達の話を知っている。
 親に勘当されたとか。無理矢理病院に押し込められたとか。
 そこまで苛烈に反応されなくとも、おおむね家族との関係は変化する。汚いものでも見るような目で見られたり、いないものとして無視されるようになったり、あるいは、顔を見るたびに泣かれたり。
 ひとつひとつは些細な事かもしれない。だが、確実に傷はつく。血を流し、疲弊していく。感情は磨り減り、段々、恋情より煩わしさの方が大きくなっていく。
 そんな風に時間をかけて壊れていった奴を、俺は何人も知っていた。
 そう言うことを、桑原は知らないのかもしれない。真面目な桑原のことだ、知っていても、そうせねばならないと思ったのかも。
 愚かな、男。
 固くなった俺の躯を、桑原は柔らかく抱く。
「いや、親には、言ってない。流石に……言えなかった。だけど、誰かしら身内におまえのこと知っているヤツがいた方が良いと思って。あいつらなら、騒ぎ立てたりしないだろうし」
 ぼそぼそと囁く声は、リビングの二人にも聞こえているのだろう。さっきから物音ひとつしない。きっと俺たちの会話に耳をそばだてているのだ。
 俺は、腹の上で組み合わされている桑原の手に、自分の手のひらを重ねた。ぎゅっと握り締める。
「馬鹿野郎。何でそんなことしたんだ!」
 頭ごなしな俺の台詞に、桑原は声に苛立ちを滲ませた。
「バカって言うことないだろう。これでも俺なりに考えたんだぜ。そりゃヒミツにしておいたほうが波風立たなくて良いって事は分かっている。だけどいざって言う時のためにはさ」
 不吉な響きを持つ言葉に、俺は無意識に爪を立てた。こめかみがどくんどくんと脈打つ。
「いざって時って、なんだよ」
「俺が事故ったり、したとき」
 俺は思わず桑原の手を振りほどくと、躯を反転させていた。
「縁起でもないこと、いうな!」
 キツイ声が空気を切り裂く。
 桑原の肩越しに、じっとこちらを窺う客人の顔が見えた。珍しいものでも見るような、物見高い、目。
 あれが、現実だ。
 見たくなくて、俺はきつく瞼を閉じた。
 桑原の腕が俺の肩を掴む。常になく乱暴に調理台に押しつけられ、俺は不意に桑原も緊張しているんじゃないかと気が付いた。
 薄く目を開くと、桑原は酷く真剣な表情をしていた。
「だが、考えない訳にはいかないだろう? 絶対に有り得ない話じゃないんだ。いいか、秘密のままにしておいて、俺に何かがあったらどうなると思う? おまえのことなんか、誰も知らない。入院しても死んでも、俺のことをおまえに教えるヤツなんていないんだ」
「そんなこと」
 反射的に反論しながら、俺は頭の芯が冷たくなるような感覚に、震えた。
 考えたことが無い訳がない。俺は知っていた。何も知らない人から見たら、俺は他人なのだ。一緒に住んでいたって、愛し合っていたって関係ない。
 ただの、同居人。
 そう言う風に扱われるし、俺たちもそういう風に振る舞う。
 俺はそういうものだということを知っていたし、密かに覚悟していた。仕方がないと思っていた。
「俺はそんなの嫌だ」
 桑原が切羽詰まった声を出す。
 俺はさりげなく桑原の胸を押し、躯を離した。
 俺だって、イヤだ。
 でも
「そういうのは、仕方がないんだ。俺たちみたいな関係は、どうしたって世間一般には受け入れられない」
 桑原の顔が歪んだ。
 俺は顔を背けるとコンロの火を止め、先程からぴーぴーと存在を主張していた薬缶から熱湯を急須に注いだ。いつもは気持ちをほぐしてくれるほうじ茶の香りが、家庭的な雰囲気を『演出』しているようで、しらじらしい。お茶の支度が整った盆を掲げ、コタツに向かう。
 振り返った途端、二人の客人の視線はさりげなく外された。
「どうぞ」
 一口サイズの大福を添え、湯飲みを差し出す。ふわりと立ち上った湯気のせいで一瞬眼鏡が曇った。辰昭が胸ポケットを探るのが視線の端に引っかかる。何の凹凸も見せない其処は案の定空だったようだ。辰昭がすっと視線を上げる。その仕草は、どこか不自然だった。
「兄貴、煙草は?」
「そんなものは、無い」
 桑原は煙草を吸わない。煙草の臭いも嫌う。だが辰昭は、コタツに腰を据えようとした桑原に更に言った。
「俺ニコチン中毒なんだよ。買ってきて」
 ぎしり、と空気が軋む。
 部屋の俺のバッグの中には吸いかけの煙草が残っているが、そのことを言い出すつもりはなかった。煙草など、どうでもいいのだ。辰昭が求めているものは、別のものだ。
 桑原が硬い表情で俺の顔に目をやった。
 俺は唇の両端を吊り上げ、笑ってみせた。
 立ち上がった桑原に、辰昭は千円札を一枚差し出した。
「キャメルね」
 マンションの前の自販機に、キャメルはない。近くのコンビニまで片道十分かかる。往復で二十分。それが、俺の尋問タイムになるのだろう。
「ゆっくり行って来て、いいから」
 金属のドアが開閉する耳障りな音を、俺はぼんやりと聞いていた。仁がほうじ茶を啜っている。その横顔が堅い。
「さて」
 辰昭の視線にまっすぐ捕らえられ、俺は狼狽えた。反射的に目を伏せてしまう。
「奈賀くんって言ったっけ。随分若く見えるけど、幾つ?」
 これまでヘテロの人間に自分の嗜好を知られたことなど無かった。こんな状況に陥って初めて自分が自分の性癖に強い劣等感を抱いていたことに気付く。
「夏に、十九歳になります。今、大学生で」
 視線が痛かった。睨み付けられている訳でもないのに、身が竦む。卑屈だな、と思う。
「うわ、本当に若いな。それに、綺麗な顔をしている。結構もてるんじゃないの?」
「そんなことは」
 曖昧に微笑んでやりすごそうとする俺を、桑原の弟は許さなかった。
「ウチの兄貴は、あんたの何人目の男?」
 仁が湯飲みを置く、ことりという音が耳についた。
 たった一言に、俺は打ちのめされていた。
 膝の上できつく掌を握り締める。顔色が変わったことに、二人とも気付いただろう。
「そんな質問に答える義務はないと思いますが」
「まぁ無いかもしれないけどね。俺にはどうにも理解できないんだ。あのクソ真面目な兄貴が男なんかにうつつを抜かしているって事がね。確か高校ン時には彼女もいたのに」
 桑原に似た、太い指が大福を摘む。パラパラ落ちる白い粉を、俺は哀しい気分で見つめた。
 過去の自分の行状が褒められたものではないことは、自分が一番良く知っている。あのころの自分のことを知ったら、彼らは自分の存在を許さないだろう。

 桑原と出会ってから、一体何回愚かな自分を悔いただろう。

「もう一年も同棲しているんだって? 家賃とか生活費とかはどうしているの?」
 仁の声は柔らかい。穏やかに俺を追いつめる。
 金は払っていなかった。
 そんな経済的余裕なんか、ない。だから最初は自宅から大学へ通うつもりだったのだ。

 だけど、桑原が一緒に暮らしたいと、言ってくれたから。

「兄貴はおまえに惚れている。俺たちが何を言っても聞きやしないだろう。まぁ兄貴も大人だし、俺たちがとやかく言うことじゃぁないかもしれない。だがな、あのクソ真面目な兄貴を騙して、利用するつもりだったら、俺が絶対に許さねぇからな」
 感情を抑えきれず、辰昭が大きな掌でコタツの天板を叩いた。耳に突き刺さるけたたましい音に、心臓に楔を打ち込まれたような気がした。
 冷静に見えたが、やはり兄弟に同性の恋人なんてものを紹介されたのが気に入らなかったのだろう。
 逃げ出したかった。
「あんた、俺たちを見てビビってたな。他の誰にも知られたく無かったのは、兄貴を上手く手玉に取ることが出来なくなるからじゃねぇのか!?」
「辰昭くん、落ち着いて」
 仁が軽く辰昭の袖を掴む。
 俺は虚ろな目を見張った。
 胸を張って言えるような言葉など、無い。
 傍から見たら自分は、桑原に寄生しているようにしか見えない。
 だけど自分は桑原が好きで。
 桑原も、俺を好きだからこそ、彼らを連れてきた訳で。
 桑原の気持ちを考えたら、逃げるわけにはいかないと、思った。
 ぐいと眼鏡を揺すり上げ、俺は目を上げた。
「あなたが俺の存在を受け入れがたいのは、よく分かります」
 言葉が終わるか終わらないかのうちに、辰昭がまたコタツを叩いた。その振動に湯飲みがひっくり返る。仁が怒鳴った。
「辰昭!」
「知った風な口を聞くんじゃねぇ! てめぇなんかに、俺たちの気持ちが分かるもんか!」
 身をのりだして吠える辰昭の目がつり上がっていた。
 俺は瞠目した。
 あんたにも、俺の気持ちなんか分かりゃしないだろ、と胸の中でだけ呟く。

 でも、俺は桑原が好きなんだ。絶対に無くしたくない、唯一のひとなんだ。負けるわけにはいかなんだ。

 たったみっか、はなれていただけで、さみしかった。
 ずっとくわばらがかえってくるきょうのことばかり、かんがえていた。

 すき、だから。

 多分桑原と出会わなかったら、俺はひとを本当に好きになるってことがどんなことか知らずにいたと思うから。
 俺は目を閉じた。
 桑原の笑顔を、思い浮かべる。
 どうか、俺を支えてください。
「情けない、とか」
 ぼそりと零れた言葉に、仁が目をあげた。
「みっともない、とか。変態だとか、汚らしいとか、家の恥さらしだとか」
 辰昭が怪訝そうな顔をする。
「触るとAIDSが感染するぞとか、ゲイなんて皆誰とでもセックスする節操なしなんだろうとか。そんなところじゃないですか? そう言う風に思われているって、知っています。ずっとそういう目で見られていたから」
 自分の中にも存在する偏見である。実際ゲイにそういう人間は多い。皆、歪んでいるのだ。己の性癖に多かれ少なかれ引け目を感じているから。(だからといってノーマルな嗜好の持ち主が歪んでいないかというとそう言うわけでもないのだが)
「俺たちは人を好きになることすら許されない。絶対祝福されるなんてことはないから、こそこそ隠れて付き合う。でもそれが周囲を傷つけずに済む一番の方法なんです」
 深く息を吐いて、俺は目を開けた。腰を浮かせた姿勢のままの辰昭と目があう。
「自分が桑原には不釣り合いな人間だということは、よく分かっています。でも、好きなんです。それだけは──分かって下さい」
「冗談じゃないぜ、なんでてめぇみたいな男と兄貴が──」
 桑原に似た、巌のような拳が握り締められる。殴られることを覚悟したが、拳骨は振り上げられる前に仁によって抑えられた。
「落ち着け辰昭! 馬鹿なことをするんじゃない!」
「なんで止めるんだよ!」
「兄さんにまたシめられるぞ!」
「ンなこと言ってる場合じゃねぇだろ! おまえは兄貴のことが心配じゃないのか!? こんな変態のせいで──」
 仁の掌が、辰昭の口を塞いだ。視線がちらりと俺に向けられる。
 俺は、弱々しく微笑んだ。笑うしかなかった。
「いいよ。どうぞ、殴りたければ殴って下さい。だけど俺は、あなた達に何を言われようと桑原を諦める気はないから」
「何っ!?」
「それだけは、譲れないから」
 辰昭が再び激昂する。立ち上がりかけた大男を小柄な仁が必死に取り押さえるのを、俺はただ座って見ていた。
 なぐられるつもりだったのだ。
 揉み合いは結局帰ってきた桑原の一喝で終わり、辰昭は拳骨を喰らった。桑原が暴力を奮うのを、俺は初めて見た。それは兄弟喧嘩の延長のようなほほえましいものではあったが、ゴツンという鈍い音に俺は身を縮めた。
 帰れと桑原は怒鳴ったが、もう時刻は遅い。二人を泊めることにし、俺は準備してあった食事を温め、客布団を引っ張り出した。


「悪かったな」
 寝室に引っ込んでから、桑原がぽつりと言った。ベッドの端に腰を下ろし、悄然と背を丸めている。俺は部屋の灯りをスタンドに切り替えると、桑原の足許に膝を付いた。
「どうして謝ンだよ。おまえは良かれと思ってしてくれたんだろ。ちょっと──嬉しかったぜ」
「俺は、あいつらなら分かってくれると思ったんだ。まさか、辰昭があんなにアホだとは思っていなかった」
「アホじゃねぇだろ。桑原のことが好きだから怒ったんだ。家族なら、当然の反応だと思うぜ」
 桑原は、辛そうに顔を歪めた。
「おまえはこんな事になると、分かっていたんだな」
「ゲイの知り合いが多いからな。そんなことよりもさ、キス、してくれよ。まだおかえりのキスもしてもらっていない」
「奈賀……」
 太い指が髪をかき分ける。
 俺は顔を仰向けて待った。催促に応じた桑原が、俺に向かってかがみ込む。
 隣室に客が眠っているから、ごく軽いキスだ。するりと滑り込んだ舌はすぐに出ていってしまう。
 でも、じんと胸に響いた。
 短い接触から伝わった体温が強張っていた気持ちをほぐす。
 思わず腕を伸ばし桑原の首を捉えた。ぐいと引き寄せもう一度キスを貰う。
 さっきより、ほんのちょっとだけ長いキスを。
 じくりと躯が疼く。
「ん──…」
「ダメだよ、奈賀」
 桑原が上半身を起こして逃げたので、俺はキスを諦め腰に腕を回した。ぎゅうっと抱きつく。
「こら」
「ちょっと、だけ、だから」
 うわずった声に桑原は気が付いただろうか。
 俺は腕に力を込め、桑原の腹に顔を埋めた。ひく、と肩が震えてしまう。察したのか桑原は優しく髪や肩を撫でてくれた。
 俺は泣いていた。
 桑原の体温を感じた途端、どうにも抑えられなくなっていた。恥ずかしいと思うのに優しい桑原から離れることが出来なくて、ひく、ひくと躯を震わせながら長い間桑原に抱きついていた。
 自分の無力さが、悔しかった。


 end.
2003.4/12
novel